はじめに
石川県と言えば金沢市は観光などでも商業でもかなりの知名度があり、北陸の中心地の1つであると言える。しかしながら中世においては、加賀で言えば本稿で取り上げる「野々市」や、同じ石川県でも能登であれば七尾の方がとても発展していた。中世の加賀においてなぜ野々市は守護館のある本拠とされていたのか。また冨樫館(詳しくは冨樫館参照)や野々市の町ははどんなものだったのか。さらに冨樫館に居を構えた冨樫氏がどんな治世を行っていたのか明らかにしていきたいと思う。
(1)冨樫館の地理的条件
南北朝期から室町期にかけて加賀に勢力をもっていた冨樫氏は、その本拠地を「野々市」として館を置いたと言われる。そののち、冨樫氏が北半国守護を赤松政則に奪われ南半国守護となった時は、野々市が北半国に入るので、加賀の南側の御幸塚城(小松市)に冨樫泰高は拠点を構えて守護館としている。しかし、北半国守護も合わせて冨樫氏が一国守護に再び補任されると、冨樫政親は野々市に居館を戻している。この事実はいかに野々市が本拠地として重要だったかを物語っている。
(図1)加賀周辺マップ
就公方様御礼事、為葛西陸奥守使岩淵紀伊守・伊藤大蔵少丞致参洛、 只今下国候、路次無其煩之様候者、可為喜悦候、恐々謹言、 十月廿四日 高国(花押) 冨樫次郎(稙泰)殿 |
加賀国山川三河守許の會に、氷室を みこしちや宮こちかくはひむろ山 おなし心を 水さむき山を氷室の名殘哉 |
では、なぜ冨樫氏は野々市に本拠を構えたのであろうか。(図1)を見ると加賀という国は越前・能登・越中に隣接している(険しい山を隔てれば飛騨とも隣接)。したがって、陸上交通で考えるとそれらの国と密接に関わる国となる。特に能登や越中・越後や山形・秋田の人間については、陸路で考えると加賀は京都へ行く陸路としては(飛騨→美濃を通るルートを除けば)主要な道路であると言える。事実陸路を通過している証拠がある。
1524年(大永4)には、奥州葛西氏の使者下向にあたって、加賀国内の路次の安全を保証するよう幕閣の有力者である細川高国から守護である冨樫稙泰が命じられている。それが古文書Aの文書である。もうひとつ。1484(文明16)年か1486(文明18)年に越後に下向する連歌師宗祇が途中の加賀で冨樫家臣の山川高藤の館に招かれ連歌の会を催したと言われる資料が古文書Bである。「苑池の蓮花を観賞して唱和」(津田邦儀著『石川訪古遊記』より)したと言う。近世資料によると、山川館も野々市にあったとされており、やはり加賀は交通の要所となっていたと言える。さらに海上交通(※1)においても、京都からの船は越前→加賀→能登→越中と北陸の日本海沿岸を避けて通ることができず、陸路においても海路においても加賀は重要な土地であったと言える。とするならば、陸路で旅人が必要なものを購入する店や宿などが発達しうるし海路では、船の物資の補給港として栄えた町が当然あったと考えられる。
では、加賀という国の中でなぜ中世当時は「野々市」が中心となったのであろうか。それは野々市が内陸流通経済の中心地だったからであろう。田村昌宏氏は「冨樫館跡復元考」において、「「野市」は河川から構成された水路と北国街道による陸上交通路の交叉地点に設けられ、物質流通の中継点として繁栄していた。冨樫氏は経済効果を高めるうえで貿易手段を考慮し、この地に守護館を置いたと思われる。」と述べている。
中世「野々市」は加賀国内において、地理的に条件が整っておりそれを掌握することは、加賀の利益を一手に引き受け、それと同時に交通網を抑え権力も手にすることを意味する。だからこそ、冨樫氏が一国守護であった時には野々市を加賀の中心に据え、野々市に守護館を置いたと推測される。
(2)中世「野々市」の地理的環境
