冨樫政権末期の政治状況

はじめに
 1488(長享2)年に起こった長享の一揆。俗に言う「加賀の一向一揆」は、中学校の歴史教科書にも掲載されるほど大きな事件である。この後の加賀の状況は、本願寺や一向一揆が大きくクローズアップされて、神田千里氏や井上鋭夫氏らが一向一揆の研究を精力的に行っているが、冨樫側からの検証が十分とは言い難い。そこで、長享の一揆後も存続した冨樫氏を題材に、冨樫政権末期の政治状況を探っていこうという試みである。

(1)長享の一揆と冨樫氏
 1488(長享2)年に起こった長享の一揆は、冨樫政親対一向一揆という対立構図がピックアップされがちである。しかし、一向一揆側が冨樫泰高を総大将としてたことからもわかるように対立軸はそれだけではなかったのである。つまり、冨樫家の内紛という対立軸である。すなわち一貫して将軍・足利義尚に味方する冨樫政親に対して、反義尚派が起こした反乱に乗じて一向一揆が政親を攻撃したものである。また、この合戦は結局冨樫政親が敗死することで決着するが、その後は加賀の守護に冨樫泰高が任命されているからも、単なる政親対一向一揆という対立軸ではないことがわかる(詳しくは長享の一揆参照)。
 では長享の一揆後の加賀はどのようになっていったのか。一般的には加賀は「百姓ノ持チタル国」になったというイメージがあり、100年ほど庶民の自治をしたと誤解する人が多い。しかし、実際は前述したように加賀では冨樫泰高が守護に任じられている。また、本願寺が徴税権など守護権を持ったとも言われるが、その本願寺と一向一揆はイコールの者ではない。確かに信仰的には本願寺が指導者であり一向一揆は門徒であるが、長享の一揆では本願寺の蓮如が意図しないのに起こったため、蓮如が門徒に対して「御叱りの御書」(注1)を出しているくらいである。つまり、本願寺の統制で一向一揆が行動しているわけではないのである。従って、本願寺が守護権を持っているとしても、一向一揆は領国支配になんら決定権をもっていないのである。さらにその一向一揆も農民などの庶民が主体ではなく、そこには国人や侍が多く含まれている。特に長享の一揆後は多くの国人が門徒となっている。ということは、一向一揆=庶民の自治というのもまた成り立たないのである。

(2)長享の一揆後の冨樫政権
 では、次に長享の一揆後に誕生した冨樫政権について見ていこう。長享の一揆後の冨樫政権はなぜ衰退したか。筆者は以前本願寺勢力が冨樫氏を傀儡化していたから徐々に衰退していったと漠然と考えていた。しかし、それは視点を加賀にのみ向けた場合であり、加賀と幕府の関係を見ると以前の考えが正しくないことに気がついた。ここでまず長享の一揆後の加賀と幕府の出来事を対応させた年表で、冨樫政権末期の状況を明らかにしていこう。

(年表1)加賀と幕府の動き
西暦 和暦 加賀の出来事 幕府の出来事
1488 長享2 長享の一揆で政親が敗死。泰高が守護となる。 将軍足利義尚、門徒らの破門を本願寺に要求。
1489 長享3 正月、泰高が幕府に出仕する。 3月、将軍義尚が死去。後継者問題で、義政・日野富子は義視の子・義材(義稙)を、管領の細川政元は、堀越公方政知の子・義澄を推す。
1490 延徳2 冨樫家督訴訟を幕府に提出し、受理される。 前将軍・義政が死去。義材(義稙)が将軍職を継ぐが、義視・義材父子の専横を嫌って日野富子が義澄支持に傾く。
1491 延徳3   足利義視、政知が死去。
同年   8月、将軍義材が、義尚の意志を継ぎ、第二次六角征伐に出発。管領細川政元は内衆を派遣したのみで、自身は参陣せず。
1492 延徳4 幕府が泰高に南禅寺領の治安維持を命ずる。 12月、六角征伐が一応の効果をみたので、義材は京都に帰陣する。
1493 明応2   閏4月、細川政元が将軍義材を幽閉。(明応の政変)
同年 6月、泰高が京都より逃走。 5月、幕府が赤松政則に加賀北半国守護を安堵。
同年   越中に逃れた将軍義材の元に能登・畠山義統、越前・朝倉貞景、越後・上杉房定、加賀・冨樫泰高が馳せ参じる。
1494 明応3 越前朝倉氏との戦いに敗れた越前甲斐氏が加賀に退いた。  
1496 明応5 加賀で地下人が中心の「一国の一揆」が起こり国内争乱となる。  
1497 明応6 義稙(義材)が京都の慈受院に料所である加賀中野田・久安村を安堵。  
同年   義稙が細川政元と越前で和平交渉をする。しかし、意見の相違がありなかなかまとまらず。
1498 明応7   義稙が兵を率いての上洛を目指し、越前に進出。
1499 明応8 6月、勧修寺領加賀井家庄の還付を松岡寺に命じる。
9月、泰高が法慶道場に寄進。
11月、義稙が近江六角氏に敗れ、周防・大内氏を頼って逃亡する。
同年 将軍義高(義澄)が勧修寺領である加賀井家庄の還付を本願寺派の松岡寺らに命じる。  
1500 明応9 将軍義澄が、幕府奉公衆の摂津元親の加賀の所領に対して泰高が押領したのを停止した。 3月、義尹(義稙)が周防に到着する。義尹をかくまった大内義興に対し、追討の綸旨・御内書が出され、細川政元が安芸の毛利氏や小早川氏に義興追討を命じる。(義尹は以後8年間周防に滞在する。)
1501 文亀元 加賀白山本宮の長吏澄明が将軍義澄に馬を贈る。  
1502 文亀2 将軍義澄が山城国如意庵に加賀国横江庄地頭職を安堵。
将軍義澄が神護寺に加賀国豊田村・中興保を安堵。
 
1503 文亀3 祇園社領加賀軽賀野保に対する守護被官の押領を退け、知行を安堵する。  

 1488(長享2)年の長享の一揆後に冨樫泰高が冨樫家当主となった。翌年の1489(長享3)年には泰高が幕府に出仕したとは言え、冨樫政親の最大の後ろ盾であった将軍・足利義尚の存在は泰高にとっては都合が悪かったに違いない、事実1490(延徳2)年以前から冨樫家督争いが行われたことがわかっている。これは、泰高派と旧政親派の対立によるもの思われるが、将軍義尚が没したことにより冨樫泰高にとって有利なように事態が変化していったとみられる。つまり、次の将軍は足利義材(義稙)と管領細川政元により冨樫家督訴訟が受理され、おそらく泰高が正式な当主と認められたのであろう。その後、1492(延徳4)年には幕府が泰高に南禅寺領の治安維持を命じるなど、泰高と幕府との関係は良好であった。
 しかしその関係も、1493(明応2)年に将軍・足利義材(義稙)が管領の細川政元に幽閉される明応の政変が起こったことで変化する。泰高が将軍・足利義材(義稙)を支持し京都を逃走したのである。すなわちこれは細川政元に反した行動である。このため、明応の政変が起こった翌月には赤松政則が加賀北半国守護に任じられた。細川政元が自分に反する守護のすげ替えを狙ったものであろう。この作戦は、幽閉したはずの将軍義材(義稙)が北陸に脱出し、能登・畠山義統、越前・朝倉貞景、越後・上杉房定、加賀・冨樫泰高が馳せ参じて味方を得たことからうまくいかなかった。一方で、本願寺勢力は蓮如時代以降の強力な外護者である細川政元の意向を無視することはできない。ここに泰高と本願寺勢力との提携関係が破綻するのである。そして加賀国内では将軍義材を支援する泰高と細川政元を支援する本願寺に分裂して対立するのである。
 この対立は義稙が北陸に滞在していた1499(明応8)年までは、義稙(義材)が京都の慈受院に料所である加賀中野田・久安村を安堵するなど泰高勢力が有利であった。しかし同年の11月に、義稙が近江六角氏に敗れ、周防・大内氏を頼って逃亡すると形勢は逆転する。例えば幕府(義澄=細川政元方)は1499(明応8)年6月、勧修寺領加賀井家庄の還付を命じる際に、「加賀には守護が未だ任命されていない」(神田千里『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館,2007年,89頁より)ので本願寺一族である松岡寺に命じた。神田千里氏は「冨樫泰高という守護はいたが、義稙に味方しており、幕府将軍の義澄(当時義高、以下義澄で統一)からは守護とみなされなかったのであろう。」(前掲書)と指摘し、本願寺勢力を仲介とした幕府(義澄=細川政元方)の力が徐々に強くなっていくのである。その後も加賀国内で対立は続き、将軍義澄が、幕府奉公衆の摂津元親の加賀の所領に対して泰高が押領したのを停止するなど、守護権力強化につながるものに対して歯止めをかけている。これらの動きについても神田千里氏は「守護家の介入を排除する必要のある、奉公衆や寺社の所領安堵に関して、本願寺教団の力は無視できないものがあったのではないか。」(前掲書)と推測している。この指摘の通り、幕府は対立している冨樫家の影響力を排除するために、細川政元という個人的なパイプを使って本願寺勢力を頼った。その結果本願寺勢力が、領国経営に深く関わる結果となった。それも蓮如(1415〜1499)が存命中は、政治に深入りすることを避けていた(注2)。次の本願寺法主は実如となったが、蓮如の妻・蓮能(能登畠山氏出身)が実賢を法主に擁立しようとするなど、法主争いが起きた。本願寺の法主も門徒に推戴される存在であり、そこには門徒の支持獲得に向けて当然政治的なつながりが強化されるという事態になった。その結果、1506(永正3)年に実如は細川政元の要請に応じて加賀門徒を動員して政元に敵対する畠山尚順を攻撃すると、政治的な関与が劇的に深まったのである。これは加賀にも同様な結果をもたらしたと言える。すなわち加賀の政治に本願寺勢力が深く関与していくことになるのである。つまり、加賀における本願寺の実質的な「守護権の獲得」である。これが結果的に「加賀守護富樫氏を擁立する武士たちが、将軍足利義澄と細川政元方へと、態度を変えていったものと思われる。」(神田千里氏前掲書)という状況となり、加賀の武士たちが自己の勢力を維持するために本願寺の門徒化して冨樫氏の下を離れていく状況を生み出したのである。

