能登畠山氏のよくある質問

資料の少ない畠山家。そのためか資料によって表記はまちまち。ここではそういった混乱からよくある質問を簡単にまとめて、詳細なコンテンツに導くための導入ページとしました。


1、「全国に畠山家って沢山いるけどどう違うの?」
 これは畠山家の分家が各地にあるからです。畠山家の嫡流は奥州畠山家であり、もともとは東北地方の当地を任された奥州探題の家柄です。しかし、これが没落し伊達政宗の父である輝宗を誘拐したことで有名な二本松畠山家に繋がっています。
 それから、室町幕府の三管領としてよく知られる河内(大阪)にいる河内畠山家があります。これは、奥州畠山家の分家であり、本サイトでメインに取り上げている能登畠山家の直接の宗家でもあります。
 そしてもうひとつの畠山家がこの能登畠山家です。1408年に畠山満慶が河内畠山家当主・畠山満家より能登一国を与えられたことに始まります(詳しくは畠山家の出自・能登畠山家のおこり参照)。以上3つの畠山家が有名です。
 この3つの畠山家同士はどのように連携していたかというと、河内畠山家と能登畠山家はともに室町幕府の最高権力者グループである御相伴衆であったこともあり、緊密に連携し、幕政にあたっていたようです。しかし応仁の乱で河内畠山家の内紛がおこり勢力が減退すると緊密な連携関係は徐々に失われていたようです。しかし、二本松畠山家河内畠山家・能登畠山家の関係は積極的には知られていません。二本松畠山氏が戦国期には著しく勢力を減退させたという理由もあると思います。

2、「能登畠山氏って弱小大名なんですか?」
 たしかに戦国時代に華々しくデビューする織田信長や毛利元就のような戦国大名の派手さは能登畠山家にはありません。しかし、室町時代の前半では能登畠山家は室町幕府の最高権力者グループである御相伴衆に列しており、6代将軍足利義教の誕生にも関与するなど、幕政に大きな影響を与えていました。ですので、弱小大名ではありません。確かに戦国時代、特に天文年間(1532年〜1555年)に入ってからの能登畠山氏は押水の合戦(1547年)や弘治の内乱(1555年〜1560年)などの内紛を抱えていたし、他国に攻め入るなどの戦国大名的行動は知られません。しかし、他国に攻め入り上京することが当時のすべての大名の目標だったのでしょうか。私は違うと思っています。少なくとも能登畠山氏は守護大名的な方針の下、能登国の領国の安定が第一だったと思います。無論、他国を攻める余裕がないということもあるかもしれませんが、それ以前に他国に侵攻しよう意思がなかったのではと思います。
 それ以外にも、能登畠山氏が弱小大名でない理由は山ほどあります。7代畠山義総の頃には、お茶の文化や連歌、香道など様々な京風の文化が育ち、この素晴らしい七尾の文化的土壌は長谷川等伯(信春)を育てるなど、「畠山文化」が誕生しています。また、能登の守護所がある七尾は政治的な都市としてばかりでなく、湊町としても発達し、小京都とも言える発展を遂げています。よく歴史シミュレーションゲームでは能登の農業的生産の低さから経済的に低い地位に置かれることが多いですが、日本海海上交通(水運)が盛んだったことから、能登は「陸の孤島」ではなく、むしろ「物流の拠点」であたっと言えます。それゆえ、能登の各湊は補給のためなどの店が繁盛し、また船からの通行税(関銭・舟改銭)などで潤っていたと言えます(詳しくは能登の国力参照)。これらのことを考えあわせると、歴史シミュレーションゲームや現代の能登の状況から想像しがちな能登畠山氏のマイナスイメージは、あてはまらないと言っても過言ではないでしょう。

3、「畠山義綱って無能なんでしょ?」
 今までの歴史シミュレーションゲームや『天下取り採点戦国武将205人』などの一部書籍では畠山義綱は酷評されてきました。しかし、それらは畠山義綱と敵対した長家関連の史料を基としているため、それが真実であるとは言えません。まず、歴史学は勝者贔屓の考え方を排除して冷静に事実を認める所から始めなければなりません。ただ、最新の研究では、その勝者贔屓を排除して、古文書から義綱の行動を解釈しなおす考察が行われ、だいぶ長家関連の史料と違うことがわかってきました。
 これは色々な歴史的解釈に言えることですが、ゲームなどの能力値や一部の書籍などによる情報に偏らないで多角的にもう一度考察してみてください。畠山義綱についての最新の研究成果などは、拙コンテンツの「畠山義綱特集」にも掲載しています。どうぞご覧あれ。