では、中世の「野々市」の町はどのような姿であったのであろうか。残念ながらその全体像は明らかになっていない。1876(明治9)年に冨樫館付近に「農事社」と呼ばれる農業学校が設立され、この地での耕地開拓が行われた。これによる館の土塁や堀が失われた。また、現代においては朝倉氏の城下町である福井県の一乗谷史跡は開発を免れたことで盛んに発掘調査が行われたが、野々市はそれと逆で金沢の近郊に位置することから宅地化が積極的に進み、それが発掘調査を阻害する原因となった。そのため野々市の町だけでなく、冨樫館の発掘調査もほとんど行われていない。しかし、僅かに宅地開発や道路建設に伴って行われた断片的な発掘調査とその報告書によって少しずつではあるがその全貌が見えてきた。
図2 中世野々市の町
田村氏は館推定地のすぐ近くで、川原石が転がっていて草木が無造作に生える荒地がみえるため、館を中心にした町が形成されたのではなく、発展した町に守護館を後から作ったとの見方を示している。現在ある発展した町に守護館を置けば、海上流通や陸路での交通を掌握でき、関銭や舟改銭などの通行税を徴収することができる。また、人の多く集まる所は、物品の流通を通じてもたらされる豊富な情報を入手することができ、冨樫氏が加賀の領国運営を行う上ではちょうどよい土地柄であると言える。
さらに『富樫館跡V』の発掘調査報告書では「館の近隣地においても、人為的な手の加わっていない箇所が各地に存在するようである。これは富樫館が城館を中心に展開する戦国期の城下町のような都市構造までにはまだ到達していない」(同P.93)ともある。冨樫氏は1488(長享2)年の冨樫政親の自害以降に段々とその権力を縮小させて行くので、戦国期のような城下町までに野々市が至らなかったのであろう。そのため、一向一揆方が金沢御堂という新たな街を冨樫氏の勢力とは関係ないところで展開するには環境として整っていたとも考えられる。
そう考えると、冨樫氏の大名権力は強い権力によって基盤を獲得した戦国大名的な手段ではなく、極めて室町期の守護大名的な手段を通じて権力を拡大してきたのだと、その拠点の町をみることになっても感じ取ることができる。
さて、後述するが「冨樫館」の正確な位置は宅地開発によって不明となっていたが、1994(平成6)年に発掘調査によって館の堀が検出されたことによって、江戸時代に書かれた書物などと比定して場所が特定された。館の東にある旧九艘川は言い伝えによると「船が9艘分の幅をもつ」と言われた語源であり、現在と比べるとかなり大きな川であり、それがこの中世「野々市」の町の流通経済を支えたと考えられている。館の西側にあたる地域の発掘調査では、江戸時代の「馬替道」の前身となる言える道が見つかり、またこの周辺では発掘帳によって陶磁器や溝、土抗、井戸跡の遺構などが大量に検出されていることからも「野々市の町」があったと推定されている。その町も15世紀末までの市場が一度16世紀前半には大規模な整地による改変がなされ、墓地に変わったことが発掘調査からもわかっている。
館の位置が分からなかった頃は、館の北側にある野々市工大前駅に建っている「富樫館跡」の石碑(下の図3)がある本町付近が館の推定地と考えられていたが、現在では冨樫氏の家臣団屋敷があったと考えられている。今では石碑の地と実際の地から400m離れているが、明治に館の場所が不明になってから一般の人たちにも忘さられた「冨樫館」の存在が、1967(昭和42)年に石碑が建てられたことで地域での認知度向上につながり、平成の世になっての館跡が確定されたものと考えると、重要な役割を果たした石碑と言える。
(図3)野々市工大前に建てられた冨樫館跡の石碑
一方で館より九艘川の東側については、館の西側と大きく異なった発掘調査の結果がでている。2005(平成17)年に野々市市扇が丘地内で、工場の増築工事の際に行った発掘調査によって一部が明らかになったが、人骨や建物の遺構が検出された。この場所は言い伝えによると「オハカ」という小字や「照台寺」という寺があったという伝承があり、墓地や寺院があったと推定されている。館のすぐ東隣にあるので、冨樫氏の墓地であると思われるが、冨樫氏の墓地は詰めの城である高尾城の近くに「御廟谷」(石川県指定史跡)と言われ、その場所からは14世紀以降の石塔などがみられ、冨樫氏のものだと思われる。となるとこの寺院や墓地はなんのためのものであろうか。
