バスと新幹線

たっちの闘病記

愛しのたっち

2006年9月に「扁平上皮ガン」を患っていることが発覚。
ここに我が愛娘「たっち」の最期まで闘病記を記す。
愛した分だけ失った悲しみは大きい。
しかし…悲しみを恐れていては何も愛せない。
これが私が愛娘から学んだ経験。
「離れていても…ずっと家族だよ…。」

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「お見送り…」2006/11/29(Wed)
 私が起きたのは午前4時頃。昨日アルコールを大量に飲んだため、たっちのそばのリビングで寝てしまったのである。妻が気を利かせて、たっちと私の居るリビングで家族全員で寝ていた。
「ごめん、たっちがいつも寝ていたところで寝かせてあげたいんだ。だから2階に行こう。」
「うん」
自分で寝てしまった割りにずいぶん自分勝手だなと思いつつ。
たっちをダブルベットの私の足元で寝かせる。いつもいつもたっちは、私の足元で寝ていた。私も男だからそれなりに背丈があるので、いつも「たっち邪魔なんだけどぉ〜」とか言って、息子が寝ている方に寝かす。でも朝起きると私の足元にまた戻っている。そんなことで、私はすっかり足を曲げて寝る癖がついてしまった。こりゃ腰も痛くなるわけだ。今日はもちろん、息子の方にたっちをどかさないで、自ら私の足元に寝かせる。それが自然だからね。

…布団に入っても寝付けなかった。もうアルコールも抜ける頃。夫婦でたっちの話の続きをした。話はつきること無い。だっていっぱいの想いが詰まったたっちと過ごした6年間。一日くらいで話せるわけないもん。葬儀屋さんは午前11時に来る。夜明けと共に起きようと、6時半に起きる。
黒いスーツに黒いネクタイの喪服に着替える。倉庫からたっちの雛人形を出した。たっちのために2005年2月に購入したものだ。
たっちの雛飾り
↑たっちの雛飾り(2005年2月購入)

妻も着替えてたっちを連れて1階のリビングへ。たっちの朝食を準備。いつも食べていた缶フード「チーズ入りまぐろ」。グルメ猫でいつも同じ缶に飽きていた子がこれだけは飽きずに食べていたもんだ。
たちこは家族。だから人間と同じように弔ってやりたい。私はそう考える。それを他人に人間の押し付けと言われても構わない。だってたっちは私の家族だから。だから嘘をついたって何だって仕事を休んだのだ。
昨日両親と妹、親しい友人2人に、長女が息を引き取ったことを告げる。みんな優しい言葉をたっちにくれた。
9時頃。自宅での告別式。出席者は私たち家族だけ。だって私たち以外呼んでないもん。クラシックCDをかける曲は「カノン ニ長調」(パッペルベル作曲)がいいかな。雰囲気が出てきたな。妻がたっちの未整理の写真を持ってくる。ああ、最近写真整理してねぇな。そういや下の娘(0歳)の写真なんかまだ全然アルバムにもしてないよ…。
10時頃。昨日買ってきたお花(茎は全部切り落としてある)をたっちのベットに「ありがとう。」と言いながら家族全員で添えた。祖父の葬儀に参加したことがあるので見よう見まねできった花も、なんか様になっている。たっちのベットは花でいっぱいになった。あれっ…とってもたっちが綺麗に見えるのに涙がこみ上げてくる。あふれんばかりのいっぱいいっぱいの涙が出てきて止まらない。3歳になったばかりの息子も「ねえね(たっちのこと)、キレイだね。」という。すると私が言った。
「ねえねはね。遠いところに行くんだよ。」
「えっ?ねえねが寝てるぅ〜。」
息子はたっちは寝ているだけとずっと思っているようだ。そうだよね。まだ「死」なんて事が理解できないよね。
10:50家に電話が鳴る。
「ジャパンペットセレモニーの上條と申します。11時に伺うお約束でした。あと5分ほどで着きますがよろしいでしょうか。」
声を聴いた瞬間、もう本当にお別れなんだなって思い声が震えた。
「…はい。よろしくお願いします。」

10:55。葬儀屋さん到着。来てくれた方もピシッとした黒スーツだった。まるで人が亡くなった時のように接してくれた。家族を亡くした私にとっては有難かった。
葬儀は出張で火葬できる車で来てくれた。火葬の流れと、一緒に燃やせるものなどを説明してくれる。
「すみませんが猫ちゃんを拝見させていただいてもよろしいですか?」
花で囲まれているたっちの前に正座し、手を合わせてくれた。上條さんとの話で、お花を一緒に燃やすことにした。あと、「口の近くにいつも食べているご飯を一握り置いてあげてください」と言われた。全部の準備を整え、自宅駐車場に止まっている火葬車へ向かう。たっちが大好きだった能登号のエンジン上にベットを置き、そっと体をトレーにのせる。体の周りにお花をいっぱい乗せてあげた。口の近くには「チーズ入りまぐろ」。
「…最期のお別れとなります。時間はいくらでも構いません。心の準備ができたらお伝えください。」
「たっち〜本当に本当にありがとう!」
後は何を言ったか覚えていない。たくさん声をかけた。妻も。息子も「ねえね」と言っていた気がする。

