人物列伝
「大内義長」

大内義長イメージ
↑大内義長イメージ像(畠山義綱画)

人物名 大内 義長(おおうち よしなが)
生没年 ?〜1557
所属 大内家
主な役職 大内家32代当主
特徴 陶晴賢死去後は懸命に領国維持に努めた
参考文献 (共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社,1986年
(共著)『山口県の歴史』山川出版
『図説 山口県の歴史』河出書房
『日本の名族9中国編』新人物往来社、1989年
太丸伸章(編)『戦略戦術兵器事典A日本戦国編』学研,1994年
小和田哲男編『戦国大名閨閥事典』新人物往来社,1996年
萩原大輔「陶晴賢の乱と大内氏」(『松永久秀』宮帯出版.2017年所収)
山本一成『大内義隆の光と影』大内文化研究会.2000年
山本一成『目で見る大内文化』大内文化研究会.2002年
人物の歴史
 幼名・塩乙丸。仮名・八郎。左京大夫。大友義鑑(宗麟)の次子。母は大内義隆の姉。通称八郎。初め、12代将軍足利義晴の偏諱を受け晴英と称すが、大内家を継いだ後、13代将軍義輝の偏諱を受け義長となる。

 大内氏は中国地方の有力守護大名で、31代当主・大内義隆の時には周防・長門の他にも安芸などの中国地方と九州北部を中心に6カ国の守護となっていた。また大内氏は朝鮮との貿易や日明貿易を力の衰えた幕府に代わっておこなうなど、かなりの実力を有した。しかし、当主義隆が尼子氏との合戦の敗北や後継者晴持の急死などに意欲をなくし、文芸に興じ、さらに相良武任なる文官を徴用したため、1551年9月陶隆房(同年10月に大内晴英より偏諱を受けて晴賢と改名)が下克上を起こし、自害に追い込み、その後継者として選ばれたのが大内義長であるというのが従来の説である。
 しかし近年の研究結果によると、この「陶晴賢の乱」について、大内氏の大半の評定衆が、次代の義長期においても継続して政権参加していることから、むしろ晴賢単独の下克上というより、評定衆と大名・大内氏当主の対立の結果とみる動きに求められ、すでに歴史学研究の成果では陶晴賢単独犯行説は否定されていると言って良い。

 大内義隆は、当初その家督を土佐の公家大名である一条房冬の子・恒持を要旨に迎えていた。そして将軍から一字拝領し「晴持」と名乗っていたようである。しかし1543(天文12)年に急死すると、大友義鑑(宗麟)の次男である「八郎」(後の晴英・義長)が後継者となったと言う。しかし、1544(天文14)年に義隆に実子の義尊が生まれて破談になったというのが、『増補訂正編年大友史料十八』438号という大友側の史料にも、『大日本古文書相良家文書。378号という大内氏側の史料にも見える。
 陶等重臣等の叛意は1550(天文19)年に確認できる。「右田毛利家文書」(92,93号)によると、陶隆房は義隆から何らかの勘気を蒙り赦免されず「若子」を次当主に擁立する心積もりであることを杉重矩や内藤興盛らと相談している。さらに隆房は同様の内容を吉川元春や石見国人にも送って味方に付くよう招致しており、大規模な工作を展開している点で、隆房が乱の首謀者であることは間違いないが個人的なクーデターというより、家臣の大部分を味方につけた行動だと理解できる。
 そして1551(天文20)年8月28日に隆房らは挙兵すると、義隆ばかりか7歳であり次期当主に擁立しようと思っていた義尊までも自害されてしまった。従来説では隆房は当初大内家の後継者に義隆の嫡子義尊を擁立する事にしていたが、大友氏の協力を得る為に謀反を起こす前義長に変更したと言われていたが、事前の計画から考えると義尊が亡くなったことは想定外であると言える。そこで、「先年からの御契約なれば」(『群書類従合戦部』「大内義隆記」)であり、「京都御下知」により「豊州八郎殿」(『山口県史史料編中世三』「萩市郷土博物館蔵文書(湯浅家文書)114号」より)こと晴英(義長)を当主に担ぎ出し1552(天文21)年3月に家督を相続させた。この「京都御下知」というのは国内向け文書で本当にそのような下知があったがどうかは定かではない。しかし、幕府(もしくは朝廷)より下知があったから我々は従った、という形式を取ったことは主体性のある下剋上ではなく、あくまで正当性を持った家督交代という演出を重臣達が試みたケースと言える。

 晴英(義長)は1552(天文21)年2月26日に九州から迎え入れられることとなり、その間までは陶隆房が当主を代行して書状を発給した。20歳そこそこであった晴英(義長)を周防国多々良の浜に迎える時陶晴賢は300隻の船で迎えたと言う。大大名の当主ゆえに盛大な出迎えを催したのであろう。あくまでの正式な当主は大内であるとアピールすることが必要であったと言える。実際、隆房が発給した文書に晴英(義長)が署判するものが多く、隆房の発給だけでは効力が足りなかったとも言える。その意味で晴英(義長)が単純な傀儡であったとは言えない。そして晴英(義長)が山口に入る直前に、隆房は一字拝領を求め「陶晴賢」と名乗ったのである。山口に入る前に申請した理由は、家中の中で自分(陶晴賢)が一番であるぞとアピールしていたのであろう。そして前代義隆と同様に、晴英も将軍から「義」の字を拝領し義長となったのである。

