能登畠山関連NEWS

「『旧松波城庭園』名勝の範囲が拡大」(令和5年12月28日更新)
 2021(令和3)年まで5年間かけて発掘調査が行われていた「旧松波城庭園」は、発掘調査の結果を踏まえ、文部科学省はその名勝の範囲を、庭園跡に加え、屋敷跡や門跡にも拡大することが明らかになった。名勝として指定される面積は従来までの1.6倍の6644uになる。発掘調査では食器や屋敷の礎石なども発見されていた。2021(令和3)年までにその整備の時期が80年ほど遡り15世紀前半に築造されていたとみられたが、さらにその焼け焦げた痕跡から、庭園が室町時代の前期には焼失していたことが分かったという。となると、この庭園は、松波城のものであるというより、荘園領主であった日野氏が造った庭園であるだろうか。
「七尾城は築城初期に曲輪整備か」(令和4年7月25日更新)
 七尾市教育委員会が2020(令和2)年から発掘調査を進めている七尾城跡の「調度丸跡」は、山の斜面を削って、谷を埋めて平野部分を造成したことが分かった。その谷を埋めた土砂から遺物が見つかっていないことから、七尾城が頻繁に使用されるより前に調度丸が整備されていたと言える。また石垣と見られる石も遺構に池状のものが含まれていることから、日本庭園で使用される景石の可能性もあると言う。
「松波城庭園築造は15世紀前半ヵ」(令和4年7月25日更新)
 能登町松波の国名勝である「旧松波城庭園」で能登町教育委員会が行った発掘調査で、庭園の築造年代が80年ほど遡る可能性があることが2021(令和3)年9月22日までにわかった。庭園の周辺に同時期に作られたと見られる土師器などの土器に加え、瀬戸焼・越前焼などの陶器が発掘調査で出土し、その形状から15世紀前半のものである可能性があると言う。すると、周辺の建物群や庭園も15世紀前半に築造が始まっていたと考えられると言う。また建物の近くでは、入口を示すと考えられる、石を敷き詰めた礫敷遺構も見つかっている。能登町教育委員会によると、武家庭園は応仁の乱以降に京都から広まり、戦国時代以前の庭園は少ないと言う。従来松波城の規模や庭園の文化水準から考えて、能登畠山氏の一族である松波氏のものであると考えられてきたが、室町期の遺構となると、室町幕府や将軍・足利家とつながりが強い京都の公家・日野家の影響であることが考えられる。 (情報ソース:令和3年9月23日北國新聞)
「七尾城・高屋敷付近に『シローラボ』完成」(令和3年12月11日更新)
 七尾城では本丸付近まで車で登ることができ、気軽に訪れる国指定史跡スポットとしてして近年の歴史ブームや城ブームで人気が高まっている。また、麓の「七尾城史資料館」から大手道で徒歩で登るルートのために七尾市は「七尾城登山口駐車場」を令和3(2021)年に設け、さらにトイレ設備なども令和4(2022)年にオープンする。一方で徒歩の登城ルートでは駐車場から本丸付近までの2.5kmの間に休憩スペースがなかった。
 そこで80周年の節目を迎えた「七尾城まつり」の記念事業の1つとして地元の矢田郷地区まちづくり協議会が金沢工業大学(野々市市)と共同整備して、令和3(2021)年11月19日に七尾城跡高屋敷付近(登山口駐車場から700mほど)のところに、「シローラボ」という休憩施設を整備した。七尾城の「城」と知ろうという意味と、研究を意味するラボラトリーを合わせ「シローラボ」と言う名前になったそうだ。同所は同協議会が運営し、イベント時や土日祝日に開ける。
 もともと同地は民間の所有地だったが、居住者が亡くなったことで跡地活用のために令和元年に市に寄贈された空き屋があった。そこで市が協議会から借りる形で休憩施設が整備された。金沢工大建築学科の学生でつくる「Toiroプロジェクト」が内装をデザインし、手作りでテーブルやイスを設置した。地元出身の大学生が仕上げた城跡の活用法を提案した模型も展示している。今後は「七尾城まつりのおもてなしの拠点」としてや、「七尾の文化の発信する場」などとして活用が考えられている。
「七尾城・調度丸石垣は能登畠山氏時代のもの」(令和3年7月25日更新)
 七尾城の調度丸発掘調査からすごい事実が公表された。七尾市議会の会議録から、2020(令和2)12月8日会議によると、教育部長の楠利勝さんは「高さ2メートル余りの巨大な石列3基がございますが、これが能登畠山氏の時代のものであっということ。」と述べている。以前より、この3列の石垣は前田氏時代のものか能登畠山氏時代のものか、という論争はあったが、発掘調査によって確認されたということか。正式な発表は2022(令和4)年にも刊行される発掘調査報告書を見なければならないが、これが正式に能登畠山時代の石垣だとすると、16世紀半ばであれほど巨大な石垣を築ける城はそうそうない。これは七尾城のPRに一役買うのではなかろうか。いよいよ、能登畠山氏の時代の遺構を通じて当時の能登の先進性をアピールする時期が来たのかと期待される事態となった。


↑七尾城・調度丸石垣

「時代違う三つの遺構確認 七尾城・調度丸跡の発掘調査」(令和3年1月2日更新)
 石川県七尾市教委が発掘調査を行っている同市の国史跡・七尾城跡の「調度丸(ちょうどまる)跡」で、異なる三つの遺構が地層から確認されたことが分かった。七尾市教育委員会の北林雅康専門員は「調度丸に三つの時代があったことが分かる」とし、戦国時代に畠山氏が城を築いた16世紀前半から前田家が入城し廃城となる同世紀末まで、形を変えながら利用されてきたことをうかがわせる。本年度の調査は12月初めまで行われた。
 発掘調査では約100uの範囲を地表から約1.3メートルの深さまで掘削。地層が三つに分かれていることを確認した。山の岩盤を削り曲輪(くるわ)を造成した下層、石が列のように並んでいる中層、石塁が設置された上層と重なっていた。中層では、整地のために焼け焦げた土を詰めていることから、当時火災があったとみられる。令和2年11月28日にあった発掘調査の結果報告会で、北林専門員は「当時は単純な火事もよく起きていた。ただ戦などの影響の可能性もあり、歴史資料と照らし合わせたい」と語った。今後埋め戻し、9月下旬に始まった調査を終了する。県などと協議した上で来年度も同所を発掘し、今回明らかにできなかったかつての建造物の実態や使われた時期の把握などを目指す。
 畠山義綱の私見としては、中層の火災が焦点であると思われる。七尾城の大規模な火災と言えば、
1550(天文19)年7月に起きた七党の乱で七尾城の書庫も焼けたと言われたほどの火災が起きている。その後、1555(弘治元)年から始まる弘治の内乱がきっかけで、七尾城は防御が強化されることを考えると、下層=義総期の七尾城整備期、中層=義綱期の七尾城強化期、上層=上杉・前田時代という可能性もある。
「義続政権時の幕府からの書状発見」(令和2年9月21日更新)
 室町幕府第12代将軍の足利義晴が能登畠山家8代当主・畠山義続に向けて書状が発見された。書状は御内書の形式を取っているが、花押の部分が署名になっていることから写しや控えだと思われる。石川県内に居住している肩が古書店で入手し、資料活用を望み七尾市へ寄託した。
 畠山義続政権時に起きた戦争と言えば、1547(天文16)年閏7月に起こった押水の合戦と、1550(天文19)年7月に起きた七党の乱がある。どちらも発給文書の8月の日付に近く両方の合戦の可能性が考えられるが、文書の内容を見るに「本意候由」とあり、義続の「本意」になったとするならば、内乱を鎮圧した押水の合戦のことである可能性が高い。現在寄託された新史料は「のと里山里海ミュージアム」で展示されている。(情報ソース:令和2年7月26日北國新聞)
当國及物◇之旨、其聞候條、無心許覚候
■、悉以□本意候由候、尤可然候、
猶晴光(大館晴光)可申候也、
 八月六日 義晴(足利義晴)
  畠山左衛門佐(畠山義続)とのへ
◇=総の字の糸編の無い字
■=PCで表記できない字(とらがしらの部首に、七と必という字)
□=私が新聞記事の漢字を判別出来なかった文字
「大手道の登山口に駐車場整備!」(令和2年8月29日更新)
 七尾城には本丸近くまで車道が整備され、簡単に登城ができる。しかし徒歩で登る登山道には駐車場がなく、車での観光での障害となっていた。そこで2020(令和2)年度に麓から大手道を登る人のために駐車場の整備を七尾市が行うことになった。大手道は前回の発掘調査(令和2年1月6日更新のニュース)から遺構の解明にはならなかったが、将来的には快適に登城できるよう整備の計画もあるという。城に詳しい奈良大学教授・千田嘉博氏によると、現在の「大手道は、戦国時代の面影をとどめていますが、残念ながら幅が少し狭くなっています。ぜひ、当時の規模を部分的にでも復元していただければと願っています。」と述べている。三ノ丸などの大手道を通るとかなり狭いので、これが大手道か・・・と思っていたが、やはり考古学的にももっと広いと想定されていたと知ることができた。これからの整備に期待がもてる。
「ついに・・・ついに念願の七尾城発掘調査開始!」(令和2年5月12日更新)
 令和2年3月の七尾市議会において、不嶋七尾市長が新年度から国内最大級の山城である国史跡「七尾城跡」の中心部の発掘調査に初めて着手すると明らかにした。調査は全体の中心に位置する本丸跡周辺で夏ごろに開始を予定する。中心部には所々にとりでや屋敷が建っていたとみられる平地があり、市は文化庁の担当者や専門家らと協議して建物の遺構が見つかる可能性のある地点をスコップなどで掘削する。結果次第では、将来的な建物の復元も視野に入れるという。
 今までは「国指定史跡」ということで、航空機によるレーザー調査や、能越自動車道建設地における緊急発掘調査など部分的な調査しか行われてこなかった。しかし、近年の城人気を受けて七尾城が七尾市で一番の観光資源であることもわかり、さらなる観光資源として生かす方針になった。市の担当者は「城ができた年や構造などの実態を把握し、観光資源としての魅力を高めたい」と話した。
(情報ソース:2020(令和2)年2月26日 北國新聞
「七尾城大手道発掘調査説明会開催」(令和2年1月6日更新)