「…お願いします。」
「わかりました…。」

トレーが置くに運ばれ、ドアがゆっくりと…ゆっくりと…閉められる。

ガシャン…。

周りへの影響を考えた移動式火葬車だから、無煙無臭だそうだ。音も最小限にとどめるよう努力しているらしい。

それでもかすかに点火された音が聞こえた。
「ごめんね…ごめんね…。」

「お骨を出すまでおよそ50分ほどかかります。どうぞ、お部屋の中でお待ちください。」
玄関に戻り靴を脱いだとき息子が叫んだ。
「ねえねも戻るの!」(お姉ちゃんも戻ってこなきゃ嫌だ)
この言葉…嬉しかった。この子もたっちを家族だと思ってくれているんだなって思った。
家に入ると「ねえねがいない」と言う。
「ねえねは遠い遠いところに行ったんだよ。バイバイするんだよ。」
「バイバイしないの!」
ああ!このわからずやのバカ息子。だけどとっても大好きな息子。そして、息子もきっとたっちのことが大好きだったんだね。
「ねえね、病院いるのかなぁ?」
「違うの。天国に行ったんだよ。」
「ねえね、つらいの?」
「もう辛くないよ…。だってねえねの病気は治ったんだもん。辛いわけないじゃない…。」

………

13時少し前、火葬が終わった連絡があった。妻が息子に「ねえねを迎えに行くよ。」というと、息子は笑顔で「うん」と答えた。
はしゃいで靴を履いて外へ。骨を見て息子は「ねえね、いない。」と。そうだよね〜わずか3歳の子どもがこんな状況をわかるわけないじゃんね。
家の中までお骨を持ってきてくれた。骨の説明をしてくれる。火葬場の職員の方がやってくれるものといっしょだ。
「骨の周りについている黒い焦げは病に犯されてた部分です。」
やっぱり頭や上半身に集中している。さぞかし辛かったんだろうな。
「背骨などの周りについている緑のものは、薬が残ったものです。」
一生懸命病気と闘っていたんだもんね。あと下半身部分にはうんちも残っていた。たっちが生きていた証だね。
「ここが爪の骨、これは前足の骨ですね。お客様の中には爪や足の骨を手元に置いておきたいと言う方もいらっしゃいますが、どうなさいますか?」
妻「私は全部お骨に入れてあげたいんだけど…」
私「うん。俺もそう思った。」
たっちについて私の考えていることと妻の考えることは、いつもだいたい同じ。妻もすごくたっちを愛しているんだなって思う。
妻と2人で箸で骨を拾う。息子もやりたいとせがむ。うっかり「遊びじゃないんだからね!」と叱ってしまった。
「頭の骨なんですが…よろしければ手で軽く持ち上げて入れていただければと思うのですが。」
たっちは扁平上皮ガンのため、左顔面が病魔に侵食されていた。それを思って言ってくれたのだ。
私はもちろん、手で持ち上げた。意外に軽い。こんな小さな体で病気と闘ってたんだね…。
残った骨を上條さんが綺麗にハケで骨壷に納めてくれた。私は左手からたっちの首輪を外し中に入れた。
「たっちが天国で私たちの家族だってわかるようにね。」

…………

「これですべて整いました。私はこれで失礼させていただきます。」
正座で深々とおじきをする。私も同じくおじぎをする。涙が溢れた。

今、2階の子ども部屋でいつもの位置に、いつものベットにたっちの骨壷は置かれている。そばにはいつものお皿にいつもの「チーズ入りまぐろ」と、いつもの容器にいつもと同じ水が置かれている。そして時は、また…動き出す…。
「離れていても、たっちはずっと家族だよ…ありがとう。たっち。」
旅立ちの花
↑お供え用の花はたっちの首輪と同じピンクが中心。


「ありがとう…そして、さようなら」2006/11/28(Tue)
 2006年11月28日午前9:30。動物病院にて永眠。
我が家にほぼ同時刻電話がなる。
「もしもし…」
「もしもし、○○動物病院ですが…。驚かないで聞いてくださいね…。」
妻はこの言葉で全てを理解した…。
 病院によると、輸血によって改善はみられず。顎から出血した血を拭こうとしたところ、眠るように息を引き取った。扁平上皮ガンということで、何ヶ月の命かということを覚悟していた。しかし…それにしても…突然のこと。妻は電話口では泣かなかったと言う。妻は私に9:38に電話。私は仕事をしていたため気づかなかった。
 妻はタクシーを呼び病院へ。妻の表情を察して事情を聞いた運転手はが言った。
「帰りのタクシーで嫌がる運転手もいるでしょ。だから、僕が病院で待ってますよ。30分でも待ちますよ。」
「本当に有難うございます。」
「僕もね。犬やインコを亡くしているんです。インコは私の手のひらで息を引き取ったんです。」
「そうなんですか…」
妻は病院でたっちと対面。やはり目の前にしたら泣いたそうだ。亡くなる様子を説明を受けて15分。
支払いをしようとした妻に対して病院の職員は「お金はいつでも構いませんので、はやくおうちに帰してあげてくださいね。」と。
たっちは病院に来るときはキャリーケースだったが、帰りは棺。

