考えの発端はあの若き歴史ファンに有名な某シミュレーションゲームである。 そこにおいて能登畠山家には、一丁の鉄砲も所有してないことが多い。これは私が今まで見たたくさんの文献の中にも、鉄砲の記述がほとんどないことから、能登畠山家は積極的に鉄砲を使用しなかったと考えられる。しかし、本当に鉄砲を持たなかったのか?またそれはどういう事情なのかということを、筆者の独断と偏見・推察だけで述べてみたい。あくまでも推察なのを御了承願いたい。 |
(1)鉄砲の普及事の能登の情勢
鉄砲伝来は言わずと知れた1543(天文12)年(注1)に伝来したものである。明船が種子島に漂着した際、乗船していたポルトガル人の所有物であった鉄砲が、日本の火縄銃の原形となった。その後、火縄銃は日本人の技術習得能力が早いこともあり、その5年後には種子島、堺などで生産され始めていた。
その当時の能登の情勢はというと、義続政権下で1547(天文16)年押水の合戦が起きたり、徳政令を出したりと甚だ国内は混乱していた。その後も能登国内では大小、多くの戦争がおき、内乱が一段落するのは1560(永禄3)年を待たねばならなかった。1560(永禄3)年までの能登畠山家は、当主権力を傀儡化した畠山七人衆の形成や、遊佐と温井の権力争いで国力を消耗してお
り、高価な鉄砲などに目を向けられなかったと思われる。また、有力重臣・温井総貞は義総の下で京風の文芸に勤しみ、例えば火縄銃一丁よりも百人に
槍を持たせた方がよいと考える典型的な保守的な考えの持ち主であったかもしれない。
戦乱がおさまり、義綱の専制が確立すると、領国再編に目をむけ多少の余力はあったと思うが、義綱の領国再編は守護大名的再編で、保守的な考え方の持ち主かもしれない。また、例え鉄砲があったとしても、当時一般的であった威嚇程度の役割にとどまったのではないであろうか。違う視点では、こうも考えられる。義綱専制は直轄軍を持たなかった(あったとしても小規模)ので、軍関係にはほとんど直接手を出せなかったのではなかろうかということである。
鉄砲は西国では早期に採り入れられた。島津氏も伝来後比較的早期に戦争に使用している。一方で東国での鉄砲使用はだいぶ遅れた。有力大名で元亀期・天正期の武田信玄・上杉謙信といったレベルでも、軍隊における鉄砲所有率は100人に1人という具合で決して多くない。元亀・天正の頃の畠山家では既に政権も末期状態となっていたので、鉄砲の導入など考える余地もなかろう。前述したが、1560-1566年の義綱専制時代は、晩年の畠山家で最後にきらりと光を放った時代であった。それゆえ、鉄砲が東国で一般的に導入される頃には畠山家はほとんどその背景となり得る豊富な経済・国力を有していなかったと言え、鉄砲を積極的に使用できなかった一因となろう。
(2)鉄砲と合戦
合戦での鉄砲を使用した例として、円山梅雪(丸山梅雪)の書伝で七尾市の本行寺蔵「法性院淵圓岸覓山書風傅」の写しの一部に「天正三年(1575)春の此清三郎十四才之時ノ由其節清三郎戦場ニテ鉄砲ニ左ノ股ヲウタレ」とあるように、上杉と能登畠山の争いで、すでに上杉軍が鉄砲を使っていた様子が伺える。
(資料提供:七尾市・本行寺住職・小崎学円様)
能登畠山の鉄砲使用例としては、弘治の内乱において見られる。それは、温井景隆が弘治3(1558)年に築いた鹿島郡鹿島町にある槻木城攻防戦においてである。温井方は七尾城まで攻め上り、福水に陣を張って麻ケ岳、石動山、槻木に城を築いた。その三ケ城は計1800程の兵で守り、畠山方はその諸将の勇敢さに恐れた。しかし、長続連が計略を持ってその山城(槻木城)を銃で撃ち、その守将・狩野筑前を敗死させたという資料である(注2)。これは先に挙げた畠山対上杉の資料より当然古い。後者は架空の伝承である可能性もあるが、以上のふたつのことから、能登でも鉄砲が使われた事実が伺われ、畠山家にまったく鉄砲が無かったわけではないことが証明される。
(3)畠山家は鉄砲を効率的に使ったのか?
☆ミ天神殿から、保守的な大名の典型とされる奥州葛西氏でさえ鉄砲を所持していたので、鉄砲があったかでは無く、鉄砲を効率よく使用したかに論点があるとの御指摘をうけた。まとめを兼ねて畠山家の鉄砲の使用法を考えてみたい。戦国後期の能登では、弘治の内乱・謙信の能登侵攻など度々大きな合戦が起こったが、鉄砲の記述が大きく取り上げられていない。それは、鉄砲を重視した作戦及び戦闘が行われていない証拠である。つまり、当時一般的であったように投石部隊と同じように鉄砲は使用したとしても威嚇程度で、畠山の家中ではそれほど重きをなしていなかった武器と認識されていたと思われる。やはり、有効に鉄砲を合戦に使用するには鉄砲の大量導入が必要不可欠であるといえる。それには、能登畠山家の大名権力(即ち統率力)と、戦乱で経済的疲弊していたために金銭が足りなかったと推測できるのである。
(注釈)
(注1)鉄砲伝来の時期には諸説があるが、ここではテーマと外れるので、深く論じない。
(注2)(共著)『日本城郭体系第7巻』新人物往来社,1980年,417頁
(画像著作は「時のふしあな」鯉塚儀方様)
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