 2019年(令和元年)12月21日に七尾城と城下町と結んだ主要道路とされる大手道の位置や構造解明を目指した本年度発掘調査の現地説明会を開かれた。2007(平成19)年に能越自動車道建設に伴う七尾城域の緊急発掘調査において幅3mほどの大手道があった遺構と思われる一対の石組みの側溝が見つかったことで、今回の調査が行われ。今回の調査は、前回の調査から山側に向かった3カ所で行われ、その緩い斜面の途中でいずれも深さ数mほど掘った結果、溝や道路とみられる面、素掘り井戸、石敷き遺構などを確認された。しかし前回のような対となる石組み側溝が確認されず大手道解明とまではならなかった。しかし、この調査で大規模な造成や整地の痕跡が認められ、七尾城下町としての遺構であると推察される。今回の説明会には約40人が参加。市教委スポーツ・文化課の北林雅康専門員(学芸員)が説明にあたった。
(情報ソース:2019(令和元)年12月22日 中日新聞)
「飯田城整備に弾み」(令和2年1月6日更新)
 珠洲市の飯田にある標高50mの通称「城山」にあったとされる飯田城跡。上杉謙信の能登侵攻後、飯田城に畝状竪堀を改修したなどと言われているが、現状は城跡は長年放置されて、倒木や草木がボウボウと茂っていてその遺構を確認できず、訪れる観光客も少ない状況だった。そこで、「珠洲市山城ネットワーク」のメンバーが城跡を訪れ、畝状竪堀の跡を確認した。「珠洲市山城ネットワーク」は地元の高校生などと飯田城に関する意見交換会も同年6月に行われ、城山の入口付近に案内図をを設置する計画も進んでいる。これをきっかけに飯田城跡の発掘整備が進むことが望まれる。
(情報ソース:2018年7月5日 読売新聞)
「【のと里山里海ミュージアム】が10/28(日)開館決定!」(平成30年9月10日更新)
 七尾市にオープンする予定だった「のと里山里海ミュージアム」(七尾博物館と仮称されていたもの)のオープンが10月28日(日)と決定しました。この施設は、「能登立国1300年」を記念して作られる博物館で、石川県の七尾市が一体的となっており、展示内容や情報発信機能も含めて能登を広くアピールするためにオープンするので「七尾博物館」から「のと」という名前を冠するに至ったとのことです。博物館の展示は、『能登の里山里海』であり、能登の豊かな自然環境と地域に根差した風土、風習、文化、歴史などを訪れる方々に広く知ってもらうものにするため、見て読んで学ぶ博物館と異なり、見て、ふれて、楽しく学ぶ「体感ミュージアム」としての施設だそうです。開館日である10月28日には、「能登ふるさと博」と同時開催でオープニングイベントを実施する予定だそうです。今後の展開が楽しみです。
(情報ソース:2018年9月11日 七尾市サイト)
「冷泉為広日記の「万福寺」特定」(平成30年8月9日更新)
 冷泉家6代当主、冷泉為広が能登畠山家7代当主の畠山義総の招きに応じて下向した様子が記されている『為広能州下向日記』。それによると1518(永正15)年に七尾城から信州善光寺を参詣するための船旅の途中で現在の能登町真脇から小木まで歩き再び舟に戻ったとのこと。その徒歩での行程で「峠 万福寺アリ」との記述があり、同寺に立ち寄りその周辺で読んだ和歌3首もある。
 そこで、一般財団法人北國総合研究所(金沢市)の調査事業「能登畠山文化の源流をゆく」の調査団は、万福寺を調査を行った。能登町教育委員会の協力で、市之瀬の山中に向かって寺と神社が一緒に建てられたという伝承があり、調査団が現地を訪れた。すると、山中に木々の少ない平地が750uあったり、建物があった証拠となる土塁が発見されたりした。さらに1907(明治40)年に移築された熊の神社の石碑も見つかり、同地を「万福寺」があった場所と特定した。
 一方で、能登町松波にも「萬福寺」があり、文明年間(15世紀)に松波に移転し、松波城の搦手門が山門として移築されていたが、その「萬福寺」と今回特定された万福寺は何か関係があるのだろうか。(情報ソース:2018年5月20日 北國新聞)
「七尾城の庭園跡初確認」(平成30年8月9日更新)
 一般財団法人北國総合研究所(金沢市)の調査事業「能登畠山文化の源流をゆく」の調査団が七尾城の調査を行っていたところ、本丸跡から北西700mに位置する通称「善谷」で約3000uの平地がある場所で庭石と見られる長さ132cm幅125cm厚さ12cmの泥板岩を確認した。七尾城の石垣には近くの山中や谷筋で取れる火成岩が使われている。調査委員である石川県埋蔵文化財センターの垣内光次郎さんは「泥板岩は周囲の石とは異質感がある。石を見せる空である庭園にに使うために運んできたと理解できる。」と指摘。泥板岩は七尾市中島や能登島の海岸で見られる石である。
 調査委員である七尾市七尾城跡保存活用推進室の善端直室長は「大規模な造営の形跡と本丸を守る位置から、重臣クラスの館跡と考えられる。」と推測。調査委員の一人で東四柳史明金沢学院大学名誉教授は「七尾城で初めて庭とみられる場所が見いだせた。城内には多くの庭があったとみられ、今後の発掘が待たれる。」と語った。(情報ソース:2018年4月16日 北國新聞)
「七尾城本丸東に新たな堀や土塁が判明」(平成30年8月9日更新)
 七尾市は七尾城の調査の一環で2015年度に航空機から七尾城域にレーザを照射する測定を行った。これは、現在国指定史跡で簡単に発掘調査や検証を行うことができず、樹木があることで航空写真では把握できない地形を調査することが目的であった。
 その結果、本丸から約1km離れた場所に、堀をはじめ、尾根を掘り割って敵を防いだ「堀切」、土を盛った堤防状の「土塁」などの遺構が確認された。また現在は展望台のある範囲をカバーする範囲まで堀や土塁が確認された。七尾城下町は城の北西にあり、本丸の東側に城域が広がり、富山県側からの敵の侵入に備えていたり、籠城の際の物資補給ルートとして機能していたと考えられ、七尾市では地権者の協力が得られ次第、指定範囲の追加を行うとのこと。能登の中世史に詳しい東四柳史明氏は「家臣の反乱で、畠山氏が3年ほど籠城した際、この供給ルートが役立ったとみられ、堅固な城を支える生命線となっていたのではないか。」と推測した。(情報ソース:2017年12月4日 北國新聞)
「松波城枯山水庭園整備計画(続報)」(平成30年8月9日更新)
 日本の庭園史上で高い評価を得ている能登町の国名勝「旧松波城庭園」について、2013年に「遺構そのものを整備して展示する」か「レプリカを作って展示する」の2つの案に絞られたとあったが、2015年に能登町教育委員会は「実物を公開する」方針を固めた。町教委は公開後も環境調査を継続して遺構の保護を図ると言う。公開日についてはまだ不明のようだ。能登町は「平成29年度 旧松波城庭園歴史活き活き!史跡等総合活用整備事業建物遺構図作成等業務委託」というものを2017年10月11日に行っているので、まだ少し先のことだと思われる。
「能登畠山文化の調査 等伯生んだ土壌を再評価」(平成28年10月31日更新)
 一般財団法人北國総合研究所(金沢市)の調査事業「能登畠山文化の源流をゆく」がスタートした。戦国時代の七尾で花開いた畠山文化の実像を探る事業で、3年間にわたって多角的な調査・研究が行われる。2010年から5年間実施してきた「長谷川等伯ふるさと調査」に厚みを加えるとともに、等伯を生んだ中世七尾の豊かな文化土壌を再評価する取り組みとして、研究成果に期待したい。
 能登守護の畠山氏が居城を構えた七尾は、能登の政治、経済、文化の中心地として発展を遂げ、戦乱を逃れて京から下向してきた多くの文化人との交流を通じて畠山文化が醸成された。七尾は戦国時代の北陸で最も繁栄した都市と言われるが、広く県民に理解されるまでには至っていないのが実情だろう。
 長谷川等伯ふるさと調査は、七尾が生んだ画聖・等伯の画業に迫ることで、成熟した畠山文化の一端を照射した。それに続く今回の調査事業は、畠山文化の全体像を解き明かそうとする意欲的な試みであり、七尾のみならず能登の歴史に対する認識を共有するうえで大きな意義がある。
 19日に七尾市の山の寺寺院群で行われた初の現地調査では、畠山氏の下で茶の湯文化を育んだ茶人円山梅雪の所有とされる茶器が確認された。京から七尾に下向した文化人が定住していた裏付けが得られたという。
 今後の調査では、寺社に現存する文書や資料を調べるほか、京の文化人を魅了した七尾湾の風景の再評価や、七尾の市街地の形成過程なども研究する。畠山文化に関しては、これまでもさまざまな研究がなされているが、等伯調査と同様、新資料や新事実の発見に期待が膨らむ。
 七尾市は昨年度から七尾城跡の保存管理計画の策定に乗り出し、城の復元も視野に整備を進める方針を示している。昨年12月には、県のいしかわ歴史遺産に「七尾城が語る『能登の戦国都市物語』」が認定された。今回の調査事業を通じて、七尾城や畠山文化に対する関心がさらに高まるよう、県民にも分かりやすい形で研究成果を発信してもらいたい。(情報ソース:2016年9月26日 北國新聞)
「復元CGで七尾城に案内看板を」(平成27年10月14日更新)
 七尾市議会にて教育長が、七尾城に昨年作成された「よみがえる戦国の山城・七尾城」のCG復元グラフィックを生かした画像を含めた案内看板を設置する。「よみがえる戦国の山城・七尾城」は昨年に七尾城跡国指定史跡80周年記念事業として製作されたもの。この活用を考える七尾市は、本丸跡などの数か所に同CGを使った画像付の案内看板を来年度(2016年度中)にも設置するという。
 七尾城は国指定史跡なので、発掘調査なども国の許可が必要であったり、民有地が多かったため、なかなか整備計画が本格化しなかった。しかし七尾市は、2015年度から3年間をかけて「七尾城保存活用計画」を策定する予定。この間には、七尾市博物館(仮称)のオープンもあり、かつてない勢いで、七尾城の整備活用が進んでいる。
「2018年に七尾市博物館(仮称)の完成予定」(平成27年7月11日更新)
