押野館(押野館跡)


押野館跡01

読み仮名 おしのやかた
別名
所在地 石川郡野々市町押野
形式 平館
築城者 冨樫家善
築城年 南北朝の頃ヵ
遺構 堀跡(埋め戻されている)
歴代城主 押野氏
交通 JR野々市駅より車で10分
 
 加賀守護冨樫家の祖・冨樫高家の弟・冨樫家善は押野荘に入部し居城した。以後家善の家系は「押野殿」と呼ばれ、冨樫庶流の押野氏として冨樫の被官となった。
 押野館の最初の館主は冨樫泰明の末子の家善で冨樫氏最初加賀守護高家の弟である。冨樫家善はこの押野の地に地頭屋敷として築き「押野殿」と呼ばれた。この館は長亨年間まで押野氏の居城であった言われる。
 現在では館跡は館野小学校東隣の児童公園となっている。ここは弥生時代(押野タチナカ遺跡)の集落が発見された所でもあり町が保存したものと思われる。石川県立図書館所蔵で加賀藩士湯浅玄斎が書いた「押野館跡図」からは、江戸時代まで土居が残存しており、この図の回りにあったと考えられる堀跡を1981(昭和56)・1982(昭和57)年に南北に140m離れて発掘し確認したので、館の範囲がほぼ確定した。また、14世紀から15世紀にかけての遺物として珠洲焼や瀬戸焼などが発掘されるが、新しいものでも15世紀前半の遺物しかないので、1488(長享2)年の高尾城攻防戦冨樫政親もろとも押野館も滅亡したと考えられている(『ののいち歴史探訪』野々市町教育委員会発行より)。

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押野館跡02
↑児童公園には小高い丘がある。
跡の保護のため埋め戻したか? 
押野館跡03
↑館を囲む堀跡。
石塁で護岸の跡が見られる。
(野々市市許可済転載厳禁
押野館跡04
↑押野館出土の瀬戸焼壷(14世紀)
(野々市市許可済転載厳禁

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