<管領畠山家(越中守護)との外交関係>
別稿にて論じる(管領畠山家との関係参照)。
<神保氏(越中守護代)との外交関係>
能登畠山家と越中神保家との関係は、越中守護である管領畠山家の越中での影響力が薄れる頃にクローズアップされる。1519(永正16)年、射水郡と婦負郡における越中守護代・神保慶宗が一向一揆と結んで台頭し、国内が慶宗派、反慶宗派に分かれて混乱した。そこで、管領家当主・畠山尚順は、義総と長尾家に共同での慶宗鎮圧を要請した。1519(永正16)年と1520(永正17)年の2度の出兵で両軍は神保軍を破り慶宗を征討した(越中永正の乱)。戦後、義総は旧来通り、越中三守護代・遊佐家・神保家・椎名氏(実際には越中永正の乱後は名目的に新川郡守護代は長尾為景となったので椎名氏は新川郡又守護代となっていた)に越中を分けさせ、越後長尾氏を加え両越能三国同盟を結んだ。ここに、越中は管領畠山家が能登畠山家を通じて間接的に管理する体制となった(畠山体制)。このことは、能登畠山氏が越中に強い影響力を持つようになることを意味する。また能登畠山家は越中永正の乱を契機に越中氷見に進出し、能登畠山家の勢力下とした(能登畠山家の氷見支配参照)。氷見湯山城には八代氏が畠山の被官として在城したようだ。また、氷見は神保被官・鞍川氏も所領をもっていたが、神保氏の統制力は弱く強力な支配体制は築けず能登の政争に巻き込まれていった。そして、能登天文の内乱(1550年)で鞍川氏が遊佐氏に味方し滅びると、鞍川氏の領地にも畠山家の直接の支配が及んだ。
「畠山体制」はその後も続き、1543(天文12)年神保長職が神保再興の為、富山城を築城し椎名氏と抗争を開始すると、その体制に則り河内畠山家(管領畠山家)の意向を受けた義続が両者を調停し、神保家寄りの裁定を下し長職の富山在城を認めた。しかし、1562(永禄5)年神保長職に圧迫されていた椎名康胤が神保氏の討伐を長尾景虎(上杉謙信)に要請すると、景虎は富山城を陥落させ、再び越中が混乱状態になった。劣勢となった長職は能登に亡命し、「畠山体制」の盟主である畠山義綱に停戦の調停を仰ぎ、停戦を実現させた。越中守護代行である義綱は長職に領土を削減(射水郡と婦負郡のみの領有)した上で、増山城を安堵し神保長職は直接能登畠山に属することになった。この裁定も神保家寄りの裁定と言えるだろう(『新編会津風土記』所収福王寺文書より)。景虎は「能州之(畠山義綱)儀、神保(長職)有好國」と常陸の大名の佐竹義昭に報告していることとからも、越中における能登畠山家の存在が無視できない程の影響力を持っていると言える。
しかし、永禄九年の政変にて畠山義綱が家臣に追放されると、神保長職は新当主・義慶ではなく畠山義綱を支援し能登の勢力と敵対した。それは、「畠山体制」の盟主は本来の盟主である河内畠山氏がその地位を失って以降(詳しくは北国の政治秩序「畠山体制」を参照)畠山義綱の強力な政治力で維持されてきたのであり、それが崩壊する事は神保氏の存立基盤を脅かすことに繋がると踏んだためであろう。まだ、1562(永禄5)年に上杉謙信に敗れてから4年足らずのこの時点(1566(永禄9)年)で、神保氏はその経済力及び軍事力を回復しておらず、自力での領国維持は難しかったのであろう。神保長職は今暫く畠山義綱による「畠山体制」の下で領国回復を続けたかった為に亡命していた義綱を支援したのであろう。さらに、1566年時点での義慶派(新当主)、義綱派(亡命中)の勢力はほぼ互角であり、長職が義綱の復帰の可能性が高いと踏んだのも影響したのであろう。
永禄年間以降の神保家と畠山家の関係については神保越中守長職殿(越中戦国誌@管理人)のご意見を参照していただきたい。
(神保越中守長職殿のメール抜粋) 「長職は能登守護畠山義綱に服従し、謙信への降伏の仲介を頼んだのだった。有名無実化したとはいえ幕府への忠誠厚く、関東管領となった謙信は、室町幕府ゆかりの足利一門である畠山氏の要請は拒否できないと読んだのだ。こう考えるのは長職を買い被り過ぎだろうか?畠山義綱は越中が上杉の支配下に入るのを恐れ、また神保家を助けて越中を緩衝地帯にしようとしたのだろう。(中略)また義綱は上杉家にも養子を出している。上条政繁である。彼は義綱の弟義春であるという。こうして畠山・神保・上杉は友好関係を築き、越中は平穏を取り戻したかに見えた。 しかし、おもしろくないのは椎名康胤である。せっかく長職を打倒したと思ったら何も変わらない。変わらないばかりか、畠山・神保・上杉体制の越中では長職ばかりが重用されている。康胤は不満をつのらせていった。そんな折、永禄9年(1566)9月、またも能登で騒動がおこった。義綱の専制に反発した重臣長続連らが幼子義慶をたてて義綱を追放したのである。謙信はもとより、長職は義綱復帰のため奔走した。長職にとっては義綱は恩人であり、自己の存立基盤である。義綱がいなくなれば謙信は神保家に対し義理立てをする必要はなくなる。」 |
西暦 | 和暦 | 畠山当主 | 神保当主 | 関係 | 出来事 |
1519 | 永正16 | 畠山義総 | 神保慶宗 | 交戦 | 義総、長尾為景とともに慶宗征伐(越中永正の乱)→義総・為景敗北。 |
