熊木城(熊木城址)
読み仮名 | くまきじょう |
別名 | 貝田城 |
所在地 | 七尾市中島町谷内 |
形式 | 山城 |
築城者 | 長谷部信連 |
築城年 | 南北朝時代 |
遺構 | 郭、空堀 |
歴代城主 | 熊木氏 |
交通 |
初め長谷部信連が居住していたが、『長家伝』の伝える所によるとのちに穴水に移ったらしい。その後、熊木氏が南北朝時代に居城するが、明徳年間以後、城主の名が途絶える。戦国の世になり天正年間には「熊木兵部」が城主であったと言われる。『長家家譜』に拠れば、上杉謙信の能登侵攻で、上杉軍の斎藤帯刀ら4名が熊木城、中島城に配置されたが、謙信の越後帰国にともない畠山軍の長綱連がこれを奪還し、甲斐庄家繁の謀略で斎藤を降伏させ、七杉氏・内藤氏・三宝寺氏を自害・謀殺させた。攻略後は仁岸石見守を城守備として配置したと言われている。一方、現在畠山軍の反撃は口能登に向かった説もある。 現在の熊木城は2017(平成29)年に熊木公民館が看板などを新設したおかげで(写真1)(写真2)(写真3)、とてもわかりやすく散策できるようになった。車を駐車するには熊木公民館にとめて良いそうだ(写真2)(写真11)。写真4が熊木城の遠景である。写真3の看板のところから入ると、少し総構えのようになっている地を通る。家臣の屋敷跡だろうか。 写真5から熊木城は南郭と北郭に分けられる。まずは南郭から。写真6は南郭である(一番上の写真が拡大写真)。なかなか広く、写真7に堀切も見られる。写真8の北郭へはかなりの距離がある。佐伯哲也氏『能登中世城郭図面集』(P.66)によると南郭は「計画的な通路まで設定しておらず、16世紀末まで下りそうにない」とし、南郭はおそらく畠山氏の城郭で、北郭は上杉侵攻後に改修されたものかとしている。そう考えると北郭からの帰り道に畝堀が見られたのも納得がいく。 さて、城跡を出る際に、写真9の大きな窪地と大きな庭石のようなものを発見。場所は写真4の熊木城を入ったすぐの場所。そして写真10の熊木城の入口の両脇には大きな石も見える。おそらく麓の居館に続き、庭園や謁見の間のような建物があったのかもしれない。上杉や前田が短期間に庭園などを改修するのはおそらく無いと思われ、畠山時代の遺構か。南郭には時折石垣のような石も見られ、ひょっとするとここの発掘調査で畠山氏研究も大きく進展するかもしれない。 写真11は車を駐車した熊木公民館。そして写真のペットボトルは地元の野菜「中島菜」を使ったお茶。中島菜は室町時代からあった名産品である。また写真12に麓に熊木川が流れており、天然の水堀となっており、防御力を増している。なかなか見所のある城郭だった。 |
(写真1) |
(写真2) |
(写真3) |
(写真4) |
(写真5) |
(写真6) |
(写真7) |
(写真8) |
(写真9) |
(写真10) |
(写真11) |
(写真12) |
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