たっちの無言の帰宅。

妻はいつもたっちが居たたっちの部屋(子ども部屋。南向きで陽がたっぷり当たる一番いい部屋!)でいつものベットに寝かしつけた。
たっちを安置し終えて再び私に電話11:38。ちょうど仕事の合間で休憩していた私は着信に気づいた。
…着信を見ただけで、もしやと思った。
なにしろ、妻は仕事中の時間帯に絶対電話をしない。だからこそ、着信をみたとき、嫌な予感がした。
「たっちがね…。病院で…息を引き取ったって…。」
「!?」
「病院の人は、眠るように苦しまずに息を引き取ったって連絡があった…。」
「…………。今たっちはどうしているの?」
「病院から引き取って、家で寝かせているよ。」
しばらく無言だった…。あまりにも突然過ぎる…。私は気が動転した。しかし、心のどこかで覚悟も出来ていた…と思う。
「…ペット葬儀屋さんに電話してくれる…?」
「…うん…わかった…。」
たまたま職場から離れて昼食を買いに行っている時間だった。だからこそ電話を取ることができた。私は呆然とその場に座ってしまった。でも…「たっちがね…」という言葉を聴いた途端だいたいの予想はできた。でも私は泣かなかった。私は冷たいんだろうか。一瞬そう思った。自分が生きている心地がしなかった。なぜここにいるんだろう。そう思った。もうその後、仕事には全く身が入らなかった。だから、必要な仕事を終えると早退して帰った。職場には「具合が悪い」と言って帰った。持病の喘息がでていると、次の日を休むための布石であることは言うまでもない。
 家に帰る途中、家に近づくに連れてどんどん気持ちが悪くなった。そして地元の駅に着く頃にはちょっとしたきっかけで泣いてしまいそうだった。地元の駅から自宅までは自転車を利用している。その自転車に乗っている途中はもう涙でいっぱいだった。玄関を開ける直前にはもう号泣していた。どんな姿でたっちは待っているんだろう…。
 そして、たっちと対面した。たっちは子ども部屋でいつものベットで寝ている。いつもと変わらない姿で寝ている。いや、いつもよりか心なしか表情が穏やかだった気もする。残っていた右目もしっかり閉じていた。でも…すでに体は冷たくなっていた…。いつもなら触ると暖かいのに…。死に目に会えなかった辛さ。気が動転して何がなんだかわからない。もう涙でいっぱいで前が見えない。そのうち妻が言った。
「ごめんなさい…。昨日あなたが『もう治療は止めてうちに帰ろう』って言ったのに…。私が家に連れて帰ってれば…。」
「そんなことないよ。生きる望みがあったから治療続けたんでしょ。俺は知ってるよ。だからお前は悪くないよ…。」
死に目に会えなかったのは辛い。でも、最善の治療を重ねた結果である。後悔はない。むしろ、この3ヶ月間に「病状が悪くなる一方で見てられない」とか言って勝手にたっちを避けていた自分の方が許せなかった。今日帰ってきたら「我が家におかえりなさい」って言って、色々お話しようと思ったのに。もう…できない。すべて自分が悪いんだ。そう…自分勝手だった自分が…。

 動物病院の配慮で、体に着いた血を丁寧に拭いてくれ、さらに傷口にはシップを貼ってくれた。私が憎んだ体を蝕む病魔をうまく隠してくれたのだ。病院のあったかい配慮が嬉しかったな。これでたっちは普段のままのたっちの姿だ。首輪は外されてあった。元気の時は隙間が指二本くらいだったが、最後の頃は一番きつく締めても大きく首周りがあいていた。それだけやせ細ってしまったんだね。私はたっちがしていた首輪を左手にはめた。とにかく一瞬でもたっちを感じてかったからだ。
「花を買いに行こう。それから、たっちの好きだったサーモンの刺身を買いに行こう…。」
私が出来ることはそれ位だ。それからマツキヨで、たっちが普段から食べていた缶フードを買う。それから普段お酒に弱い私が、ビールやワイン、チューハイを大量に購入した。おそらく今日はアルコールの力を借りなければ寝れないだろうと思ったからだ。
 たっちを囲んだ最後の晩餐。たっちの昔話に花が咲く。「最初にたっちをみかけたのは妻だった」とか、大学にいた時のたっちの様子だとか、「そういえば、たっちがベットの下にもぐって隠れたときは、すごく心配して探したよね。」とか…。たっちの話はつきない。だって、私たち夫婦の始めての子どもだったから。

たっちに「我が家にお帰りなさい」を言うことはできなかった。
その代わりに、私が帰ってきたとき、いつもと同じ言葉をかけた。
「たっち。ただいま。」

明日はペット葬儀屋が来る。いよいよたっちとの別れの時。なんだかアルコールを大量に飲んでいて、まともな文章がかけない。でもこれだけは言える。「たっち!病気とよく闘ったね。お疲れさまでした。」
---(後記:次の日に之を記す)---
結局、私は大量に飲んだアルコールの勢いでたっちのすぐそばで21時頃にはすでに寝てしまった。


「なりふり構っていられない」2006/11/28(Tue)
 月曜の朝、妻が動物病院に連絡した。もちろんたっちを迎えに行くためだ。しかし獣医は言う。
「輸血の結果ですが…赤血球が思うように回復しません。もう一度輸血をしてみますので、夕方頃にお迎えに来てください。」
もう最悪の展開である。輸血をしても効果が上がらない。するとこのまま…サイアクノジタイガ…。
私は心配になって昼頃職場から電話を家にかける。事情を聞くと余計落ち込んだ。余命一週間。一週間後はたっちの誕生日。なんとか8歳まで生きられないか…。

 夕方妻が動物病院に電話する。すると、なんとか容態が少し安定してきたとのこと。止血剤でなんとか出血も小康状態になる。でも、もう一泊入院することになった。さらに獣医師は言う。
「白血球の値が計測できないほど多い状態です。なんとか病気に対抗しようとがんばっているんです。」
こんな小さな体で、重い重い病魔と闘っている。体がどんなに傷つこうと、どんなに出血しようと、生きようと願って、たっちは闘っているんだ。そう考えたらもう、居てもたってもいられなかった。もう「病気が進行するのをみていられない」なんて言っている場合じゃない。もうなりふり構っていられない。家に帰ってきたら、たっちと会話しよう。今までの思い出を最初からずっと。生きているうちに話したいことが山ほどある。
「大学4年生の頃、就職活動の超氷河期で、なかなかうまくいかなかったとき、ずっとそばに居てくれたのはあなただったね。」
「あなたがまだ野良ちゃんで大学に住んでいたとき、他の猫とのタイマン勝負睨め合い対決で勝ったこと。今でもハッキリと覚えているよ。」
「大学を卒業する直前の2月。ペット可物件に引っ越してたっちを迎えに行ったとき、胸が高鳴る思いがしたよ。でも、あなたはキョトンとしていたね。」
「家に連れてきたとき、あなたは初めての屋内にキョロキョロしていたね。でもすぐにトイレを覚えたね。」
「だんだん家の中に慣れてくると、家のなかをゆったりと歩いていろんなところでゴロゴロしてたね。寝ている写真がいっぱいあるよ。」