 七尾市は、能登立国1300年周年にあたる2018(平成30)年の予定で、能登・七尾を知り、学び、発信するための拠点として「七尾市博物館(仮称)」の完成を目指す。場所は七尾市国分町の能登国分寺跡を含む「能登歴史公園」に隣接する場所に、公園を拡大して一帯整備するとしている。博物館を作る理由として、「博物館基本構想」(平成26年)でこうつづられている。
 課題1 「能登の中心である七尾」について総合的に発信する拠点がない。
 課題2 後世へ資料を伝えるための適切な管理や公開が行われていない。
 課題3 地域の資料を収蔵する施設や観光施設が分散しており、施設間の連携が十分でない。
 課題4 学校教育や市民の学習活動で活用が十分に行われていない。
展示内容は、「能登立国1300年の暮らし(自然、歴史・文化)の価値をふまえ、未来を創造する博物館」の予定として、展示施設のイメージとして、「博物館基本計画」(平成27年)より以下の3つが挙げられている。。
 展示室1「能登の里山里海の全体像」
 展示室2「里山里海と七尾の暮らし」
 展示室3「七尾を学ぶ」
私見でとして、展示内容は、古代〜現代までで自然や暮らしの民俗展示も踏まえると、能登畠山関連や七尾城関連はそんなに多くのスペースを占めるものでは無さそうである。七尾城跡の麓に「七尾城史資料館」もあることから、致し方ないとは思う。また、旧七尾商業高校の武道館に作られた「七尾市文化財資料展示館」(土日休み)がこちらに移設して本格オープンするのではないかと思う。今後の期待が持てるものとして「子どもを含む市民の研究活動ほか、各種連携場となり能登・七尾について深く「究める」拠点となります。」(「博物館基本計画」より)とあり、七尾市議会でも提案のあった「能登畠山氏の研究者不足」を補う役目も担えるのではないかと思う。早期のオープン、そして七尾地域の経済貢献に大いに期待したい。
「2015年夏は七尾城にボランティア常駐!」(平成27年7月11日更新)
 七尾観光ボランティアガイドの「はろうななお」は2015年7月から9月までの3ヶ月間の土日に、七尾城跡に案内所を設けて無料ガイドを始める。能越自動車道の全面開通や城ブームなどもあり、城跡に観光客が急増している。その需要に応えるために初めてのボランティアガイド常駐となる。七尾城の歴史や魅力を伝え、一層の観光客を誘致につなげる。7月4日から常駐がスタートし、土日の午前10時〜午後4時までで、本丸駐車場にテントを設けて「はろうななお」の2人が常駐する。
「七尾城本丸周辺公有地化完了めど」(平成27年7月11日更新)
 七尾市は今年度、国指定史跡の七尾城本丸周辺の約17000uを所有者から購入するために5800万円の予算を計上した。これが実現すると、2011年度から進めてきた本丸修平公有地化が完了することとなる。公有地化のめどがたった事で、市は今年度から3年かけて城跡の保存管理計画を策定し、城の復元整備も視野に入れた史跡整備にむけた本格調査が始まる。その一環として、今年度中に航空レーザー測量を行う。航空レーザー測量は、樹木を取り払った地形の状況を、誤差数センチ以内の高精度で調べられるので、石垣や屋敷跡など城内の遺構がしっかりと把握でき、今後における発掘調査や史跡保存整備に役立てることができるとしている。個人的見解では、復元を視野にと言うが、平成10年にも、「平成20年をめどに復元を視野に入れた公園整備を行う」と言っていたので、なかなか実現は厳しいものがありそうである。
「七尾市公式サイトで七尾城復元CG公開」(平成26年12月1日更新)
 七尾市制施行10周年記念式典と七尾城跡史跡指定80周年記念イベントで公開された「七尾城復元CGイラスト」が七尾市公式サイト「よみがえる戦国の名城(七尾城)」として一般公開された。この公開された動画は、七尾城の中心部だけでなく、七尾城の周辺部である総構えや城郭郡なども扱っており、近年の発掘調査や地勢考察に基づいて復元されている。中心部は詳細な発掘調査がされていないので、想像復元だが、七尾城の広大な敷地とつながりがわかる興味深い資料となっている。
「七尾城復元CGが一般公開される」(平成26年10月8日更新)
 以前にもここで紹介した七尾市制施行10周年記念式典と七尾城跡史跡指定80周年記念イベント(下の8/15更新の項参照)が10月5日に行われた。午前9時30分から始まった七尾城ウォーク(城歩き)には、当初事前申し込みで40名限定だったところ100名を越える応募があり、急遽コースを変更して応募者全員が参加できるコースに変更され、石垣や本丸跡などを見学した。七尾城ウォークには午後の部で参加する春風亭昇太氏と千田嘉博氏も参加した。千田氏は『能登七尾城・加賀金沢城−中世の城・まち・むら−』という本を書いており、七尾城にも造詣が深く、城好きの春風亭昇太氏と共に七尾城に関するトークで大いに参加者を盛り上がらせた。
 午後には七尾 サンライフプラザで、七尾城跡コンピュータグラフィックス(CG)の公開などのイベントが行われ、往年の七尾城を推定復元したコンピューターグラフィックス(CG)が6分ほどの映像で一般初公開された。今回製作されたCGは2014年内に七尾市のホームページ(HP)上で閲覧できるようになると言う。千田氏はイベントの解説で、「七尾城の魅力を一層広めるため調査を進めてほしい」と話し、春風亭昇太氏は「七尾城を全国に知ってもらうには地元の人が七尾城をもっと好きになることが大切だ」と語った。ぜひ能登で随一の観光資源である七尾城を生かしてほしいものである。
「七尾市制施行10周年・七尾城跡史跡指定80周年記念イベントの開催」(平成26年8月15日更新)
 2004(平成16)年に、旧七尾市、田鶴浜町、中島町、能登島町が合併して誕生した新生・七尾市が10月1日で市制施行10周年を迎える。また1934(昭和9)年に七尾城跡が国指定史跡に指定されて80年を迎えたのを同時に記念して市が主催するイベントが2014(平成26)年10月5日に開かれる。城好きで知られる落語家の春風亭昇太氏と城郭研究の第一人者の千田嘉博氏と一緒に七尾城ウォーク(城歩き)や七尾城のCG復元公開などが催される。七尾城ウォーク(城歩き)は申込み制で期限は9月10日まで。<以下にイベントを記す>
★七尾城ウォーク(城歩き):午前9時30分〜午前11時45分(申込み制)
 ※申込み先:〒926-8611 七尾市袖ケ江町イ部25番地 七尾市教育委員会文化課 城あるき係
★七尾市制施行10周年記念式典(七尾サンライフプラザ大ホール):午後1時00分〜
★七尾城跡史跡指定80周年記念イベント(七尾サンライフプラザ大ホール):午後2時00分〜 入場無料(フリー入場)
 ・第1部:春風亭昇太氏による落語会
 ・第2部:七尾城跡コンピュータグラフィックス(CG)の公開(解説:千田嘉博氏)
 ・第3部:記念トーク「城ばなし」(ゲスト:春風亭昇太氏、千田嘉博氏)
「平成26年度10月にも市が七尾城をCG復元!」(平成26年2月20日更新)
 七尾市は2月15日、七尾城国指定史跡指定80周年を受けて、往年の姿をCG復元することを決め、関連費用を300万円を来年度の予算計上した。七尾城は1934(昭和9)年に国の指定史跡となった戦国の五大山城に例えられるほどの大きな城である。しかし、安土桃山時代に廃城になって現在は石垣しかなく、江戸時代の城郭をイメージする観光客にとって往年の姿を想像するには難しかった。七尾市は周辺自治体を合併した新・七尾市になって2014年でちょうど10周年。そこで記念式典を行うと同時に、七尾城の国指定史跡80周年記念式典の目玉としてCG復元が行われることになった。市はCG復元するにあたり七尾城研究家や県外の城郭研究家や有識者が参加する検討組織を立ち上げ、江戸時代後期に書かれた「七尾城址古図」などを参考に360°立体CG復元を行うとしている。これがきっかけで本当の七尾城復元も行われてほしいと切に願う。実際の七尾城復元は国指定史跡100周年に合わせてになるだろうか?
(情報ソース:2014年2月15日 北國新聞)
「能登畠山家重臣・三宅総賢建立の石塔」(平成26年2月20日更新)
 七尾市八幡町の小林耕輝さん宅にある高さ84cm、幅75cm、厚さ28cmの石塔が畠山氏の重臣である三宅総賢の建立したものだと石川県立図書館史料編さん室が1月7日に確認した。同編さん室によると、銘文によると1548(天文17)年に「「禪林宋吉大姉 (ぜんりんそうきつだいし)」という女性を供養するために建てられていたという。ちなみに銘文では「総賢」の名が「総堅」と記されていたという。この時代の石造物は風化などで年代特定自体が難しく、建立者や供養された人が分かるものは少なく、同編さん室は貴重な史料としている。今まで三宅総賢の初見は1553(天文22)年だったが、今回の発見でさかのぼることができる。 
(情報ソース:2014年1月8日 北國新聞)
「松波城枯山水庭園整備計画案」(平成25年8月1日更新)
 名勝旧松波城庭園保存管理計画策定委員会は2013年5月15日に能登町役場内浦庁舎で会合を開き、松波城にある枯山水庭園などの保存管理計画案をまとめた。松波城の枯山水庭園跡は1962(昭和37)年に発見され、1980(昭和55)年の発掘調査で明らかになった渓谷をかたどった石組の間に小石を敷き詰めており流水を表現するのと独自の手法をとる珍しい枯山水庭園である。2006(平成18)年から2010(平成22)年まで再度発掘調査が行われ礎石や柱穴、庭園には使われなかった石が残る土坑などが新たに発見された(詳しくは同ページ下の「松波城跡庭園 構築 16世紀前半か」平成22年9月4日更新を参照)。そこで町ではこの庭園の活用を検討していたが、検討した結果、「遺構そのものを整備して展示する」か「レプリカを作って展示する」の2つの案に絞られた。さらに、2018(平成30)年度までに庭園を含めた松波城址公園の整備完了を目指すことが確認された。
(情報ソース:2013年5月20日 北國新聞)
「七尾城に第2の大手道並みの道が… 」(平成25年8月1日更新)