(3)稙泰・晴貞政権以後について
 稙泰は1504年(永正元)に第二次泰高政権で泰高が法慶道場に寄進した大仙寺領有の屋敷と山林を安堵していることから、この頃にはおおよそ泰高から代替わりしていたとみてよいだろう。1507(永正4)年に細川政元が暗殺されると、翌年には大内義興や細川高国の支援を得て将軍・足利義澄との合戦で勝利し、将軍に復帰する。しかし、1521(大永元)年には義稙が管領細川高国と対立して出奔すると、新将軍に義澄の子・義晴が擁立されることとなる。
 稙泰は細川高国に同心していたらしく、1524年(大永4)には、奥州葛西氏の使者下向にあたって、加賀国内の路次の安全を保証するよう細川高国から命じられている(詳しくは冨樫稙泰特集参照)。しかし、(2)でもみてきたように、加賀国内の守護権のかなりを本願寺に握られており、さらに国人たちも次々と本願寺門徒となってしまう状況では守護としての実権が伴ったかどうかも疑問である。事実、加賀本願寺の内紛である享禄の錯乱では、本来なら戦いを調停する立場にある加賀守護の冨樫氏が、勢力低下により一揆側に飲み込まれてしまっている状況であった(詳しくは享禄の錯乱参照)。この合戦は稙泰が味方していた大一揆方(若松本泉寺ら)が敗戦し、結局稙泰も牢人となってしまう。稙泰は冨樫家の当主を回復できなかったようで、1536(天文5)年に冨樫晴貞が代替わりの挨拶を本願寺にしている。稙泰・晴貞期はあまり古文書が残っていないが、これは冨樫氏の支配領域がかなりせまくなっていた徴証とも言える。しかし一方で、南白江庄の支配を安威兵部少輔光脩と争ったり(1545年)するなど、依然として一定の領域を支配下においている事実も確認できる。また天文年間にも、本折、山川、額などの冨樫被官がいたとされる。ただその被官も、本折一族が門徒となって以後、本願寺の協力によって冨樫の被官となっていることからも、冨樫氏の衰微が一層拍車がかかっていたと言える。

むすびに
 長享の一揆後の加賀の状況は、「百姓ノ持チタル国」と表現され、ともすれば冨樫氏の存在を忘れてしまいがちである。しかし、同一揆の後も泰高は加賀守護として、幕府に出仕するなど積極的に活動している。しかし、時代が降るにつれ冨樫家の存在は薄くなっていく。それは、加賀と幕府の動きを連動させたとき、足利義稙と足利義澄・細川政元との政治対立に泰高が巻き込まれ、泰高が義稙方に味方したことから、政元が本願寺と加賀一向一揆の力を利用して、加賀の主導権を確保しようとしていたことがきっかけとなり、加賀守護・冨樫氏の勢力が徐々に失われていく、という状況を指摘した。今後は、泰高・稙泰・晴貞の発給文書を中心にどのような支配体制をめざしたかということを、古文書が少ないなりに明らかにできればと考えている。

(注釈)
(注1)「御叱りの御書」は、将軍足利義尚が蓮如に要請して出されたものである。義尚に近しい政親が倒されたことが将軍にとっては痛手だったことがわかる。
(注2)例えば、1475(文明7)年8月下旬に蓮如は吉崎を突然退去したのは、本願寺門徒が政治に介入するのを改めさせる目的があったとも言われる。また、政親を倒した加賀門徒に対し厳罰を求めた義尚に対し、比較的穏便な制裁にとどまっているのも、神田千里氏は「政治には原則不介入というのが蓮如の立場」(『一向一揆と石山合戦』前掲書より)としている。

参考文献
神田千里『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館,2007年
(共著)『クロニック戦国全史』講談社,1995年
(共著)『加賀・能登歴史の扉』石川史書刊行会.2007年
野々市町史編纂専門委員会『野々市町史資料編1』野々市町,2003年

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