その他の冨樫家一門の人物

冨樫高家<とがしたかいえ>(生没年不詳)
 冨樫介を称す。加賀守護。冨樫泰明の子。高家の「高」は鎌倉幕府14代執権・北条高時の偏諱である。高家は加賀冨樫氏で初めて加賀守護に任命された人物であるが、鎌倉幕府滅亡以前は楠木正成らとともに行動していた。後醍醐天皇の建武政権から伊豆国多留郷の地頭職を安堵されたが、その頃から足利尊氏に近づいていった。1335(建武2)年、北条時行が鎌倉に乱入した中先代の乱でも高家は尊氏に従い、以後は南北朝の乱でも尊氏方に属して奮戦し手柄を得て勲功として、加賀守護を得た。
 高家は分国加賀の支配にも努力し、中でも兵粮料所として預けられた加賀国の北英田保と山上郷はその後の冨樫氏の基盤となった。高家は加賀守護・冨樫氏の政治的・経済的の基盤を築いたといえるであろう。1336(建武2)年には、加賀守護として大野荘の乱暴狼藉の停止や1337(建武3)年には笠野南方の地頭職を田村教俊に沙汰するなどの活動が知られる。没年は不詳だが、1337(延元2)年とも、1351(観応2)年正月に討ち死にした(「坪内氏系図」『阿波国古文書一』より)とも言われる。
冨樫氏春<とがしうじはる>(生没年不詳)
 冨樫介を称す。高家の嫡子。加賀守護。南北朝の乱では北朝方、観応の擾乱(足利尊氏=高師直・直義の争い)では尊氏方についた。氏春の初見は1345(貞和元)年で、足利尊氏に冨樫新荘地頭職を充行われたという古文書がある。その後氏春は、1349(貞和5)年には高師直に率いられ、足利直義を討とうと参陣したり、1355(文和4)年には国内の手勢を引き連れ南朝方の桃井直常と交戦するなど、幕府(北朝方)に忠実に仕えて奮戦した。その恩賞として、足利尊氏から地頭職などを充行われるなどしている。死没の時期については、最後の活動が知られる1357(延文)年から、死去が確認できる1361(康安元)年の間だと思われる。
冨樫用家<とがしもちいえ>(?-1363?)
 対馬守。入道して沙弥源通。景家の末裔で、冨樫氏の庶流の額氏。高家、氏春、昌家に仕える。高家政権では在京する高家に代わって領国を統治し、南加賀の那多城を任された(『野々市町史通史編』P180より)。しかし1338(延元3)年、越前へ向かう越後南朝勢を用家が迎え撃ち敗戦したこともあった。その後用家は、氏春の晩年の少なくとも1349(貞和5)年から守護代行を勤めており、1356(延文元)年には守護代として寄進状を発行している。
 氏春死去後の1361(康安元)年の発給文書では、氏春遺児が幼いため用家が加判したとの記録があるなど、若年の当主・竹童丸(昌家)の後見人としてよく補佐して領国を維持した。1361年時には、すでに用家は老年に達していたのか、入道して沙弥源通と名乗っている。守護代在職中、白山本宮と地頭大桑氏の抗争を調停したり、白山麓の禅刹祇陀寺に禁制をするなど、混乱期の冨樫家をよく治め、冨樫家は危機を乗り越えることができたのである。用家の功績は大きいと言える。 室山孝の指摘で1363(貞治2)年頃に死去したとも考えられている。
冨樫満春<とがしみつはる>(?-1427)
 冨樫介と称す。加賀南半国守護の後加賀守護。法名・勝蓮寺殿常継。氏春の次男・満家の嫡子。満春の「満」の字は将軍・義満の偏諱である。冨樫家の嫡流である昌家の嫡子・詮親が幕府に逆らって明徳の乱で戦死した為、冨樫家の嫡流となった。1414(応永21)年、斯波義種が4代将軍足利義持の逆鱗に触れ失脚すると、加賀守護職は再び冨樫氏に与えられた。しかし、北半国は足利義持が寵愛する冨樫庶流の冨樫満成に与えられ、満春は南半国守護を与えられた。満春は満成が将軍に寵愛されているうちは重用されなかったが、満成が失脚すると残りの北半国も与えられ、念願の加賀一国守護となった。満春は幕府に良く配慮をして将軍の信任を得たといい、その信頼厚さは前将軍・義持や5代将軍・義量が度々満春邸を訪れる程であった。満春の分国支配としては、北ニ郡に山川筑後守家之、南ニ郡に二宮信濃入道を守護代として任じている。