でもまずはたっちに言おう、「我が家にお帰り」と。


「2つの願い」2006/11/27(Mon)
 日曜日、私は用事でたっちの病院にたっちと妻を送り届け、別の場所へ車でむかった。いや、病気の状況を聞くのが恐かった逆にホッとしてる自分が情けない。病院に行った結は、。病状はかなりの危険水域であること。血液中の赤血球の値が極端に低下。だから全然動こうとしないし、食欲もないのだ。「このままでは…」と医師。妻は私に電話をかけた。
「輸血して血液中の赤血球の数値を上げるのが考えられる唯一の治療。でも出血が止まらないから、今後はこの繰り返しになるとも…。どうする?」
「やる。輸血をする。」
「そうだよね。やるよね。後悔したくないもんね。」
私にできることは医者の言った治療法に賛成して、治療費を出すことだけ。でも、これで少しでも長く生きられる。せめて来月4日のたっちの誕生日。そして正月くらい…。
 槙原敬之の「2つの願い」を最近よく聞く。「♪雨がやみますように 電話がきますように 2つの願いはひとつしか叶わない♪」妙にこのフレーズに気になると思うと、自分の心境とがっちていることに気がついた。「たっちが生きていてくれますように 病気の進行が止まりますように 2つの願いはひとつしか叶わない」この状況で私はどうすればいいんですか!
たっちは1泊の入院。月曜日家に戻ってくる…。


「状態はさらに…」2006/11/25(Sat)
 放射線治療が一段落した三週間前は病状はほとんど変わらない状態が続いていた。放射線治療が終わり、抗ガン剤を投与することになった。しかし、効果が薄いのか放射線治療の頃に比べると病状は悪化の一途。顔の骨はさらに解けていて、今では堅い食べ物はおろか、ペースト状の食べ物すら食べれない状態になってしまった。現状はスープ状のご飯を食べているが、かなり痩せてしまい背中を撫でても骨がくっきりとわかるくらいである…。たっちの顔を見るのが辛い。そして痩せ細っていく体を触るのも辛くなってきた。私の携帯の待ち受け画面は、7年間ずっとたっちの顔であった。元気な頃のたっちの姿がそこにある。でも、もう元気な姿のたっちはいない。それでも、たっちはここにいる。たっちは生きている。もう自宅に帰るのが嫌になってきた。自宅に居るより仕事をしていた方が、考えなくていい。でも、そんなことをしていたって何も解決にならない。
 植物状態の家族が入院していると、患者の家族は病院に全然行かないという例も多いと言う。他人は「それじゃダメだ。お見舞いに行って会話してあげなきゃ。」と言うが、私は患者の家族の気持ちの一端は理解できる。「会っても何も出来ない。ただ黙って見守ることしか出来ない辛さ。」もちろん、病状が明確に回復に向かっているなら、まだ接していても希望が持てて明るく出来る。しかし、回復の見込みがなく、もっとこれから目に見えて病状が悪化するとしたら…。この闘病記を見た人がいたら、私のことを「なんて冷たい人間だ」と思う人が多いことであろう。でも、大切にしていた家族だからこそ…辛い。辛すぎて接するのが怖い。という気持ちもあるんだ。そういう人たちはきっといっぱい居るんだということを少しでもわかってもらいたい。
 たっちは色々な幸せを分けてくれた。でも、今のたっちを見るのは辛い。今後のことを考えると、「死ぬのが辛いから、もう動物を育てるのはやめよう」という考えの私と、「動物が与えてくれる幸せが嬉しいから、また引き取ってこよう」という考えの私が居る。今から新しい家族(動物)を引き取ろうと考えるのはたっちに失礼かな?でも、悲しみに耐えられなくなったら、引き取ってくるのもいいのかなって思う。この間家の近くのオートバックスの駐車場で、動物保護団体が保護した猫や犬の引き取り手を探していた。目の前にかわいい子がたくさんいた。たっちの子どもを作らせてあげればよかった。でも、子だくさんの子猫を全部育てるのは難しい。だったら、この中から引き取ってたっちの子として育てようか。でも…たっち以上に早い寿命を迎えたとしたら…猫エイズウイルスに掛かっていたら…。病気のたっちと仲が悪くなってストレスがたっちのストレスがたまってしまったら…。などと考えると引き取るの躊躇してしまう。でも、私はペットショップでは絶対に動物を買わない。だって、ペットブームの陰で売れ残って泣いている動物がたくさんいるから。業者の為に動物の人生を壊された子がたくさんいるから。そんな業者に金を渡して助長するのはまっぴらごめんだ。だからこそ、捨て猫や望まれないで産まれてきた子猫を引き取りたいと願うのだ。でも、それは自分の傲慢?我がまま?もうなんか書いていることが意味がわからない。たっちの事をもっと考えてあげたいのに…ごめん。「たっち。とにかくゆっくり家で休んでいてね。」このような病状のたっちが外にでれば、何日も生きられないだろう。それを考えると、家にたっちが居る幸せを少し感じられる。