4、「能登畠山氏は戦国大名?それとも守護大名?」
 これはなかなか難しい問題です。そもそも守護大名とは何か、戦国大名とは何かということが結構あいまいだからです。守護大名は荘園制を否定せず、押領などもするが守護請けなどを通じて送金することが基本であった。それに対し、戦国大名は荘園制を否定するとも言われる。また、守護大名は幕府から任命され国をただ運営させるだけであり、領国を支配するのが戦国大名とも言われます。能登畠山家は元々は守護大名の家柄ですので、徐々に守護大名的な面から戦国大名的な面に移行しつつあるところでした。例えば、9代当主畠山義綱はそれまでの守護−守護代体制を廃し、大名による専制支配を実現するなど、守護大名から戦国大名への移行を試みていたのです。しかし、その義綱期でも軍事体制で戦国大名に一般的に見られる「寄親寄子制」が確立されていない、貫高制の未確立、商業流通賦課税がないなどの点で守護大名的な形態を取っていたといえるでしょう。いわば、能登畠山家は守護大名的戦国大名と言えるでしょう。

5、越中神保氏は能登畠山家の属国なの?
 確かに越中神保氏は畠山氏の領国である越中の守護代です。しかし、越中は河内畠山家の領国であり、能登畠山家のものではありません。従って直接的な能登畠山家と越中神保氏の関係はありません。しかし、河内畠山家の本国は河内や紀伊なので、そこからはるか遠い越中にまで影響力はなかなか届かなかった。さらに応仁の乱による河内畠山家の内紛で勢力が衰えたこともあり、越中は混沌とした状態になってしまいました。越中では神保氏が河内畠山家の指示を聞かなくなり、同族の能登畠山氏の畠山義総と越後の国主長尾為景に神保慶宗を征伐してほしいと要請しました。この戦いは能登畠山・越後長尾連合軍の勝利で終わった (越中永正の乱参照)。 この戦いで影響力を強めた能登畠山氏は越中氷見を直接支配下に置き、さらに越中守護代行を河内畠山家より任され、実質的に越中守護として活躍します。この能登畠山家が越中守護の代行者として、越中の秩序を維持した状況を『北陸社会の歴史的展開』では「畠山体制」と呼んでいます。この「畠山体制」の下、1544年に神保長職と椎名氏の対立の調停を畠山義続が、1562年には神保長職と長尾景虎との争いを畠山義綱が調停したのも畠山体制の結果と言えるでしょう。しかし、この体制も永禄九年の政変で義綱が追放されると、能登の新守護畠山義慶と上杉謙信、神保長職らが対立し、畠山義綱を援助したので畠山体制は崩壊したのです。

6、春王丸って「義春」なの?
 能登畠山家の第12代当主・畠山春王丸。春王丸の推定生年は1572(天正元)年なので、当主を継いだ時にはまだ成人していないと思われます。そこで、春王丸が元服して「畠山義春」と名乗ったとする書籍があります。確かに能登畠山氏の継字は「義」で、春王丸の「春」をつなげれば「義春」という名前に至ります。でもこんな安易な名前で良いのでしょうか。遊佐きむち氏(※旧「能登のぉと」管理人)のよると「幼名の一字をそのまま使う例はあまりない」と指摘しています。また、春王丸は「式部大夫」に任官されたとも言われますが、元服前の任官というのも非常に稀なケースのようです。すなわち、これも長家関連など後世に書かれた史料で誤伝されたものだと考えるのがいいようです。
 では「畠山義春」は誰なのか?実は畠山義綱の弟・畠山政繁(上条政繁)のことなのです(実はそれも異論があるのですが)。しかし、いまだに春王丸のことを「義春」とする本が多いようです。

7、畠山義隆が殺されたのは天正2(1574)年なの?
 この混乱は畠山義慶畠山義隆の同一人物説の混乱によって起きたものです。詳しくは畠山義慶・義隆は暗殺されたのか?を参照して下さい。

8、能登畠山家って管領を輩出したの?
 歴代管領の一覧表を見ても、能登畠山家の人物は一人も載っていません。しかし、注目すべきなのは1473年のことです。当初管領に任命された河内畠山家の畠山政長(東軍)が、応仁の乱の最中で管領の職を果たす余裕もなく管領就任の儀式の後、さっさと管領を辞任したと言われている。その後、管領に任命されたのが、畠山義統(西軍)と言われています。でもやはり管領一覧表には載っていないので、義統の管領職は臨時の職である管領代ではなかったかと考えます。それゆえ、歴代管領一覧表に載っていないのではないでしょうか?

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