幕府・朝廷との外交関係


<室町幕府との外交関係>

 能登畠山家初代当主満慶は畠山満家の前の畠山宗家当主であり、庶家となっても幕閣での地位は衰えなかった(詳しくは畠山家の出自・能登畠山家のおこり参照)。3代義統が1477(文明9)年に分国能登に下向するまで、歴代当主は在京し、幕府によく仕えた。初代満慶・2代義忠・3代義統は幕閣の最高権力グループ御相伴衆に列し、義統に至っては管領にも就任したと言われている。また、義忠は満慶存命中の1429(永享元)年に6代将軍の足利義教の元服の際に理髪役を務めるなど、将軍家からの信頼が相当厚かったようである。
 しかし、畠山義統応仁の乱において、西軍に属すると東軍に属する8代将軍・足利義政の勘気を買った。1467年には将軍義政より東軍に誘われるが、義統はそれも拒否し一貫して西軍に属した。これは、義統の弟・政国が西軍の主将・畠山義就の猶子になっていた為と言う。結局乱の勝敗は東軍優勢だが決着のつかないまま終わり、義統は1477ねん荒廃した京都を見限り分国能登へ下向した。義政の後、9代将軍となったのは、東軍に属していた義政の子・義尚であるので、義統は能登に戻ってからも幕府との関係改善に主眼を置き、積極的に贈答品を贈るなどした。贈答品としては富山湾で獲れた鰤や輪島の素麺などがある。また、1488(長享2)年には隣国加賀で冨樫政親が一向一揆に包囲されると、将軍義尚から義統にも援軍を出すようにと命令され、実際に援軍を派遣している事からも義統の幕府に対する気遣いが伺われる。
 4代当主・義元は10代将軍義材(後の義稙)が「明応の政変」で越中に亡命し、京都では11代将軍義澄が擁立されると、越中の義材の下に馳せ参じ義稙を支持を表明した。同様に北陸勢では加賀・冨樫泰高や若狭武田なども支援を表明したが、義材に対して能登畠山家を含む北陸勢は軍事支援まではしていなかった。すなわち、11代将軍・足利義澄との両天秤外交をしていた。しかし、1508(永正5)年に義稙が義澄方を退けて京都に復帰すると、細川高国、大内義興、畠山尚順らとともに畠山義元は幕閣の中枢の一人となった。
 7代当主・義総は家督継承以前まで京都に在住していて、御相伴衆に列するなど地位も高かった。義総は幕府に非常に好意的で年始の贈り物をよく贈ったり(贈り物の内容は人物特集畠山義総参照)、幕府から諸大名に触れていた金納に積極的に応じている。このため、幕府内談衆の大館常興の仲介で、管領に準ずる地位となる「道服」の着用免許を受けるなど、能登畠山家の威信は最高潮であった。その影響は8代義続の頃の前半も続き、12代将軍が細川晴元や六角定頼との関係に苦慮すると、縁戚である能登畠山にも上洛を求めるなど頻繁に書状のやりとりが見られる。
 しかし、1547(天文16)年から9代当主・畠山義綱弘治の内乱を鎮圧する1560(永禄3)年までは幕府関係の書簡が見えない。将軍家も1553(天文22)年に反幕府勢力の三好長慶が上洛し、将軍・義輝が1558(永禄元)年まで近江に在国し政権が不安定であったことも理由の一つである。1554(天文23)年に、河内守護代である安見宗房が能登国に使者を送る際、本願寺に路地の安全に関して謝していたことが、「天文日記」の天文23年6月9日の条に記されている。尾州畠山氏の当主である畠山高政はこの頃、足利義輝と行動を共にしている。将軍家と行動を共にする河内畠山家との交渉は、能登畠山家を間接的につなげる使者であったと思われる。
 そして、1561(永禄4)年に、内乱を鎮圧した義綱が専制支配を確立させると、早速その年より将軍家への年始の贈り物が復活した。これは先例の踏襲ということもあるが、義綱が将軍家の権威を積極的に利用し、大名権力の威信回復を図ったとも言える。その成果もあって、義綱は足利義輝政権で「他国衆」(『戦国史事典』より、ただし他国衆がどのような役職であるかは調査中)に列したと言う。1565(永禄8)年、13代将軍・足利義輝が松永久秀に暗殺されて、義輝の弟・義秋(義昭)が北陸に来て幕府再興を計画すると、義綱にも御内書が下され協力を求められた。これは、義秋が能登畠山家を信頼し頼りにしていたことによろう(他にも義秋は若狭武田・朝倉・越後長尾にも協力を求めている)。1566(永禄9)年、永禄九年の政変によって義綱が家臣に追放されると、近江に亡命した義綱が15代将軍・足利義昭と交渉を持っていたため、能登の義慶政権は将軍家と交渉をせず、朝廷権力にすがるようになる。こうして1566(永禄9)年以降、能登畠山氏は将軍家との繋がりを弱め1573(天正元)年の室町幕府の滅亡を迎えた。
 さて、幕府と大名との間には将軍に仲介する「大名別申次」役が各々いたとされる(注1)。山田康弘氏は、将軍−足利義晴:畠山義総の時代(天文年間)に能登畠山家担当の「大名別申次」として、大館常興の存在していたと指摘している。事実、義総は常興と多分に連絡を取っていることが古文書より知られている。