 七尾市教育委員会が2009(平成21)年度から実施している城全域調査で、尾根の北側斜面を通る「大手道」に対し、南側斜面で石垣が複数発見された。これにより九尺石(高さ1mの巨石)も枡形として用いられた可能性もある。城の南側を走る第2幹線道路は現在の中能登町・羽咋市方面と本丸を結んでいたと推測されている。第2幹線道路が築造された年代は特定できていないが、来年度末までに七尾市教育委員会は調査結果をまとめる方針。
(情報ソース:2013年5月16日 北國新聞)
「七尾城石垣 畠山家時代に組まれたものか? 」(平成24年7月10日更新)
 ◆前田家入城前の可能性◆
 「日本五大山城」にも挙げられる国史跡の七尾城跡の石垣調査を進めている七尾市教委は4日、中間報告を発表した。石垣は山上から山麓(さんろく)まで全域にわたって分布しており、前田家が入城する前の畠山家時代から石垣を組んだ大規模な城だった可能性があることがわかった。
〜*市教委 新たに50カ所確認*〜
 調査は2010年度から七尾城跡石垣調査委員会(委員長=谷内尾(やちお)晋司・石川考古学研究会長)の指導を受けて実施した。報告によると、石垣は新たに約50カ所で確認でき、全域で計約100カ所にのぼることが判明。1人でも運べるような小さな自然石を積んだものと、大型の自然石や巨石を積んだものに大別された。これまで七尾城の石垣は本丸や二の丸辺りに残る石積みの技法から前田氏が築いたと考えられてきた。だが、利家が七尾城にいたのはわずか1年ほど。「畠山氏の段階からすでに石垣が築かれていた可能性も否定できない」(谷内尾委員長)とした。このほか、二の丸周辺では、城へつながる大手道に匹敵する重要な道の跡が続いていることを確認。自然の地形を巧みに利用した造成された平坦(へいたん)面(曲輪)も多数存在していた。
 調査委員の一人、千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)は「畠山氏の七尾城の先進性と壮大な規模が明らかになった。戦国時代から近世移行期にかけての能登の歴史を考えるうえで重要な発見」と指摘している。市教委は今後、城下の状況や全国の山城の事例を比較するなどして石垣の築造時期を絞り、2014年度ごろに報告書にまとめる。
(広津興一)
 七尾城跡 能登国の守護であった畠山氏が16世紀初めごろに築いたとされる。1577年に畠山氏は上杉謙信によって滅ぼされ、81年には前田利家が入城。翌82年に御祓川河口近くの小丸山に新たに城が築かれるまで、能登支配の拠点だった。市街地から南東約5キロの城山(標高約300メートル)にあり、城域の範囲は南北約2・5キロ、東西約0・8キロ、総面積約200ヘクタールとされる。
(2012年7月5日 朝日新聞)
「七尾城跡2.5ヘクタール公有化方針」(平成25年8月1日更新)
 七尾市文化財保護審議会が2012年2月24日に開かれ、そこで七尾市が新たに七尾城跡の二の丸西側2.5ヘクタールの公有化の方針を示した。これは、七尾城整備保存計画に基づく公有化方針であると思われる。また、7代当主畠山義総が公家の山科言継にあてた古文書1点を横浜市の元東大教授の歴史学者岩澤愿彦氏が七尾市に寄贈したことも同会で報告された。
(情報ソース:2012年2月25日 北國新聞)
「石川・七尾城、利家が改修か…石垣、門に痕跡 」(平成24年1月21日更新)
 前田利家(1538〜1599)が一時期本拠地にした能登の七尾城(石川県七尾市)に、金沢城の城作りの原点を示す石垣や門などの遺構が残されていることが、奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)や七尾市教委の調査で明らかになった。謎の多い初期の金沢城を解明する手がかりとして注目される。
 七尾城は、能登国の守護大名だった能登畠山氏が築いた山城。城跡には畠山氏時代の石垣が点在しているが、その後の利家の時代の石垣遺構はこれまで確認されていなかった。市の城跡保存計画の策定委員を務めた千田教授は本丸周辺の石垣に着目。「九尺石(きゅうしゃくいし)」と呼ばれ、畠山氏時代に比較すると大ぶりな石を使用した石垣が、本丸部分を際立たせるための改修の痕跡であることに気づいた。また、本丸の主要な入り口には「枡形門(ますがたもん)」と呼ばれる防備施設が備えられていることも判明した。枡形門は、手前の門を入ると広場があり、奥にも門がある二重構造となっている。防御機能に優れており、織田信長が建立した安土城に酷似していた。この石垣の改修や枡形門の設置は誰が行ったのか。七尾城には1581年に利家が入城している。その後、子の利政が城主となり、不便な山城から、約5キロ離れた港町の小丸山城(七尾市)に能登の拠点を移し、七尾城は1596年頃までに廃城したとされる。千田教授は石垣や門の特徴から、信長直系の武将である利家父子が城の機能を高めるため、当時としては最新の築城技術を駆使して改修に踏み切ったと結論づけた。
 金沢城跡では、この頃のはっきりした石垣遺構は見つかっていない。だが、七尾城から金沢城へ本拠地を移した利家が、七尾城での改修の経験と技術を、創建期の金沢城でも用いた可能性は高い。県金沢城調査研究所の木越隆三副所長は「七尾城はこれまで畠山氏の城という考えが主流で、前田家の城という視点に乏しかった」と研究成果に注目する。千田教授は「七尾城を視点に加えることで、前田家の石垣作りの流れがスムーズに見えてくる」と話している。
 (2012年1月13日 読売新聞)
「七尾城跡からの出土品の半分以上が土師器」(平成25年8月1日更新)
 七尾城址文化事業団の文化講演が七尾サンライフプラザで2011年11月13日行われた。そこで、石川県埋蔵文化財センターの中屋克彦専門員によると、能越自動車道建設に伴う七尾城跡部分の発掘調査で出土品の1割の実測が修了したが、55.3%が土師器だったと講演会で公表した。土師器は素焼きの皿であり、宴席で用いられ一度使われるとケガレとして廃棄された皿である。今回の大量の土師器は、京都から七尾に多くの公家や文化人が訪れ頻繁に宴席を開いた裏づけであるとみられている。
(情報ソース:2011年11月15日 北國新聞)
「七尾城山まつり/等伯展開催 」(平成23年8月27日更新)
「第70回/七尾城山まつり」が開催されます。
■日時/9月17日(土)18:30<前夜祭> /9月18日(日)10:00<本祭> 
■場所/七尾城址本丸跡、本丸駐車場、懐古館周辺など
(問い合わせ)七尾市矢田郷公民館 TEL0767-52-5240

「長谷川等伯展『信春(のぶはる)時代』―等伯のプレリュード」
■日時/会期は9月11日まで。
■場所/石川県立七尾美術館
■内容/等伯の信春(能登)時代の画業をたどる。「日蓮聖人画像」など新発見3点も展示される。
<みなとまち情報・七尾第87号(8月26日)より>
「珠洲に等伯の作 「日蓮聖人画像」27歳ごろ制作か 」(平成22年12月5日更新)
 長谷川等伯が描いたとみられる日蓮の肖像画が、珠洲市正院町、日蓮宗本住寺に伝わっていることが24日までの調査で分かった。27歳ごろの作とみられ、七尾市内の寺院が伝える等伯直筆の日蓮と酷似している。本住寺が所蔵するほかの掛け軸3点も等伯作である可能性があり、奥能登での画聖の足跡を示す貴重な発見となった。
 肖像画は「日蓮聖人画像」で縦77.8センチ、横36.5センチ。ペンライトで画面を隅々まで調べたところ、26歳から40歳ごろまで等伯が使っていた袋型の「信春(のぶはる)」印が、左下に押されていることが分かった。
 調査団員の北春千代・石川県立歴史博物館学芸主幹によると、等伯の印が入り、単独で制作したとみられる作品が新たに確認されるのは、2005(平成17)年に新潟県三条市の本成寺で見つかって以来という。
 北氏は七尾市小島町の実相(じっそう)寺が所蔵する「日蓮画像」(石川県立美術館寄託)と前かがみになった日蓮の姿、机やくつの形などが似ていると指摘し、「実相寺の日蓮は等伯が27歳の時に描いたことがはっきりしている。これに近い時期に制作されたのではないか」と推測した。
 ほかの3点は天蓋(てんがい)(天井の飾り)が描かれた本尊の「曼荼羅(まんだら)」、女神を描いた「鬼子母神十羅刹女像(きしもじんじゅうらせつにょぞう)」、30柱の神々を描いた「三十番神図」。3点とも画面の下部が失われており、等伯の印は確認できなかった。北氏は「筆致から等伯の可能性は大きいが、断定はできない」とした。
 本住寺は戦国時代に正院周辺を支配した宇野石見守(うのいわみのかみ)が1559(永禄2)年に建立している。宇野石見守は能登の大名、畠山家の重臣であった長氏の家臣に当たり、東四柳史明副団長(金沢学院大美術文化学部教授)は「宇野石見守が本住寺の建立後、長氏と関係が深かった等伯に依頼して画像を描かせたのではないか」と伝来の経緯を見立てた。
 日蓮聖人画像などは、檀家(だんか)の法事で使われてきた。本住寺の大句哲正(だいくてっしょう)住職(56)は「びっくりした。一昨年に修復した時、黒ずんだ顔の部分を塗り直してもらおうかとも思ったが、しなくて良かった」と話した。
 長谷川等伯ふるさと調査は、北國新聞社が石川県七尾美術館、七尾市の協力で実施し、のと共栄信用金庫が特別協賛している。
<北國新聞2010/11/25付けより>
「輪島市の姫ケ城跡の再整備」(平成25年8月1日更新)
 輪島市教育委員会は、輪島市三井町渡合の市指定文化財である「姫ケ城跡(ひめがじょうあと)」を再整備する方針を固めた。姫ケ城は、温井氏の本城である天堂城(輪島市)の出城として築かれた。別名渡合城。標高200mの山頂部分に砦を築いたとされ、1556(弘治2)年に長続連によって攻め落とされ、城主の姫が淵に身を投じたという落城伝説がある。市は観光客誘致を目指す観点から、頂上付近に東屋の整備と、道路から同城へ誘導する看板を設置する。
(情報ソース:2010年11月25日 北國新聞)
「国史跡の範囲4倍に 七尾城跡」(平成22年11月27日更新)
