冨樫満成特集

冨樫満成イメージ像
↑冨樫満成イメージ像(畠山義綱画)

☆冨樫 満成<とがし みつなり>(?〜1419)
 冨樫介。加賀守、兵部大輔。加賀北半国守護。幼名・香幢丸。冨樫氏の庶流久安氏の出自。家永の子。満成の「満」の字は将軍・足利義満の偏諱である。将軍義満・義持に良く仕え、1392(明徳3)年には将軍義満の相国寺供養に供奉しており、1410(明応17)年から申次衆を努める。1414(応永21)年、嫡流の冨樫満春とともに半国守護に任命されるが、義持の逆鱗に触れて1418(応永25)年に失脚した。

満成支配体制ちぇっく!
1414年から、加賀北半国守護:冨樫満成 南半国守護:冨樫満春という体制が出来あがっていた。


[1414-1418]守護代:山川氏
後に満春が一国守護となったときの守護代山川筑後守家之との系譜関係は不明。


満成政治・外交活動ちぇっく!
 満成は冨樫家庶流の久安氏の出自であり、冨樫介(冨樫家の総領)・加賀守護となるのは異例のことである。それは満成が幕府の申次衆として活躍した頃、加賀の守護は斯波満種であって冨樫氏ではなかったのが理由である。その満種から、何らかの形で守護職を奪ったのが満成であると室山氏(注1)は指摘している。満成は、1392(明徳3)年に将軍義満の相国寺供養に帯刀として供奉したのを始め、幼少より3代将軍足利義満の夫人・西向殿に仕えて西向殿に寵愛され、そして義満にも寵愛された。義満没後も引き続き幕府に重用され、4代将軍義持の近習となり寵愛を受け1410(応永17)年に申次衆になった。義持に寵愛され、さらに幕府申次衆である満成なら、幕府の圧力をもって冨樫氏の加賀守護復活を成し遂げたのであろう(注2)。そこで、冨樫氏嫡流の満春が加賀一国守護として復活するのではなく、満成と満春で半国守護に分け合うという形で冨樫氏の守護回復が実現したのではなかろうか。ともあれ、1414(応永21)年、加賀守護斯波満種が将軍義持の勘気に触れて失脚したのを契機に、27年ぶりに冨樫氏の加賀守護が復活したのである。ただし、半国守護に就任した後も満成の将軍近習としての立場は変わらなかったようである。
 加賀半国守護となった満成と冨樫満春の地位は平等であったらしく、(注1)論文によると、「両人は応永二十一年の称光天皇の即位に当たり、用途を負担した大名の中に名を連ねており、同額の三十貫文を寄進していることも一つの証左となろう。」としている。当初満春よりも先に「冨樫介」を名乗っていた満成が、1414(応永21)年の時点では満春が「冨樫介」と名乗っていることは、冨樫家総領が満春になり冨樫家家督が嫡流に戻ったことを示す証拠である。と言うことは、形の上では嫡流の満春が優位に立ち、実質は平等の地位であったと言うことであろうか。満成の政治活動としては、加賀国の鷹司家領を横領したことで知られる。守護支配の強化や在地基盤の確立といった動きであると思われる。
 満成は1416(応永23)年、上杉禅秀の乱に足利義持の弟・義嗣が加担するのを防ぎ、1418(応永25)年には義持の命令で相国寺に幽閉した義嗣を殺した。しかし、満成が義嗣に謀反を勧めたとか義嗣の愛妾林歌局と密通したと言われ義持に勘当され失脚した。同年高野山経由で奈良吉野に逃れるが、河内で畠山満家に殺された。満成失脚後、京都の満成邸は遊佐兵庫に与えられ、加賀北半国守護職は南半国守護で冨樫嫡家の冨樫満春に渡され、再び冨樫氏が加賀一国守護となった。冨樫家の庶流である満成ではあるが、斯波氏に奪われた守護職の回復という面では大きく貢献した人物である。

満成幕閣地位ちぇっく!
 将軍の意向を文書等で伝えたり、逆に下から上がってくる情報を将軍に披露するのが「申次衆」である。6代将軍義教の時に申次衆の人事が固定されるまで、将軍に近い近習等が任命された。満成は足利義満の近習で、1410(応永17)年に伊勢貞行の死去に伴なって赤松持貞とともに申次衆となった。それから、1418(応永25)年に失脚するまで8年間申次を努めた。冨樫満成の申次衆としての活躍は詳しくは(注1)論文を見ていただきたい。
 満成は、将軍義満の時には近習として仕え、義満の秘書のような役割をしていた。義満の個人的な頼みごとや、対外勢力からの相談事に乗るなど、様々な役割を果たした。そして、将軍義持の時に申次衆となると、いよいよ幕閣での地位が上がり「近日権威傍若無人」(『看文日記』より)と評されるほど、申次衆の地位を利用して権力を持っていたのである。そして1418(応永25)年には満成は申次衆として、足利義嗣への内通問題等で山名氏や土岐氏を追い詰めるなど、幕府の権力を高める為の謀略を仕組んでいた。しかし、この「義嗣謀反事件」で、義嗣に謀反を仕向けたのは実は満成で、一緒に謀反を起こそうとしたがばれてしまいそうだったので、将軍に進言して義嗣を幽閉し暗殺したという噂が流れた。さらに女性問題も表面化し一挙に満成は失脚し、暗殺されるという憂き目にあったのである。満成が噂どおり「権威傍若無人」かどうかはわからないが、権力を得てのし上がるくらいの力の持ち主であるから、それくらい野心家であったのかもしれない。

満成出陣履歴ちぇっく!
 1399(応永6)年、周防など6ヶ国の守護を兼ねる大内義弘が関東公方・足利満兼と結び幕府に反乱を起こした"応永の乱”が起こった。この乱に対し将軍義満は管領以下を率いて自ら出陣し、和泉国堺を攻略し義弘を討った。この幕軍に「冨樫」も参陣しており、おそらく満成のことだと思われる。

満成文芸ちぇっく!
 将軍の追っ手を逃れ、吉野にいた頃に次の和歌を詠んだと言われる。どれも自分の往年の事を懐かしんで読んだ和歌である。京都の幕府に近習していたため、満成の文化水準も当然高かったと思われる。

醍醐雑記
故里の、みちもいまさら、わするらし
  出て年ふるかくれかの庵

みよしのや、山のあなたの、花見ても
  都の春をおもいいつらん

ながらへば、又もやと思う、たのみには
  老いてもおしき命なりけり
参考資料
木越祐馨(共著)『日本の名族七−北陸編−』新人物往来社.1989年
東四柳史明(共著)『室町幕府守護職家事典 』新人物往来社.1988年
室山孝「近習冨樫満成考」『加能史料研究』13号,2001年
山田邦明「室町幕府と加賀・能登」『加能史料研究』18号,2006年
(共著)『石川県大百科事典』北國新聞社出版局.1993年
(共著)『野々市町史 資料編1』野々市町.2003年

(注釈)

(注1)室山孝「近習冨樫満成考」『加能史料研究』13号,2001年,36頁より
(注1)実際、能登でも14世紀、将軍義満の寵愛を受けた本庄宗成が従来の守護吉見氏を退けて守護になるなど、当時の守護職は将軍や管領などの幕府の有力者に左右されていたと言える。冨樫氏が幕府有力者のせいで守護職を奪われたのも然り。幕府の有力者のおかげで守護職に復帰できたのもまた然りである。(詳しくは冨樫氏はなぜ加賀守護を3度も奪われたか参照)

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