能登畠山氏と余呉庄の考察

 滋賀県の最北端に位置する余呉庄と能登畠山家の関係は、畠山満慶が余呉庄地頭職を拝領した時に始まる。それ以来何かと能登地方以外の土地ではあるが、能登畠山家と接点の多い地域である。その余呉庄との関係を体系的にまとめることで、どのような理由でそこを領していたのかを取り上げる。

はじめに
 能登畠山氏の分国は当然であるが能登である。その能登畠山氏がなぜ近江の余呉と関わりがあるのか。それはトピックス的(限定的)なものか、恒常的なものかで、分国外の土地との関係は見ていける。まず最初に、余呉庄と能登畠山家で確認できる関係を見ていきたい。

(1)余呉庄との関係の始まり
 室町時代の近江国余呉庄の地頭職は代々京極氏が継承してきたと言われる(注1)。しかし、14世紀後半から余呉庄の荘園領主となっている地蔵院文書によると応永末〜永享期(1420年代頃)に京極氏に替わって能登畠山氏の畠山満慶(注2)が地頭職を得たという。事実、1435(永享7)年には満慶が、余呉庄拝領のときから丹生菅並両村の荘園押領で地蔵院から訴えられている。このように、能登畠山家の余呉庄地頭職は一時的なものかもしれないが、応永末〜実際の押領事実が確認される1435(永享7)年までと長くて10年、少なくとも5年くらいの在職である。また、満慶の押領の事実を考えると、それが極めて短い一時的な在職とは考えられない。さらに、畠山義元畠山義綱とつながる余呉庄との関係を考えると、密接な能登畠山氏との関係が浮き上がってくるのである。

(2)能登畠山氏の邸宅と連歌
 1477(文明9)年に3代当主・畠山義統は京都を発って下向し、分国である能登に在国するようになる。しかし、応仁の乱において将軍足利義政に敵対する西軍に属した事から将軍に嫌われ、許しを請うために対京都(幕府)との交渉を行う必要があった。そのために能登の京都との中間点である余呉庄を中継基地として嫡子の畠山義元と重臣の平光知を置いたと言われる。余呉には義元と光知の邸宅があったようで(注3)、1480(文明12)年義統の招請で招月庵正広が能登に来訪する途中、それぞれの邸宅に寄り、歌会を行っている(古文書Aより)。邸宅があったということは、それが一時的な滞在ではなく連続的に在住していたことを示している。また、連続的に在住していたとなれば、義元や光知の他にお付の者やある程度の守備兵もいたと思われる。義元の能登下向は1490(延徳 2)年とされ(古文書Bより)、つまり少なくとも義元は1480(文明12)年〜1490(延徳 2)年の10年間は余呉に在住していたのである。なぜ、義元は余呉庄に拠ったのであろうか。それは前述の(1)のごとく、余呉庄と能登畠山氏との関連性から来ているのではなかろうか。とすると、本当に畠山満慶の地頭職は一時的なものであったのだろうか。能登畠山氏の余呉でのなんらかの基盤があったのではないだろうか。

