Making of 義綱奮戦記

ここでは、小説における人物像や裏話を書きたいと思います。

(1)小説における人物像

小説における「畠山義綱」の人物像
 小説での義綱はかなり頭の切れるで、且つ優しく人徳のある人物と設定されている。これは、著者のもつ史実の畠山義綱像に近い。幼少の頃より学業にすぐれ、武勇にはイマイチなことを病気がちな事にかけあわせて考えた。少々優柔不断で弱気なところがあり、それを当主となって如何に克服するかが課題として描かれている。後世の書物では義綱を非難する『長家家譜』などで、酒乱などと評されている者もあるが(『長家家譜』は追放した当主・義綱の評を落とすために書かれた)、父義続が万事仕事をして、国政に熱意があるのにできずに酒に走ること、また、能登奪回計画での御舘館での酒宴のエピソードなどを入れることで、そう誤解されかねない要素として描いてみた。能登を追放された後は、能登に固執するしぶとさと自分を慕う仲間と人間関係を中心に描いた。
小説における「飯川光誠」の人物像
 私の小説の中での光誠は、義綱の幼少の頃から守り役となっており、まさに義綱に尽くすという設定となっている。実際に光誠が義綱の幼少の頃に守り役になったという資料はないが、史実でのあくまでも義綱に尽くすその姿勢に、ただならぬものを感じこのような設定となった。史実における伊達政宗と片倉景綱に近い設定を想定した。また、義綱の変化を光誠の言葉を通じて語らせることで、読者にも義綱の成長を実感してもらおうと常に義綱の近くにいる一番の理解者として描かれている。
小説における「温井総貞」の人物像
 義総政権時代の義総の寵臣総貞であるが、義続政権下での七人衆結成・義綱に対する幽閉疑惑(後世の歴史書ゆえ、確実な史実とは言えない)、義綱の総貞暗殺説から、また、東四柳氏の総貞の行動は続光と違って下克上の想を呈しているとの指摘から、小説での総貞を悪役とした。序盤の能登畠山混乱の責任者と、明確な大名家との対立軸としてわかりやすい悪役である。現在、能登天文の内乱に再考の余地があるという指摘(遊佐VS温井ではなく、義続VS温井・遊佐ではないかという説)もあり、史実の解釈変更によってはその一躍を遊佐家が担うこともありそうだと思っている。
小説における「長続連」の人物像
 正義感の強い人物・・・として描きたかったが、弘治の内乱・義綱追放(足利義昭への忠誠)で頑固さが浮きだってしまった。又、義綱追放が影響して正義感の強いイメージが薄れてしまったような気がする。
小説における「遊佐続光」の人物像
 続光は裏切り者のイメージが強いが、小説での続光は冷静に自分の権力を高めるクールなイメージで描いてみた。感情に左右されず、例え自分を救ってくれた人(義綱)であっても、自分の権力低下を招くなら躊躇せずに追放するといった冷徹な面をもつ。史実での続光は何度も主家を裏切るという事で地元から「悪党」というイメージを持たれており、その人物像についてあまり語られないことも多い。主家に取っては続光は確かに一筋縄ではいかない存在だと思う。しかし、大名家が彼を利用し、そして続光も大名家を利用しようとしたことは確かであると思う。そして戦国時代という時代背景を考えると、江戸時代的主家に対する忠義とは別の、権力を高める方法論としてはあるのではないかと筆者は思っている。そのため小説での自身の権力を高める手法は、温井総貞よりかなり柔らかな手段を用い、下剋上とは違った義綱追放劇を描いた。

(2)小説における年齢
 義綱や義続(徳祐)、義慶等の正確な生誕年はわからない。しかし、著者がおよその年代を推測した「義綱仮説」を用いて月日は勝手に決めさせていただいた。

(3)義綱の正室「華」
 義綱の正室は六角義賢の娘とあるが実名はわからない。しかし、義綱が当主となってから、落ちこんでいる義綱を励ます役目などをさせるために、どうしても義綱と会話する必要があり、便宜上名前をつけざるを得なかった。「華」の由来は戦国時代のシミュレーションゲームである「信長の野望・天翔記」を著者が昔にプレーした時、誕生した姫が「華」だった。なんとも安易な決め方であるがなかなか史実に女性の名前がでない以上決めさせていただいた。

(4)領国改革のため秘密裏に組織された「側近会議」
 これの架空の組織である。義綱が単独で領国改革を次々としてしまっては本当に優秀過ぎる人物になってしまい、それならば「なぜ追放された?」や「なぜ天下統一できなかった?」となってしまう。それゆえあくまでも義綱と義綱を慕う者とで進められた領国改革とイメージを持たせたかった為に設定した。さらにそのメンバーの絆が永禄九年の政変で、義綱が追放された後の義綱亡命政権の中枢メンバーになるという効果も狙った。

(5)長谷川信春が書いた「档の襖絵」
 長谷川信春(後の長谷川等伯)との出会いのシーンも架空のものである。最新の研究により、長谷川等伯が描いたとされる「伝武田信玄像」は畠山義続が像主と比定され、また「伝名和長年像」は能登畠山氏の重臣である伊丹氏が像主ではないかと比定されている。そのため、1564(永禄7)年にフィクションではあるが畠山義綱長谷川信春を合わせてみた。1564(永禄7)年という設定にしたのは、この年に長谷川信春の仏画作品が羽咋(石川県口能登)や高岡(富山県)で何品かあるので、この時に畠山義綱の耳にその画力が届いたと設定した。「档(あて)の襖絵」もフィクションです。档とはヒノキ科の常緑樹で石川県の県木であり、石川県独特の造林樹種で、輪島市、穴水町を中心に能登半島で広く造林されている。档は「能登ヒバ」「あすなろ」の名でもよばれ、丈夫なことから輪島塗の材料や建築の材料としても重宝されている。現在、輪島市門前にある档は「元祖アテ」と呼ばれ、一説には奥州藤原秀衡の三男・泉三郎忠衡が1189(文治5)年に欧州平泉から能登に持ってきたものとも言われる。石川県の県木であり、その由来が鎌倉時代であることから襖絵の題材として档とした。これは後に長谷川等伯が水墨画で松を題材にした「松林図屏風」を描いたことに繋げようと意図している。

(6)御舘館集落の住民との触れ合い
 1568(永禄11)年の能登奪回計画における御舘館を拠点にしたというのは、これも想像である。しかし、同年5月3日に御舘館の近くである坪山砦を攻略した事。館が使われた時代は14世紀後半〜15世紀前半までの一次期と、15世紀中頃に再建され幾度かの改修を経て巨大な館が造られた16世紀第3四半期(1550年〜1575年)の二次期に分けられるとされていることから、義綱が拠点として再整備したと想定してみた。また同館には礎石建物はなく掘立柱建物が中心であり、能登奪回計画の間急造で作られた事。1995(平成7)年〜2000(平成12)年にかけて行われた押水町(現・宝達志水町)の教育委員会による発掘調査では、土師器皿、珠洲焼、磁器、木杭、鉄釘、刀子、銅銭などが出土したが、その中でも土師器皿の占める割合が92.4%であったことから、急造の館で酒宴が多く開かれて住民と触れ合っていたと想定して描いてみた。また、この御舘館は大規模な館跡にも関わらず館主の特定する古文書が一切見つかっていない。この史実と符号させるため、義綱(義胤)の指示で文書を廃棄させるというイベントを盛り込んでみた。

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