「圧迫」2006/10/30(Mon)
 左目下の扁平上皮ガンはさらに進行している。そのせいで、左目はもう見えなくなってしまった。左の鼻にも徐々に侵食し呼吸も辛そうである。見ているだけで辛い。でも、だからといって、追い出したりしようとは思わない。だって、こんな状態で外に行っても自分で食べ物を見つけたりすることはできないだろう。病気になったからといって捨ててしまう飼い主。これはもう命を見殺しにしていることと同じである。重大な罪である。たっちはだから家にいる。家にいれば食べ物はかならず手に入る。そして外敵に襲われる心配もない。動物の世界は弱肉強食。病気になったりした弱い者は、いじめにあって食べ物をもらえないらしい。でも、家にいればそんな心配もない。たっちも家に居ることを望んでいる。そして私もたっちが家に居ることを望んでいる。だって、たっちは私の大切な家族だから。
 それにしても、病気がどんなに辛い状況でも、たっちにご飯を欠かさず作り、ひとたび出血があれば応急処置をし、また遠くの病院でも電車を使って行ってくれる妻はなんと心強いことか。そして、なんと自分が弱いことか。感謝の意を込めて「ありがとう」の言葉をこの場を借りて最愛の妻に贈る。


「憂鬱な日々」2006/10/15(Sun)
 たっちは左目下がガンに侵されている。この病魔のせいで、皮膚が炎症を起こし毛が抜けてただれ、さらに骨が解けてしまっている。それゆえ、口がへっこみ物を食べるのも辛そうである。またガンが肥大化し、左目を圧迫しもう片目しか見えない状況である。ガン発覚からわずか一ヶ月。病状はますます悪くなるばかり。私も日に日に症状が悪くなる娘の顔を見るのが辛くなってくる。顔を合わすのが辛い。話しかけるのが辛い。でも、たっちはそんな父をみてなんて思うだろうか。「お父さんが私の病気を見て『辛そう』と思うことが辛い。」と思うことだろう。そんなことしたら余計たっちにストレスがかかってしまう。じゃあ、いっそのこと安楽死?…そんなことは絶対出来ない。だって自分の始めての娘だから…。生きている限りに、勝手に他の生命を終わらせる権利は私にはない。だから結局私にはどうすることもできない。考えることは、涙が出始めた7月になぜガンを気づいてあげられなかったのか。終わったことを悔やむことばかりだ。「悩んだって解決しない。だったら行動しよう。」私はよく生徒にそう言う。でも私はたっちのために行動できることって何?獣医ではない私が一体何ができるのか。ただ悪化していくたっちの病状を手をこまねいて見ているしかないのか。不治の病がこんなに苦しいとは思わなかった。「もう決して良くなることのない、希望の持てない状況で、一体どうすればよいのか。」私はきっと自分がガンに侵されていると告知されても、余命を有意義に過ごすことはできないかもしれない。
 もし、この闘病記をご覧の方がいらっしゃったら、私がどんなに軟弱で優柔不断で、自己中心的な人物かがお分かりいただけただろうか。でも、私は書くことで自分の気持ちを整理しているのだと思う。この絶望的な状況の中でも「ヒト」は生きていかなければいけないということを…。


「放射線治療開始」2006/10/12(Thu)
 3日火曜日。朝、めざましテレビの占いを見る。たっちの星座「射手座」が1位。ちょっと朝からいいことがあるかなとうれしく思う。自分の星座は下位の方だった。でもいいのだ。自分の不幸の分をちょっとでも愛娘たっちにあげることができればと思っている。私は、自分の御守りを妻に渡した。この御守りは私が小学生の時に祖母(母方)がくれたものだ。大学まで通学の際にカバンにつけ、車を運転するようになってからは、その御守りを車につけていた。そうすると不思議なことに私の体に危険が及ぶような事故はこの御守りが近くにある場合はおこしたことがなかった(車のホイールを歩道の縁石で擦ったことはあったが、体には危害はなかった)。だから、その御守りを娘にもたせたかったのである。そうまでしてでも、ゲン担ぎをしたかったのである。
 こうして、妻と一緒にたっちは初めての放射線治療に向かった。一番危険なのは麻酔だと言う。体力が低下していれば、麻酔によって死に至る事もあると言う。ただし我が娘はまだまだ血液検査は正常値で麻酔に耐えうる体力をもつと判断された。この大学病院は動物医学の放射線治療の中でも進んでいるところで、患部に三方から放射線を当てて治療するという。この放射線治療自体は命の危険性はほとんどないという。ただ、この扁平上皮ガンという病気は一説に放射線治療も甲斐がない場合も少なくないと言う。私や妻は、とにかく「放射線治療が効果あるように」願った。たっちが治療をしている時間、私は仕事をしていたが、やはりほとんど仕事に身が入らなかった。そのせいで右手の小指を骨折してしまった。また、仕事上で大きなミスをして周囲に迷惑をかけた。もちろん、仕事上のミスは許されるべきことではないので、大きく私は落ち込んだし、反省した。でも、心の奥底には「これだけの不幸が自分に降りかかれば、たっちの治療は成功したかもしれない」と思う自分がいた。この日はこの仕事のトラブルのため、帰宅したのは日付が変わった頃だった。たっちの治療は無事成功していた。たっちはすました表情でベットで寝ていた。ホッと一安心。抗ガン剤治療は放射線治療の結果を見てから決めましょうとのことだった。
 そして、10日火曜日。2回目の放射線治療。患部の左目したほほの部分をみて(患部は毛が抜けて皮膚がただれている状況だった)獣医は、「患部のただれも治まって乾いてきていますね。改善されている証拠です。」今回も無事に治療を終えて自宅に帰ってきた。心なしか足取りも一週間前より速いような気がする。行動も少しアクティブであるようだ。それは少し痛みが治まったからであろうか。放射線治療を選択してよかった。例えそれが一瞬の効果であったとしても…。


