冨樫研究者が少ない理由は?

(1)冨樫研究の第一人者
 冨樫氏の歴史研究は現在でもほとんど手付かずの状態と言って良いほど進んでいない。多少見られるのは一向一揆研究の立場から晩年の冨樫氏(主に政親)の事が少々触れられる程度であり、冨樫主体で述べられているものは少ない。その中で唯一冨樫主体に研究を進めたのが、冨樫研究の第一人者・舘残翁氏である。氏は戦前の人物で歴史専門家ではない素人ではあるが、膨大な史料と緻密な考察を重ねて冨樫研究を進めていった。その研究成果は、舘氏の生前には公表されることがなかったが、1972(昭和47)年に後世の人々が若干の校正をして舘氏の研究成果を刊行し 『冨樫氏と加賀一向一揆史料』が世に発表されることによって陽の目をみた。その資料は膨大で、まさに冨樫研究の基本となる本である。残念なことに、舘氏以降本格的に学術研究として冨樫研究をする人物はおらず、冨樫氏を中心とした研究書・論文などはほとんど見ない。

 歴代冨樫氏の功績が一般に知られないことを憂いた有志によって。1964(昭和39)年11月3日の文化の日に冨樫氏の偉業を称え伝える団体として「富樫卿奉讃会」が創られた。この団体が中心となり、「富樫祭」の開催や、公民館に冨樫家国増を建立したり、冨樫を称える歌詞が入っている「野々市じょんがら」普及に努め、地元冨樫家の研究を進めようと活動をしている。さらにその成果として『富樫物語』(1977年刊行)、『続・富樫物語 落穂集』(1995年刊行)などの書籍を刊行した。この「富樫卿奉讃会」は2012(平成24)年6月27日に宗教的な意味をもつ「奉讃」という言葉を改訂し、「冨樫氏頌徳会」と名称を改めて活動を継続している。2016(平成28)年には、同会が冨樫家500年の歴史や逸話を漫画で紹介した『八曜の剣 加賀・富樫氏の物語』を刊行した。こうして、研究者は少ないながらも地元の方々の努力によって少しずつ冨樫の歴史が明らかになりつつある。

(2)限られた古文書の数と『官知論』
 なぜ冨樫研究は盛んに行われないのであろうか。歴史研究はほとんどの場合、古文書を集めてその中から推測を重ねて確かなものを導く作業であるといえる。であるから、古文書の量は多くなければ研究自体はかどらない。
 能登でも畠山氏研究が最近までそれほど行われなかった理由の一つとして、上杉謙信の能登侵攻により古文書が焼けた事、上杉領国時代に上杉氏に反乱分子と思われるのが嫌で、畠山氏関連の文書を人々が捨ててしまって資料が少なかったことが原因であると言われる。それは、能登の上杉支配時代の古文書も同じようで、後に能登に入部した織田家臣前田氏への配慮から、能登上杉時代の古文書はかなりの数が処分され、能登上杉時代の様子を扱う研究が少なくなっている。
 これは、同じように加賀の冨樫氏にも当てはまり、一向一揆方への配慮から、かなりの数の冨樫家関連古文書が処分されたと言う。それについて、鏑木勢岐氏は「加賀の守護 富樫一族」(『富樫物語』に所収)にて、こう述べている。加賀の冨樫一族が、987(寛和2)年から始まって1570(元亀元)年にが滅びるまでのおよそ550年の歴史が評価されない理由として、「一向一揆が起こってから、法敵として徹底的にたたきのめされ、そのため後世に恩恵を施した方面のことは全く無視せられています。」としている。冨樫氏の支配は1488(長享2)年の長亨の一揆にて冨樫政親が一向一揆に滅ぼされてからも続くが、加賀を支配した主体は徐々に一向一揆方に移って行くのである。そうしたなか、1531(享禄4)年に起きた亨禄の錯乱で完全に一向一揆の優勢が明かになると、多くの人が冨樫家関連の古文書を廃棄したと考えられ、それゆえ現在にほとんど残されていないのである。

 加賀の歴史において「百姓ノ持チタル国」(注1)になる契機となった「長亨の一揆」も、かなり誤伝されているとも言われている。歴史上有名な事件である長亨の一揆にでも、古文書を含めた史料はかなり少ない。現在知られている長亨の一揆の内容のほとんどは、「官知論」などの後世に刊行された近世史料を元に研究されている。「官知論」はかなり詳細に記してあるが、宗教的読み物の色彩が強いせいもあり、意図的に冨樫家を悪く書いてあることも十分考えられる。したがって、「官知論」は一向一揆側の資料・小説であって当然一向一揆に対する贔屓を前提に、考慮・検討していかなければ本当の事実はわからないのである(「官知論」の記述内容については拙サイト「『官知論』現代語訳」を参照。

(3)最近になってわかってきたこと
 自治体史として『野々市町史』が2003(平成15)年〜2006(平成18)年にかけてシリーズとして刊行され、少ないながらも冨樫の古文書がまとめられ、考察もされてきた。さらに、石川県に関する古文書を網羅的に扱う『加能史料』(注2)も刊行され、古文書としても再考察され、冨樫の研究も進んできた。それゆえ、冨樫氏が一族で対立した「両流相論」(詳しくは「両流相論の時代」を参照)の状況の解析や、冨樫幸千代が加賀守護に就任していた事実などが確認され、従来の二次資料だけではない冨樫氏の歴史が明らかになってきた。それでも1488(長享2)年の長亨の一揆冨樫政親が討たれて以降の当主・冨樫泰高冨樫稙泰冨樫晴貞などの晩年の当主についてはわからない事も多くあったが、冨樫館跡の発掘調査が少しずつではあるが進み、古文書だけではないアプローチもとられるようになってきた結果、16世紀になってからの野々市の町の改変なども明らかになり、冨樫氏の功績も見えてきている。

おわりに
 以上、すでに見てきたように冨樫研究は古文書が少ない、「官知論」にほぼ拠っているといった諸課題があり、舘残翁氏以降なかなか進まなかったが、地元の方々の協力もあり、「冨樫氏の存在」が知られるようになってきたのである。一層の冨樫研究が進むことを願いたい。当サイトが「加賀・冨樫氏の事を知りたい」と思う方の少しでもお役に立てれば幸いである。

(注釈)
(注1)「百姓ノ持チタル国」というのは、後世にかなり誤った認識が持たれている。詳しくは「イメージ専攻「百姓ノ持チタル国」!?」を参照のこと。
(注2)石川県は、県内の古文書を集大成した『加能史料』を主体となって刊行している。その研究結果も『加能史料研究会会報』という雑誌で報告され、加賀・能登の歴史も詳しく研究されている。ここで加賀冨樫氏の研究が徐々に進んでいることは、誠に喜ばしい限りである。

参考文献
富樫奉讃会(編)『富樫物語』北国出版社.1977年

BACK


Copyright:2020 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama