↑野々市駅
○野々市町 石川県の県庁所在地である金沢市の南に位置する野々市市。その野々市が市制を施行したのは2011(平成23)年とまだ新しい。というのも、野々市は面積はそれほど面積は広くないが、金沢市のベットタウンとして人口増加が続いていた。県下ほとんどの市町村が過疎化の影響で人口が減少しているのに対して、野々市は「町」とはいっても住宅街が続いたり大規模なショッピングモールがあったりと、街の風景は「都市」そのものであった。 野々市の歴史は古い。縄文時代の「御経塚遺跡」。白鳳時代の「末松廃寺」。室町戦国時代の「冨樫館跡」など古くから野々市は加賀国の政治・経済の拠点としていた。しかし、江戸時代以後その中心が金沢に移るとその地位を奪われていった。野々市町は金沢市から合併を打診されたが、これを拒否し単独市制施行を目指し、ついにそれを実現させた。これも、金沢市に対する対抗意識から来ているのかもしれない。 町の名産品として「銘菓じょんから」「野々市椿まんじゅう」「加賀銘菓勧進帳」「キウイワイン」などがある。 ・野々市町の現在の人口<52,512人>(野々市町ホームページより2018年9月末日現在) |
★観光地★
(★は義綱おすすめ度を表す。多い方がよい。最高5つ
(注)「冨樫館跡」「冨樫館跡の碑」「布市神社」「文化会館」「ふるさと歴史館」については
「加賀冨樫氏関連の史跡巡り」も合わせて参照して下さい。
冨樫館跡 (おすすめ度:★★★) |
冨樫館は江戸時代の文献や絵図によって住吉町内にあると想定されてきたが、館の堀跡が野々市市住吉町から発掘され、「冨樫館」が正式には住吉町にあったことが確定した。発掘された堀跡は埋め戻され野々市町が土地を買い取り保存している。冨樫館の堀の大きさは大人の歩幅で7歩くらいでかなりの大きさである。ぜひ堀の大きさも実感してもらいたい。願わくば全ての館跡が公有地化されてもらいたいものである。 ●交通:北陸鉄道石川線・工大前駅徒歩15分 ●参考コンテンツ:加賀の城の「冨樫館」 |
北陸鉄道石川線・工大前駅すぐ隣にこの「冨樫館跡」石碑は建立されている。これは、1967(昭和42)年6月に金沢工業大学と富樫卿奉賛会が建立したものである。富樫卿奉賛会は1964(昭和39)年に結成され、一向一揆のため傷つけられた冨樫家の名誉回復のために機関紙「とがし卿」を発行し冨樫研究に努めている。 現在では冨樫館の堀跡が住吉町で確認された事で、館跡が石碑から400m離れたことが確認された。 ●交通:北陸鉄道石川線・工大前駅徒歩すぐ隣 ●参考コンテンツ:「加賀冨樫氏関連の史跡巡り」 |
冨樫館跡の碑 (おすすめ度:★★★) |
布市神社 (おすすめ度:★★★★) ≪野々市町指定史跡≫ |
布市神社はもとは冨樫郷住吉神社と呼ばれ、鎮守として野々市を護ってきた由緒正しき神社である。その歴史は冨樫家国が野々市に居館を構えた頃の1009年創建とも言われる。1914(大正3)年に照日八幡神社と外守八幡神社と合祀され、現在の布市神社となった。 境内には本殿の他、冨樫氏の治績を称える「冨樫氏先業碑」、高さ20mの銀杏の木「大公孫樹」や、最も古いもので応仁期の頃と伝えられる脇差一振りと江戸時代作の脇差二振りが伝わっている。 ●交通:北陸鉄道石川線・工大前駅徒歩10分 ●参考コンテンツ:「加賀冨樫氏関連の史跡巡り」 |
押野館は冨樫泰明の末子・家善が押野に地頭屋敷として築きいたのが始まりと言われる。 館跡は館野小学校東隣の児童公園となっており、ここには弥生時代(押野タチナカ遺跡)の集落が発見され、町が遺構を小規模ながら保存した。押野館も江戸時代の絵図から跡地が伝わっており、その裏付けとして堀跡を1981・1982年に南北に140m離れて発掘したので、館の範囲がここにあったとほぼ確定した。 ●交通:JR野々市駅より車で10分 ●参考コンテンツ:加賀の城の「押野館」 |
押野館跡・押野タチナカ遺跡 (おすすめ度:★) |
野々市市立文化公民館 フォルテ (おすすめ度:★★) (クリックすると拡大します) |
建物の東側には冨樫家国の銅像と石碑が冨樫氏一千年記念として建立されている。2011(平成23)年のリニューアル前までは公民館中には「ふるさと展示コーナー」があって冨樫氏の古文書なども展示されていたが、もう無くなってしまった。 ●データ:入館料:無料。 ●交通: JR野々市駅から徒歩20分。 |