 次に、招月庵正広と義元・光知の連歌を検討したい。古文書Aの「松下集」の連歌を考えるとき、余呉に伝わる伝説や余呉湖の魚、余呉の地名などをみることができる。余呉に伝わる伝説の1つに、「天女が羽衣を掛けた衣掛柳伝説」がある。それによると、天女と結婚した桐畑太夫の間に男の子が生まれ、それは美しく聡明な子であった。しかし、夫が目を離した隙に天女は羽衣をまとって天に帰ってしまう。天女が帰って17日たった夜、太夫の夢に天女が現れ「三千枚の皮を埋め、その上に荀という草を植えなさい。一夜にして天に届くから、それをお昇りなさい」と言われた。その通りにすると夢は現実となり、太夫は天に昇った。そして3歳になる子は岩の上に捨てられ泣いた。その泣き声を聞いた菅山寺の和尚が「泣き声が経文の響きあり」と言って寺に引き取り育てられた。その子が後の菅原道真だと言う。道真が夜に泣いたといわれる石「夜泣き石」が今でも余呉町中之郷西神宮付近にあり、天女が羽衣を掛けた柳の木もあるなど、町にはこの伝説にちなんだ物が存在している。道真が登場することから、この伝説は9世紀頃の話であろう。またもうひとつの伝説が「盲目の龍女・菊姫伝説」である。桐畑太夫の最愛の娘である菊姫は、7、8歳になると蛇の体になったので、太夫は屋敷から離れたところに仮屋を建て捨て置いた。食べ物も与えられなかったが、菊姫のお守り係りである下女が自分の食べ物を与え養育した。菊姫18歳の時、もうこの仮屋にも入られないと余呉湖に入水する。その時、下女に養育の御礼と「龍の目玉は求め難きもの、大切にしなさい」と片目を引き抜き与えた。この形見が万病を治すと評判になり、やがて上の人に召し上げられることとなってしまった。上の者に片目だけでなく両目を差し出すように言われ、仕方なく下女は湖へ行き、菊姫を呼んだ。菊姫は「盲目となると時刻を知ることができなくなるので、湖の四方に堂を建て、時を知らせる鐘をついてください」と言い、残っていた片目を石に投げつけた。この時、石に鮮やかな跡がついた事から、菊姫の「目玉石」と呼ばれ、今でも湖の近くに祭られている。これらの伝説は、違うストーリで語られたり、「天女伝説」と「菊姫伝説」が混ざって伝わるなど、伝承であるがゆえの混乱が見られる。そして、それらの伝説と奇妙なほど、義元・光知が詠んだ連歌と重なる部分が多いのである。2つの伝説はどちらも9世紀の話。したがって室町時代の人々にも伝わっていたことと思う。それゆえ、それを連歌にして詠んだのであろう。能登畠山氏の文化水準の高さと、畠山家と余呉庄の関わりの深さを感じるものである。
 (図1)で連歌と伝説を比較してみる。「アマゴ」や「フナ」「アユ」は余呉湖に住む魚。「浪」とあるが余呉湖はそれほど広くないのであまり波はたたない。それよりは、地名で「川並」や「菅並」などの「並」の字が出てくることから、それを表しているのではないか。「宿」も旅行者が泊まる宿と、地名の「八戸(やと)」をかけたのでは。「ふみ路」は「文室(ふむろ)」という地名であろうと思われ、登場する地名はいずれも余呉湖にほど近い地名である。季節は「萩」や「紅の露」が知られることから秋の季節だろう。「よこのうら」は余呉湖のことであり、湖の近くに竹林もあった。さらに現在でも小さいながら港があり、「泊」は余呉湖の港を指すと考えられる。また、「霞」という言葉から寒くなった余呉の朝にかかる霧を表しているので、晩秋あたりではないか。伝説にちなんでいるものは「枕をそはたてゝ」「きく」「衣」「袖」「有世」「枕」などがみえる。「松」と「小松」については悩んだが、湖の近くに松もあることに加え、全国の天女伝説では羽衣を掛ける木は松が多いとのことから、伝説を畠山氏が誤って詠んだのかもしれない。余呉の天女伝説では全国でも珍しく柳の木にかけたと言われる。偶然にしては伝説との合致が多い。やはりこの連歌は余呉の伝説を意識して作られた歌ではなかろうか。

 後年作られた軍紀物の「江北記」では、浅井氏の家臣として近年被官に加わった者の中に、「東蔵」という名前が見える。「余呉荘現地調査」サイトを参考にさせて頂くと「戦国期永正年間(1504-1521)には、余呉荘惣政所として東蔵坊春将の名前も見え、在地に一定の支配権を及ぼしていたようである。」とある。つまり、余呉庄の荘園に影響力のある東蔵坊という人物が、1502(文亀2)年までは畠山氏の被官だったことになる。この畠山氏はおそらく畠山義元ではなかろうか。能登畠山氏の余呉庄支配も、義元が1490(延徳 2)年に能登に向かうと影響力が低下していったのではなかろうか。

(3)畠山義綱と近江余呉
 9代当主・畠山義綱は重臣たちに奪われた大名権力を取り返すために画策し、一時義綱専制支配体制を確立した。しかし、それに対する反発から1566(永禄9)年に重臣たちに追放される永禄九年の政変が起こる。その時に義綱は父や義綱を支持する家臣と共に近江の坂本に逃れる。これは、義綱の妻の実家である佐々木六角氏を頼るためであり、また京都にほど近い同地で、自らの正当性を主張する為に中央政権と交渉し、さらに後援者を京都で多角的に探すことにあった。ただ、これらの行動が実ることなく義綱の復帰は果たされず、1577(天正5)年に能登畠山氏も滅亡する。そして、義綱の位牌には1593年12月21日、近江国伊香郡の余吾浦で没す、と記されている。前述ように能登畠山氏と余呉の関係を考える時、義綱が余呉で没したのは偶然ではあるまい。全くの推測ではあるが、義綱をひきとった能登と関係のある寺があったのではなかろうか。