 文化審議会(西原鈴子会長)は19日、国史跡に指定されている七尾城跡周辺の20万2495平方メートルを、国史跡に追加指定するよう高木義明文部科学相に答申した。早ければ来年2月にも答申通りに指定される見通しで、国史跡の七尾城跡の面積はおよそ4倍となる。追加指定の場所には建物跡や石垣が多く残っており、一体的な保全で戦国時代最大級の山城跡の価値が高まる。追加指定のため、石川県内の国史跡は24件のまま。
 七尾城跡は、能登守護の畠山氏が16世紀初期に石動山系の尾根筋に築いた山城跡。1576(天正4)年に上杉謙信の侵攻、81年の前田利家の能登入国を経て廃城になったとされる。標高約300メートルにある本丸跡を中心に総石垣造りの郭(くるわ)群や石垣、土塁、出城跡などが東西約1キロ、南北約2・5キロに残される。
 約9万8千平方メートルが1934(昭和9)年に国史跡となったが、このうち約3万3千ヘクタール分で所有者の氏名などの申請漏れがあり、今回の追加指定はミスの修正も含む。答申通りになれば国史跡の指定面積は計26万6169平方メートルとなる。
 追加指定される部分には、安寧寺や番所、長屋敷跡など七尾城を構成した建物跡が含まれている。七尾市教委は「追加指定を機に城跡の保存、活用を進めたい」(文化財課)としている。
<北國新聞2010/11/20付けより>
「御舘館跡発掘調査へ」(平成25年8月1日更新)
 宝達志水町は、県内でも屈指の平地館である「御舘館跡」(おたちかんせき)の国指定史跡昇格を目指し発掘調査を行うため、町の補正予算に調査費7000万円を計上する方針。宝達志水町教育委員会は、石川県文化財課の指導を受けながら発掘調査を進め、一部不明の堀の範囲を確定したいとしている。
(情報ソース:2010年9月7日 北國新聞)
「松波城跡庭園 構築 16世紀前半か」(平成22年9月4日更新)
 平らな小石を敷きつめて水の流れを表現した全国でも珍しい枯れ山水遺構のある松波城跡庭園跡(能登町)を発掘調査していた同町教委は二十日、庭園が十六世紀前半に構築され、同後半以降に消失した可能性が高いことが分かったと発表した。庭園は火災による落城とともに消失したと推測できるという。
 町教委によると、築造年代についてはこれまで「十五世紀後半から十六世紀代」と推定されていた。二〇〇九〜一〇年度の調査で新たに出土した珠洲焼や越前焼の破片などを調べた結果、十六世紀前半に絞られたという。
 さらに、枯れ山水遺構に隣接する建物跡の礎石が熱で赤く焼けていることから、町教委では建物が火災にあったと推定。意図的に庭園のあった場所を埋めた形跡もあり、地層などから十六世紀後半以降に庭園が消失したとみられる。
 火災の時期や原因は不明だが、文献によると一五七七(天正五)年に松波城が落城したとされており、消失時期ともほぼ一致しているという。
 庭園のある平たん面の段階的な造成方法、枯れ山水を構築する景石や平らな小石の配置や種類、建物の規模なども補足調査で判明。庭園の全容がほぼ明らかになり、〇六年度から進めてきた庭園跡の現場調査は今回で終了した。今後は現場から採取した炭化物で年代を詳しく測定する。また、金沢学院大の東四柳史明教授が文献資料を調査している。庭園跡の現地説明会は二十二日午後一時半から。問い合わせは真脇遺跡縄文館=電0768(62)4800=へ。 (中平雄大)
 ◇松波城跡庭園跡◇ 七尾城主畠山義統の三男義智が1474年に松波城を築城し、約100年続いたとされる。庭園跡は1962(昭和37)年に公園整備中に発見され、80年の発掘調査で枯れ山水遺構などが明らかになった。県指定史跡。
<中日新聞2010/08/21付より>
「畠山義綱が『センゴク天正記』7巻に登場するが…」(平成21年11月30日更新)
  講談社から発売されている『センゴク天正記』(ヤンマガKC)第7巻(2009年11月6日発売)に能登畠山家のストーリが掲載されている。「VOL.69七尾城」で、能登畠山家の人物で登場するのは、畠山義綱の他、畠山義春、畠山義慶、畠山春王丸、遊佐続光、長続連である。ストーリ部分はやはりと言うか、上杉謙信の七尾城侵攻にかかる部分である。上杉の能登侵攻に関わるゆえ、永禄九年の政変の事実が過去のエピソードとして触れられている。ただ、畠山義綱は凡庸な人物として描かれているし、作中で勝手に「1576(天正4)年に入水自殺」とされてしまっている。「センゴク」は全国にファンも多いので、ここで史実の「畠山義綱」が誤解されてしまうのではないかと危惧をしてしまう。所詮全国レベルだとこの扱いか…幻滅。畠山義春が義綱の弟として義綱と行動を共にして登場するが、すでに1571(元亀2)年に上条家に養子入りしており、謙信の下で軍役を負担し数々の戦争に参加しているので、漫画はこの時点で史実を反映していない。参考文献を見る限り能登畠山氏の専門書は見当たらず、江戸期に長家の子孫によって作成された軍紀物の書物である『長家家譜』などで描かれている長家中心史観で、ストーリーが構成されているのが残念である。ただ、畠山義慶・春王丸と遊佐続光の描き方はなかなかよいと思われる。畠山義慶が遊佐続光に暗殺される時、義慶は死の直前に長続連を呼び出しこういう台詞を作中で述べている。「遊佐と争うてはならぬ…いま内紛を起こさば、上杉織田いずれかに城を撮られよう。遊佐は奴なりに、七尾城を守ろうとした・・・・が故・・・・父義綱や私ではこの城を守りきれぬ・・・・そう決断したのであろう。我が息子を…頼む。」遊佐続光は上杉と内通して七尾城を開城するが、その後、織田と内通して七尾城を占拠している。遊佐続光の思考を的確に捉えていると言えるであろう。しかし、この作品によりまた、畠山義綱の間違ったイメージが定着してしまわないか不安である。
センゴク天正記7巻
「能登畠山氏の盛衰描く 元教師絵本制作」(平成21年7月21日更新)
  七尾市を拠点に能登一円を約170年間統治した能登畠山氏の盛衰を描いた絵本が出来上がった。絵と文は元中学教師の橋元道彦さん(70)=七尾市飯川町=が担当、小学生にも親しみやすい「マンガチックな絵をこころがけた」という。市教委は絵本を小中学生のふるさと教育に活用する予定だ。
 タイトルは「七つ尾の星たち」で、能登畠山家創立600年事業実行委員会(会長=武元文平市長)が発行した。A4判、横開きのカラー54ページ。1408(応永15)年の畠山満慶(みつのり)による能登畠山家の創設から、京文化を採り入れた畠山文化の開花、上杉謙信による七尾城攻めと1577(天正5)年の滅亡までを描いている。同市教委の善端直(ぜんばなただし)さん(44)は「七尾市が誇る歴史遺産の畠山文化や七尾城を小中学生にもっと知ってもらい、大人にも伝えてもらえたら」と制作の狙いを説明する。
 挿絵などを担当した橋元さんは、教師時代は数学と音楽の教師だった。絵も得意で、この春まで所長を務めていた同市教育研究所では地元の民話を集めた絵本も制作した。
 橋元さんは、金沢学院大の東四柳(ひがしよつやなぎ)史明(ふみあき)教授の資料を元にストーリーを考え、勤務後に深夜まで絵筆をふるって約3カ月かけて描きあげた。「歴史に関する本なので、殿様がいる場所は畳敷きなのか、板間なのかという点などにも気を配った」と苦労を語る。 発行は2千部で、市教委は小学校高学年や中学生用の教材として使う予定。問い合わせは市教委文化財課(0767・53・8437)へ。
<朝日新聞2009/07/16付より>
「七尾城石垣に「台帳」規模や構造、細かく記録へ」(平成21年3月29日更新)
 七尾市教委は新年度、日本五大山城に数えられる七尾城の全容解明に乗り出す。城の構造に関する絵図や古文書がなく、険しい山地に囲まれる同城には、中世の石垣や土塁などこれまで確認されていなかった構造物が現存する可能性が大きいという。新年度には、国史跡である本丸周辺の9・8ヘクタールに残る石垣の「台帳」を作り、城の全体像を把握する。七尾城跡は1934(昭和9)年に国史跡に指定された。しかし本格的な測量調査が行われたのは、能登半島地震で崩壊した石垣の修復の参考とするため、市教委が2007、08年度に行ったのが最初。その際、がけ地や樹木で覆われた山林に未確認の石垣や土塁が数多く残ることが判明したことから、新年度に大規模調査を実施することになった。
 新年度の調査では、市教委職員が国史跡指定範囲内に加え、周囲200ヘクタールとも言われる七尾城全域を踏破し、目視で確認。その上で、石垣などを覆っている草木や土などを取り除き、その大きさや角度、構造などを細かく記録する。土中に構造物が埋まっていることが判明した場合には、レーザー測量機を用いることも検討する。市教委は「国内にも中世の石垣がはっきり残る城跡は少ない。まだ謎が多い七尾城の全容を明らかにし、国、県と連携した保存活動を行いたい」(文化財課)としている。
<北國新聞2009/03/19付朝刊より>
「松波城址庭園跡調査説明会」(平成21年01月01日更新)
 2008(平成20)年12月20日(土)に松波城址庭園跡調査説明会(能登町教育委員会主催)が行われた。松波城跡には室町様式の枯山水庭園がある。この庭園跡は庭園跡は1962(昭和37)年に発見され、1980(昭和55)年の発掘調査で明らかになった。この庭園跡では渓谷をかたどった石組の間に小石を敷き詰めており流水を表している。2007(平成19)年の発掘調査では、礎石や柱穴、庭園には使われなかった石が残る土坑などが新たに発見された。さらに2008(平成20)年にも発掘調査が行われ、その説明会が開催された。
 説明会では1.枯山水の遺構や表現方法の把握したこと。2.遺構西斜面に人為的に泥岩を貼付した痕跡を確認した。3.枯山水(遺構)築造の年代について、来年の詳細な調査を待って結論を得ることになるが、現調査では、凡そ15世紀後半から16世紀代(戦国時代)の可能性が高いとされたこと。4.庭園築造以前に土地利用の痕跡が確認されたこと。 以上が町教育委員会の説明会の要約。(民有『歴史文化』資産の保存活用を考える会のサイトを転載させていただきました)
松波城庭園跡調査説明会1 松波城庭園跡調査説明会2
松波城庭園跡調査説明会3 松波城枯山水庭園(2008)
(クリックすると写真が拡大します)
写真は説明会の様子(写真は民有『歴史文化』資産の保存活用を考える会のご提供のため転載禁止!