(注釈)
(注1)「大名別申次」役は大名家がそれぞれ「将軍直臣や将軍家女房などの中から適当な者を選んで将軍への取次ぎを依頼していた」(山田康弘「戦国期における将軍と大名」『歴史学研究』772号.2003年)と言われる。

歴代当主と幕府との関係表

室町将軍 畠山当主 畠山の地位 関係 備考
4代足利義持 1代畠山満慶 御相伴衆 密接 幕閣でも重要な位置。他家とも交渉密。
6代足利義教 2代畠山義忠 御相伴衆 義教の元服の際に理髪役を義忠が務める。
8代足利義政 3代畠山義統 管領・御相伴衆 険悪 西軍に属したため義政とは疎遠になる。
9代足利義尚 御相伴衆 良好 幕府との関係改善のため、義統は積極的に贈答品を贈る。
10代足利義稙 密接  
11代足利義澄   疎遠 幕府内で義稙を支持し、義澄派と対立。
4代畠山義元   普通 義稙・義澄の両天秤外交を展開
5代畠山慶致   疎遠 幕府より能登は敵か味方かわからないと評される。
再任足利義稙 6代畠山義元  御相伴衆 密接 義元が在京し、幕閣の一翼をなす。
12代足利義晴 7代畠山義総 御相伴衆 幕府との関係強化のため、義総は積極的に贈答品を贈る。
大名別申次は大館常興。
8代畠山義続 義続政権前半は積極外交で関係密接だった。
13代足利義輝 8代畠山義続   普通 能登国内で内乱頻発の為、外交関係が少し薄れる。
9代畠山義綱 他国衆 密接 国内の内乱を鎮圧し、外交関係を再開。活発化させる。
15代足利義昭 10代畠山義慶   疎遠 義綱が義昭と交渉を持つため、義慶政権は幕府と交渉せず。

<朝廷との外交関係>

 能登畠山氏と朝廷との関係はいまだ明らかでない。ただ、能登畠山氏の極官(家柄で最高位の官位)を得る為、多少の交渉はあったと思われる。ただ、幕府権力が健在だった15世紀は幕府を通じての任官が主流であり、能登畠山氏と朝廷との交渉が活発化するのは自ら官位を得る為に交渉し始めた16世紀以降だと思われる。
 5代慶致は1504(永正元)年、朝廷に対して「錦御旗」の下賜を願望してた。これは、奥野高広氏が1504(永正元)年に始まる能登での内乱鎮圧の為に利用したのではと指摘されている(『羽咋市史中世社寺編』より)。この行動は、朝廷権威を利用した守護権の高揚策であると思われる。1515(永正12)〜1545(天文14)まで当主であった8代義総は朝廷交渉をそれ程重視していなかったようである。1535(天文4)年に修理大夫の官途を欲せんと、内奏に「樽代」10貫をもって申請したと言われるが、献上金が少なすぎるという理由で却下されている。当時の修理大夫の相場は、少なくとも3倍であった。また、1540(天文9)年に朝廷が御所の修理代を諸大名に求めて幕府が諸大名に命じると、義総は幕府に対して、「かねて義晴が諸大名に触れてあった第六代義教将軍百年忌の仏銭五十貫は納めるが、禁裏修理料は勘弁してくれ」と言っている。それ以降では1561(永禄4)年に、9代当主義綱が一宮気多大社の造営を正親町天皇に勅許をえて実行しているのが知られる。いくらか献上金があったのであろうか。

歴代当主の官位表

天皇 畠山当主 官位 備考
後小松〜称光〜後花園 1代畠山満慶 左馬助・修理大夫  
後花園 2代畠山義忠 左馬助・阿波守・修理大夫  
後花園〜後土御門 3代畠山義統 左衛門佐  
後土御門〜後柏原 4代畠山義元 左馬助  
後柏原 5代畠山慶致 左衛門佐 1504年、朝廷に対して「錦御旗」の下賜を願望。
6代畠山義元 修理大夫  
後柏原〜後奈良 7代畠山義総 左衛門佐・修理大夫 1517年に左衛門佐、1535年8月に修理大夫を受領。
1540年朝廷の御所修理代負担を拒否。
後奈良 8代畠山義続 左衛門佐  
後奈良〜正親町 9代畠山義綱 修理大夫 修理大夫の受領は永禄4.6〜同5.4の間。
1561年、義綱が一宮気多大社の造営で勅許を得る。
正親町 10代畠山義慶 修理大夫 1571年に修理大夫を受領。
11代畠山義隆 伊賀守  
12代畠山春王丸  

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会.1968年
久保尚文『越中中世史の研究』桂書房.1983年
高沢裕一他『北陸社会の歴史的展開』桂書房.1992年
米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社.1986年
神奈川大学常民文化研究所編『日本海世界と北陸』中央公論社.1995年
加能史料編纂委員会『加能史料戦国T』北國書籍印刷株式会社.1998年
久保尚文「遊行上人のみた越中永正の乱」『かんとりい』4号.1973年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年
東四柳史明「能登弘治内乱の基礎的考察」『国史学』122号.1984年
山田康弘「戦国期における将軍と大名」『歴史学研究』772号.2003年
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