守護=半国守護の場合は「北半国守護/南半国守護」と表記
西暦 | 和暦 | 北半国 守護 |
南半国 守護 |
事柄 |
1333 | 元弘3 | − | 高家が足利尊氏から伊豆国多留郷地頭職を安堵される。 | |
1335 | 建武2 | 冨樫高家 | 高家が足利尊氏から勲功として加賀守護に任じられる。 | |
1336 | 建武3 | 高家、加賀在国の山川又五郎に京都の戦況を伝え、上洛を促す。 | ||
1337 | 建武4 | 高家が足利尊氏に勲功として、加賀国興保・北英田を充行う。 | ||
1338 | 暦応元 | 越後の南朝方新田氏が加賀に侵入→冨樫方敗走。 | ||
1345 | 貞和元 | 冨樫氏春 | 高家の嫡子・氏春が足利尊氏に冨樫新荘地頭職を充行われた(『足利尊氏下文案』より)。 | |
1349 | 貞和5 | 高師直が、冨樫氏春を率いて足利直義を討とうと図る。直義は尊氏邸に逃亡した。 | ||
1351 | 観応2 | 一説に冨樫高家が観応2年正月に戦死したと言われる。 | ||
1352 | 観応3 | 氏春が足利義詮に勲功として加賀国山代荘二分方地頭職を充行う。 | ||
1355 | 文和4 | 北朝方として国内の手勢を引き連れ南朝方の桃井直常と交戦する。 | ||
1356 | 延文元 | 守護代・冨樫(額)用家が白山本宮への寄進状に証判を加える。 | ||
1364 | 貞治3 | 冨樫竹童丸(昌家) | 氏春の嫡子で幼い竹童丸が家督を継承。冨樫用家がこれを補佐する。 | |
1366 | 貞治5 | 冨樫昌家 | 竹童丸が元服し昌家となる。 | |
1369 | 応安2 | 越中の南朝方桃井氏が加賀に侵入し交戦するも、能登守護吉見氏の支援を得て撃退する。 | ||
1370 | 応安3 | 昌家が越中守護・斯波義将と共に桃井直和を攻め、越中長沢でこれを破った。 | ||
1379 | 永和5 | (1月)大和国・十市遠康の押領を止めるため、将軍足利義満が冨樫昌家らを派遣。翌月には帰京した。 | ||
1383 | 永徳3 | 将軍足利義満が、昌家邸に御成。昌家は義満に銭千貫文を贈る。 | ||
1387 | 至徳4 | 斯波義種 | 冨樫昌家の死後、冨樫家が守護を没収され、斯波義種が守護となる。 | |
1391 | 元中8 | 反幕府の山名氏清挙兵した明徳の乱に冨樫詮親が参陣→詮親敗死。 | ||
1392 | 明徳2 | 将軍足利義満の相国寺供養に冨樫満成が帯刀として供奉した。 | ||
1399 | 明徳3 | 大内義弘起こした幕府への反乱(応永の乱)の討伐幕府軍として満成も参陣した。 | ||
1410 | 応永17 | 冨樫満成が将軍に近習し、申次衆となる。 | ||
1414 | 応永21 | 冨樫満成 | 冨樫満春 | 斯波氏に替わってそれぞれ半国守護となる。27年ぶりに冨樫氏が守護に復帰。 |
同年 | 称光天皇の即位費用を有力大名が献金した。満成・満春も30貫献金した。 | |||
1416 | 応永23 | 満成、上杉禅秀の乱に足利義持の弟・義嗣が加担するのを防ぐため奔走し成功する。 | ||
同年 | 後小松天皇の仙洞御所造営の作所奉行を満成が勤める(『看聞日記』より)。 | |||
1417 | 応永24 | 満成が京都に新邸を築く。将軍義持が新邸に訪れる。 | ||
1418 | 応永25 | 満成が将軍・義持の命令で相国寺に幽閉した義嗣を殺害する。 | ||
同年 | 冨樫満春 | 満成が足利義嗣と内通している事が発覚し逐電する。満春が一国守護となる。 | ||
1419 | 応永26 | 満成が畠山満家によって謀殺される。 | ||
1427 | 応永30 | 冨樫持春 | 6月2日に冨樫満春が没し、嫡子・持春が家督を継承する。 | |
1430 | 永亨2 | 7月、管領細川義淳・畠山持国と共に将軍義教の元服の儀にて「大名一騎打ち」に列す。 | ||
同年 | 加賀の南禅寺領に若衆徒が乱入し、若衆徒の追討を将軍・義教より命じられる→討伐。 | |||
1431 | 永亨3 | 白山若衆徒の乱入事件(在地秩序の動揺が始まる) | ||
