第七章「御屋形参る」

1、期待と不安

−近江坂本・義綱仮館−

「義綱様、近江六角家当主・六角義弼(義治)殿が参られました。」
と小姓が義綱に言った。
「わかった。ここにお通し致せ。」
と義綱が言うと、まもなくして義弼が仮の謁見の間に入ってきた。
「義綱様。六角承禎が嫡男。義弼でございます。以後よしなしに・・・。」
「うむ。館の手配。誠にすまぬ。暫くの間、世話にならせてもらう。」
「はっ。従者にも義綱様のご命令を聞くようにと言っております。ですので、どうぞゆっくりなさってください。」
と義弼が言うと義綱が大きく笑った。
「はっはっは。そうゆっくりも出来ぬので、準備が整い次第、能登に戻る準備をしようと思っておる。」
「義綱様が御国に戻れるよう、六角家としても全力を挙げて協力を致します。」
義綱が言った準備とは、当然次郎派(反義綱派)を破る軍備が整い次第といった意味が込められている。しかし、この六角家も決して安定的な領国運営をしているとは言い難かった。永禄六年(1563年)十月一日、六角氏当主である義弼は、重臣の後藤賢豊を居城観音寺に呼び謀殺した。その理由は諸説あるがそれを契機として重臣達は反発して挙兵し、義弼を観音寺城から追い落とした。世に言う「観音寺騒動」である。その後も、臣下であった浅井長政が離反された上に戦で惨敗するなど、大名専制政治に多くの家臣が疑問を持ち始めていた時期である。この後、永禄十年(1567年)には「六角氏式目」という家臣が大名の行動を制限する項目を並べた文書をもってこれを六角義弼に認めさせた。つまり、義綱が頼ったこの時期の六角家は非常に不安定な時期であり、義綱に取って多くの支援は期待できなかったのである。
 義綱は能登奪回計画を積極的に進めるべく既に動いていた。坂本に来ていた義綱派の中心は飯川光誠の他に、井上英安、熊木続兼、佐脇綱盛、神保周防守、富来綱盛、三宅総賢等の義綱政権の奉行人が多かった。彼等は義綱の全幅の信任を受け、領国再建・改革に取り組んでいた者である。彼等は既に多方面への義綱支援の為の交渉に向かっていた。義綱派は足利義秋との交渉を開始、井上英安は山城東福寺との交渉に向かい、佐脇綱盛もその他の寺社招誘工作の準備中であった。又、反義綱派(次郎派)も京都の幕府との交渉役で京都の能登畠山家の出張所とも言える五山僧と交渉を持ち、自分たちの正当性をアピールし味方につけようとしていた。しかし、五山僧は義綱方とも交渉を持ち、両者の勝組に乗ろうとしていたのである。
 一方、北陸の諸勢力は、越後・上杉輝虎は義綱の弟・上条政繁(畠山義春)を預かっていた手前もあり義綱方に付き、越中守護代・神保長職は義綱に服して上杉輝虎より護られていたので、義綱が追放されては、自分の存在基盤が危うくなるとの思惑から積極的に義綱支援の姿勢を明らかにし、能登の現政権と対峙した。また、加賀の本願寺勢力に対しては、永禄十年二月に義綱が六角義弼を通して義綱の能登入国に対する加賀門徒の援助を依頼したが、早々と義綱の入国支援の立場を示した越後上杉家に対抗する甲斐武田家と本願寺勢力が懇意であったため、拒絶された。こうして一時期安定を見た北陸の政情も、義綱の亡命によって再び混乱した。義綱派と反義綱派はお互い未来に期待と不安と持って過ごしていた。

2、医道伝授

 順調に準備が進んだかに見えた義綱の能登奪回計画も、永禄九年(1566年)末になって義綱が病気で度々倒れると進まなくなっていった。義綱は精神的苦痛と肉体的疲労が重なり、坂本に来てからというものすっかり病弱になってしまったのである。義綱に付き従って来た家臣達が一様に心配しているのをみていた飯川光誠はその光景をそっと影から覗いていて泣いていた。
(追放された義綱様に付き従って能登奪回を目指しても、必ず能登に戻れるという保証はない。それにもかかわらず、義綱様に付き従って来てくれるとはなんと有り難い事であろうか。義綱様をそれほどまで慕ってくれる人物がこれもど多くいたとは・・・)
しかし、翌年(1567年)四月初めになっても病状はなかなか回復しなかった。そこで、昨年に義綱が病気をしたときから、何度も書簡でやり取りをしている名医の曲直瀬一渓道三に、書簡を送った。
「家中不慮の儀につき、ひとまず近江坂本に避難した。そこでかねてお願いしていた医道のこと。この度相伝できれば友好上めでたいこと限りない。」
義綱は自身が医道奥義を相伝(教授)し極めることで、自らの病を平癒して能登奪回計画を成功させようと考えたのである。