「大学病院へ」2006/09/30(Sat)
 28日木曜日。大学病院に診療に行ってきた。今回から放射線治療をやると思いきや、今回は診療だけ。具体的な治療方針を改めて設定するとのことだった。ほほのふくらみ発見から3週間。その時に放射線治療をできればもっと長く生きれたのではないか…。いや、それは自分の発見できなかった責任を他人に押し付けようとするものだ。そう、遅れたのは仕方ないことなのだ。そう…仕方ない…。
 私は病院に仕事で病院に行けないので、妻に行ってもらう。私はこの日は仕事になかなか身が入らなかった。嫡男と次女はうちの実家から母がやってきて面倒をみてくれることになった。診療。そして結果。
医師「扁平上皮ガンに間違いありません。転移はしてないので、中期の状態です。この病気は痛くて食べられないことから衰弱死をするケースが多いのです。とにかく保護者の方には、美味しいものを食べさせてあげてください。」
妻「わかりました…。」
医師「それで、今後の治療方針なんですが。放射線治療をしますか。お金が20万以上かかると思います。ここまでお金をかけるかかけないかは、保護者の方の判断ですから。」
妻「もちろんやります。よろしくお願いします。」
医師「これだけ保護者の方が治療を望んでいるのに、根治できなくて申し訳ございません。初期状態なら切除することもできるのですが…。」
私は思う。確かに人間の子ならほとんどの保護者が最善の治療を選択するだろう。でも、動物の場合はどうだ?飼い主は最後まで責任をもって「お金」を投じてでも治療してあげられるのか?獣医師は辛いと思う。医師の立場ならできるだけ最善の治療をしたいと願うだろう。でも、それだけの治療をする飼い主がどれだけいるのだろうか。いや、それ以前に動物病院に受診させる飼い主がどれくらいいるのだろうか。私は飼い主という言葉は使わない。同じ生命である以上、上下関係などないのだ。私にとってたっちは家族であり、子どもの中のひとりなのだ。
妻「抗ガン剤の投与などはできないのですか。」
医師「放射線の治療と抗ガン剤の同時使用は、この子の体力がもたないかもしれません。放射線治療で小さくなってから考えましょう。」
妻「そうですか。わかりました。」
放射線治療をする日が次の火曜日と決まった。妻のできるだけ早くに行いたいという希望で決まったのだ。私も妻と同じ気持ちだ。一日…一分…一秒でも治療を早く行いたい!私と同じたっちを家族・子どもという価値観を共有してくれてありがとう。私の最愛の妻。そして子どもたちよ。


「病気の進行」2006/09/27(Wed)
 たっちのかかっている「扁平上皮ガン」。非常に病気の進行の早い病。それをまざまざと見せつけられる。毎日家に帰る度に左ほほのふくれは大きくなっていく。それを見る度に辛くなる。もっと早く医者がガンを診断していれば…。もっと早く医者が治療を施してくれれば…。すぐ他人のせいにしたがる。昨日は少したっちと向き合えるようにがんばろうと思えたのに、病状が進行しているのをまざまざとみせつけられると、途端にその決心が緩んでしまう。
 ともかく明日。明日が放射線治療の日だ。ガンは切除しなければ直ることはない。でも、切除はできない位置なのだ。放射線治療はガンの進行を抑えるだけの治療。そして抗ガン剤もまた同じこと。毎日確実に悪くなっていく…・それでも、少しでも状況を変えたい思う。少しでも状況を良くしたいと思う。でも……それは叶わぬ願い?