野々市の古代から近世までの時代の歴史的資料が展示されている。展示は御経塚遺跡と末松廃寺のものが中心だが、中世では加賀冨樫泰高の古文書や政親の馬の絵、冨樫館跡の発掘調査の様子なども展示されていて、冨樫家唯一の公式資料館となっている。入場料無料なのでぜひ訪れてみよう。図録などが販売されてないのが残念。 ●データ:開館時間10時〜16時、月曜、祝翌日 年末年始休館(2018年11月現在) ●問い合わせ:Tel076-246-0133 ●交通: 野々市駅から徒歩10分。御経塚史跡公園すぐ横 |
野々市市立ふるさと歴史館 (おすすめ度:★★★★) (クリックすると拡大します) |
御経塚遺跡 (おすすめ度:☆☆☆) ≪国指定史跡≫ |
縄文時代後期中頃〜晩期の遺跡。かなり大集落の遺跡であったったらしく集落中心部に祭祀・集会場跡の遺構や御物石器や土偶・石棒などたくさんの遺物が発掘されている。 現在では史跡公園として整備され、竪穴式住居が復元され訪れる人を古代の気分にさせてくれる。すぐ隣にあるふるさと資料館では御経塚遺跡の発掘物などを詳しくみることができる。 ●データ:入場無料 ●問い合わせ:Tel076-246-0133 ●交通: 野々市駅から徒歩10分。ふるさと資料館すぐ横 |
白鳳時代の700年頃に建立された大規模な寺院である。金堂や七重の塔をもっていたとされ、その規模は遺跡に残る巨大な礎石の規模からも伺える。しかし、この国分寺に匹敵する規模をもつ寺院がいつ頃誰によって建立されたのか、まだ詳しくわかっていない。昭和46年史跡公園として整備され、野々市町立文化会館のふるさと展示コーナーでは、末松寺の復元模型もある。 ●データ:入場無料 ●問い合わせ:Tel076-248‐8545 ●交通: 北陸自動車道金沢西インターから車で10分 |
末松廃寺跡 (おすすめ度:☆☆☆) ≪国指定史跡≫ |
野々市じょんからまつり (おすすめ度:☆☆☆☆) |
町で毎年行われていた「じょんからおどり大会」と「野々市まつり」を合わせて1982(昭和57)年に出来たまつりである。平安時代そして室町・戦国時代には加賀守護として野々市に本拠を構えた冨樫氏の善政を称える「じょんがら節」を踊る。ただし、1997(平成9)年から若者向けにサンバのリズムの「踊れ!じょんから・la」も始まった(笑)毎年7月末か8月始めに催される。布市神社で富樫際、ミスじょんから認証式、もちつき大会、和太鼓演奏など多彩なイベントが開催される。 |
★野々市の食事★
チャンピオンカレー 野々市本店 野々市市高橋町20-17 |
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創業1961(昭和36)年の元祖金沢カレーの店「チャンピオンカレー」。金沢カレーと言いつつ、本店は野々市にある。濃厚なカレーソースが銀の皿に載ってテーブルに運ばれると、もうすぐにでも食べたくなる。若い世代が多い野々市でも家族で安心して食べられる味と値段が魅力。 |
★現在の野々市が抱える諸問題★
【野々市町と金沢市の合併破談問題。そして単独市制施行へ】
金沢市は約46万人(2004年6月末現在)の人口を抱える石川県最大の都市である。さらに、石川・富山・福井の3県の中でもその地位は大きく北陸の大都市と言える。そこで、金沢市は政令指定都市移行を目指し、手始めに隣町で人口4.2万人(2004年現在)を抱える野々市町との合併を図った。政府が進める「平成の大合併」の追い風もあって両市町で法定合併協議会設置を求める住民発議が行われた。これが市議会・町議会で議論されたが、金沢市は賛成多数で可決、野々市町は反対多数で否決。結局法定合併協議会が設置されず、野々市町は単独町制を継続することになった。どうして野々市町は金沢市との合併を断ったのであろうか。
