能登国分寺の歴史

能登国分寺
能登国分寺は畠山義総が米一石を寄進するなど、能登畠山氏と深く関わっています。
その、能登国分寺がどんな歴史をたどったかを紹介します。

(1)能登国分寺の誕生
 聖武天皇が国分寺建立の詔を勅令したのは741(天平13)年のことであった。そのころ日本全国は乱れ、能登国内も貧窮していた。その頃の記録として「能登国飢え、賑給する」という記述があるくらいで、能登国内に国分寺と国分尼寺を建立する経済的余裕などなかった。しかも、能登国が周辺の諸国に統合され、また分離されるなどの政治的な状況があったため、能登においては国分寺建設が著しく遅れ、その後も能登の貧窮は続いた。
 そんな状態の中、843(承和10)年1月能登国に実力ある国司・春枝王が新しく就任し同年12月、ようやく能登国分寺が建立されたのである。建立にあたって国司の力が大きかったというのは言うまでもない。実に聖武天皇の国分寺建立の詔が勅令されてから100年以上もたってからの建立であった。ただその能登国分寺も新たに建立されたわけでなく、従来よりあった大興寺を国分寺として昇格させたものであった。国分寺となるにあたり、新たに10人の僧がおかれ、小さいながらも塔が建てられ、建物も増築されたという(『続日本後記』より)。

能登国分寺・塔跡礎石
↑能登国分寺・塔跡礎石

(2)能登国分寺の荒廃
 その後、882(元慶6)年の大嵐の影響で国分寺の大部分が早くも破壊された(注1)。財政難の中で何とか再建されたものの、塔が再建されることはなかった。室町期に入り、能登国分寺は寂れる一方だったようで、有力守護畠山義総が哀れに思い米一石を寄進したほどである(「能登生国玉比古神社社記」より)。しかし、荒廃のスピードは衰えず、ついには土に埋もれて人の目にも付かなくなった。それでも畠山氏の祈願寺となって畠山政権下で辛うじてその運命を繋いでいたのだが、1577(天正5)年の謙信の能登侵攻の際、能登畠山家と命運を共にし焼失した。なんとも、悲惨な運命をたどった国分寺であろうか。

(3)発掘された能登国分寺
 能登国分寺が再び脚光を浴びるのは、平成の世になってである。七尾駅から若干遠い位置にある能登国分寺跡周辺は、宅地化がそれほど進まず田園であった。それゆえ遺構が良く残っており、発掘調査が進んだのである。そして1992(平成4)年には、「史跡能登国分寺跡 附建物群跡」として公園整備化された上、近くに「能登国分寺資料館」なども建てられて再び脚光を浴びることとなった。この史跡能登国分寺公園は、実際の遺構に門が復元される全国でも珍しい復元となっていると言われる。
 さらに2018(平成30)年に隣の県営能登歴史公園が整備され、そこに「のと里山里海ミュージアム」がオープンすると、 「能登国分寺資料館」はそちらの展示に吸収され閉館となってしまった。

能登国分寺01
↑排水溝などもしっかり復元されている
能登国分寺02
↑南門以外はこのように平面展示されている。
能登国分寺06
↑講堂も平面展示である。石組みや礎石だけではイメージできなくても、右写真のように南門の復元を見れば、このような建物が建っていたと想像できる。
能登国分寺04
↑礎石や石組みの上にこのような建物が建っていたという南門と塀はとてもよい見本となっている。
能登国分寺2
↑能登国分寺公園案内図
(写真はクリックすると拡大します)
能登国分寺資料館2
↑旧「能登国分寺資料館」(能登国分寺復原模型)
(写真はクリックすると拡大します)

(註釈)
(注1)古代は高い建物などなく、寺院の塔などは現代における避雷針のようになってしまい、雷の格好の餌食であった。

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