「正式な診断が」2006/09/24(Sun)
 昨日から左の鼻にかけて炎症がみられるようになった。最初は「かき過ぎて炎症を起してしまったのかな」とも思っていた。あとで医者に聞いたところ、ガンの進行らしいとのことだった。今日は、大学病院に出していた詳細検査の結果を動物病院に聞きに行きました。結果は「扁平上皮ガン」ということでした。余命半年〜1年。2・3年は無理だろうとのことでした。具体的な治療の相談になり、大学病院で木曜日に放射線治療を受けることに決まりました。放射線治療のために今日も採血検査とレントゲンを撮る。採血もとくに異常なし。レントゲンも肺に転移はみられないとのことだった。「少しでも長く生きられるためには何をしたらいいですか。」との問いに答えは「抗ガン剤の併用も相乗効果が得られるかもしれません。向こうの大学病院で相談してみてください。」とのことだった。診察室では冷静にたっちの病気を受け入れているつもりだった。でも…一歩病院を出たら泣き出してしまった。7年間でほとんど病気もしていないうちの子が、どうして…。動物雑誌で13歳のねこちゃんとかいるじゃないか!どうしてうちの子ばっかりが!そう思って何かに当たりたくて。現実を受け止められなくて。ただたんにたっちを見ていた。
 家に戻ってきた。たっちの目の上を触る。先週には見られない固いシコリがある。これもガンのせいなのだろう。たっちを見ていられない。少しでも長く見て、優しくして、愛してあげたいはずなのに。それでも見ていられない。だって、たっちのことを見ると病気のことを思い出してしまうから。仕事は9月にはいって忙しくなった。家に居る時間が少なくなった。でも、どこかでホッとしている自分がいる。「病気のたっちを見なくて済む…」。なんて自分は冷たいんだ。それにひきかえ妻はひたむきにたっちに向きあっている。
 インターネット上で「扁平上皮ガン」を検索してみた。うちの娘のように「闘病記」を書いているサイトを発見した。読むと扁平上皮ガンという病気は非常に進行の早い病気らしい。しかも放射線治療や抗ガン剤治療があまり効果がないガンのようだ。それをみてまた落ち込む。その猫ちゃんは2003年11月に病気が発覚、2004年の3月に亡くなった。その闘病記を見ると「一緒に過ごした4ヵ月。私には、ただ見守ることと、そっと抱きしめてあげることしかできませんでした・・・」との記述。その気持ちが痛い程よくわかる。そして、2004年3月の闘病記を見終わると、声を上げて泣かずにはいられなかった。今まで想像できなかったたっちとの闘病生活。しかし、こんなにも苦しんだ猫と人が他にいる。自分にはこれ以上苦しいことに耐えられるのか。最近は何をやっても面白くない。ずっと気持ちは沈んだまま。でも辛いのはたっち自身なんだ。しかし、そう思っても思っても気持ちが晴れることはない。自分が悲しんだってたっちの病気が治るわけでもないのに。最近はちょっと自分の体が変だ。いつもより持病の喘息は悪化。睡眠リズムも非常に不規則。足のむくみなどもひどい。やはり重度のストレスからか。徐々にこのたっちの病気を受け入れていくしかないのだが。受け入れるまでは非常に苦しい。たっちのためには平常心で接していくのが望ましいと思うけど、ダメだ。やっぱりパパは泣き虫だから。たっちの顔を見るたびに、泣いてしまう。早くたっちの病気を受け入れたい。どうしたらいいんだろうか。でも、もっと悲しいこと、たっちの死の心の準備をしていかなくては…。でなければ、自分の心は…。ああ、こんな時も自分本位。自分中心主義。まったく嫌になる。


「御守りを」2006/09/17(Sun)
 今日はたっちの回復祈願のために西新井大師(東京都足立区)に行ってきた。本殿にお参りし、御守りを購入する。「身代り御守り」といって、本人の代わりに御守りが病気になってくれるらしい。たっちは安静にしてほしいため連れて行かず、代わりに御守りをもった自分が線香の煙りを左目のしたの方にあて、また地蔵を洗うときも御守りを持ちながら、地蔵の左目をよく洗った。医者ではない自分ができる限りのことはしようと思って行ったお参り。自己満足かもしれないが、とにかく少しでもたっちの役にたちたい。今日もたっちの好きな鮭を買って帰ることにした。


「血液検査の結果」2006/09/16(Sat)
 昨日に引き続き動物病院に行く。今日は血液検査とレントゲンを取るそうだ。「12時までに病院に来てください」とのことだったが、なかなか足が進まず、ギリギリになって家をでる。行きの車では沈んだ気持ちでいっぱいだった。
「それではたっちちゃんをお預かりします。午後5時頃迎えに来てください。」
「…命の期限はどれくらいですか…。」恐る恐る聞いてみる。
「まだ、はっきり検査をしないとわかりません。肺にもガンの転移が見られれば、放射線治療の意味もありません。」
「……。」
今日の5時には、最悪の場合治療も施せない状況が告白される。そう思うと自然と涙が溢れる。
帰りの車は行きよりもさらに気持ちが沈んでいた。どういう風に帰ってきたかもよく覚えていない。
家に帰って、たっちが居ないことが不自然に感じられる。いつものところでいつものように寝ているはずなのに…。
いてもたってもいられない。落ち着かない。何もする気になれない。自分はたっちの役にちっとも立てない。それなのに心配して沈んでばかりいる…。
「そうだ。たっちの闘病記をサイトに書こう。そうすることで、ちょっとは自分の気持ちが整理されるかもしれない。」
私はそう思い立ち、パソコンを開いた。夢中で書き上げ(下の記を)、あっという間に4時近くになった。
(もし、肺に転移していたらどうしよう…)
そんな嫌なことばかり考えてしまう。車の中では何も話さず動物病院へ到着した。
病院へ着くと意外に早く診察室へ通される。
「血液検査の結果ですが…炎症を起こしているため白血球などの数値が上がっているいくつか項目がありますが、その他はほとんど正常値です。」
まずは第一段階クリアだ…。
「次にレントゲンですが、現段階で肺などに転移の恐れはありません。」
何とか最悪の最悪の事態は避けられた。
「あとは大学に送った詳しい検査の状況を待って病名を判断しましょう。診察して感じるのは上皮ガンの可能性です。この眼の下ということで、完全に切除することは難しいので、やはりそうであれば放射線治療が一番かもしれません。」
「放射線治療はいくら位費用がかかりますか?」
「だいたい25万円くらいかと思います。そこまで治療をなさいますか。」
「もちろんです。お願いします。」
「わかりました。来週に結果が出ると思います。詳しい結果が出てから治療方針を相談しましょう。」
とにかく治療の道が少し見えてきた。少しでも長く生きられる道が…。
どんなに費用がかかってもいい。一分、いや一秒でも長く生きてもらいたい。
だってたっちが命を引き取るその日まで面倒を見るつもりで、6年前、家に連れてきたのだから…。