 義長の政治方針は、義隆の方針を基本的に維持した。これも義隆の正当な後継者をアピールする者としては当然のことであると言える。義長の内政政策としては、1552(天文21)年に8月にキリスト教の布教を許可し、山口に教会堂を建立したことが挙げられる。しかし大内家を実質的に仕切っていた陶晴賢が毛利元就の策略にはまり1555(弘治元)年9月に厳島にて敗死すると大内家の状況も一変する。
 中心人物を失った領国は混乱し、さらに毛利軍の侵入を受け戦時体制に突入する。また、厳島合戦で負けた事による重臣たちの怨恨や主導権争いがきっかけとなり内紛が勃発した。1556(弘治2)年3月、先の厳島の戦いで晴賢の戦略により父・杉重矩を戦死させられた子・杉重輔が陶晴賢の子・長房と貞明を攻撃する。すると、陶氏に縁故のあった内藤隆世が杉重輔を攻撃するという事態に発展した。この重臣間紛争は当主・義長の調停にも関わらず収まらず、両者は後河原で交戦し山口の町まで戦火が及んだと言う。これが大内氏の弱体化を進め滅亡を早める結果となったのは言うまでもないが、特筆すべきは「義長が調停」を試みたことである。完全な傀儡ならば家臣も言うことは聞かない。ということは調停することで効果があった可能性が考えられたからこそ、義長は行動したと言える。1556(弘治2)年春、義長は内藤隆世の勧めもあり毛利軍からの周防防衛のため、高嶺城(山口市)を築いたり、居館の大内館に堀を築いたりして防戦に努めた。
 しかし、1557(弘治3)年3月に1年間にも及ぶ攻防を繰り広げた沼城がついに毛利軍の手に落ち、その軍も山口まで迫ってきた。義長は家臣の内応もあったので、高嶺城を出て山口を脱出し長門に逃れ且山城(勝山城)に入城する。毛利軍も長門に進軍したが、且山城は堅固でなかなか落ちなかった。元就は家臣の福原貞俊に命じ、4月2日且山城内に降伏勧告の矢文を射させた。それは「内藤隆世はかつて陶晴賢と組み主君大内義隆を攻めた謀反者なので死罪にするが、大内義長は大友氏から来た傀儡君主に過ぎない。だから、開城すれば義長を助命し、豊後に送り届けよう。」という内容だった。且山城内は賛否両論で争いとなったが、結局は元就の勧告通り内藤隆世は切腹して開城した。義長は毛利軍によって長府の長福寺に移送されたが、翌3日、毛利軍に包囲されて義長は自害することになってしまった。結局元就の謀略にはまってしまったのである。


 義長が自害した事により大内は滅亡したが、その後大内家再興動きがあった。前々代の当主大内義興に謀反を起こした義興の弟隆弘の子・輝弘(大内義隆従兄弟)が豊後に逃れて大友氏を頼っていた。輝弘は大友義鑑に厚遇され、1569(永禄12)年に大内氏再興を目指して義鑑の支援の得て周防国に攻め入った。毛利側が小早川隆景や吉川元春らを派遣して輝弘を攻めたので、あえなく敗れたという。大友義鑑が輝弘を支援した目論みは、大内輝弘を擁して中国地方の毛利勢を排除しようという目的があったのであろう。
義綱解説
 やはり最後の当主には哀愁が漂いますね。しかし、単純に操られるだけの傀儡君主なのではなく、晴賢自害後も調停や防衛を固めることによって毛利の攻撃を懸命に防いで領国の防衛に努めたのです。義長が晴賢亡き後に領国を逃げ出さずに2年間領国を維持したことは、義長がいることで毛利に対して辛うじて家中がまとまって対抗することができたとと言える。それにしても、義長自害後、大内輝弘らによる大内氏再興の動きがあったとは知りませんでした。

☆信長の野望で大内義長能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。外=外政。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技・策戦 個性
武将風雲禄 43 36 68 79 42
覇王伝 43 22 9 63 42
天翔記 106 60 46 74 43
将星録 49 35 24
烈風伝 49 30 16 43
嵐世紀 35 8 21 29 足軽・槍・荷駄 逃亡
蒼天録 35 11 18 18 足軽 茶湯・誘導
天下創世 32 10 18 63 なし
革新 36 20 12 22 なし
天道 36 20 12 22 兵器強化
創造 42 35 22 28 鼓舞・不運
大志 42 35 31 30 31 臥薪嘗胆・本陣斬込 なし 家名存続

MAX200の天翔記の数値を半分に換算すると、概ね政治は50前後、戦闘は30前後で推移している。武将風雲禄での教養値の高さは、さすがの大内氏だけあって高い水準と言える(天下創世では意外にたいしたことない)。戦闘特性(統率・知略))はほとんど最低値で、傀儡当主の典型的能力値と言えそうだ。嵐世紀ではゲーム全体的に能力値が下がったので、義長の能力値も下がったが、蒼天録・天下創世で下げ止まり、革新でやや上昇傾向にあるようだ。革新では高嶺城を築いたり、居館の大内館に堀を築いたりしたのが評価されたのか、築城適性がCになっている。創造では全国的な能力値デフレ武将の能力値が下がっているにも関わらず、大内義長は微増となり、さらに大志では知略が+9と大幅増加となった。

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