義慶奮戦記−義綱奮戦記番外編−
前編「父と子」

1、別離(わかれ)

 永禄九年(1566年)十月、突然次郎(後の義慶)の父・義綱の館に火が放たれた。義綱・徳祐父子の専制に反対して反義綱派の遊佐美作守続光、長対馬守続連、八代安芸守俊盛らの年寄衆が起こしたクーデターである。これにより、義綱派の飯川若狭守光誠ら義綱の側近達は七尾城を追われ義綱の正室・華の実家である近江六角氏を頼って坂本に亡命した。そして、義綱の嫡男である十二歳の次郎を畠山家十代当主として擁立するため、反義綱派の主な家臣が次郎の部屋に集まった。

「御屋形様を刃にかけるそち達が一体何用じゃ!」
と激しい口調で次郎の母親であり義綱の正室である華が遊佐続光に向かって言った。すると、八代俊盛が前に出てきて華に向かって言った。
「まあまあ。義綱様はやり過ぎた。これからは次郎様が畠山家の御屋形様になって頂こうと思っている重臣たち皆揃って参じました。」
「黙らっしゃい!わらわたちはすぐにでも七尾城を出て義綱様の安否を確認せねばならぬのじゃ!そこを退くのじゃ!」
華は義綱が殺されたと思っていた。
「おっと、さようなことを申されても。嫡流である次郎様に御屋形様になって頂かないと、我らの正当性がありませぬからな・・・。」
と俊盛は笑いながら言った。それを、続光が制止した。
「これ、俊盛!言動を慎め!・・・・申し訳ございませぬ。私達にはそのような意図はありませぬ。ただ、義綱様は我ら年寄衆に政の相談もなさらなくなった。これでは、従来よりの重臣の面子がたちませぬ。」
それに続いて続連が言った。
「ですから、義綱様には申し訳ありませぬが、御隠居願った次第であります。ただ義綱様は我々の忠告を聞いてはくれませぬ。それ故、七尾城より退去していただき候。」
「・・・・義綱様は生きておられるのですね?」
「はい。」
と続連が応えると華も表情がいくらか明るくなった。華も当主継承を拒めば次郎の命も危ない思い、渋々当主継承を認めた。そして、取り急ぎ次郎の家督継承の儀が取り行われた。次郎は幼少の為、元服せず当主を継承して畠山家十代当主となった。そして早速当主となった次郎と華と重臣3人との会議において今後の国政は「公私意に任せずに政を御成敗する」という事が決定された。これはつまり「大名(公)及び家臣たち(私)の恣意によって国の政治を動かすことをしない」という取り決めであった。

 このいわゆる「永禄九年の政変」と呼ばれる家中のクーデターにより、大名専制政治が行われていた能登畠山で、再び重臣たちの合議による国政運営が行われた。遊佐、長、八代の重臣3人で行われたため、これを義続政権時代に行われた重臣政治「畠山七人衆」になぞらえて、「畠山三人衆」と家中の人々は呼んでいたと言う。華はこれ以上重臣間の権力争いに利用されるのを避けるため、次郎の弟を本来の畠山嫡家である奥州畠山家、すなわち二本松畠山家に通じて形式上の養子とした。

2、公と私

 数日して、畠山三人衆が七尾城の次郎屋敷に揃って顔を出した。
「うぬらは何用じゃ。」
「次郎様と華殿に置かれましてははかりたき儀がございます。」
三人衆の中で中心にいるのは美作守続光である。
「何じゃ申せ。」
「畠山家を取り巻く状況は近年逼迫しており、至急戦力の補強が肝心と存じ上げます。」
「して、それをどのように行うのじゃ。」
「先の内乱(弘治の内乱)にて、野に下った温井・三宅等が我らに参じる準備があると申し伝えております。」
「ならん!温井や三宅は先の内乱の首謀者。主家に逆らった者であるぞ。」
そう言うと華は立ち上がり席を離れようとした。首座にいる次郎はただ華と重臣たちを交互に見つめていた。
「それは温井総貞の事でありましょう。すでに総貞は亡く、その子・続宗も先の内乱で亡くなりました。今は景隆が中心になっております。景隆に逆意なく、ただ帰参が許されるのであれば畠山家が為に尽力したいと申しております。」
美作守の横にいた対馬守続連が言う。しかし、なぜか三人衆の中で安芸守俊盛だけ浮かない顔をしていた。
「いやしかし…」
「華殿。国政に置きましては“公私意に任せず”とお約束なさいました。畠山家の御為に御成敗を。」
「……うぬらの…よきに計らえ…。」
「御意。」


