畠山貴維特集

畠山貴維イメージ

☆畠山 貴維<はたけやま たかつな>(生没年不詳)
 治部少輔。仮名弥二郎。系譜関係は不明。能登在住だが、古文書に「二本松也」あるので二本松畠山氏の血筋だと思われる。同時代の二本松畠山氏の当主は畠山村国(?-1542?)であるが、二本松側に古文書がまったく残っていない時期のため、二本松畠山氏との繋がりまではわからない。

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  (古文書A)に「二本松也」あるように二本松畠山氏の血筋だと思われる。同時代の二本松畠山氏の当主は畠山村国(?-1542?)であるが、二本松側に古文書がまったく残っていない時期のため、二本松との交流の実態もまったくわからない。ただ、能登畠山家と河内畠山家との交流はかなり積極的に知られているので、能登畠山家と二本松畠山家との交流があっても不思議ではない。
 「二本松治部少輔」を名乗る貴維は能登に邸宅を持っており、1517(永正14)年に冷泉為広の門弟となり私邸で和歌の会を開いたり(古文書A)、為広に歌集の貸与を求めている(古文書B)のを考えると、貴維の能登滞在は一時的なものではないと考えられる。それほど深く能登畠山家と二本松畠山家の交流があったのであろう。貴維は為広の能登滞在中に「二本松殿」(貴維ヵ)が10貫を贈っており(西谷内畠山氏の畠山家俊は3貫)、また1518(永正15)年に為広が上洛して能登を離れる時、「二本松弥二郎」(貴維ヵ)は1000疋を餞別として贈っている(西谷内畠山氏の畠山家俊が300疋)。畠山家俊と比べると金額が大きく、貴維の経済力はなかなかであり、貴維の能登での影響力もそこそこあったと考えられる。

 また、少し時代は下るが1534(天文3)年に「畠山治部大輔」が将軍義晴に「坂本渡海につき太刀・馬」を献上している記録がある。「治部少輔」を「治部大輔」と間違えたとするならば、貴維かその子孫の可能性がある。御内書の奏者が能登畠山氏の申次だった大館常興となっていることからも、能登畠山氏の貴維関係の人物ではないかと思う。さらに1540(天文9)年に、「畠山二本松治部少輔」が幕府に年始の礼として太刀を進上している。最後の「能登関係の二本松」の所見から22年も経っているが、幕府に進上するくらいの身分であるから、冷泉為広の門弟となるほどの文化と経済水準の持ち主なので、貴維もしくはその子孫ではないかと思われる。そして、(古文書C)で1542(天文11)年にも二本松治部少輔が太刀を献上し、「毎年儀也」とあるので、おそらく1541(天文10)年にも古文書は見つかっていないが贈り物をしていたと考えられる。さらに(古文書D)で能州匠作=畠山義総と同時に将軍・足利義晴の帰洛の礼を送っていることから、能登守護である畠山義総に次ぐ地位の人物だと思われ、それこそ畠山の直系である二本松氏の系譜である貴維かその子孫であることは可能性が高いと思う。


 その後の「二本松治部少輔」の系譜人物の動静は知られないが、天正年間に入ると、「気多社壇那衆交名」(気多大宮司家文書)の「天正元年大宮司宿祢旦那衆」には、 「畠山修理大夫(義慶ヵ)殿」に次いで「二本松殿」の名が見られること。能登畠山氏系図で、畠山義綱の庶子として「二本松義有」という名前が挙がっており、畠山義隆に比定されることもある。東四柳史明氏は「奥州二本松の畠山一族で、能登に来住していたものの名跡を継いだものであろうか。」(『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社.1986年)と述べているが、義隆は貴維の養子になったものであろうか。

(古文書A)「為広能州下向日記」(京都市冷泉家時雨亭文庫所蔵)
[  }(永正十四ヵ)同霜月十日、於畠山治部少輔(貴維ヵ)二本松也亭當座、
朝雪 夢サヘシ[  ]マノ風ノ姿ヲモ今朝ミルホトノ庭ノ白
占戀 [    ]タキテカハル夜ノツラサマ柴ノウラメシノ身ヤ
 ※[ ]はカッコ内読解不能


(古文書B)「為広能州下向日記」(京都市冷泉家時雨亭文庫所蔵)
一、右集、源治部少輔貴維(畠山ヵ)爲門弟子[ ](懇)望之間、家本借與之處、[ ]禮部書寫之云々、尤可爲證本者也、
 于時永正第十五天初春下澣日  桑門宗C判(冷泉為広)
 冷泉為広が門弟の畠山貴維の求めに応じて歌集を貸与する。


(古文書C)「大館常興日記」(天文11年4月4日条)
四日、少曇
一、いりこ十束、畠山二本松殿(治部少輔)より給之、毎年儀也、
一、同三束、佐殿(大館晴光)へ遣之(中略)
一、御太刀、二本松殿より年始御禮進上之、
 幕府に年始礼として太刀を献上する。毎年行っていたようだ。


(古文書D)「大館常興日記」(天文11年5月7日条)
七日、曇、(中略)
一、御太刀一腰持、御馬黒毛無紋、一疋、能州匠作(畠山義総)より、御入洛御禮に進上之、書状日付四月二日、
一、御太刀一腰、持、畠山二本松殿(治部少輔ヵ)進上、御入洛御禮、書状日付三月廿八日、
 右兩條、則以佐申入(大館晴光)之也、取次富左(富森行成)也
一、鹽(しお)引尺、飯川隼人能州より使者也、獻之、取次同前
一、鳥子百枚、半隠齋(飯川宗春)より被獻之、
一、越後布三端、匠作より給之
 将軍足利義晴帰洛の礼として義総・貴維が太刀などを進上する。

参考文献
木下昌規編『足利義晴』戎光祥出版,2017年
『加能史料]T』石川県史書刊行会.2013年
『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社.1986年
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