守護所の北側の川に囲まれた地には冨樫氏の被官である山川氏の館推定地がある。、1993(平成5)年の発掘調査で、室町期の溝や柱穴跡などが見つかっている。南北に長い野々市の町と守護所の間には家臣屋敷などがあって防御を固めていたのではないかと推察されているが、家臣屋敷と推定される地のの具体的な発掘調査は行われていない。また冨樫館からおよそ600mくらいの場所にかつての「大乗寺」があった。大乗寺は、1293(永仁元)年に開祖した加賀国初の禅寺である。歴代冨樫氏の菩提寺であり、歴代室町幕府の祈願寺でもあり歴代将軍から寺領を安堵されるほどであった。そのため同じく将軍との関係が深い冨樫氏とは外交方針が一致する力強い支援勢力だったと思われる。
(図4)大乗寺旧址の石碑 (巣鴨介様ご提供転載禁止) |
(図5)大乗寺跡の看板 (巣鴨介様ご提供転載禁止) |
(図6)大乗寺旧址石碑の建つ場所 (巣鴨介様ご提供転載禁止) |
(図7)金沢に遷座した大乗寺 (林光明様ご提供転載禁止!) |
(3)中世「冨樫館」歴史的環境と高尾城
宅地化が進んだ野々市の中で「冨樫館」の位置を比定することができたのは、皮肉にも「宅地が進んだため」だという意見がある。それは同館があったとされる住吉町は金沢市に近い事から比較的昔から宅地化が進んだため、結果的にビルや工場など大規模な開発が行われなかった。大規模な開発が行われるとかなり地中深くまで掘るために遺構は失われる(反面、発掘調査がされるという効用もあるが、遺構は永遠に失われる)。一方、宅地開発はそれほど地中深くまで掘ることもないことから、あまり積極的に発掘調査が行われず、館の詳細な位置がわからなくなってしまうというジレンマを抱えていた。
しかし、1994(平成6)年に住吉町でアパートの建築工事をするための事前発掘調査で、6メートルにもおよび大きな堀跡が見つかった(下の図8)。この堀はV字の薬研堀で室町初期に見られる堀の形である。また、6メートルと大きな堀を持つ館は守護の館であるということから、「冨樫館跡」の堀だと断定されるに至ったのである。この発掘調査の結果により、建設計画にあったアパートの計画を変更し、当時の野々市が土地を公有化した。現在この発掘調査で見つかった堀は(図9・図10)のように埋め戻されているが、わずかな段差を付けることによってその堀の大きさを表現している。本来なら実際の堀を表現したいところだろうが、公有地で「公園」という扱いならば、堀でなった場所で遊んで怪我をすることを懸念したのだろう。
この場所では日常で使用する磁器も発掘されている。(下の図11)を見ると、珠洲焼の他、青磁や瀬戸焼なども見られる。さらに(下の図12)では直径5cmほどの手のひらサイズの銅鏡の完成形が見つかっている。鏡面の中央に亀、その上には2羽の鳥が対になって飛んでおりデザイン鏡は冨樫家の物の可能性もありそうだ。
現在、冨樫館跡の内部は民間の住宅が密集しているため発掘調査が行われておらず、その館の全貌をあきらかにすることはできない。しかし、民間開発の事前発掘調査による小規模な発掘調査を重ねる事で、だいたいの館の範囲が見えてきた。発掘の状況や様子は『冨樫館跡T』『冨樫館跡U』や『ののいち町史だより』創刊号から読み取ることができる。出土遺物は14世紀前半〜16世紀前半にかけてのもので、陶磁器などの遺物(注2)、堀跡などの遺構(下図1参照)が発見されている。16世紀前半の出土物が見つかるということは、1488(長享2)年の冨樫政親の自害以降も冨樫館が使用されていた考古学的証拠であり、泰高−稙泰−晴貞と以降の守護も野々市のこの館を本拠としたと当然考えられよう。江戸時代の書物や明治時代の地籍図から推察すると、冨樫館の大きさは東西が100m強、南北が80m弱の方形状の館で、周りを堀(注3)とその内側に作った土塁で囲まれていた本格的な館であった。