まとめに
 山田徹氏が「南北朝期における所領と配分と中央政治」(『歴史評論』700号,2000年)や「室町期越中国・備前国の荘郷と領主」(『東寺文書と中世の諸相』思文閣出版,2011年)において分国外に広範な所領と被官を定住させている他の大名の例を指摘している。川口成人氏は「都鄙関係からみた室町時代政治史の展望」(『日本史研究』712号、2021年)で「京都と分国能登をつなぐ拠点としての活用が想定される」(97頁)と指摘している。
 そこから考えると、能登畠山氏以外にもその例が確認できることから、このような「分国外に所領を持つこと」は他にも見られる当時の普遍的な行為であり、能登畠山氏においては(3)で指摘したように「中央政権と交渉し、さらに後援者を京都で多角的に探す」ことが目的であったと考えられる。それゆえ、大名の嫡子である畠山義元や重臣の平氏が近江・余呉に滞在したのも、交渉を担う点からも合点がいく。また、能登畠山氏が足利義稙政権を畠山義元になって支えた点も、管領家の河内畠山氏の影響もあるものの、独自のパイプラインが功を奏していたとも言える。
 そうであるならば、戦略上重要として近江・余呉に畠山義統の嫡子である畠山義元を配したが、その事によって、七尾城に残った義統の次男である畠山慶致に義統の寵愛も重臣の指示を厚くなっていたことが、兄弟対立である1500(明応9)年に起きた明応九年の政変を生み出した原因とも言える。さらに畠山義総の時代になって近江六角氏に近づいた理由が、近江国の守護であった六角と多く交渉していたから、そもそも接点が多かったと考えると納得がいく。となれば、畠山義綱が1566(永禄9年)に追放された永禄九年の政変で逃れた近江坂本の仮館であるが、単なる仮館ではなく、元々能登畠山氏の派出所的役割を持っていた館であった可能性が高い。

★余呉の寺院の一部
寺社名 現所在 宗派 創建 備考
洞寿院 余呉町菅並 曹洞宗 1406(応永13)年 能登の総持寺派の流れを汲む如仲禅師が開祖。
全長寺 余呉町池原 曹洞宗 1469(文明元)年 住職が平家(へいけ)と言う、能登の平氏(ひらし)との関連は?
勧明寺 余呉町川並 浄土真宗 詳細不明 1471(文明3)年に蓮如がこの寺に宿を取ったという。余呉で宿の役目をしていたか?
(古文書A)「松下集」の一部抜粋(国会図書館所蔵)
(上略)
   八日、舟出して、十日、江州餘呉庄と云所に舟よりあかりて、平新左衛門尉光知所にて一續ありしに、
海邊荻風
あま小舟やすくをしてる浪こえて宿におとろく萩の上風
擣衣何方
老のなみ夜の枕をそはたてゝきくにそれかの衣うつこゑ
寄木別戀
春やいつ枝にわかれてちるこのはそれも時雨ハ紅の露
十三日、左馬助(畠山)義元家にて一座ありし中に、
霞遠聳
よこのうらに袖をつらねてひく小松みなあまひとも引霞哉
寄木戀
あふことのなとかたからむ岩に松又やとり木もためし有世に
海路遠
いつかわれ竹の泊にあふみ路やそれたに浪はあらき枕に
(下略)
赤字は筆者加点
(図1)「松下集」の連歌と伝説
余呉の連歌
余呉の地名・魚や伝説に関する記述が多くみられる。
(古文書B)「永光寺年代記」(永光寺所蔵)
(延徳)ニ庚戊、能州へ左馬亮(助)殿(畠山義元)御下向、義下(元)御事也
 
(文書C)「江北記」
  根本當方被官之事。
今井。 河毛。 今村。 赤尾。
堀。 安養寺。 三田村。 弓削。
淺井。 小野八郎。 河瀬九郎。 二階堂。
一亂初刻御被官參人衆事。
井口越前 三條  
殿。
淺見 朝日  
殿。
弓削式部。
伊吹彈正 細河
殿。
渡邊。 平田 但一亂
以前
  近年御被官參人衆之事。
東藏 畠山殿。文亀  
二年より

狩野 おくら。明應  
八年より
今井越前。
今井十郎 細川殿。 西野 六角殿。 布施備中。
小足 京衆次御供使仕也。
高宮 京衆次
(下略)
赤字は筆者加点

★余呉町の写真★
余呉町1
↑霞かかる秋の朝の余呉町
余呉町2
↑余呉湖ほとりにある菊姫の「目玉石」
余呉町3
↑余呉町の山々に霞がかかる
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(注釈)
(注1)1394(応永元)年に佐々木京極氏の高詮(導誉の孫)が将軍足利義満から返付安堵されたことからも伺える。
(注2)地蔵院文書では「満則」と表記されている。
(注3)平光知の邸宅に10日に着き、13日には義元の邸宅に着いているので、その短い日程からも、義元の邸宅が余呉にあったと推測できる。

主な参考文献
小和田哲男(編)『戦国大名浅井氏と小谷城』湖北町,1992年
『余呉 歴史文化ガイドブック』余呉町淡海文化推進委員会,1998年
川口成人氏「都鄙関係からみた室町時代政治史の展望」『日本史研究』712号、2021年
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