石川県は全体的に過疎化が進んでおり、そのため小規模自治体は市町村合併を積極的に推進している。特に能登半島各地の人口落ち込みは激しく(さらに奥能登の人口減少は激しい)、ほとんどの自治体が法定合併協議会を設置し、合併特例法の適用期間中の合併を目指している。しかし、野々市はそんな石川県下の中で少々事情がことなる。野々市町は江戸時代以降、金沢市に政治・経済の中心としての地位を譲ったが、金沢市のベットタウンとして人口を増加させてきた(現在でも野々市市は人口増加中である)。単独市制施行には人口5万人以上が必要要件である(合併特例法では新市の市制施行要件を3万人以上に引き下げたが、単独市制施行を目指す旧「野々市町」には適用されなかった)。2010(平成22)年の国勢調査で人口5万人を突破し、そして2011(平成23)年に念願の単独市制施行となり「野々市市」となった。
金沢市との合併で「野々市町地域の埋没」を気にするより合併しないという選択肢を選んだ結果とも言える。また、税収面での余裕という面も野々市町にはある。金沢市のベットタウンとして人口増加しているわけなので、当然増加する人口は労働者人口(20歳〜59歳)が多く(これが60歳以上の高齢人口の増加だと税収が増えない割に社会補償費が増加してしまうのである)、歳入にも現在は余力があると言える。これらの強みがあるから野々市は金沢市との合併をせず単独町制継続→単独市制施行で「野々市市」を達成できたとも言える。さらに言えば、江戸時代以前野々市は加賀の中心地であったプライドがあるので、「金沢に吸収されてたまるか」という気質があるとも言える。「野々市市」のこれからの奮闘を期待したい。
【野々市市の文化財保存問題】
前述したように、野々市市は金沢市との合併を拒否し単独市政施行を達成した。また、金沢市内のベットタウンとなっているため、市内では宅地化が激しく行われている。しかし、そのため、中世冨樫時代を中心とした歴史遺構が宅地によって陽の目をみないという状態となっている。市では御経塚遺跡と末松廃寺遺跡は史跡公園として整備したが、冨樫関連の史跡はほとんど整備されていないといってよい。1994(平成6)年、市内住吉町で冨樫館の堀跡が発掘されたのも建物建設に伴なう発掘調査で見つかったものであり、あやうくそのまま埋めたてられ宅地化されるか、遺構が失われるところであった。この地はなんとか町(当時)が買い取り保存の運びとなったが、冨樫館の規模から見ればほんの一部に過ぎず、全体の史跡保存が望まれる。館跡は現在家々が連なっているので無理だとは百も承知だが、今後ともこのような建物開発に伴なう発掘調査がおこなわれ館跡などの重要な遺構が発掘されれば、公有地化して保存を望みたいと。そう思っているが、2023(令和5)年現在、冨樫館跡周辺は新興住宅が建ち始めており、公有化には絶望的な状況となっている。
その他、野々市には中世冨樫氏の中心拠点として重要な遺構がたくさんあるはずであるが、宅地開発が進んでいるため史跡保存が置き去りにされている感は否めない。文献的資料が非常に限られる冨樫研究だけに、考古学的立場から冨樫関連遺跡の調査解明をお願いしたい次第である。
【不思議な駅舎?市民プラザ】
写真1はJR野々市駅の2018(平成30)年の姿。写真2はJR野々市駅の2002(平成14)年の姿。駅舎が新しくなっているだけでなく、高架線のようなものがあるが実は地上駅。高架線は北陸新幹線で北陸本線は地上のままである。せっかくだから高架にしてくれれば南北の行き来も楽になったのだが、用地買収の手間とお金を考えてJR線路の上に立てざるを得なかったのだろう。さらに写真3を見てもらいたい。北口にある“駅南口に渡る自由通路(歩道橋)”である。駅内の跨線橋に平行する形で、市民プラザという名称の自由通路となっている。駅舎が北口と南口にもあるのし、踏切が駅舎の近くにあるので、あえて自由通路を通ろうとは思わないのではなかろうか。昔は線路を南北に渡る自由通路として重宝されたであろうが、現在になってあまり利用するすべがなくなってしまったのだろう。写真4に市民プラザのホール部分にも行ってみたいが、日曜日にもかかわらずほとんど人がいない。イベント時は人が来るのであろうか。ぜひ野々市市には史跡保存にも資金を使って、富樫館の発掘調査をお願いしたいものである。
(写真1) ↑2018年11月現在の野々市駅 |
(写真2) ↑2002年当時の野々市駅 |
(写真3) ↑市民プラザ2002年当時 |
(写真4) ↑市民プラザ上層階 |
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