人物列伝
「一条兼定」

一条兼定イメージ
↑一条兼定イメージ像(畠山義綱画)

人物名 一条 兼定(いちじょう かねさだ)
生没年 1543〜1585 
所属 土佐一条家
主な役職 土佐一条家当主
参考文献 (共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社,1986年
四万十市立旗多郷土資料館、資料より
「まさるマニア」岡豊城・土佐一条氏の公家大名化と家格の低下
人物の歴史
 一条房冬の子。幼名万千代。権中納言。土佐国司。母は大友義鑑の娘。一条家は武士の家柄でなく、公家の藤原北家で摂関家の九条家からででた家柄なのである。もともと一族は京都にいたのであるが、応仁の乱後、家領回復の為に一条教房が土佐の幡多本庄中村へ下向し土着したという歴史をもつのである。下向後も京都の公家衆らと太いパイプを持ち、官位もかなり高い位置を保持した。また、教房の子・房家は居館を構えた中村を京都の模して造り都市化させて発展させるなどの政治的な活動も活発であった。もはや土佐一条氏は単なる公家ではなく戦う公家として、土佐一条家は「戦国公家大名」とも言える存在になったのである。
 しかし、戦国期になって武威を誇る土佐一条家に対して京都の一条氏は心よく思っていなかったようである。ことあることに京都の一条家は土佐の一条家に口を出し、あくまで「公家」でし、土佐一条家の公家化を目指していく(詳しくは「まさるマニア」岡豊城・土佐一条氏の公家大名化と家格の低下の項参照)。そのような状況下で、僅か7歳で当主となった兼定(一説には甥である一条康政が兼定の後見人となったとも言われる)は、家督を継いだ当初こそ外交活動や西園寺氏への交戦など軍事行動など活発な活動が知られるが、次第にそれらの行動が沈静化してしまう。一般には「政治に飽き、軽薄で礼を失する行動」(『戦国大名系譜人名事典西国編』P.401)をしたとされる。例えば、長宗我部の侵略が徐々に進んできたときも彼は遊蕩にふけっていたとされるし、老臣・土居宗珊の諌言にも耳を貸さないだけでなく、宗珊を殺してしまう、などといったものである。このような行動は長曽我部氏側の史料に書かれたものが多く、勝者長曽我部氏によって、事実が捻じ曲げられている可能性がある。長曽我部が策略を用いて兼定を追放した事実を考えると、むしろ兼定は、長曽我部氏の策略や、京都一条氏の強い圧力などにより、当初の熱心な政治活動が一変してしまったのではないかとも考えられる。そうであるならば、一条兼定の評価も再評価されなければならない。
 土居宗珊の殺害後、1573(天正元)には家臣より隠居させられ、嫡子の内政が長曽我部氏の後見をもって家督を継承した。さらに翌年になると兼定は家臣たちによって豊後に追放された(一説には豊後への遊蕩最中放逐されたとも言う)。この兼定追放劇においては、家臣の中でも小島政章が、兼定の追放に反対し重臣の為松若狭守、安並和泉守を攻撃していることもあり、単なる重臣による兼定追放劇と見るより、家中の勢力争いの中で兼定が追放されたと見ることもできよう。
 追放された兼定は、妻の実家九州の大友家に身を寄せ再起を図る。この時、身を寄せていた大友義鑑が熱心なキリシタンだっため、兼定は妻(大友義鑑の娘)共々滞在中に洗礼をうけ、「パウロ」という名前をもらっている。その後、中村の奪回を目指し伊予に侵入するも敗北。その後隠遁し伊予に留まったが、長宗我部方の家臣により就寝中襲撃されて重傷を負ったと言う。その後程なくして熱病によって死去した。
 

(参考資料)
一条兼定像
↑四万十市立旗多郷土資料館蔵・一条兼定イメージ像

義綱解説
 実力の無い公家が没落する時代の中、武士ではない土佐一条氏が、領地を有し実効支配していたのは、やはりすごいことだと思います。土佐一条氏は徐々に戦国大名化するわけですが、守護代や国人からの成り上がりの多い戦国大名の中で異色の存在と言えます。ですので、曲がりなりにも戦国末期までその命脈を保った一条家の領国政策などは改めて再評価されるべきでしょう。最近の土佐一条氏の研究では、一条氏と長宗我部氏との官位の比較から、「土佐一条氏(内政、天正五年、従四位下右近衛中将に叙任や子、政親、天正十四年十二月、従四位下摂津守に叙任)が長宗我部氏を超越する存在であった、とする論考も出てきている。」(引用文はくらのすけ屋敷より転載)と一条氏を再評価する動きもありますので、今後一層の研究の進展が待たれます。

☆信長の野望での一条兼定能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技策戦
全国版 71 67 53 65 49
覇王伝 31 23 14 43 16
天翔記 80 36 20 70 42
将星録 34 19 5
烈風伝 30 11 5 20
嵐世紀 24 6 8 2 足軽・槍 商業
蒼天録 23 1 5 2 足軽 哀願・誘導
天下創世 26 3 6 28 なし
革新 29 3 4 7
天道 29 3 4 7 威圧
創造 37 18 2 1 挑発

 兼定はかなり能力が低くされています。特に戦闘能力は最大200のうち7(初期値)という一種すごい数字をもらっています。その背景には放蕩、忠臣斬首という業績が影響しているのでしょう。それだけにシリーズ通してすごい能力値。なんといっても将星録の智謀の「5」は凄すぎる。ちなみに天将記の戦闘の初期値は「7」である。MAXが200なので、本来の能力値は「3.5」最高にあがってもMAX=100なら「18」となる。嵐世紀ではゲーム全体の能力値デフレで、智謀の「6」、野望は「2」と能力値がさらに低下。さらにさらに蒼天録では、知略がとうとう「1」になってしまった。武将風雲録に登場していなかったため、天下創世で初めて教養値がついたが、28という評価はなんぞや?公家大名という立場からもっと評価されていいだろう。革新で能力値インフレで全国の武将の能力値が上昇しているにも関わらず兼定の能力値はそれほど上昇しなかった。一方、創造で能力値デフレで全国の地方武将の能力値が下がる一方、兼定の政治値が8、武勇が15上昇。しかしどうだろう、公家大名と言う立場から武勇の上昇より、統率の上昇の方が適性ではなかろうか?武勇は3、統率は30くらいが適性ではないか、と思ったりもする。

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