「眼の異常から」2006/09/15(Fri)
 まず、眼の異常に気づいたのは2006年の7月のことであった。左目に妙に涙が溜まることが多くなり、その度に私と私の妻はティッシュで拭いていた。最初は「何か眼にしみるようなものでも入っていたのか。」くらいの軽い気持ちしかなかった。しかし、2週間も涙は止まらず、しまいには目やにも多くなった。7月下旬、前回とは違う場所が歯肉炎になり抜歯する必要があり動物病院に連れて行った。その折にこの涙のことも話した。
「目薬をつけて様子をみましょう。」との事だった。
目薬を指すとしみるのか、非常に嫌がった。でも、目やにが減るなど少々の改善が見られたのでちょっと安心していた。それでもたっちの涙は収まらなかった。私は目やにがでなくなったことですっかり安心していた。いや、安心しようとしていたのかもしれない…。
 毎日目薬をさして無くなる頃になっても涙が出るのは収まらなかった。そこで動物病院に違う目薬を処方してもらった。今度は液体ではなく、塗り薬である。これも少々効果があるように見えたが涙が完全に止まることはなかった。そんな風にしているうちに9月になった。9月に入り仕事が忙しくなった。いつも通り家に帰って我が愛娘に「ただいま」の挨拶をする。すると、何かの違和感を覚える。顔の形が少しおかしい。いつもみる愛くるしい顔とはちょっとちがう。
 よくよくみると、左の眼の下が腫れていた。動物病院にすぐ電話した。
「緊急性はないかもしれませんが、早めに受診をして下さい。」とのこと。
 そして、仕事を早めに切り上げた9月9日。愛車「能登号」で動物病院へ。
「抜歯をしたので、細菌が侵入したかもしれません。…でも抜歯をしたのは2ヶ月前…。細菌に対する抗生物質を注射してみましょう。木曜日までに腫れが引けば細菌性のもので問題ないでしょう。」
「もし、腫れが引かなかったら?」
「"腫瘍”ということになります。」
「それは直るんですか?」
「大学病院から放射線機器を借りて治療することになります。まずは木曜日まで抗生物質の様子をみましょう。」
私は不安でいっぱいだった。もし抗生物質が効かなければ…。もう長く生きられないのか?
私は毎日自宅に帰るのが怖かった。「今日はたっちの腫れは引いているのだろうか。もし引いていなかったら。」
月・火・水…少し腫れが引いているようにも思えるし、逆に大きくなっているようにも思える。
毎日がいたたまれなかった。仕事が忙しいせいもあり、仕事をしている時だけがたっちの腫れの事実を忘れられる。しかし、家に帰って腫れの引かないたっちの顔を見ていると、憂鬱になり、何も手に付かない。私は月曜日〜水曜日まで家に帰ってテレビも見ない、夕食もほとんど食べずにひたすら眠った。眠れない日は睡眠薬も飲んだ。早く朝が来て"仕事に行きたかった”。そして、木曜日。自宅に帰ると・・・やはりたっちの腫れは引いていなかった。金曜日仕事を早めに終えて有休を申請し、5時には家に帰る。早速受診する。
「腫れは引いていませんね。明日またお越しいただけますか?血液検査とレントゲン撮影をしましょう。それで病名がわかるはずです。」
「細菌の可能性は無いんですか。」
「細菌に広範囲に聞く薬を前回処方しました。これならある程度腫れは引きます。全く反応がないことをみると、細菌の可能性はほとんどありません。」
「そうですか…。腫瘍は完治できるものなんでしょうか。」
「しっかり調べてみないと、現時点でははっきり言えません…。」
「病気の進行状況はどうなんですか…?」
「ここまで眼を圧迫しているということは…結構進んでいる…と言えると思います。」
ひょっとしたら、やっぱり細菌性のもので病院で薬を打てばみるみるうちに回復するのでは…という淡い期待は見事に崩れた。思えば7月目に涙が出たときにこの腫瘍は始まっていたのかもしれない。そうだとすれば、7月の段階で手を打てていれば。そんな出来もしないことばかりが頭に浮かぶ。そして、自分の娘の病気にすぐに気づけなかった自分の落ち度を悔やむ。病院からの帰りの車でもとことん後ろ向きな言葉ばかりを発してしまう自分。そして大事な家族でさえも傷つけてしまう。
「たっちの病気に気づけなかった。たっちの苦しむ姿を見るくらいならもう死にたい…。」
「そんなことをしたら、たっちが生きてたって証明を誰がするのよ!そんなことしてたっちが喜ぶわけ?」
「そんな、たっちがすぐ死ぬようなこと言うな!」
「だったらもっとたっちに触れてあげて。ブラッシングしたり抱っこしたりしてあげてよ。」
ふとバックミラー越しにたっちを見る。心なしかたっちが淋しく見えた。
(こんな苦しい思いをするくらいならいっそのこと、たっちを殺して自分も死のうか)そう思ってしまう自分がいる。
「…たっちの為に、夜ご飯は焼鮭を買って行ってあげよう。」
たっちは焼鮭を一目散に食べている。

 今までたっちと過ごす日々は永遠のような気がしていた。たっちが居るのは当たり前。子どもと一緒に2・30年も一緒にいれると思っていた。猫の寿命は10年ほどだって知っていながら、たっちだけは別だって思い込もうとしていた。そんなたっちを溺愛する私をみて、うちの両親は「たっちが亡くなった時、うちの子はどれだけ落ち込んでしまうか心配だ。」と妻に言っていたらしい。自分はたっちの病気を受け止めることができるのだろうか。いや、苦しいのはたっち本人だ。私が受け止められる受け止められないというのは自己満足や欺瞞でしかないのかもしれない。…でも…それでも考えても考えても、たっちの病気を受け入れることができない。だからせめて、「たっちの闘病日記」を書くことで自分を慰めていこうと思う。私の自己満足な文章ですが、よろしければお付き合いください。


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