「能登畠山家創立600年記念事業の様子」(平成20年12月31日更新)
 畠山満慶が能登一国守護に任命され、能登畠山家が創設されたのが1408(応永15)年である。2008(平成20)年は能登畠山氏創設から600年であり、能登畠山氏の本城があった七尾城のある七尾市ではその記念事業が行われた。その様子については「10周年記念特別企画」にありますので、ご覧ください。
「ふるさと七尾学検定『能登畠山氏・七尾城編』」(平成20年9月19日更新)
 七尾市は10月19日、「ふるさと七尾学検定」第一回目となる「能登畠山氏・七尾城編」を実施する。検定を通して、市民のふるさとへの愛着を高め、地元の魅力の再発掘につなげたい考えで、関係者は「金沢検定に続け」と意気込んでいる。市は受験者を募集している。
 ふるさと七尾学検定は、七尾の習慣や商工業など、毎年ジャンルを変えて出題する。今年は能登畠山氏創立六百年事業の一つとして、同家と七尾城の歴史や現状などについて問う。回答は四択のマークシート方式で、50問中、40問以上正解すれば合格となる。
 今月30日、10月7日には無料講座が予定されており、出席者には解説書と年表が掲載されたテキストも配布される。市文化財課は「七尾の魅力を再発掘するきっかけとして、多くの市民に参加を呼び掛けたい」としている。受験申し込みは無料で、30日まで。問い合わせは市文化財課=0767(53)8437=まで。
<北国新聞9月10日付け>
「七尾市の文化財講座「まちなみ散策」参加者募集」(平成20年9月12日更新)
 七尾市が行う「文化財講座」の参加者を募集案内です。
・募集人数:各回20名程度  ※申し込み多数の場合は、抽選させていただきます。
・平成20年度 七尾市文化財講座
 七尾まちなみ散策
 ★市街地 東部  −寺院めぐり−
  日 時:平成20年10月18日(土) 8:30〜12:00頃
 ★松波(能登町) −松波畠山氏を訪ねて−
  日 時:平成20年11月8日(土) 9:30〜16:30頃
  詳細については、七尾市が行う「文化財講座」のサイトまで。
※申し込み先 : 七尾市教育委員会 文化財課TEL(0767)53-8437
「『史跡七尾城跡保存管理計画書』策定時期について」(平成20年8月27日更新)
 2008年3月に行われた七尾市議会定例会において、七尾城跡に関する発言があったので取り上げる。七尾市議会議員・古田秀雄氏の質問に対して七尾市長・武元氏の答えである。市長の答弁によると、やはり「七尾城跡の調査がまだ十分に進んでいない状況」であると言う。また、能越自動車道の建設が終了してから『史跡七尾城跡保存管理計画書』を作る予定になっているとも発言している。しかし、道路建設予定地の調査からもかなりの遺構と出土品があり、まだ調査にかなり時間がかかると市側は見ているらしい。七尾城の公有化についても、道路建設が終わった後という話で、いずれにしても能越自動車道が完成しないことには、七尾城の保存整備も進まないらしい。
<2008年3月七尾市議会定例会より>
「能登ふるさと博〜能登畠山家創設600年事業〜」(平成20年7月20日更新)
<8月からのイベント>
「能登の史跡展」8月1日〜10月31日→能登国分寺跡展示館
「『七尾城』絵画・写真展」8月1日〜10月31日→七尾市内施設(8月1日〜8月20日→石川県庁ロビー)
「七尾市内発掘速報展」8月1日〜11月30日→七尾市文化財資料展示館(旧七商武道館)
「湯けむり薪能」8月3日(日)16:00〜→和倉温泉湯っ足りパーク特設舞台。鑑賞券A席4000円、B席2000円
「ナイトインサマやたごう」8月23日(土)18:00〜21:00→七尾サンライフプラザ駐車場
<9月からのイベント>
「七尾城まつり」9月13日(土)〜14日(日)→七尾城跡周辺
「七尾城ウォーク」9月14日(日)10:00〜→9:30七尾城跡駐車場集合(ハイキングができる格好で)
「能登畠山氏慰霊法要」9月14日(日)10:00〜→七尾市霊泉寺
「第13回『九月十三夜陣中の作』全国詩吟大会」9月14日(日)9:30〜→七尾サンライフプラザ視聴覚室
「源氏物語千年紀 特別講演」9月19日(金)→七尾市中島町「能登演劇堂」。入場料2000円
「能登国・畠山大談義」9月19日(金)18:00→和倉温泉
「能登畠山氏と文芸の世界展」9月20日(土)〜10月26日(日)→七尾城史資料館・石川県立七尾美術館
<10月からのイベント>
「『能登畠山氏と文芸の世界』記念講演シンポジウム」10月5日(日)14:00〜→七尾サンライフプラザ大ホール
「『中世都市と職人』シンポジウム」10月12日(日)13:30〜→七尾サンライフプラザ視聴覚室
「市民劇団『しんしゃく源氏物語』公演」10月18日(土)19:00開演・10月19日(日)14:00開演→七尾市中島町「能登演劇堂」
「七尾城検定」10月19日(日)10:00〜→七尾市役所
★問い合わせ「能登畠山家創設600年事業実行委員会 事務局」0767-53-8437★
「能登畠山氏と能登の美術」(平成20年5月6日更新)
 石川県立七尾美術館では、能登畠山家創立600年記念事業ということで「能登畠山氏と能登の美術」という企画展を2008年9月20日〜10月26日まで行う。室町・戦国時代の能登を支配した大名である能登畠山氏は、京都の文化を分国能登にまで広げて連歌や茶湯などの「能登畠山文化」が能登に根付きました。この企画展ではその記念事業の一環として、地元伝来の品々及び当館所蔵品・寄託品を中心に、「能登畠山氏の歴史・文化」と「能登の美術」の2テーマで、様々な史料・作品を紹介する。
「能登畠山的青柏祭開催」(平成20年5月6日更新)
 2008(平成20)年は能登畠山家創設から600年だから能登畠山的な行事が色々計画されている。そこで、GW中に開催される日本最大級の山車「でか山」で七尾を練る「青柏祭」でも能登畠山氏に関連するものが登場した。例年各町の「でか山」に飾る人形は歌舞伎などであったが、今年は各町揃えて能登畠山関連の場面が再現された。鍛冶町の「でか山」では、7代当主畠山義総が中心となる「源氏物語七尾栄(ななおのさかえ)」で、源氏物語の場面を義総が想像している場面。魚町の「でか山」では、初代当主畠山満慶が中心となる「七尾城入場」。府中町の「でか山」では、3代当主畠山義統が中心となる「能登府中評定の場」で、義統が在京中(〜1477)に分国能登で起きた事件についての裁いている場面である。5月5日に行われた青柏祭では、「慶祝 能登畠山家創立六〇〇年」の垂れ幕が登場するなど、七尾市街は「能登畠山色」一色に包まれた。
 この「青柏祭」と能登畠山氏との関係は深く、初代当主畠山満慶が、南北朝の争乱で廃れた祭りの復興を画策し、祭りのまん幕に畠山の「三つ柏」の家紋の使用を許可。さらに曳山を奉納する府中町・鍛治町・魚町の税を免除するなど祭りを奨励したと言われる。そして、この三町が能登畠山氏関連の「でか山」を引く、なんともロマンチックなイベントだろうか。これらの人形などはどこかに今後展示されないのだろうか?七尾城史資料館などでの展示を望みたい。
「格好イイ義綱様!」(平成20年4月28日更新)
 かつて歴史SLGにFCソフト「不如帰」を発売したIREMが、新シリーズ「戦国絵札遊戯 不如帰-HOTOTOGISU- 乱」(2008年夏にPSPにて発売予定)を発表した。そのホームページにて(http://www.irem.co.jp/official/hototogisu_ran/)キャラクターイラストが公開されているが、織田信長、上杉謙信らに混じってなぜか「畠山義綱」のイラストが!?超美形男子に描かれている(http://www.irem.co.jp/official/hototogisu_ran/illust/index1.html)。義綱様の格好イイ画像は大歓迎です!
(巣鴨介様情報ありがとうございました!)
「七尾城内庭園を復元!?」(平成20年3月29日更新)
 金沢学院大美術文化学部文化財学科4年の増田誠氏は、同大学での卒業研究発表を「能登畠山の文芸と歴史の風景−冷泉為広『能州下向日記』を中心に−」という題で行った。能登畠山氏7代当主・義総時代に書かれた和歌から、七尾城内にあった庭園を推察しようという試み。増田氏の発表によると、苔むした岩や小島のある池が見える苔庭が広がり、季節の草花が咲いていたとみられる。また、七尾城内の義総邸で詠まれたとみられる和歌には「亀ノ上ノ 山ノ緑モムス苔ノ 巌ヤ姿 庭ノ池水」や花を指す言葉「ヤマトナデシコ」などがみられ、増田氏は「苔庭、池、苔むした巨岩などが土台となった庭園に、室町期の庭園植栽の特色と同じく、様々な植物が見られたようだ」と結論付けた。
 日記に記述された為広への寄贈品にも注目した。タラの塩引きやコノワタ、数の子などの海産物が20品目(全体の46・5%)で最も多く、「黒鶴」など鳥獣類も確認できた。多くは保存のため塩で加工されていたと考えられ、「揚浜式塩田で作られた塩が商品としてだけでなく商品加工にも用いられ、能登の特産品として重宝された」と分析した。このような文芸作品からの中世の景色を復元する試みは珍しいと言われるが、発掘調査が進まない七尾城跡を知るにはこういった手段しかないのが現状である。いち早い発掘調査の開始で、この研究発表が裏付けられるとよいのだが…。
「畠山家600年記念事業の予定」(平成20年2月23日更新)
 畠山満慶が能登一国守護に任命され、能登畠山家が創設されたのが1408(応永15)年である。2008(平成20)年は能登畠山氏創設から600年であり、能登畠山氏の本城があった七尾城のある七尾市ではその記念事業が予定されている。「能登畠山氏と文芸の世界展」、全国の畠山氏、七尾氏を集めた「能登国・畠山大談義」、文芸に造詣の深い畠山義総を題材にした「市民劇団による源氏物語公演」、七尾城や能登畠山氏に関する知識を深める「七尾城検定」などで、2008年秋に行う予定。これを機に能登畠山氏研究の一層の発展を期待したい。
「松波城跡情報館が開館」(平成19年11月28日更新)
 すでに廃線となってしまったのと鉄道能登線・旧松波駅舎跡に、「松波城跡情報館」が開館した。この情報館は能登町の「民有『歴史文化』資産の保存活用を考える会」が計画し、町による地域活性化のための助成金「エンデバーファンド21」を利用したものである。松波城は能登畠山氏の庶流の松波畠山氏の居城とされ、城内に枯山水の庭園が発掘されるなどその文化度の高さで注目されている。しかし、1576(天正4)年に始まった上杉謙信の能登侵略のために古文書などが焼かれており、良質な史料がほとんど残っていない状態である。そんな松波畠山氏が注目されることを願って同情報館がオープンした。情報館の入場は無料。休みは不定休で、平日はAM9:30〜PM5:30まで。土日はPM2:00〜5:30の開館予定。
「狼煙通信が能登縦断」(平成18年9月18日更新)