文字だけで「冨樫館」を想像するのはなかなかイメージが沸かない。そこで他の史跡などから「冨樫館」をイメージしてみたい。冨樫館跡でみつかった「V字の薬研堀」が復元されているところがある。(下の図13)にある岐阜県飛騨市にある「江馬氏館」である(詳しくは「江馬氏館」を参照)。ここは1976(昭和51)年から2000(平成12)年にかけて発掘調査が行われ、2007(平成19)年に復元を完了し、史跡公園「江馬氏館跡公園」としてオープンしたもの。江馬氏館は京都の室町邸を参考に作ったと発掘調査から考察され、館の周りは空堀であったが、冨樫館は九艘川から堀に水を引いていたので、(図13)のような空堀ではなく、水堀だったと思われる。空堀ならば館の入口は写真のように土橋であると思われるが、冨樫館の入口は水堀だったゆえに板橋がかけられていたかもしれない。江馬氏館は(図13)の写真のように2つ門があり、手前が脇門で奥が主門。脇門は間口が約2.7mの掘立柱建ちで、主門が間口が4.2mの礎石建ちだったそうだ。「冨樫館」もその入口が2つあることからも、おそらく京都の「洛中洛外図屏風」の室町邸のような、室町期の建物だったのだろうと推察する。「冨樫館」の共通点として「V字の薬研堀」という共通点があるが、冨樫館は堀の内側に土塁が築かれていたので、板塀の江馬氏館の外観とは完全には一致しない。
次に(下の図14)は、山梨県北杜市にあった「風林火山館」の写真である。この施設は市が歴史ドラマを誘致するためにオープンセットとして2006(平成18)年に建てられ、「風林火山」(2007年NHK大河ドラマ)や「天地人」(2009年NHK大河ドラマ)や「BALLAD名もなき恋のうた」(2009年映画)で実際の撮影に使われた施設である。観光地と解放されていたが、2008(平成20)年に休館、2009(平成21)年に正式に閉館となり、撮影用には残っていたが、2011(平成23)年に撤去され、一部のセットは山形県鶴岡市の「庄内映画村オープンセット」に移設された。この(図14)は水堀であり、内側に土塁が築かれている。この風林火山館は甲斐の戦国大名である武田氏館(躑躅ヶ崎館)がモデルとなっている。そのため堀も櫓や門の規模もかなり大きい。土塁と水堀がセットの冨樫館を想像するには良いが、冨樫館の門は(下の図15)にある江馬氏館の唐門のような規模ではないかと思う。次に冨樫館の内部であるが、(下の図16)の旧・風林火山館の主殿のように、天守閣ではなく平屋の大きい建物があったと思う。守護所としての役割であれば、客人の接待や文書作成、決済なども必要で有り大きな主殿が会所や役所としてあったと思われる。その規模は、中世「野々市」という加賀の政治経済中心であったことを考えると、江馬氏館や武田氏館の主殿にひけを取らない規模であったと思われる。
生活規模としては大規模な「冨樫館」であったと想像できるのだが、おそらく防御拠点としての役割は脆弱であったと思われる。九艘川から水を引いて水堀を作ったり、土塁を作って防御性を高めているものの、北陸街道や白山街道などの大きな道の交差地に位置しており、大きな軍隊が動きやすい地である。そこで注目されたのが館から南東にある高尾城であった。
(図13)江馬氏館前の空堀 |
(図14)旧・風林火山館の水堀 |
(図15)江馬氏館の唐門 |
(図16)旧・風林火山館の主殿 |
長享の一揆で冨樫政親は野々市の守護館から南東に2km位にある高尾城に立て籠もって防衛して、自害をしている。この高尾城は発掘調査の結果などから、14世紀初頭に冨樫氏が築いたとも推定される。一般的に室町期は平時の生活の拠点とする平地の居館に対し、緊急時の防衛拠点として防御が堅固な山城を居館とは別に構えるのが普通であった。冨樫館も水堀や土塁などを配しても、その防御力には限界があったと考えられ、その為が高尾城整備されたのであろう。