1433 | 永亨5 | 冨樫教家 | 嫡子を持たない持春が若くして死去したので、持春の弟・教家が家督を継承する。 | |
1434 | 永享6 | 教家の弟・慶千代丸(泰高)が将軍の将軍・義教の盃酌を受けた(泰高初見『満済准后記』より)。 | ||
1441 | 嘉吉元 | 冨樫泰高 | 教家が将軍・足利義教の逆鱗に触れ蟄居し、教家の弟が還俗し泰高となり家督を継承する。 | |
同年 | 教家が泰高に家督返還要求、両者争乱の加賀嘉吉文安の内乱起こる(「両流相論」の時代)。 | |||
1442 | 嘉吉2 | 冨樫成春 | 成春を支持する畠山持国が管領に就任。加賀守護を教家嫡子・成春に任ずる。 | |
同年 | 成春党本折某が加賀に入国。泰高党山川家之が善戦するが敗れ家之は京都に敗走する。 | |||
1443 | 嘉吉3 | 泰高党山川家之が京都畠山持国邸襲撃を計画するが事前発覚。責任により山川父子切腹。 | ||
1445 | 文安2 | 冨樫泰高 | 泰高を支持する細川勝元が管領に就任。泰高が加賀に入国し成春党を追放する。 | |
1447 | 文安4 | 冨樫成春 | 冨樫泰高 | 成春・泰高両派が幕府の妥協案を受諾し和解。各々半国守護となり加賀嘉吉文安の内乱終結。 |
1450 | 宝徳2 | 成春被官の本折主計允が冨樫家を出奔する→成春が討伐し主計允が死亡する。 | ||
1454 | 亨徳3 | 成春邸に招月庵正徹が訪れ和歌を詠む。 | ||
1455 | 亨徳4 | 成春の被官槻橋某が成春の政敵畠山政久(弥三郎)を支援した為、本折某が槻橋某を討った。 | ||
1458 | 長禄2 | 赤松政則 | 成春が半国守護を罷免されて、後任は赤松政則となる。成春・泰高両派の協調関係生まれる。 | |
1459 | 長禄3 | 冨樫成春の武将・岩室某が赤松の入国を拒み争いとなる。 | ||
1460 | 長禄4 | 冨樫成春 | 成春が将軍より赦免されて守護に復帰。 | |
1462 | 寛正3 | 冨樫泰高 | 冨樫成春が死去したことにより、泰高が家督を継承ヵ。 | |
1463 | 寛正4 | 泰高が裏松重子(足利義政母)の葬儀に参列する。 | ||
1464 | 寛正5 | 冨樫政親 | 泰高の隠居が幕府より許される。成春派の冨樫政親を後継者として家督を継承させる。 | |
1465 | 寛正6 | 幕府より後土御門天皇即位費用を大名に課し、政親は赤松政則と同額の44貫400文が課された。 | ||
1467 | 応仁元 | 冨樫政親 | 6月17日、政親が京都の自邸を焼いて逃亡する。西軍の焼き討ちを回避するためか(『大乗院寺社雑事記』)) | |
同年 | 赤松政則が本領の播磨に復帰した為、政親が加賀一国守護となる。 | |||
1468 | 応仁2 | 政親被官額某が赤松被官の小寺某と戦い敗死した。 | ||
同年 | 政親被官額景春(熊夜)が祗陀寺領中村庄の田地の押領をしたと祗陀寺に訴えられる(『祗陀寺文書』) | |||
1471 | 文明3 | 蓮如が北陸における布教活動を開始。 | ||
同年 | 東軍に寝返った越前朝倉孝景が加賀国人の額田藤八郎、狩野伊賀入道への援助を請うたが、政親(東軍派)と結ぶことはできないと拒否する。(『朝倉家記』) | |||
1472 | 文明4 | 越前において東軍派の朝倉氏と対立して敗れた越前甲斐氏が、加賀に逃げ込む。(『大乗寺院雑事記』) | ||
1473 | 文明5 | 冨樫幸千代 | 応仁の乱において政親(東軍)幸千代(西軍)で対立。政親がいる山内を攻める、敗れた政親は朝倉氏を頼り越前に逃亡する。 | |
1474 | 文明6 | 冨樫政親 | 政親が本願寺門徒を味方にして、幸千代を蓮台寺城にて破る(文明の一揆)。 | |
1475 | 文明7 | 政親、近臣槻橋近江守の意見をいれ、横暴な行動をする本願寺門徒の弾圧を始める。 | ||
1476 | 文明8 | 3月、加賀の土一揆が能登に侵入する。 | ||
同年 | 昨年よりの本願寺門徒の暴動が沈静化する。沈静に丸2年費やした。 | |||