 9月17日に行われる「七尾城まつり」の前夜祭(北國新聞社後援)で、戦国時代に行われた狼煙を使った通信に見立て、リレー式に花火を打ち上げるイベントが行われた。同イベントでは、1576(天正4)年に上杉謙信が能登半島沖から侵攻したと想定して、午後7時から珠洲市狼煙町、能登町松波、能登町宇出津、穴水町沖波、七尾市能登島佐波の順に花火を打ち上げた。イベントを主催した青壮年協議会の森辰美会長(51)は「どの地点から花火の光が見られるのか楽しみ。毎年、形を変えながら行い前夜祭の名物にしたい」と話した。能登畠山氏研究の第一人者である金沢学院大の東四柳史明教授は「畠山氏が狼煙を使ったという史料はないが、畠山氏と家臣の城を結ぶ催しとしてはおもしろい」と話している。
「松波城跡庭園の発掘調査」(平成19年9月7日更新)
 能登町教育委員会は9月6日、県指定史跡松波城跡庭園跡の礎石建物跡の発掘調査の内容を発表した。それによると、礎石や柱穴、枯山水の造成用に集められたが使われなかったとみられる扁平な石が残る土坑、土師皿などを確認されたと言う。また、新たに見つかった柱穴や礎石から、建物がこれまで考えられていた規模よりも大きいことが分りかった。これら建物が作られた年代は、出土した土師皿から推定して、16世紀後半の可能性が高いとされた。さらに、土坑と庭園の礎石を配置するために掘った穴と同じ面に掘られていることなどから、枯山水もほぼ同時期に造られはじめたのではないかと推測している。松波城庭園跡は1962年に発見され、1980年に発掘調査が行われた。今回の調査は、保全活用を目的に礎石建物跡など約70平方メートルに及んだ。
「温井氏をしのぶ法要」(平成18年07月22日更新)
 七尾市満仁町にある温井氏の館跡とされる通称満仁舘山で、7月17日に温井氏の法要が営まれた。この館は七尾城に温井氏の館が移るまで使われたと言い、現在では館碑などが建っている。1993年に発足した舘山保存会は、毎年温井氏をしのんで法要と、日本舞踊が行われている。
「戦国遺跡初の金るつぼ発掘」(平成18年06月06日更新)
 七尾の城下町跡から2005年度の発掘調査で土つぼが複数出土した。そのつぼを独立行政法人奈良文化財研究所(奈良市)が分析したところ、3点から金が付着していたことがわかった。これらのつぼは金の溶解したために金が付着したと見られている。七尾城下町には刀鍛冶などの工房跡も発掘されていることから、同研究所は能登畠山氏が城下で金を加工していた可能性も指摘している。金の付着するつぼの発掘は、戦国時代の遺構から初であり貴重な資料となる。数々の驚くべき出土品がでてくる七尾城跡と七尾城下町跡。一層の発掘進展を期待したい。
「七尾城本丸跡を地中レーダー探査」(平成17年11月28日更新)
 七尾市と米国の地球物理学者デイーン・グッドマン博士が、11月25日七尾城を考古学的に解明するため本丸跡を地中レーダーで探査した。得られたデーターから、本丸跡には建造物跡らしきもの、15mにわたる石垣跡の遺構、井戸と見られる深さ5mの穴、井戸の東には貯水池跡らしきもの、貯水池からは水路のようなものが15m続いていた。水路の左右には建物の礎石とみられる跡もみられ大きな建造物が想起されると七尾市は会見で発表した。
 七尾城は七尾市街から離れており、なおかつ山城ということで現在でも人為的開発の手をほとんど逃れいる。そのため、発掘調査など考古学的な調査を実施すれば良好な遺構が出てくるとみられている。七尾市も発掘調査・保全計画・史跡整備を計画策定しており、今回の地中レーダー探査もその一環と思われる。昭和9年に早くも国指定史跡に指定され、国内屈指の中世城郭である七尾城を観光資源にしない手はない。大河ドラマから前田利家を七尾市も取り上げ銅像など作ったりしているが、そんなことよりも七尾市にしっかりと根を下ろし生活し、歴史をつくった能登畠山氏の歴史を早く解明してもらいたいものである。七尾城跡の早期の考古学的発掘調査と朝倉・一乗谷遺跡のような史跡整備を望んで止まない。
「七尾城跡に矢田郷公民館が案内板を設置」(平成16年7月25日更新)
 矢田郷公民館が近年旧道を歩いて登る人が増えたので、もっと七尾城を詳しく知ってもらおうと史跡跡に案内板を設置した。「門の高」や「高屋敷」「立石の地蔵」など8箇所に設置した。車の登城だけでは味わえない旧道からの七尾城登城にひとつの色取りを加えた。
「長谷川信春(等伯)の父・宗清(道淨)の作品?」(平成16年7月25日更新)
 悦叟寺(田鶴浜町)蔵の「十六羅漢図」(作者不詳)が、有名な絵師・長谷川信春の養父・長谷川宗清が描いた可能性が高いことがわかった。これは、悦叟寺蔵の「十六羅漢図」が絵が大変すばらしく全国レベルの作品であり、しかも霊泉寺(七尾市)蔵の「十六羅漢図」と非常に構図が似ている点から推察されたものである。この説が正しいとすれば、養父・宗清を尊敬していた信春が悦叟寺蔵の「十六羅漢図」を真似て霊泉寺(七尾市)蔵の「十六羅漢図」を製作したことになり、1点も発見されていない宗清作品の発見と、大発見になる。
 これらの研究成果は、宮島新一著作の『長谷川等伯 : 真にそれぞれの様を写すべし』(ミネルヴァ書房,2003年11月初版)にて詳説している。
「能越自動車道の七尾城跡部分は高架方式で決定」(平成16年2月4日更新)
 国指定史跡・七尾城跡の一部分を通る計画の「能越自動車道」の建設について、国と市・郷土史家がその建設方法について論争を重ねていたが、結果的に該当部分を高架方式で建設することに決まった。橋桁部分のみは遺構が失われる為、事前に発掘調査される。シッケ地区等の以前の調査でも大量に室町期の出土品が発掘された為、今回の事前調査でも多くの遺構・出土品が見つかると推測される。それらの出土品は新たに建設される展示館で展示される見通し。
(関連記事→平成14年5月24日の項、平成10年2月13日の項)
「『新修七尾市史 古代中世編』刊行!」(平成15年7月14日更新)
 七尾市史編さん専門委員会が編集している新修七尾市史の最新刊が刊行された。今回は「古代中世編」ということで、能登畠山氏にも十分関係するものである。全562頁で定価は5000円。購入などの問い合わせは、七尾市史編さん室TEL 0767−53−8447まで。
「七尾城下町の旧道調査に着手」(平成15年2月28日更新)
 七尾市教委は新年度、文化庁などの支援を得て七尾城の城下町があった同市古城町と古屋敷町で、旧道の発掘調査に着手する。本丸跡に続く「大手道」の一部と城下町の玄関口に当たる通称「門(もん)の高(たか)」発掘は終えているが、今回の調査で「大手道」に十字に交わる旧道の構造などが分かれば、畠山治世下の城下町の全体像把握の推定が進み、国の史跡指定エリアの拡大や史跡保存整備への足掛かりとなる。
<「北国新聞」より>
「第41回長谷部まつり」(平成15年7月14日更新)
 能登畠山家の重鎮・長家の祭りが7月20日(日)穴水で開催される。能登長家の祖にして穴水城主として1186年入城した長谷部信連を主人公とする祭りである。昼は武者行列、夜は穴水湾内で 屋型舟や灯篭流しなども行われる。今年は能登空港開港記念ということもあり、全国の長谷部さん・長さん交流会も行われる。
「一粒のともしび『金蔵万燈会(まんとうえ)開催』」(平成15年7月14日更新)
 平成15年8月16日(土)、輪島市町野町金蔵で全村焼き打ちをしのぶ万燈会(まんとうえ)「一粒のともしび」(金蔵学校主催、北國新聞後援)が今年も催される。午後5時から金蔵の5ヶ寺を結ぶ沿道で昨年の3倍もの数の15000個ものろうそくの灯火が点灯する。また、演出として琴の演奏虚無僧流し、書や器の展示、お茶の振る舞いなども行われる。
 →全村焼き打ちについての詳細は能登畠山家の治世下の逸話・伝説参照
「初公開!長谷川等伯が信春時代の作品『陳希夷睡図』」(平成15年1月4日更新)<七尾美術館承認済>
 能登畠山家の文化を享受した長谷川信春(等伯)の作品「陳希夷睡図」が七尾美術館で特別展示として公開される。七尾美術館では以前より長谷川信春関連の作品を展示しているが、同作品の公開は初公開ということもあり、かなり注目されている。会期は1月4日(土)から2月23日(日)までで、美術館の第1・第2展示室で展示される。
○七尾美術館のデータ
 休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日休館)
 開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
 観覧料 一般350円 大高生280円 中学生以下無料
 問い合わせ 七尾美術館 TEL 0767−53−1500(http://www.city.nanao.ishikawa.jp/nanabi/
「輪島市町野町金蔵で、全村焼き打ちをしのぶ5000個の灯」(平成14年8月22日更新)<金蔵学校承認済>
 さる平成14年8月16日の夜、輪島市町野町金蔵で、万燈会(まんとうえ)「一粒のともしび」(金蔵学校主催、北國新聞後援)が催された。金蔵では、「上杉謙信に全村焼き打ちされた」という言い伝えが残っていた。しかし、郷土史家の井池光夫氏らによって、寺領を背景に年貢を納めなかった事により、1527(大永7)年畠山氏によって全村の焼き打ちが行われたという見方が定着しつつある。その特異な歴史は最近になり民俗学者などから注目されているらしい。万灯会では、この時亡くなった先人を供養するための催しで、金蔵の五ヵ寺を中心に5000個の蝋燭が山里に灯された。他にも、琴や竜笛、尺八などの演奏も行われた。この催しは、過疎化が進む金蔵地区の活性化を図る有志27人が発足させた「金蔵学校」を中心に行われている。金蔵学校では、この催しを来年以降も続ける見通しだ。また、郷土史家の井池氏により、金蔵集落史の編纂の準備も進められている。一層の金蔵郷土史の発展に期待したい。
 →全村焼き打ちについての詳細は能登畠山家の治世下の逸話・伝説参照
第61回七尾城まつり(平成14年8月22日更新)
<主催/七尾城まつり実行委員会 共催/七尾市・七尾市教育委員会>
 毎年恒例の「七尾城まつり」が七尾城址にて今年も開催される。同まつりは、能登で文化的隆盛を迎えた能登畠山文化をしのぶため、毎年地元有志で開催されている。七尾城史資料館の無料開放、皇風流煎茶席、戦国餅つき大会や上杉謙信の詩にちなんだ九月十三夜全国詩吟大会が本丸跡で行われるなど多彩な内容のまつりである。また、来城者には「城山汁」が振る舞われる。
平成14年度は、9月14日(土)〜9月15日(日)に開催される。
→お問い合わせ「七尾城まつり実行委員会」TEL0767-52-5240
七尾城跡の物見塚に縦堀の跡を確認(平成14年7月2日更新)
七尾城の主郭から東にかなり離れたところにある物見塚跡に10本越す縦堀跡が確認された。物見塚は下記平成14年5月24日の項にある「七尾城跡保存管理計画」で拡大史跡に認定しようとしている区域である。
「七尾城跡の保存管理計画が方針に盛り込まれる」(平成14年5月24日更新)
 「畠山関連NEWS」の平成10年8月19日の項でもお伝えしているよう、七尾市教育委員会は、七尾城の保存管理計画の策定を決定した。城内の屋敷や石垣など一部を復元したり、小京都と呼ばれる程の繁栄をみせた城下を再現する。また、国指定史跡である七尾城跡の保存のため、新たに広大な地域を史跡指定候補として追加する模様。日本で五大山城に例えられ、また貴重な遺構がほとんど残されている七尾城も、現在は、本丸跡と自動車登城道路以外はほとんど整備されておらず、この復元・整備で長期保存と観光客増加を目論む。
