二本松畠山氏 人物特集
二本松畠山氏系図
(1)奥州(ニ本松)畠山氏の誕生・おこり
平氏の血筋畠山重忠が鎌倉時代に北条氏に征討されて血筋が絶えた後、畠山氏が絶えるのを惜しんでその名跡を継いだのは、足利義純であった。このため、源氏畠山氏としての初代当主は畠山義純となる。その初代義純から当主の家督を数えるのが奥州(二本松)畠山氏である。二本松畠山家が滅亡したのは、初代義純数えて16代目義綱の時である。
奥州畠山氏は血筋的には(足利)義純以来の畠山氏の嫡流であるが、庶流である河内畠山氏(畠山基国祖)が室町幕府の管領になるなど、中央政界で重要な位置を占めるようになり、河内畠山家が宗家と呼ばれるようになってしまった。一方、本来の嫡家である奥州(二本松)畠山氏は1345(貞和元)年に幕府の奥州統治推進の命を受けて畠山国氏(と吉良貞家)が奥州に奥州管領として派遣された。当初こそ、室町幕府の下でかなり強大な勢力を誇っていたが、尊氏と直義の対立や奥州国人の自立化で時と共に奥州探題の力は無力化していった。その事を示す事実として、奥州管領制補完の為に石橋棟義が特派された事、畠山氏・吉良氏に代わって大崎氏が奥州探題に就任した事、鎌倉府が奥州支配強化の為に篠川・稲村両公方を派遣した事などが挙げられる。このような混乱の奥州にあって二本松畠山氏はどんどん衰退し、7代・満泰に至る頃になると、かなり勢いも衰えもはや一介の地方豪族に成り下がってしまうのであった。その後は、奥州で強大な勢力となった伊達に振り回され、16代・義綱の頃、伊達政宗に滅ぼされたのである。ただ、戦国期においてもなお二本松畠山氏の当主が足利将軍通字の「義」の字を与えられた事は、この時期に至っても二本松畠山氏の地位が高かった事を伺わせる。奥羽で「義」の字を許されたのは奥州探題の大崎氏と羽州探題の最上氏だけであり、戦国期になっても二本松畠山氏が「探題職」としての家格を中央から認められていたのである。
二本松畠山氏の資料はかなり少なく、当主の文書・記録が知られるのは、6代・国詮までと13代・義氏以降である。それゆえ、その間の当主については系図などで差異も多く、今のところ確定的な系図は判明していない。
(2)奥州(二本松)畠山氏の人物
- 畠山満泰<はたけやまみつやす>(?-1448?)
- 宮内大輔、左京大夫。奥州探題(注1)。7代当主。6代当主国詮の三男。満泰の「満」の字は将軍・足利義満の偏諱だと思われる。また、「泰」の字は遠祖2代泰国から名をつけ「二本松畠山氏は全畠山氏惣領であることの権威を示そうとしたとも考えられる」(『二本松市史通史編』288頁より)と言われる。満泰は前当主・国詮が拠点とした田地ヶ岡が防衛に適さないという理由で、要害の地である白旗ヶ峯に居館を移し、二本松城とした。この頃、満泰の兄弟として国詮の長男・満国は川崎氏の養子、次男の満詮は本宮で築城し本宮氏の祖となり、四男・氏泰は椚山で築城し新城氏となるなど、満泰を中心に畠山一族の所領を拡大していった。また、満泰は1440年、奥州にあった笹川公方・足利満直を石橋・石川氏らと共謀して殺害するなど政治的な勢力拡大に努めた。なお、満泰は時宗に帰依して二本松城下に称念寺を建立した。この称念寺には現在でも畠山家墓所が残る。没年は、称念寺の二本松畠山墓所によると1448(文安5)年3月15日。
- 畠山持泰<はたけやまもちやす>(生没年不詳)
- 修理大夫、宮内大輔。8代当主。7代満泰次男。持泰の「持」の字は将軍・足利義持の偏諱だと思われる。兄・満盛は早世しその子徳光丸も幼少なため、持泰が家督を継承したとされる。のち成人となった修理大夫・政泰(徳光丸)と不和になって二本松を去ったと言われる。一説に持泰は「持重」とも言われたが、『二本松市史』288頁では、将軍義持の偏諱「持」+遠祖泰国の「泰」の字で「持泰」の方が正しいのではないかと指摘する。ただ、持泰の古文書が無い以上、確定できてはいない。没年は、称念寺の二本松畠山墓所によると1470(文明2)年2月16日。一説には1472(文明4)年とも言われる。
- 畠山政国<はたけやままさくに>(生没年不詳)
- 修理大夫、治部少輔。9代当主。持泰の嫡男。一説には政泰、国頼とも言われる。政国の「政」の字は将軍・足利義政の偏諱だと思われる。 没年は、称念寺の二本松畠山墓所によると、1519(永正16)3月24日。一説には1494(明応3)年とも言われる。
- 畠山村国<はたけやまむらくに>(?-1542)