同年 | 政親、将軍足利義尚に馬を進上する。(『結審日記』) | |||
1478 | 文明10 | 政親、足利義政・義尚に梅染の帳を送る。 | ||
1480 | 文明12 | 政親、将軍足利義尚に馬を進上する。 | ||
1486 | 文明18 | 7月、政親が本折・槻橋を従えて上洛し将軍に出仕。将軍義尚の右大将拝賀に供奉する。 | ||
1487 | 長亨元 | 政親、幕府の近江六角氏討伐遠征に参戦。 | ||
1488 | 長亨2 | 冨樫泰高 | 本願寺門徒が高尾城にて政親を自害させ、冨樫泰高を守護に擁立する(長亨一揆)。 | |
1490 | 延徳2 | 冨樫家督訴訟を幕府に提出し、受理される。 | ||
1492 | 明応元 | 9月、泰高が違乱停止等の沙汰をし、在地秩序の維持に努める。 | ||
同年 | 赤松政則が加賀北半国守護に補任され、泰高は京都を没落し加賀に下向した。 | |||
1493 | 明応2 | 将軍足利義材(義稙)が細川政元によって捕らえられる(明応の政変)がおき、6月には泰高が京都から逃走した。 | ||
同年 | 将軍足利義稙が越中放生津に逃れた際、冨樫泰高や能登守護・畠山義統などが参じた。 | |||
1494 | 明応3 | 8月、越中にいた足利義材が挙兵。稙泰これに呼応して六角派の朝倉を打つべく越前侵入。加賀勢敗れ撤退。 | ||
1496 | 明応5 | 9月、加賀で「一国の一揆」が起きる。地下人が中心の一揆だった。 | ||
1499 | 明応8 | 泰高が、本願寺派の法慶道場に大仙寺領有の屋敷・山林を寄進。 | ||
1500 | 明応9 | 泰高、倉月荘内中大浦村を横領する。 | ||
1503 | 文亀3 | 祇園社領加賀軽賀野保に対する守護被官の押領を退け、知行を安堵。 | ||
1504 | 永正元 | 冨樫稙泰 | 稙泰が法慶道場に四十万村の大仙寺敷地・山林等を安堵。 | |
1518 | 永正15 | 稙泰が摂津元直を通じて、「冨樫介」を口宣を申請。結果「加賀介」を提示された。(『宣胤卿記』) | ||
1519 | 永正16 | 後柏原天皇が、稙泰の横領停止の下知状発給を命じた。(『守光公記』) | ||
1520 | 永正17 | 稙泰と冨樫藤童が将軍・足利義稙に梅染の服と帷を献上する(「殿中申次記」) | ||
1524 | 大永4 | 細川高国より稙泰に奥州葛西氏の使者下国の安全保証を命ぜられる。 | ||
1531 | 亨禄4 | 大一揆と小一揆の紛争起こる(亨禄の錯乱)。稙泰、小一揆に味方し敗れる。 | ||
1533 | 天文2 | 冨樫泰俊 | 冨樫本荘う四十万村の百姓に年貢を代官に直納させる。泰俊が在国している証拠。 | |
1536 | 天文5 | 冨樫晴貞 | 晴貞、本願寺証如に代始の祝儀として礼物を贈る。(『天文日記』『音信日記』) | |
1541 | 天文10 | 泰縄(晴貞)が将軍・足利義晴に馬の進上を申し出る(『大館常興日記』) | ||
1545 | 天文14 | 晴貞、南白江庄の支配をめぐり安威兵部少輔と争う。 | ||
1546 | 天文15 | 本願寺が金沢御堂を建立し、政治の中枢となる(冨樫氏の影響力激減)。 | ||
1553 | 天文22 | 曇華院末寺(尼寺)の永寿院領を冨樫氏が没収し僧寺とした。(『天文日記』) | ||
1557 | 永禄元 | 晴貞、加賀国四十万村善性寺教勝に、同村松連寺分を充行う。(『善性寺文書』)この文書に「富樫加賀介晴泰」と見え、加賀介を名乗っている。 | ||
1558 | 永禄2 | 11月禅昌寺の売却した土地を晴貞が駒井与三郎に安堵した(『加能史料戦国14』P.102より)。 | ||
1570 | 元亀元 | 一揆との協調をやめ、朝倉と対峙する信長に呼応し挙兵。晴貞一揆に攻められ伝灯寺で自害す。 | ||
1574 | 天正2 | 冨樫泰俊 | 越前に亡命した冨樫泰俊が、越前河北一揆により溝江氏と共に父子3人戦死した。 |
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