 整備計画の目玉は、七尾城跡資料館の改装、能越自動車道高架下に遺構の展示施設の建設である。能越自動車道はそのルートが七尾城史跡部分を通行するので、史跡の破壊であると歴史家・郷土史家からルートの変更を求めていた。しかし、国と市がルートの変更に難色を示し、道路の高架化、該当部分の遺構調査をすることで、却下した経緯がある(平成10年2月13日の「畠山関連NEWS」参照)。今回、展示場を同地域に建設するのは、その批判を避けるためかもしれない。いづれにしろ、国内最大級の史跡を早いうちに整備してもらいたいものである。
「弘治三年の義綱安堵状原本確認」(平成14年4月13日更新)<情報ソース:北國新聞平成14年1月13日>
 今まで写しでしか確認されていなかった、畠山義綱の弘治三年発給の安堵状の原本が、穴水町立歴史民俗資料館の未整理古文書から確認された。また、畠山家滅亡後〜前田利家の能登支配の間の長連龍の手形などの新資料も発見された。
「第60回七尾城まつり」(平成13年9月更新)
<主催/七尾城まつり実行委員会 共催/七尾市・七尾市教育委員会>
毎年恒例の「七尾城まつり」が七尾城址にて今年も開催された。同まつりは、能登で文化的隆盛を迎えた能登畠山文化をしのぶため、毎年地元有志で開催されている。恒例の上杉謙信の詩にちなんだ九月十三夜全国詩吟大会や七尾城史資料館の無料開放、皇風流煎茶席など多彩な内容のまつりである。この年は9月15日(土)〜9月16日(日)に開催された。
「義慶直筆礼状を確認」(平成13年3月19日更新)<常福寺承認済>
 能登の常福寺で、義綱の嫡男で能登畠山氏10代当主とみられる畠山義慶の発給文書が金沢学院大学教授東四柳史明氏らによって確認された。同文書は戦前の石川県郷土史研究第一人者の日置謙が、史料集「加能古文書」に記載していたが、常福寺で確認された事によって、その存在が明かとなった。
「『七尾学梅雪会』を旗揚げ」(平成12年11月23日更新)<本行寺承認済み>
 能登畠山家臣で、風流の士であった丸山梅雪にゆかりの深い能登本行寺の小崎学円住職が中心となり、約10人が中心となって「七尾学梅雪会」を旗揚げした。小崎住職は「円山梅雪」というHPを開設し、丸山梅雪の文化的功績を知ってもらおうと奮戦している。来年のNHK大河ドラマに「利家とまつ」で前田家がクローズアップされているなか、小崎住職はもっと畠山氏や丸山梅雪を知ってもらおうとこの会を旗揚げしたのである。同会は定期的に勉強会を開いたり、観光客の案内などもする。
「七尾学梅雪会」の詳細情報は「http://www.七尾学.jp.io
「第59回七尾城まつり」(平成12年7月31日更新)
<主催/七尾城まつり実行委員会 共催/七尾市・七尾市教育委員会>
 平成12年9月16日(土)〜同年9月17日(日)にかけて七尾城址にて七尾城まつりが今年も開催される。能登で文化的隆盛を迎えた能登畠山文化をしのぶため、毎年地元有志で開催される。恒例の上杉謙信の詩にちなんだ九月十三夜全国詩吟大会や七尾城史資料館の無料開放、皇風流煎茶席など多彩な内容のまつりである。
「七尾城史資料館の展示替え」(平成12年4月9日更新)<情報ソース:広報ななおNo.739>
 能登畠山氏の唯一の展示資料館の七尾城史資料館が展示替えを行った。城戸門を表した新しい門の設置や、七尾城下のイラスト、遊佐屋敷から出土した如来立像などがある。これを機会にまた三度目の入館をしたいと思う義綱であった。
「新修七尾市史発刊予定」(平成12年3月13日更新)<情報ソース:七尾市ホームページ>
 七尾市のホームページによると、四半世紀ぶりに七尾市史が書き下ろされる事が明かになった。
その内容としてと発刊予定年は以下の通り。
「畠山氏の連歌懐紙が(石川)県有形文化財に指定」(平成12年3月12日更新)
 畠山家3代当主・義統が七尾で開いた連歌会で詠まれた歌を書いた「賦何船連歌」、7代当主・義総が七尾城で開いた連歌会で詠まれた歌を書いた「賦何人連歌」(それぞれ、県立七尾美術館所蔵)が県文化財保護審議会で県の有形文化財に指定された。これにより一層の能登畠山氏の文芸の高さが認知されるだろうか。
「長谷川等伯の肖像画について続報」(平成12年2月6日更新)
 以前、このコンテンツにおいて、武田信玄の肖像画が実は畠山義総の肖像画であった(『石川考古』246号より)ことを伝えたが、平成12年2月6日の朝日新聞では畠山義続という説が展開されていた。これによると、石川考古で畠山義総であるとする理由の家紋が畠山家の家紋であると言う他に、信玄の肖像画として考えると、肺結核を病んでいたにしては太りすぎているなどの理由が挙げられていた。しかし一方で、平成6年7月31日の同新聞によると山梨県の信玄の地元では信玄の肖像画であるという声が根強いこともわかった。信玄の地元の反発理由としては、この肖像画以外の信玄像は考えようがないという理由と、持明院所蔵の信玄像に耳や目の形が似ているという郷土史家の共通意見があるらしい。
詳細情報はこちらのコンテンツにあります。
「第58回七尾城まつり」(平成11年9月9日更新)
<主催/七尾城まつり実行委員会 共催/七尾市・七尾市教育委員会>
七尾城跡を主会場に平成11年9月18日(土)〜19日(日)「七尾城まつり」が開催されます。18日にはパーレドが催され、市内を回り祭り開催を告げます。当日は、本丸跡で餅つき や全国詩吟大会が行われ、城山展望台で食事のサービスや演舞の披露などが行われます。また、ふもとの懐古館(七尾城史資料館隣接)では茶会・古木市などが催されます。(JR七尾駅〜城跡間[臨時バス有り])
「玉尾(たまお)城は多茂(たもう)城だった!」(平成11年9月4日更新)<情報提供者:畝源三郎殿>
 詳しい記事はこちら(畠山関連ネタの御投稿
「七尾市史を読む会」(平成11年9月9日更新)<情報ソース:「広報ななお」>
七尾市史を読む会(無料) 〜能登の中世史をみてみよう〜
10月1日(金)「七尾の地頭御家人」:講師金沢大学文学部教授・東四柳史明氏
10月8日(金)「建内記」にみる能登畠山氏:講師石川県立図書館・伊藤克江氏
10月15日(金)中世における能登の真宗:講師石川県立図書館史料編纂室・木越祐枯馨氏
10月22日(金)七尾城と上杉謙信:講師石川県立図書館史料編纂室・瀬戸薫氏
10月29日(金)信春(等伯)の上洛と達磨図・講師七尾市史編纂室・田川捷一氏
場所:七尾サンライフプラザ視聴覚教室 時間はいずれも午後7時から8時半まで
(問合わせ) 七尾市史委員会文化課(0767)53-8437 七尾市史編纂室(0767)53-8477
「歴史シミュレーション・ゲーム for Win[1]」書籍(ムック)発売 (平成11年4月19日更新)<工学社承諾済>
書籍名:「歴史シミュレーション・ゲーム for Win[1]」
値段:1,900円、発売元:(株)工学社
三國志internetや、大航海時代、太閤立志伝、信長の野望 烈風伝など、時代やゲームメーカーを限定せずに、古代から戦国時代を題材としたシミュレーション・ゲームの紹介がメイン。それぞれの歴史背景から人物像、その予備知識まで、多角的に紹介してくれる。なんとそれらバックボーンの執筆陣は、歴史コンテンツを開設しているWeb Master達。 鮮度のいい歴史情報とゲーム情報、付属のCD−ROM(Win版)で体験版も。発売は5月20日、書店にて。
能登畠山的見所は・・・私が2P執筆しております。
「七尾市観光協会観光講座開催」(平成11年2月5日更新)<情報ソース:「広報ななお」No.724>
講座場所:七尾サンライフプラザ
時間:PM7:00〜(無料)
申込締切:平成11年2月18日(木)
お申し込み・お問い合わせ:七尾市役所商工観光課(0767)53-8424
第1回(2月15日)「前田家と小丸山城」 講師:七尾市史編纂専門委員 中川寛先生
第2回(3月4日)「桃山美術の巨匠長谷川等伯」 講師:七尾市史編纂専門委員 田川捷一先生
第3回(3月11日)「七尾の文学碑」 講師:七尾市立図書館長 島崎善信先生
第4回(3月18日)「七尾城と円山梅雪」 講師:郷土史家 野村昭子先生
○七尾の郷土史が深く学べそうですね。私も行きたい!!
「能登ゆかりの作品展開催中」(平成11年2月5日更新)<情報ソース:「広報ななお」No.724>
場所:石川県七尾美術館
日時:平成11年3月7日(日)まで
料金:大人500円、大高生400円、中学生以下無料
お問い合わせ:(0767)53-1500
現在「能登やきもの」コーナーを展示中
「七尾城物語ビデオ発売」(平成11年1月8日更新)<七尾市文化協会承諾済>
 平成10年11月22日に七尾サンライフプラザ文化ホールで行われた第4回ザ・シーサイド・マンヨー七尾、中能登舞台音楽劇「七尾城物語」の講演がビデオ化されます。第一部は「等伯物語」第二部は「七尾城物語」を収録しています。特に第二部の七尾城物語は畠山家の混乱期を中心に描いているそうです。まさに、能登畠山氏の歴史を目で見るうってつけのものといえましょう。
お申し込み期間:平成11年2月まで
ビデオ価格:¥3,000(郵送料:¥400程)
お申し込み先:七尾市文化協会 TEL(0767)53-0596
「七尾城跡公園整備化計画」(平成10年8月19日)<七尾市役所承諾済>
 現在は石碑と神社があるのみで寂れている七尾城跡。そんな七尾城跡が平成20年をめどに公園整備化が進められています。もちろん七尾城復元を視野にという話です。
現在計画は財政の都合もあって(あれだけ大きい七尾城を整備するのは膨大な費用がかかりますよね)細々と計画を進めている段階だそうですが、七尾城が復元する日を夢みて待ち続けましょう。
「七尾市で畠山氏のシンポジウム開かれる」(平成10年2月22日)<情報ソース:『石川考古』246号>
 七尾市で『七尾城と城下町』−能登畠山氏の町づくり−のシンポジウムが開かれた。そこで衝撃の事実が発覚!なんと長谷川等伯が描いた武田信玄の肖像画(頭の毛は薄く髭がある武将、後ろに刀がある)が近年の研究で刀の紋章から畠山義総であることが明らかになった!義総の肖像画は出家後のものはあったが現役時代のものが見つかったのは、能登畠山家では初めて。私は、この肖像画を武田信玄だとして教科書で習った記憶がある!


これが義総の肖像画だ!(武田信玄とされていた畠山義総の肖像画)
詳細情報はこちらのコンテンツにあります。

「七尾城跡に自動車道路建設」(平成10年2月13日)
 建設予定の能越自動車道路のルートの一部が七尾城跡の範囲の一部にかかっている。そこで約1qにわたる区間が発掘調査されることになった。当初、石川考古学研究会などは歴史遺産保存の観点からルートの変更を求めていたが、国と市が難色を示し、ルートにかかる部分の発掘調査をするということになった。また、自動車道も高架にするなど出来る限り保存に配慮するなど柔軟な対応を見せた。
「七尾城下町で大手道が見つかる」(平成10年)
 1991年から始められている七尾市教育委員会の七尾城下町の発掘調査のうち、1995年〜1998年度の調査で、幅5、6メートルの大手道や「門の高」の礎石らしい遺構が見つかった。

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