- 右馬頭、修理大夫。10代当主。9代政国の嫡男。村国に関してはほとんど記録に見えない。政国の次男にして村国の弟・村尚は新城氏の祖となっている。村国の代には足利将軍の偏諱が途絶えている。渡辺芳雄没氏は「村国」は足利義材(のちの義稙)の偏諱を誤って伝えたものか、誤写ではないかとしたうえで、本当は「材国」であったのではないかと指摘している(「二本松畠山氏系図小考(その一)」『福島史学研究』67号.1998年.P8より)称念寺の二本松畠山墓所によると、1542(天文11)3月6日。
- 畠山晴国<はたけやまはるくに>(生没年不詳)
- 右馬頭。弥太郎。11代当主。10代村国の嫡男。初め稙国とも言われる。初名・稙国の「稙」の字は将軍・足利義稙の偏諱であり、晴国の「晴」の字は将軍・足利義晴の偏諱である(注2)。晴国の初名が「稙国」となると、将軍・足利義稙の(再任した)在任期間が1508(永正5)年〜1521(大永元)の間なので、晴国の元服もその間に求められよう。それにしてもなぜ二本松畠山氏の菩提寺である称念寺の墓所に名前がないのであろうか。
- 畠山家泰<はたけやまいえやす>(?-1546)
- 七郎。12代当主。11代晴国の嫡男。早世したと言われる。没年は、称念寺の二本松畠山墓所によると、1546(天文15)4月23日。
- 畠山義氏<はたけやまよしうじ>(?-1547)
- 信濃守。重義。仮名七郎。法名宗阿。11代晴国の次男。義氏の「義」の字は将軍・足利義晴の偏諱だと思われる。将軍家の通字である「義」の字を与えられたことは、それだけ家格を認められていたことになる。奥羽において、「義」の字を与えられたのは、奥州探題の大崎氏と羽州探題の最上氏だけであり、伊達ですらも「義」の字を認められていない。戦国期でも幕府からその家格を認められたと言うことは、そこそこの勢力があったのではなかろうか。
12代当主・兄家泰が早世した為、二本松畠山氏を継いで13代当主となる。義氏が当主の頃、伊達家では稙宗と晴宗父子の仲が悪く畠山氏の家中でも伊達氏に連動して両派にわかれて敵対していた。義氏は稙宗派で家中を統一しようと、1542(天文11)年9月13日、田村隆顕、塩松尚義らの援助を得て家中の晴宗派の家臣を二本松城から追放した。さらに9月14日には八丁目城主堀越能登が晴宗派の遊佐美作守の城を攻略し、家中が稙宗派に統一された。しかし、それでも家中は落ちつかず、義氏は1546(天文15)年6月3日に畠山庶流の本宮宗頼を本宮城から追い落とした。宗頼は岩城氏の元へ逃げたという。することに成功した。また石橋久義が晴宗方に寝返ったので、義氏はこれも攻めるなど積極的な家中統制を行っている。しかしこのことは、結果として伊達家の内乱がいかに深く畠山家中にまで影響するかを物語り、すでに当主である義氏の力だけでは統制不可能であったという史料でもある。
1548(天文17)年に「伊達天文の内乱」は形勢有利となった晴宗が稙宗と和議を結び終結するが、二本松畠山氏がどうしたかという記録はない。義氏の没年は、称念寺の二本松畠山墓所によると、1547(天文16)3月5日。『称念寺八百年史』によると義氏は早世したというが、伊達稙宗に味方したので家督を追われ、庶子である義国が継いだという推論も成り立つかもしれない。
- 畠山義国<はたけやまよしくに>(?-1580)
- 修理大夫。14代目当主。10代当主村国弟・新城上野介村尚の嫡子。尚国。13代・義氏の嫡子が途絶えたのをうけて、二本松畠山家を相続した。伊達氏の内乱に端を発した「伊達天文の乱」が1547(天文17)に集結すると、勢力拡大を目指す蘆名盛氏と田村隆顕の紛争に巻き込まれた。その中で義国は田村方に与していたが、1551(天文20)年義国(尚国)に対立していた蘆名と田村を白川晴綱との共同で仲介し講和を成立させている(「結城白川文書」東京大学文学部所蔵)。このことを『二本松市史通史編1』では「このような調停者すなわち中人に立つことができるものは、当然ながら独自独立の権力主体でなければならない。」(300頁より)と評している。また、同書は白河氏の内乱において初信で畠山義国に内乱鎮圧要請したのを「畠山尚国の実力が相当のものであったことをうかがわせる。」と評している。これらを評して畠山義国時代の二本松畠山氏は「少なくとも安達・田村・安積・白河および会津にわたる広域の平和秩序を担う」(『二本松市史通史編1』300頁)権力の主体として認められていたと指摘する。さらに白川氏からは年次不詳の文書ではあるが、正月に太刀を贈られ、同時に白川家中の内紛に対する援助を求められており、それ相応の実力があったとうかがわせる。
しかし、義国の親類とみられる「二本松盛国」が蘆名盛氏に当てた書状で、義国が「田地」(田村領のことヵ)に出兵したところ、伊達輝宗に攻撃され「若い面々十数人が討死」と伝えている。合わせて二本松方の八丁目城の500騎を伊達が1000騎で攻めるが、そこに義国や塩松などの援助があったと見える文書がある。この文書には1573(天正元)年に死す蘆名盛興が登場することから、輝宗が家督を継承した1564(永禄7)年〜1573(天正元)年の事と思われる。さらに「異本塔寺長帳」には1570(元亀元)年の条に「蘆名盛氏、二本松合戦」とみえ、義国の頃の二本松畠山氏は伊達氏にも蘆名氏にも侵攻される状況となっていた。