その高尾城も政親が長享の一揆で立て籠もる際に大規模な改修を行っているという。つまりは高尾城も平時には使用せずあくまで緊急時の城であった事実が伺える。室町時代も後期になってくると諸大名は防御力の高い山城に居館を移し、そのため城下に町が広がっていくことになる。しかし、冨樫氏に置いては山城(つまり高尾城)に移行する前に力を失ったと言える(注4)。ここにも冨樫氏という大名権力が、戦国大名的な性格に脱皮できずに弱体化していった徴証が見える。
(4)晩年の冨樫氏と野々市
冨樫政親が一向一揆勢に敗れた跡は、冨樫泰高が冨樫家当主となる。泰高は長亨の一揆の際に政親打倒の一向一揆勢に担がれた総大将で、その本陣は御幸塚城(注5)であったと言う。しかし、政親自害がして泰高が家督を継承した後は、野々市の冨樫館に拠った。泰高は一国守護となったわけであるが、1488(長享2)年に拠点とした御幸塚城でなく、冨樫館を拠点にした事を考える時、冨樫が野々市に特別な思いを抱いていたと考えられる。すなわち、加賀一国の守護は野々市(冨樫館)にいるものだと考えていたのであろう。そして一向一揆勢力も政親を倒す大義名分として泰高を擁立したのであるから、勝ったおりには泰高は政親に代わる守護にしなければならず、泰高を野々市に帰還させることが必要であったのであろうか。この辺りは、泰高と一向一揆勢との妥協点であったのであろう。
「冨樫氏の晩年に高尾城が冨樫氏のものであったとは考え難く、その居館は野々市の冨樫館であった」と一向一揆に詳しい林光明氏は指摘していた。前述したように冨樫館跡からは16世紀前半の遺物が発掘されているのを考えるとき、冨樫館が放置されず何者かに使用されていた証拠である。その使用者はやはり加賀守護(或いは加賀守護に相当)たる者でありその対象者はおそらく泰高−稙泰−晴貞であろう。何せ他に加賀守護に代わる人物はいないからである。
さらに、発掘調査によって冨樫館の東側あるの寺院には大きな特徴があることがわかっている。この場所は「14世紀後半〜15世紀後半」の第T期と、「15世紀末〜16世紀前半」の第U期という大きく2期に時代が別れれていることである。2005(平成17)年の発掘調査の結果から、第T期にあった墓地や関連施設は全て破却され、空間構成を大きく変えた上で第U期にもう一度墓地や関連施設を作り直している。用途が大きく変わればそれは為政者の変更が考えられるが、第T期も第U期も寺院や墓地という用途は変更しないで、その施設を大きく変えている理由はなにか。『冨樫館W』(2007年)では1488(長享2)年にあった長享の一揆の影響を指摘している。すなわちこの戦いで冨樫政親が敗れたことにより、為政者が冨樫泰高に変更となった。そこで館の東の寺院も西の市場も一度大きく破却し、改めて冨樫泰高が「野々市」という町を整備し直したのではないかと、同報告書は指摘している(P.81より)。町を大規模改変する力があるということは、権力が低下しているにしろ、冨樫泰高の力はまだまだ高かったのではなかろうか。
しかし、冨樫の権力は『野々市町史』資料編1によると、冨樫館の「十六世紀を境に堀は徐々に埋まっていき、守護所としての求心的な力は政親自刃とともに急速に失われたようである」(同掲書P.287)とあり、晩年にはかなり低下していたようである。堀が自然に埋め戻されているというのを考えると、
@堀を再び掘る経済的余裕が冨樫氏にない。
A本願寺が冨樫氏に反抗させないように、再び堀を掘るのを禁止した。(※強制的に埋め戻されるのとは違う)
B冨樫氏が外敵の存在を感じないので、堀を再び掘る必要性を感じなかった。
以上のような理由が考えられる。このどれかひとつが理由があてはまるかもしれないし、複数の理由であることもある。しかし、いずれにしろ冨樫の権力が弱まっているという理由付けはできる。一方で高尾城はどうなったのであろうか。冨樫晴貞が1570(元亀元)年に一向一揆勢に攻められた時は、高尾城でなく伝燈寺城に拠ったている。この事実をどう解釈するか。
(1)晴貞に伝燈寺の僧兵が味方し、軍事力をあてにしていた。
(2)一向一揆勢が攻めてくるのは冨樫館であり、その防御性から脱出せざるを得なかった。
という事情もあろう。しかし、それに加えて
(3)高尾城がすでに冨樫氏の支配下に無かったので、伝燈寺に拠った。
ということも言える。すなわち、長亨の一揆の時に高尾城に拠って防衛したのであれば、晴貞も冨樫館から程近い同城に立て籠もればよいのである。しかし、そうしなかった事実を考えると、すでに高尾城の一帯は一向一揆勢のものであったか、資金力の都合で高尾城の状態が放置状態であり防御性に疑問があったのかもしれない。
しかし一方で、高尾城という防御拠点無しでも晩年の冨樫氏が野々市を拠点(注6)としてことは、いかに冨樫氏が野々市を掌握することに強くこだわったかを示す証拠となる。それだけ、野々市は権威的(一国守護の拠点としての地位)、経済的(流通の拠点としての地位)にも魅力を持っていたのであろう。晩年の冨樫氏は全く力を持っていなかったようにも思えるが、この野々市を拠点することを一向一揆勢に認めさせたことは大きく、いくら一向一揆や本願寺の支援があったとはいえ、政親自害後も100年も冨樫氏が野々市に存在してた理由の一因とも言えよう。
まとめに
ここまで中世の「野々市」の町と「冨樫館」についてみてきたが、中世の「野々市」が地理的環境において加賀国内で陸上交通でも海上交通でも要所にあり、経済的にすでに発展していたことを確認できた。その上で、歴史的環境として、経済的にも権力的にも「野々市」を掌握することで冨樫氏の影響力が高まったことを指摘できた。つまり冨樫館の成立が後発であったのである。冨樫氏が室町期の守護大名的な手段を通じて権力を拡大し、「野々市」を加賀の中心に据えることができたのは、歴代の冨樫氏が鎌倉時代から勢力を在地で伸ばしてきて、室町時代に加賀守護という政治的中心になったためであろう。つまり中世「野々市」の発展は、その地理的環境と歴史的環境に支えられてきたと言える。
しかしながら、加賀国内は幕府の利権が複雑に絡む環境で有り、冨樫氏は常に幕閣の機嫌にその地位を左右された。そして、冨樫氏が戦国大名的な権力に脱皮する前に長亨の一揆で実質的な加賀の中心から外れ始めたため、「野々市」は加賀国の中心として地位を失い、「金沢」へその地位を譲ることになった。野々市からほど近い金沢が中心になったことを考えると、野々市や金沢周辺が加賀国内では地理的環境が良かったのだろう。
(注釈)
(注1)中世の海上交通の必要性については、林光明氏(旧「六郎光明の屋形」跡地のリアル!戦国時代「中世のハイウェイ・水運シリーズ」参照)に詳しい。
(注2)冨樫館跡から出土した遺物としては、土師器皿、越前焼甕、青磁碗、白磁碗、瓦質風炉で14世紀前半〜16世紀前半のもの(1987年)土師器皿、白磁皿、珠洲焼甕、越前焼甕、鉄滓で15世紀代のもの(1994・1995年)土師器皿、珠洲焼擂鉢、瀬戸焼灰釉碗、天目茶碗、中国青磁碗・皿で15世紀前半〜16世紀前半のものなどがある。(各発掘地点は異なる)
(注3)この冨樫館の堀は、一部かもしくは全てが、自然の川である旧九艘川を堀としての役割を持たせていたと考えられている。
(注4)実際、隣国の能登畠山氏はおよそ15世までは、山城である七尾城は緊急時の城で平時には七尾の府中に居館があったという。七尾城に居館が移ったのは16世紀のことである。
(注5)一説には大乗寺に本陣を置いたとも言う。
(注6)建前上でも晩年の冨樫氏と一向一揆勢力とは協調関係にあったわけであるので、「友好勢力」に囲まれた冨樫家が防御拠点を持たなかったと言う見方もできる。(或いは冨樫氏が防御拠点を構えれば一向一揆に敵対しされたのかもしれない。)
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