人物列伝
「河野通宣」

河野通宣イメージ
↑河野通宣イメージ像(畠山義綱画)

人物名 河野 通宣(こうの みちのぶ)
生没年 ?〜1570年
所属 伊予河野家
主な役職 伊予河野家当主
健康状態 中風を煩い苦しんだ。治療のため上洛もしたほど。
参考文献 川岡勉・西尾和美『伊予河野氏と中世瀬戸内海世界』愛媛新聞社,2004年
(共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社,1986年
人物の歴史
 伊予守、左京大夫。仮名宗三郎、四郎。伊予守護。前当主であり弾正少弼・通直の次男(河野氏の当主ではここで取り上げる左京大夫・通宣の他に、先代に同じ名で刑部大輔・通宣という当主がいるが、ここで取り上げているのは、左京大夫・通宣であり、特に記さない限り通宣と書いた場合は、左京大夫・通宣のことである)。河野氏庶流の予州家の出自であると言われるが、最新研究では本惣家の血筋であると言われる。
 室町時代の伊予河野氏は、京都への海運が極めて重要な瀬戸内海の伊予にあった。九州から来る船や京から来る船なども多く、水軍を支配下に置き、かなりの収入があったと思われる。しかし、重要な位置にいるほど他勢力からの攻勢も多くなるのもまた必然である。天文年間(1532年〜1555年)の河野氏は特に芸州・大内氏との関係に苦慮していたようである。旧知の通り芸州大内家は周防・長門の他にも安芸などの中国地方と九州北部を中心に6カ国の守護となっており、また日明貿易などの貿易の利益も手中にあり相当の経済力を有していた。そのため大内氏は、安芸・武田氏、出雲・尼子氏、豊後・大友氏や伊予・河野氏らの周りの勢力と敵対していったのである。
 そのようなさなか、河野氏当主の弾正少弼・通直(河野氏は他にも牛福・通直という当主がいるので、区別するために「弾正少弼・通直」と書く。)の下での1542(天文11)年に天文伊予の乱が発生した。この内乱は、新興重臣であるが当主弾正少弼・通直の側近となっている来島通康と、弾正少弼・通直の子・晴通と従来の重臣との争いで起こったものと言われている。この重臣たちが当主を担いで引き起こした内乱は、当主弾正少弼・通直が来島通康を重用した結果でもあり、大内氏という外部勢力と従来の重臣が結びついた結果起こったとも言える。とにかく、河野氏に対し大きく大内氏の影響があったと言えよう。この内乱の結果、弾正少弼・通直は引退し、家督は子・晴通に継承された(『伊予河野氏と中世瀬戸内海世界』より)。しかし、1543(天文12)年には新当主・晴通が早世してしまったため(『予陽河野家譜』より)、当主の仕事は再び弾正少弼・通直が行ったという。しかし、この間も大内氏の伊予への攻勢は続き河野氏は疲弊したので、1547(天文16)年頃にいたって河野氏は大内氏と和睦をした。
 『予陽河野家譜』によると、1543(天文12)年に晴通が早世した後、幼年の通宣が弾正少弼・通直の後見で家督を継いだとされるが、通宣の幼名などが知られないこと、家譜以外の良質な資料に通宣の家督継承が見られないことなどで、西尾和美氏は『伊予河野氏と中世瀬戸内海世界』において、晴通没後の通宣の家督継承を否定している。すなわち、家督は一度弾正少弼・通直に戻されており、その後で通宣が登場しているのである。通宣発給文書が1550(天文19)年よりみられ、弾正少弼・通直の文書も1552(天文21)年まで見えるので、1550(天文19)年〜1552(天文21)年の期間、通宣が弾正少弼・通直に後見されていたのかもしれない。ただ、この家督交代劇にも父子の対立があったようで、将軍足利義輝の「和睦せよ」という御内書が河野氏のところまで届いてる。 
 そして、この通宣父子の両者の発給文書が知られる時期の1551(天文20)年に、大内氏の中で河野氏にも影響を与える大事件が起こるのである。一般に広く知られる陶隆房(後の晴賢)のクーデターである。これにより大内義隆は死去し、大内義長が家督継承するが、大内氏の実権は陶隆房の手中に落ちるのである。さらに、この後陶氏を毛利氏が攻撃するに及び、周囲の勢力は大内・陶方か、毛利方かと、この対立に巻き込まれるようになるのである。それは河野氏の中でも例外にあらず、来島氏が毛利氏の味方をするなど、河野氏はこの対立に関わっていくことになるのである。さらに土佐・一条兼定が伊予への侵攻を始め、これを同じ伊予の宇都宮豊綱らと協力して防いだ。しかし、その宇都宮氏も徐々に求心力が衰える河野氏から独自性を求めていくなど、伊予国内は予断を許さない状況へとなっていく。この状況に宇都宮氏と対立する伊予・西園寺氏に対して通宣の仲介して和睦させるなど、求心力の回復に努めていたとみえる。
 このような河野氏を取り巻く状況が厳しくなっていく状況で、さらに事態は悪化していく。西尾和美氏による京都の医師半井瑞策の「書状の内容によれば、通宣は早急には治療困難な慢性病を罹っていたらしいことがうかがえ、「安神散」という薬の調合を受けている。」(『伊予河野氏と中世瀬戸内海世界』124頁)とされ、別の文書から通宣の病気が中風だとわかると指摘している。この文書が1562(永禄5)年なので、少なくともそれ以前に通宣は病気を患い、京都の医師と連絡を取って薬の調合を受けるほど病状は悪化しているのである。さらに、病気治療のために上洛もしているとされ、それには側近であり、重臣であった来島通康も同行している。このような状況下では河野氏が強力な力で他勢力を圧倒するのは難しい状況である。そのためか、1567(永禄10)年頃には毛利氏から小早川氏らを中心とした援軍が伊予に派遣されており、いよいよ河野氏の求心力は低下し、有力家臣によって河野氏は外交や軍実活動を展開することになるのである。さらにこの1567(永禄10)年には来島通康が死去しており、ますます河野氏にとって不利な状況となった。通康の死去後、台頭するのが平岡房実である。この房実の娘は水軍で有名な能島村上氏に嫁いでいるなど、婚姻関係を活用し家中で力を得てきたものと思われる。
 来島通康が死去した翌年の1568年(永禄11)年になると通宣は隠居し、幼年である牛福・通直が家督を継いだとされる。通宣は1570(永禄13)年に死去しているので、存命中の隠居となる。病のため隠居したとされるが、幼年の主であれば強い当主権力は見込めない。そのような状況で隠居した理由は何か。さらに、牛福・通直は河野氏の血筋ではあるが、河野氏内での出自がはっきりしない。唯一わかっているのは牛福・通直の母が宍戸隆家の娘であり、毛利元就の孫であり、小早川隆景の姪であるということである。通宣は長い病気のためか嫡子が知られない。嫡子なき通宣が牛福・通直を養子に向かえ、自らが存命中に家督を継承させたのはどういう理由があったのであろうか。西尾和美氏はその理由について「牛福が芸州の血をひく存在だとということをおいては考えられない。」(『伊予河野氏と中世瀬戸内海世界』137頁)と指摘する通り、来島通康の死去後河野氏が不安定化するなかで、当主を毛利氏に近い人物に据え置いて連携強化という名の下に河野氏を取り込んでいこうとする動きであると思われる。
(参考資料)
湯築城跡正面  
↑湯築城跡正面
湯築城跡・復元武家屋敷
↑湯築城跡・復元武家屋敷
義綱解説
 通宣は家督を継承する時も父子の争いに苦労し、さらに当主となっては病に苦労し、さらに晩年は毛利氏の圧迫において苦労するなど非常に苦労人です。病床においては何を考えていたのでしょうか。不運な自分の境遇についてか、さては今後の河野氏を行く末を考えていたのか。弱体化する河野氏において、まさに内憂外患の時期に当主となった通宣の苦労は察するに余りあるものである。その河野氏の本拠であった湯築城跡は近年発掘調査が進み、城内の屋敷跡や庭園跡など高い文化水準を誇った遺構を垣間見ることができる。湯築城跡(道後公園)は、中世武家屋敷の復元などが見られ、湯築城資料館も無料で見学できるなど、中世研究家にとっては見ておきたい城跡のひとつと言えるのではなかろうか。