1574(天正2)年に伊達実元と蘆名氏の攻撃を受けて降伏し、伊達・蘆名連合に属し、安積郡半分・安達郡半分の知行となってしまった。隠居は天正初年頃かとも言われ、その頃には嫡子の義継に家督を譲っていたものと思われる。1580(天正8)年8月1日に死去(「積達館基考一」)。
- 畠山義継<はたけやまよしつぐ>(?-1585)
- 左京亮、右京大夫、上野介。七郎。法名月峰円公。15代目当主。14代・義国の嫡男。義国の頃から緊張関係であった伊達家と1574(天正2)に一戦を交えた。畠山勢の堀越能登が守る八丁目城を伊達実元が攻略したのである。このとき、義継は三春城主・田村清顕を仲介に、伊達への50騎の軍役を条件として和睦しようと奔走した。輝宗は何度も講和を拒否したが、結局は田村氏の調停を受け入れて50騎の軍役を条件に講和した。この後義継は1582(天正10)年の伊達家の相馬攻めの際に一端諌めるよう要請しているが、最終的には伊達家の陣に参陣している。しかし、畠山家と伊達家は大内家との関係を通じて悪化していく。義継は大内定綱と連合して、田村清顕と敵対し、それに便乗して蘆名・二階堂が田村を攻めることになった。蘆名はさらに佐竹と結ぶことになり、畠山家も次第に伊達家から離反して蘆名に近づいていった。
こうした険悪関係からとうとう1584(天正12)年、畠山氏は蘆名方に寝返った大内定綱が二本松に逃げたという理由で伊達政宗に攻められることになった。義継は何度も降伏を申し入れたが、なかなか聞き入れられず「嘆願を続ける義継に輝宗は、”南は杉田川、北は油井川の間の五か村の地域を残して明渡し、義継子息を人質として米沢に差し出す事”」(『二本松市史』327頁より)という講和条件を突き付けた。それに対し義継は、五か村では勢力維持すら困難になるとして「”召上げは杉田以南か油井以北のどちらかにされたい”と懇願したが輝宗は許さなかった」(前掲書)とある。義継は講和条件を再検討し妥協案を提案したが、それも受け入れられず結局五か村のみの安堵で決着し、輝宗との御礼に行った時にかの有名な事件が起こった。
一説義継は、「戦国時代を象徴する梟雄で伊達輝宗を拉致、刺殺する。」とも言われるが、一方で彼の暗殺は伊達側が仕組んだ義継暗殺作戦であったとも言われている。これについて『二本松市史 通史編1』では、「町なかで刀を磨ぐ者が、”今日義継が来たらこの刀を試そう”と戯言をいったのを聞いた二本松の商人が驚いて義継の臣に報告した、これが義継に耳打ちされた。そこで義継は急にこの挙動に及んだという。」としている。二本松畠山氏の軌跡は、米沢・仙台との距離的関係から後世仙台藩を担う伊達氏の史料に依拠しざるを得ないのが現状である。このような現状においては、義継の行動が悪く書かれるのは当然でありその点を加味してこの事件を考えないといけない。さらに言えば、この事件を通じて二本松畠山家全体の軌跡が伊達史料により歪曲されていると考え、二本松畠山氏研究を行う時にはそれを十分加味して考察すべきであると考える。
- 畠山義綱<はたけやまよしつな>(1574-1589)
- →武将列伝「畠山(二本松)義綱」の項を参照
ちぇっくぽいんと!
上記以外の畠山一族で、嘉吉年間頃の文書である「畠山修理亮盛宗」や、天文年間晩年頃の文書である「畠山右馬頭盛国」の書状もある。さらには、畠山村国の家臣として姓不明の「安房守政仲」が結城白河氏にあてた文書など2点残っている。
- ☆参考文献
- 垣内和孝「二本松畠山氏と塩松石橋氏」『日本歴史』592号、1999年
曽我伝吉『奥州探題畠山氏と其裔五百川流域の開発者』本宮町,1984年
山本大ほか『戦国大名系譜人名事典 東国編』新人物往来社、1986年
『福島県史第1巻通史編(原始・古代・中世)』福島県、1969年(3000円)
『二本松市史 通史編1』二本松市、1999年
『二本松市史 資料編1』二本松市、1981年
(注釈)
(注1)足利義満の頃より「奥州管領」から「奥州探題」に職名が改められた。満泰は二本松畠山の最後の「奥州探題(管領)」である。
(注2)『後鑑』所収の「御内書引付」によると、将軍・足利義晴が二本松畠山稙国に対し偏諱を与え「晴国」と称させたという。足利義稙と義晴は対立していたこともあり、その可能性は十分に考えられる。
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