冨樫氏はなぜ加賀守護を3度も奪われたか

はじめに
 加賀冨樫氏は室町時代〜1570年の晴貞期の滅亡まで3度その守護職を他大名に奪われている(注1)。なぜ、せっかく手に入れた守護の座を3度も奪われてしまったのか。そこには冨樫氏と加賀国自体が抱える特有の問題があった。ここでは冨樫氏/加賀国と幕府との関係を中心にこの問題を論じてみたい。

(1)冨樫政権下の加賀国の状況−守護と奉公衆の関係を中心に−

 室町時代〜1570年の冨樫氏滅亡の間に加賀冨樫氏は3度もその守護職を奪われている。すなわち、1度目は冨樫昌家が死去した後の1387年、斯波義種に加賀一国守護を奪われている。2度目は冨樫成春が失脚した直後の1458年、赤松政則に加賀北半国守護を奪われている。3度目は冨樫泰高政権中の1492年、再び赤松政則に加賀北半国守護を奪われている。なぜ、このように冨樫氏は加賀守護(半国守護)を頻繁に他大名に明渡さなければならなかったのだろうか。それでは次に守護補任権を持つ幕府と冨樫家の関係をみていくことにする。
 幕府との関係を考える時、加賀国は政治的介入を受ける多くの要因があった(詳しくは下の図Aを参照)。
 幕府を軍事的・財政的に支える基盤・幕府御料所が加賀国に多数存在し、財源確保のため幕府は加賀への政治介入を常に行っていた(注2)。また、加賀国には多数の将軍直属の被官・奉公衆が存在した(注3)。幕府権力が時代と共に衰退していく中、加賀国で命脈をたもったのは、冨樫政権の脆弱さにあった。冨樫氏は中央政争に巻き込まれ政権が安定せず、15世紀後半以降は常に一族が分裂して争い、さらには斯波氏や赤松氏の加賀守護補任など他大名に守護職を奪われ、円滑な守護領国経営が阻害された。それゆえ、有力国人(守護に従わない奉公衆も含む)勢力伸張の余地が残され国人同士の争いが絶えない状況であった。その調停役を守護である加賀冨樫氏が担っていたが、先に述べたように強力な支配体制を確立し得なかったので、難しい調停政策を迫られた。例えば、冨樫政親政権時には国人同士や荘園領主との利害の調停役を進める一方、自己の権力拡大の為自ら荘園を横領しており、調停機能として期待された守護冨樫氏と、強力な支配体制を固めるための冨樫氏としての立場の矛盾が生じさせた行動を取らざるを得なかった。一般の守護大名は下記図Aに挙げた能登畠山氏のように、権力強化にともなって国内の奉公衆勢力を衰退させたり被官化していったりした。しかし、加賀冨樫氏は領国堅めもこれからという1387年に守護職を奪われており、せっかく築いた基盤もこの間に崩壊し、再び守護に補任された1414年(注4)以降また新たに基盤を構築する羽目になり、冨樫氏の権力強化は大きく遅れをとったのである。

(2)冨樫政権と室町幕府−幕閣の有力者との関係を中心に−

 冨樫氏は室町幕府の中央政争に頻繁に巻き込まれ深刻な影響を被った。それは先に挙げたように加賀が幕府と深い繋がりを有している理由もあるが、他にも冨樫氏の地位(家柄)が幕府内で低かったということが理由にあった。加賀の土着の武士であった冨樫氏は南北長時代、冨樫家当主・高家が室町幕府初代将軍・足利尊氏に属し著しい戦果を挙げた。家柄に拠らず戦功を立てるという形で足利家に尽力し幕府内で地位を得た。しかしこれは裏を返せば一旦将軍と個人的関係が途絶えてしまえば、その功績がフイにされてしまうという危険性を常にはらんでいた。このため、1414年に申次衆で義持に重用された冨樫満成は加賀北半国守護に補任されるが1418年将軍の勘気を受け守護を解任されたというのは、まさに冨樫氏が将軍との個人的関係に左右されている実態を表していると言えよう。また、冨樫氏と管領との関係も同じで、冨樫昌家は時の管領・細川頼之と親しかったが、頼之が管領を降り斯波義将が管領に就任すると、義将は自勢力拡大のため加賀守護を斯波義種に与えてしまうなど、管領の交代が冨樫氏の守護補任に強く影響した(注5)。室町幕府は江戸幕府と違い、中央政府は有力守護大名の連合政権と言える事からも、有力大名との関係が守護補任に多大な影響をもたらしたといえる。幕府の組織体系上、一守護でもその身分を守るためには中央政争に巻き込まれることが不可避の状況を生んでいたと言える。冨樫昌家は権力強化のため細川頼之に接近したのであるが、それが長期的にみれば裏目に出てしまったと言えよう。
 冨樫氏は斯波義種に加賀守護奪われて以後も幕府の有力者・細川氏と関係を保ち、1414年には守護を回復する。以後も管領の交代に冨樫氏が左右される時代が続くが、1414年冨樫満春・冨樫満成が守護に補任されて以来、一時加賀北半国守護を他大名に奪われるということはあったが、常に南半国は冨樫氏が領国を維持した。これは冨樫氏が着々と幕府との関係を構築した成果と言う事ができる。
 ただし、1441年以降の冨樫泰高・冨樫教家によるいわゆる「両流相論」(詳しくは「両流相論」の時代加賀嘉吉文安の内乱を参照)が冨樫氏に影を落としていくことになる。すなわち現守護の冨樫泰高は管領細川氏を後ろ盾とし、前守護の冨樫教家は管領畠山氏(河内畠山氏)を後ろ盾とした。中央政争が冨樫一族の内紛にまで波及した結果、冨樫一族同士の激しい対立をもたらし、領国経営に深刻な影響を与えた。さらにこれは加賀国内の勢力争いのみならず、管領家の加賀への政治介入をも増加させ、一層冨樫政権は不安定になっていった。この結果、嘉吉の乱で没落した赤松一族の赤松政則が後南朝から神璽を奪還した功によって、管領細川勝元より1458(長禄2)年赤松政則が加賀北半国守護補任(注6)されるなど加賀国内は幕府の都合の良いように使われてしまったのである(注7)。この不安定な状況から脱却を図ろうと試みたのが冨樫政親である。政親は積極的に9代将軍・足利義尚に取り入ったり、本願寺派と提携して敵対する冨樫幸千代勢力を追放したりして、冨樫氏の大名権力強化を試みたのである。しかし、不完全な守護権力のままでの将軍への積極的協力や本願寺派の弾圧などが大きな負担となり、その矛盾が一挙に長亨の一揆(1488年)で爆発してしまい、政親は自刃することになったのである。その後、冨樫氏の勢力は著しく減退することになる。