1520 | 永正17 | 義総、長尾為景とともに慶宗征伐(越中永正の乱)→義総・為景勝利。慶宗自害。 | |||
1521 | 永正18 | 神保慶明 | 同盟 | 慶宗征伐後、両越能三国同盟(畠山・神保・椎名・長尾)を結ぶ。 越中国内の一向一揆鎮圧の為、義総と長尾為景が共同で越中に出兵。 |
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1544 | 天文13 | 畠山義続 | 神保長職 | 密接 | 河内畠山氏の意向を受けた義続が長職の富山在城を認める。 |
1562 | 永禄5 | 畠山義綱 | 傘下 | 上杉謙信と長職の合戦で敗走した長職が義綱に仲介を求め、降伏する。 長職は以後、能登畠山家(義綱)に属する。 |
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1566 | 永禄9 | 畠山義慶 | 敵対 | 長職は家臣に追放された義綱を支援し、義慶と敵対する。 |
<椎名氏(越中守護代)との外交関係>
椎名氏は越中東部の新川郡の守護代である。椎名氏は度々越中の覇権を神保氏と争った。越中国内が慶宗派、反慶宗派に分かれて混乱した(越中永正の乱)で椎名慶胤は反神保派に属したので、この頃は畠山義総とともに協調体制にあったと思われる。時代が下って能登畠山家は「畠山体制」に則り1544(天文13)年と1562(永禄5)年に神保氏と椎名氏の争いを調停したが、ともに神保氏寄りの裁定を下している。位置的に能登に近い神保氏に有利な裁定をしていたのか、それほど椎名氏との関係は良くなかったようだ。しかし、弘治の内乱(1555-1560)では、椎名氏(この時、俊盛に援助を与えた人物は「椎名宮千代」とされているが、椎名氏の誰に比定されるかはまだわからない。)は義綱に味方し、陥落した湯山城より逃亡してきた八代俊盛に援助し海路七尾城へ入城させるなど、畠山家と友好関係を築いた。永禄九年の政変後、椎名康胤は畠山義慶方に立ち、義綱の能登御入国の乱に反対し義綱を援助する上杉輝虎(謙信)に対して妨害を始めた。義慶方についた理由は、義綱と長職は密接な関係を持っている上、前述のようにすでに2回も椎名氏に不利な裁定をされているので、神保氏と敵対する義慶方が勝利すれば、椎名氏が有利となると考えた為である。もし、義綱が畠山家当主に復帰すれば再び越中において神保氏を優遇し、椎名氏の立場が危ういとも考えたであろう。
畠山氏と椎名氏の交流関係について、金竜教英氏は「越中守護代神保氏と椎名氏の世界」(『富山史壇』83,84合併号)において、椎名長常の被官とみられる小間常光が能登畠山氏の被官である温井兵庫、後藤壱岐守、後藤忠兵衛、馬淵彦八左衛門、三宅彦太郎、新保丹後守(畠山氏臣の国分氏の被官)と交流を持っていると指摘している。その時期はおよそ天文年間の中期から後期と言われるが、小間常光は椎名氏の奏者であったのであろうか。
西暦 | 和暦 | 畠山当主 | 椎名当主 | 関係 | 出来事 |
1519 | 永正16 | 畠山義総 | 椎名慶胤 | 協調 | 義総、長尾為景とともに慶宗征伐(越中永正の乱)→敗北。 |
1521 | 永正18 | 同盟 | 慶宗征伐後、両越能三国同盟(畠山・神保・椎名・長尾)を結ぶ。 越中国内の一向一揆鎮圧の為、義総と長尾為景が共同で越中に出兵。 |
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1544 | 天文13 | 畠山義続 | 椎名康胤 | 険悪 | 長職が富山在城築城→椎名氏圧迫→義続が長職の富山在城を認める。 |
天文中期後期 | − | 良好? | 椎名の臣・小間常光が畠山の臣と交流を持つ。 | ||
1558 | 永禄元 | 畠山義綱 | 良好 | 弘治の内乱で敗走した畠山の臣・八代俊盛に援助を与え七尾城に送る。 | |
1562 | 永禄5 | 険悪 | 長職が畠山義綱を仲介の下で謙信に降伏。長職は増山城まで所領削減。 | ||
1566 | 永禄9 | 畠山義慶 | 良好 | 康胤は家臣に追放された義綱と敵対し、義慶を味方する。 |
<斎藤氏との外交関係>
斎藤氏は越中国楡原保の国人。神保に属することなく自立した国人で越中永正の乱でも反神保慶宗の立場で戦った。1543(天文12)・1544(天文13)年の神保長職の神保家再興運動においても神保氏と敵対したが、攻められて斎藤々次郎は城尾に篭城する危険な事態となった。しかし、1544(天文13)年に畠山義続が畠山宗家の命を受けて乱を調停し、斎藤氏は篭城から解放されたのである。それゆえ「以後斎藤氏は能登畠山氏の権威を絶対視するようになったと考えられる。」(久保尚文『越中中世史の研究』より)という関係になった。のち、斎藤氏は神保氏と婚姻を結んで混乱激しい越中戦国時代を生き抜いた。
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