 弘治の内乱で義綱と敵対し戦いに敗れて野に下っていた温井・三宅一族の帰参は結局認められた。華の反対は「公私意に任せず」という約束事により、畠山三人衆で決まったことを覆すにはしっかりした論拠と正当性が必要になった。華や次郎は度々重臣達との意見が食い違っていたが、もはや能登畠山家という「公」だけでは重臣達の「私」を抑える力はなくなっていた。そればかりか畠山三人衆は帰参した温井兵庫介景隆を加え「畠山四人衆」に強化され、そこで決まったことは家中の者たちの「衆議」(皆で議論した結果の意見)として主家に披露するので、それを以て「公私意に任せず」という約束事が盾になって、次郎の母と言う事で家中で「公」としての発言力のあったはずの華も、事実上発言を封じられたのである。

 華が最大限次郎が政争に利用されないようにと奮闘している間も、御屋形となってもやる事がない次郎は、ひたすら学問や剣術の稽古に明け暮れた。次郎は天文二十三年(1554年)に生まれてからというもの、畠山家が激しい内乱に襲われたり、内乱鎮圧後も父・義綱が先頭に立ち領国再建に忙しく取り組んでいたりしていたので、父の愛情をあまり受けられずに育った。それゆえ、乳母や守役と毎日学問や剣術の稽古に熱心に取り組んでいたので、技術もかなりの段階に達していた。それを見聞きした家中の者たちは
「次郎様は先代の義綱様と違って、剣術の腕前もたしかで戦乱の時代の当主としては誠にふさわしい。」
と評判となった。しかし、次郎のそのプライドの高さが逆に現在のトップであるのに自分の意見を言えない自分の立場を憐れみ、その不満を振り払うように、ひたすら勉学・剣術の稽古へと熱中させる要因となったのである。次郎が勉学に励んでいる最中にも畠山四人衆の合議では奉行人整備などが決められ、御屋形である次郎と全く関係のない所で畠山家の国政が進んでいたのである。


 その畠山家家中も義綱という家中を強く統制する柱がいなくなった為、家臣それぞれ路線の違いが派閥を形成し、長派は最近台頭著しい親織田信長、遊佐派は続光の越後亡命時代から親上杉、温井・三宅派は弘治の内乱での提携関係から親一向一揆とそれぞれ通じて、家中は三派に分裂、様々な駆け引きが行われた。その中で、権力が無いとは言え名目上の最高権力者である御屋形である次郎を自派に取りこもうと三派はそれぞれ躍起になった。
「御屋形様。私の私邸で歓待しとうございます。是非御成下さい。」
とそれぞれの陣営の者がひっきりなしに次郎の部屋を訪れた。華はそれをみて次郎の将来を心配した。
(家中の者たちは自分たちの利害ばかりで動いていて、なにも「公私意に任せず」などと考えてないではないか。次郎はこのまま重臣間の争いに利用されてしまうのであろうか・・・。)
 そもそも、重臣達は進む方向性も領国政策の考えも違っていた。しかし、義綱の重臣権力削減政策に反発して、とりあえず反義綱派としてまとまっていたのであるから、その目標が達成されれば、また路線の対立が浮き掘りになるのは仕方の無いことでもあった。

「御屋形様、先代義綱様は誠に優秀な方で、内乱を巧みに鎮圧し、政の才能もかなりのものでした。義綱様を見習って御屋形様もしっかり精進なさい。」
と華や乳母が次郎の勉強の度に言っていた。それゆえ、忙しさのあまり父義綱に愛情をあまり受けることができなかった次郎であるが、父に対して常に尊敬の念を抱いていたのである。そして次第に父を見習った政策を実行しようと、父・義綱が過去にどのような政策を行ったのか。城内にある文書を見比べてみて勉強し、次第に政策通になっていった。