 最初、冨樫満成は冨樫嫡流を称する「冨樫介」を称していた。冨樫庶流の久安氏が出自の満成が「冨樫介」を称するのは大変異例なことであるが、将軍近習という重要な立場であったことに加え、その頃冨樫氏が加賀守護を取り上げられていたことにより、満成に嫡流を託されたのであろう。また満成が将軍の寵愛を受けたことも理由に考えられよう。しかし、満成・満春が各々半国守護に任命されると、「冨樫介」は満春が名乗るようになった。これは、満成から満春へ嫡流が返還されたことを意味する。
冨樫持春<とがしもちはる>(1413-1433)
 冨樫介と称す。法名・福厳寺殿常永。加賀守護。御相伴衆。満春の嫡男。持春の次男。持春の「持」の字は将軍・義持の偏諱である。父の死去に伴ない1427(応永34)年に家督を相続。1430(永亨2)年正式に幕府より加賀国を安堵され守護に就任した。将軍家の信頼は父の代から変わらず、義持・6代将軍・義教も持春邸に訪れし、持春は御相伴衆に任命され、弟の教家は御供衆一番衆に任じられていた。持春の分国支配としては満春政権に引き続いて山川家之が守護代に任じられている。この頃、領国内の南禅寺領に若衆徒が乱入し、若衆徒の追討を将軍・義教より命じられる騒動が起こったが、満春・持春の治世はそこそこ安定していた。持春は1433(永亨5)年、21歳で短い生涯を終えた。
冨樫教家<とがしのりいえ>(?-1447?)
 冨樫介と称す。仮名次郎。刑部大輔。幕府の奉公衆、御供衆一番衆。加賀守護。満春の次男。教家の「教」の字は将軍・義教の偏諱である。1433(永亨5)年、嫡子を持たない兄・持春が若くして死去した為、早くから幕府に仕えて将軍に信頼厚い教家が家督を継承し加賀守護に任じられた。
 しかし、1441(嘉吉元)年教家が将軍義教の逆鱗に触れ逐電すると、冨樫の家督は満春三男・冨樫泰高が還俗して継承することになった。教家が逐電して6日後、将軍・義教が赤松満祐に殺される嘉吉の乱が起ると状況は一変した。すなわち、時の管領・細川持之は政治の安定の為、将軍・義教の恐怖政治で追放された人々を復帰させる方針を採ったのである。これは、逆に一族の内紛を呼び政治に不安定要因を与える一因となった。それは冨樫家も同様で、逐電していた教家が幕府の有力者・畠山持国と結び、細川持之の力を背景に守護に就任した弟・泰高と対し守護職返還を要求したのである。当然、泰高は反発し両者争乱となる加賀嘉吉文安の内乱が起こった。兄弟対立は一進一退が続いたが、1447(文安4)年、幕府より両流相論による泰高と教家の子・成春とが各々加賀半国守護となる和解案が提示され、屈折はあるものの両者受け入れて、教家は冨樫成春の後盾となった。 『野々市町小史』(1953年)によると教家は1447年に死去したと言う。
冨樫泰成<とがしやすなり>(?-文明年間没ヵ)
 中務大輔。入道して慈顕。泰高の子(「系図簒要」では泰高弟とも言われる)。「富樫中務大輔」は『永享以来御番帳』に「御伴衆」、「親元日記」文明十三年(1481)条に「御供詰番」の二番衆とみえる。病弱であり父泰高の1464(寛正5)年の隠居と政親への家督継承の際は、泰成の病気が理由に挙げられている。「系図簒要」によると「文明年中於京都死」と見える。年次未詳の古文書であるが、入道して慈顕と名乗っていても、加賀の祇園社領に対する国人・被官等の乱妨停止のための使者を派遣しているので、おそらく晩年においても京都にいて、幕府との交渉をもっていたのかもしれない。
冨樫政直<とがしまさなお>(1488?〜1553?)