(図A)加賀冨樫氏と能登畠山氏の比較
大名家 加賀冨樫家 能登畠山家
領国の状況 幕府御料所が多数存在。幕府の介入を強く受ける 守護権力増強に伴ない従うものが増えた
国人の状況 将軍直属の奉公衆が国内に多く存在 長氏など畠山家に属さない奉公衆もいたが少数
幕府での地位 足利一門に尽くすも外様の家柄(地位=低) 庶家なれど足利一門(地位=高)
中央の政争 時の管領の政争は守護補任に影響大。
中央政争に振りまわされる。
中央政争に主体的に関与する。

むすびに
 加賀国では多くの幕府御料所と多くの将軍直属奉公衆の存在により、守護大名が強力な支配を築くには不利な状況であった。また、幕府内での冨樫氏の不利な立場も加わり、冨樫氏は3度も加賀守護を奪われるという憂き目にあった。それが結果として冨樫氏の守護権力強化を阻み、国内外において強力な政策を実行することを不可能にさせた。冨樫氏は幕府の有力管領(細川氏)に頼り領国を維持するのに腐心したが、それも中央政争の絡みから一族が分裂するなどして、一層冨樫氏の守護支配を困難にさせた。このような不安定な領国経営が15世紀末に著しくその勢力を減退させた一因であると言えるであろう。

(注釈)
(注1)といっても2度目・3度目は加賀半国守護を奪われているに留まる。
(注2)これは1488年以降本願寺が実質的な加賀国主になってからも変らない。幕府は本願寺勢力と懇意にして幕府御料所の確保や造営料の寄進などをさせている。
(注3)加賀嘉吉文安の内乱(1441年〜1447年)では冨樫泰高軍に将軍直属奉公衆の 摂津満親が味方している。これは満親が冨樫氏の被官化したのではなく、泰高に合力せよという幕府(管領)の命令によって実現したものである。
(注4)1414年冨樫氏は守護を回復したが、 北半国守護として冨樫満成が、南半国守護として 冨樫満春が補任された。半国守護との立場で一国を挙げた強力な支配体制が築けなかった。また、北半国守護となった満成は、幕府の申次衆となっており、幕府内では実力を持っていたが、冨樫一族としては庶流であり、さらには守護補任後も引き続き在京したこともあり、強力な領国支配を展開できたか甚だ疑問である。
(注5)隣国の能登畠山氏の例では、1467年の応仁の乱時に将軍足利義政に敵対して当主・畠山義統が西軍に味方したが守護解任などの動きは見られない。また、能登畠山氏そのものが幕政に深く関与していたゆえ、管領の交代などの中央政争も能登守護補任には影響しなかった。元々足利一門である能登畠山氏に対しては、いかに幕府と言えども簡単に守護を挿げ替えるということはできかったのである。それが冨樫氏ではなし得てしまうのである。
(注6)北半国守護を奪われるというのは冨樫氏にとって痛く苦痛なことである。それは、一国守護の時冨樫氏が本拠を置いた野々市が「北半国」に含まれる為である。加賀の経済の拠点といえる野々市を他大名に奪われたことは冨樫政権にとってもダメージが大きかったものと考えられる。
(注7)もともと赤松政則は加賀守護を欲してたわけではなく、赤松氏の本領播磨が別の勢力が入っていたため、とりあえずの措置として加賀北半国を与えたのである。「とりあえず」で与えられてしまうほど、冨樫氏の幕府内での立場は弱かったといえる。さらには1492年にも冨樫泰高から北半国を取り上げられ、赤松政則にそれを与えている。

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