☆信長の野望での河野通宣能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望・野心。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技/策戦
全国版 85 48 58 92 41
戦国群雄伝 61 64 90 63
武将風雲禄 41 61 70 58 56
覇王伝 41 61 45 64 51
天翔記 102 122 86 39 45
将星録 50 54 42
烈風伝 46 48 42 58
嵐世紀 43 39 46 56 騎馬・槍 激励
蒼天録 47 34 38 49 騎馬 威圧/収拾・迎撃
天下創世 48 36 38 53 なし
革新 54 51 41 48 斉射
天道 54 51 41 48 鉄砲強化
創造 54 55 45 47 釣瓶撃ち・海戦名人

 河野通宣の能力値はほとんどゲーム全般にわたって安定して推移している。戦国群雄伝から多少低下が見られるが、このゲーム以降における全体的な能力値下落傾向から言えば、さしたる下落とも言えない。特に創造の全国武将の能力値デフレの中、ほぼ現状維持なのは能力値が安定している証拠であろう。政治値はおよそ50前後で、戦闘値はおよそ60前後であり、歴代河野氏の能力値としてはそこそこ評価されていると言えるが、やはりマイナーな存在に厳しいコーエー。もう少し河野氏全体の評価を高めてほしい。特に、通宣によく使えた来島通康などの評価はもっと高くてもよいのではないだろうか。

BACK

「人物列伝」の目次へ戻る


Copyright:2014 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama