はじめに−本当に「百姓ノ持チタル国」だったのか?−
1488年、加賀で一向一揆が蜂起(長亨の一揆・加賀の一向一揆)し、守護の冨樫政親を打倒し、「百姓ノ持チタル国」が成立した。これは、高校などの日本史の授業で習う事であると思う。しかし、その「百姓ノ持チタル国」というイメージだけが先行し、あたかも加賀では農民自治が数百年間行われたと勘違いする人も多い。そこで、ここではそのイメージを覆すべく、史実の長亨の一揆後の加賀の様子を詳しく見ていきたい。
(1)長亨の一揆と冨樫家のその後
この加賀冨樫家年表を見ていただいてもわかると思うが、1488年の冨樫政親の自害後に一向一揆側は冨樫泰高を守護として擁立している。すなわち、冨樫家は滅亡していないどころか、守護職まで継承しているのである。また、泰高の権力はただの傀儡としての政権ではなく、本願寺や一向一揆と協調して政治を行う実態ある政体であった。例えば、泰高は押領停止の沙汰などを国人に通達しているが、これは守護権によらなければできないので、実効性があるとすれば泰高の守護としての権力があることになるのである(詳しくは冨樫泰高特集参照)。
政親自害後の約40年後の1531年、亨録の錯乱において寺同士の対立が起こり、守護と協調体制をとる三ヵ寺方(小一揆)=と、本願寺の支持を得た藤島超勝寺・和田本覚寺(=大一揆)の争いが起きた。この戦いにおいて冨樫泰高の跡を継いで加賀守護となった冨樫稙泰(泰高嫡孫)は小一揆方として加わって敗北した。本来、守護は国人や寺社の争いを調停する機関であるが、それが一方に味方したということは、それだけ権力を失っているということと思われる。すなわち、泰高時代より徐々に守護としての冨樫家の権威・権力は低下していったものと推測される。しかしそれでも、加賀冨樫家は健在で、天文期になって当主冨樫晴貞の動静が知られる。晴貞政権の支配は大なり小なり一向一揆に規制されたものであったであろうが、一向一揆との協調を維持して1570年までその命脈を保つのである。
(2)一揆の主力は本願寺派だけ?
冨樫政親と冨樫幸千代兄弟が争った文明の一揆や、1475年に起こった政親の宗教弾圧に対する反対一揆でも、その構成は本願寺門徒より真宗三門徒が主力だったと言われている。すなわち、1470年代においては、色々な宗派によって一揆が構成されており本願寺派だけが加賀で絶大な力を持ったのではなかった。最初から本願寺派が強大な力を加賀で持ち他を圧倒していたと考えるのは大きな誤りである。
(3)本願寺政体と一揆衆
実は一向一揆=本願寺ではないのを知ってるだろうか。多くの人は誤解しているかもしれないが、本願寺は一向一揆の指導者に過ぎず、深く一揆を統制する立場にはなかったのである。事実、長亨の一揆で一向一揆勢が冨樫政親を自害に追い込むと、一向宗の教組といえる蓮如は一向宗門徒の行動を非難・叱責したのであるから、一揆の実行犯と本願寺宗派は別物であることがわかる。さらに、一向一揆が加賀を支配した時も、本願寺は一種の大名のような存在で加賀を統治したのであって、農民が共和制のごとく加賀の国政に直接関与したわけではない。これについてはここで語るより、北陸歴史ねっとで展開されたチャット討論会の「北陸と一向宗」で詳しく述べられているので参照して欲しい。
むすびに−イメージ先行の理由は?−
蓮如の十男・実悟の語録のなかに、長亨の一揆後の加賀国について「百姓ノ持チタル国ノヤウニナリ行キ候コトニテ候」と記してある。問題はこの一部表記の「百姓ノ持チタル国」の部分のイメージだけが先走りしてしまったのだ。この原文の意味は、「百姓の持ちたる国みたいであるが違う」というのが本来の意味であると言われる(『クロニック戦国全史』より)。現代人が「百姓ノ持チタル国」に現代的解釈を加え、加賀は百姓が支配した国なのだ、と誤解した事からイメージ先行の「農民共和政体」としての加賀一向一揆という思考が始まるのである。
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