3、父の教え

 永禄十年(1568年)四月終わり頃、遊佐続光ら重臣達は慌てていた。それは、先代義綱が能登奪回の為に越中に入国し、兵を率いて能登に向かったという使番からの知らせを聞いた。その数四千人余り。もともと義綱が入国するという情報は得ていたので、準備もそれなりにしていた。しかし、同十年三月に義綱に呼応した上杉謙信が越中に進軍したが、突如越中の椎名氏が反上杉方に回った為に上杉軍は撤退を余儀なくされた。従って義綱の入国は無いと踏んでいたのである。しかし、義綱方の勢力は衰えず単独で入国作戦を展開した。畠山家中には潜在的義綱派も多く、次郎方(以下七尾城方)の武将笠松但馬守が離反し、義綱方の下へ向かうなど、一度内乱が始まればどのように勢力が動くか読むことは難しい。義綱は自分を潜在的に自分の支持者が多い事を知っているようでもあった。そして戦略に長けた義綱がどのように計略していくのかを考えると、畠山四人衆にとっては頭痛の種になっていた。


 そして、義綱軍は同年五月一日に能登に入国したのである。義綱の入国を密かに歓迎したのが華であった。
(義綱様が御屋形様として七尾城に戻られれば、また家中は安定する。出来る事なら私も次郎を連れて義綱様の陣へ向かいたい…。)
畠山四人衆が恐れていたのは、一番に次郎と華が義綱と結びつく事。畠山家の一族が七尾城方から離反すれば「公私意に任せず」の「公」の部分が失われ、畠山四人衆は「公」に抵抗した逆意ある者となり、能登を支配する正当性を失う。
「おい。若を自邸から一歩も出さぬよう見張れ。さらにどんな客人が来たか事前に私に相談するよう命ず。」
「はっ。兵庫(景隆)様。」
次郎の屋敷を手の者で囲み、脱出できないように見張っていた。畠山四人衆の焦りはかなりのものだったに違いない。

「御屋形様、義綱方はついに能登に入国しました。すでに八代安芸守(俊盛)らが神明池周辺の守備にあたっておりまする。」
「ああ…。大義であった…。」
次郎もまた、義綱が再び当主に返り咲いて貰いたいと思っていたので、この戦に気が進まないのは当然であった。

五月三日、七尾城の守護館に七尾城方の使番が急いで駆けつけた。
「恐れながら申し上げます。神明の池に張っていた八代隊が敗北。多茂城・府中池田周辺も義綱方に奪取されたとのこと!」
この報が七尾城へもたらされると、城内は動揺し離反する兵が相次いだ。そして、義綱方は長期戦を目論んで口能登の御舘館を本拠にして本格的な居館整備を行っている様子も知らされた。
七尾城中で厳重に警備されている次郎の屋敷に華がやってきた。
「御屋形様。戦は“駆け引き”が大事だと先代は言っておられました。」
「“駆け引き”と?」
「外交という駆け引きが重要であり、戦を起こさないということも、戦に勝つ要素なのだ、とおっしゃられました。」
「なるほど。して母上。我に如何しろと?」
「この戦を如何に早く終わらせるか。それをお考えくださいませ。それが御屋形の役割なのです。」
近くに畠山四人衆の手の者がいて情報はすぐに伝わることは華も分かっている。だからこそ、直接的に言えない。「義綱の元に行き勢力の均衡を崩し、この戦を終わらせるのだ。」とは。この状況からそれを読み取って欲しいと思うのだが、それは次郎に伝わったのだろうか…。
「なるほど。心得ました母上。」


さらに義綱方の快進撃が続き、同月中旬には義綱方別働隊の三宅総賢隊が羽咋軍押水郷の坪山を占拠し、義綱方は口能登の大部分を勢力下にしたのである。
「このままではまずいな・・・・。」
七尾城中の長屋敷にて声を発したのは温井兵庫助景隆。戦略の練りなおしが必要と、次郎の元を離れて対馬守続連と美作守続光との三人だけで密談をしていたのである。そしてなぜかそこに畠山四人衆の八代安芸守俊盛の姿はなかった。
「義綱様を御屋形として再び迎え入れては如何か?先例もあろう。我々が完膚無き敗北を喫してから降伏したのでは再起は図れないのではないか。」
そういったのは対馬守続連であった。先例とは4代当主畠山義元とその弟で5代当主慶致の争いの事である。家督争いを演じた二人は、畠山家の安泰を案じて、義元が家督に返り咲く事と慶致の子(義総)が義元の後継者として家督を継ぐことを条件に和解し、その後も義元派・慶致派両派の家臣も巧く融合して政にあたっていたことがあった。
「それはならぬ!対馬守(続連)殿はお忘れか?義綱様が御屋形様に戻れば、我々はやんぬるかな(もう終わりだ)。」
と続光が強く主張すると景隆もそれに同調した。
「うむ。それがしの祖父も父も義綱に殺された。断じてまかりならん(許さぬ)!対馬守殿の考えは甘すぎる。」
結局、続光と景隆の強い主張によって義綱方と徹底抗戦する事が決まり、堅固な七尾城に篭城し、奥能登からの後詰(援軍)を待って反撃する事になった。

 義綱方は室町幕府の中枢や時の権力者になろうとしていた織田信長にも通じる曲直瀬道三と連絡をとり、自らの大義名分の獲得など戦略面で七尾城方を揺さぶった。しかし、堅固な七尾城を攻めるには義綱方の勢力は足りない。そして七尾城方に奥能登からの後詰(援軍)が来ると、七尾城方の指揮が回復していった。七尾城周辺がまず七尾城方によって奪回されると、義綱方の不利は明かとなり、次第に兵が離反していった。

 義胤(義綱の改名後の名前)方は口能登の勢力だけではたくさんの配下の者達の食料や武器などを維持できず、次第に戦況も劣勢となっていった。拠点となっていた御舘館はある程度整備されていたが、所詮は平地の館であり、七尾城方が総攻撃すれば早々に陥落するのはわかりきっていた。それゆえ、七尾城方は御舘館集落の者に離反や投降を促す文書をしきりに配っていたのだが、どうも集落の者で離反する者は全くでなかった。不思議に思っていたが、館を囲むために近くの坪山砦を七尾城方が奪還している最中、御舘館から火の手が上がった。七尾城方はこれを機に一気に義胤方の本拠地を攻め立てた。しかし、館はもぬけの殻であり、御舘館集落の手の者が開城していた。あっという間に館の明け渡しが完了した。畠山四人衆は、館の攻略を御舘館集落の民が謀略に応じた成果だとした。そして恩賞と処罰のために誰が呼応したか、そして誰が義綱方に最後まで味方したかの調査を行った。しかし、集落からは義胤方の古文書が一通も見つから無かった。そこで名主達に事情を聞くと
「義胤方はこの場に及んで、我ら民を脅し金品ばかりか、兵として館に皆の者を連れ去ろうとした。だから我々は団結して義胤方を館から追い出した。皆義胤方を嫌っていたために義胤方から発給された文書は館の放火と共に燃やした。」
と述べた。七尾城方の家来は館の一部が放火により消失したものの、それ以外はほぼ無傷であり実際にそのような民のクーデターがあったかどうか少し疑いをもった。畠山四人衆の者の中には「疑わしいので御舘館集落の者共全てを捕らえるべきである。」という者もいたほどだ。しかし、それを制したのは次郎だった。
「なんの証拠も無いなら疑うべきで無かろう。“公私意に任せずに政を御成敗する”とある。それがしはいつも年寄衆の言うことを信じている。であるならば、御舘館集落の者の言い分も信じてやるのが今回の成敗ではないか。」
次郎の口添えもあり、また集落一帯のものを全員処罰すると今後の税収にも関わるので、結局お咎めなしで褒美を村全体に少々渡すことでこの件は落着したと言う。(注)
次郎は、思った。
(これが駆け引きか。重臣の話を聞くなら集落の者も話も聞く。この根拠を持ち出されれば重臣達は言うことを聞く他あるまい。さすれば戦や人の死が避けられる。これが父の教えの極意か。)


 義胤の能登奪回作戦は華の願い空しく失敗に終わった。この戦を通じて畠山四人衆たちは自らの体制維持に自信を深めていった。それと同時に、義胤方という七尾城方の最大の脅威が遠のいたことにより、畠山四人衆の路線対立は一層深刻となった。八代俊盛は畠山四人衆の中でのけ者にされていき、遊佐続光と温井景隆の連携が生まれ遊佐派と温井・三宅派が合同で長派に対抗するという図式が家中に徐々に出来上がってきた。さらに、少しずつ大人になり経験を積み重ねる次郎が徐々に自立した意思を持ち始めた。能登畠山家の内部崩壊が少しずつ始まっていたのだ。

<注釈>
(注)御舘館のエピソードは、『義綱奮戦記』の第7話「御屋形参る」のストーリーに基づいています。あわせて読んで頂けると嬉しいです。

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