 冨樫政親の子と言われる。『富樫家遠孫成田家由緒』や『富樫家遠孫成田家由系譜』などの後世の資料によると、「加賀一向一揆が高尾城を攻落し富樫氏第二十四世の政親が討死に際し、乳飲み児であった嫡子政直を乳母が懐にかくし、富樫親春という家臣が付き添って越前の知り合いに身を寄せていたという政親直系の後裔としている。成長した第二十五世政直は、世をしのぶため名を成田外記と改めたといい、その後第三十二世から井上姓を名乗っている。」(『富樫卿』第57号,2003年,3頁)とある。この資料を単に信用するわけにはいかないが、1490(延徳2)年に泰高は冨樫家督訴訟を幕府に提出し、受理されている。ということは長享の一揆(1488年)から2年後の中で富樫家の家督相続争いが起きている事実がある。家督相続争いと言えば、いわゆる「両流相論」が想起され、「冨樫泰高派」と「旧冨樫教家派」の争いが続いていたのではないか。そこで、旧冨樫教家派として擁立されていたのが、越前に逃げていたと言われるこの「冨樫政直」ではなかろうか。越前に逃れていたということは、その縁がゆえに泰俊の越前客居が実現したのかもしれない。ちなみに後世の資料によると、政直の嫡子、政時が政直没後家督を継いだと言う。
冨樫泰俊<とがしやすとし>(1511-1574)
 稙泰の子。法名「玄隆院殿巨川厳済大居士」。亨禄の錯乱(1531年)に守護である父・稙泰とともに、小一揆方として参戦。しかし、小一揆派が敗れたので、父とともに大一揆方の牢人となるが、後逃亡する。善性寺蔵1533(天文2)年泰俊袖判の文書には、泰俊が亨禄の錯乱後、加賀国内の秩序維持を命ずる文書が発給されていることからも、泰俊が一時加賀に帰国していたのが伺える。このことを館残翁氏『冨樫氏と加賀一向一揆史料』において、「当年父稙泰未だ存生中なれば、泰俊が帰国して国政の処理の衝に当りたるものにして、稙泰の帰任せざりしを証し得ん。」としている。しかし、本願寺派の勢い強く、一旦帰国していた泰俊もまた国を出る事になった。
 その後、越前の溝江氏の下に客居したようであるが、1574(天正2)年に越前河北一揆が溝江氏を攻めて溝江長逸父子が殉じたと同じく、客居していた泰俊と嫡男・恒春(稙春)と次男・天易侍者の父子3人も越前金津にて討ち死にしたと言われている(『越州軍記』より)。辞世の句として「先立ちぬくひの八千度悲しきは流るる水の廻り来ぬなり」が知られている(巣鴨介様ご教授による)。これにより加賀冨樫家嫡流が滅亡したのである。享年64歳と「富樫家系図」にあるが、没年にも研究の余地があるとも言われる。
 冨樫泰俊室は享年不明だが法名「慈現院殿玉珠清賢大姉」として知られる(巣鴨介様ご教授による)。

☆参考資料(冨樫泰俊花押)
冨樫泰俊花押

参考資料
木越祐馨(共著)『日本の名族七−北陸編−』新人物往来社.1989年
高澤裕一(共著)『県史石川県の歴史』山川出版.2000年
東四柳史明(共著)『室町幕府守護職家事典 』新人物往来社.1988年
(共著)『石川県大百科事典』北國新聞社出版局.1993年

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