(写真提供:巣鴨介殿無断転載禁止)
高尾城が削られた県教育センターから古城を臨む
読み仮名 | たこじょう |
別名 | 高雄城、田江城、多胡城、高生城、冨樫城 |
所在地 | 金沢市高尾町 |
形式 | 山城 |
築城者 | 冨樫氏 |
築城年 | 14世紀初頭カ |
遺構 | 無し |
歴代城主 | 冨樫氏 |
交通 | JR北陸本線金沢駅バス額住宅線 光が丘住宅行高尾南1丁目下車15分 |
冨樫館から東へ2kmの山に築かれたのか高尾城。はっきりした築城年はわかっていないが、『高尾城跡分布調査報告書』によると「多胡城が現れるのは氏春の時代」とし、「加賀守護の地位を確保し、争乱の時代を乗り切るために山城構築が絶対不可欠なものとなったと思われる。」と指摘している。その後、高尾城の名を一躍有名にしたのが、冨樫政親が一向一揆と対峙する為に1488(長享2)年に高尾城を修造して篭もってたことである(長亨の一揆)。彼はここで最期を迎える。平時は冨樫館に居館していたので、高尾城は防衛専門施設で、天守や石塁を持たず、曲輪に土塁や空掘を巡らしたものであった。 城跡は1970(昭和45)年に北陸自動車道のための土取場とされた。「地すべりの危険」もあったようで、その対処で大きく地面が削られた。上記写真は削られた後に建った県教育センターの駐車場で、奥の斜面は遺構ではない。旧山頂部の背後に連なる「古城」と呼ばれる平坦な地域は小さいながらも城郭らしい部分が残っており、石垣・空掘・土塁などが僅かにあり、発掘調査で中国製青磁器や珠洲焼の甕・擂鉢、瀬戸焼の天目茶碗など室町時代の遺物が確認された。しかし、この古城は長亨の一揆のメインの舞台ではないのが惜しまれる。2009(平成21)年に、「高尾城址見晴台」として登山道が整備された。 |
写真1(林光明殿提供) 2001年高尾城遠景 |
写真2(武藤舜秀殿提供) 古城部分への入口 |
写真3(武藤舜秀殿提供) 見晴台への階段 |
写真4(武藤舜秀殿提供) |
写真5(武藤舜秀殿提供) 見晴台からの景色 |
写真6(武藤舜秀殿提供) |
写真7(武藤舜秀殿提供) |
写真8(武藤舜秀殿提供) 古城から県教育センターを見下ろす |
写真9(武藤舜秀殿提供) 古城の曲輪 |
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