 道三は病状を心配し、四月中旬には病床の義綱の元にやって来た。そして、義綱の病気を診察し、薬を処方すると、病状はだいぶ改善したのである。義綱は道三に深く感謝すると共に医道の奥深さにさらに関心を持った。そこで、義綱は改めて道三に是非医道を相伝願いたいと申し出た。道三はそれに対し、
「医道は深く難しいものです。」
と初めのうちは断っていたが、義綱のあまりの熱意に負けて、義綱に「医道奥義相伝書」を授け、それから2週間あまり義綱に対する道三の医道伝授が行われた。そして、五月初めにはめでたく医道の相伝を終え道三は帰っていった。義綱は道三との交誼をさらに親密にしたいと思い、謝意の書状を送った。それと共に精一杯の感謝の気持ちとして医道伝授の御礼にと黄金二両を一渓道三に送ったのである。義綱が医道伝授を受けた背景には自分が生来病弱であったゆえと言う事もあるが、そこには当然ながら歴代能登畠山家当主が文化に精通し、医道に対する伝統的関心をも持ったことを義綱が受け継いだという面もあった。医道を勉強している時の義綱の顔は輝いていた。今までは、日々能登の国の再建・改革に追われて体を休める暇も、落ちついて勉学に打ち込む時間すら無かったのである。この医道伝授は、皮肉な事に、義綱を当主という身から不本意ながら引き摺り下ろされたことによって得た、自分の時間を使っての成し得た事であったのである。
 しかし、その後も義綱は度々病気を煩ったので、義綱は絶え間無く襲ってくる病に対して自ら治療を実践できうるよう、「医道奥義相伝書」の注釈書を伝授者・道三に送付してもらうよう頼んだ。というのも、義綱が授かった「医道奥義相伝書」は侍医対象のものと遜色のない位病気に関することがかなり専門的に書かれており、義綱にとっていかに医道に関心を持ち、また名医一渓道三から医道伝授を受けたとはいえ、かなり難解であったのである。こうして、何度も互いに交流を持ち義綱と道三の交誼は非常に親しいものとなり、次第に医道に関する知識の教授だけでなく、道三は義綱の能登復帰に向けて尽力していくようになるのであった。

3、病を押して

 義綱の身体の様態が落ち着いた事によって、能登奪回計画の準備は再び順調に進んでいった。また、それは永禄十一年(1568年)になると一層活発化し、飯川光誠による笠松但馬守への寝返り工作や、義綱の父・徳祐が上杉輝虎へ義綱方の能登奪回作戦の進展状況などの報告をするなどいよいよ、能登奪回計画実行が秒読み段階に入っていた。永禄十一年二月十五日には、上杉輝虎、神保長職等に連絡を取り「四月には義綱が部隊を率いて能登に入国する」と決められ、それに伴ない上杉の部隊は三月上旬には越中に進軍する運びとなった。そして、予定通り三月上旬になっ上杉方が越中に進行したが、その時突如椎名康胤が中立姿勢から反義綱方(次郎派)に転じ、上杉方の進軍を妨害したのであった。その理由は、義綱が能登守護に復帰する永禄五年(1562年)の時のように神保に有利な沙汰がまた繰り返されるのではないかという康胤の判断があったからである。義綱の部隊は予定通り四月に入国の為の準備をしていたが、椎名方に上杉方は思いの他てこずり、三月も下旬となると一時退却せざるを得無い状況となり、上杉方は四月を待たず越後に引き上げた。さらに義綱は三月二十八日より瘧(おこり=マラリア疾患)を煩い、義綱の部隊の坂本出発が延期された。義綱は医道の知識を生かし自ら薬を処方し、当時の最新医学による処置である灸による治療も行った。
 四月も半ばになって病気が小康状態になった義綱は上杉輝虎に再度の出兵を促したが、上杉方の被害も甚大で再度の出兵を断られた。しかし、自分でかき集めた兵と六角家より借りた兵、さらに神保長職の支援を考えると、単独でも戦えるという事と、能登を離れて一年半以上も経ち、これ以上入国を遅らせると自分の影響力が薄れるとの判断から単独での能登奪回計画の遂行を決断し、四月半ばに近江坂本を出発した。

「いざ!我が能登国へ!出立じゃ!」
義綱はできる限りの大声で皆を鼓舞した。


 六角から借りた手勢百人と航路にてまず越中へ行く。そして六角の支援と義綱独自で集めた銭を用い、あらかじめ能登在国の義綱派が募集した兵をあわせるとざっと四千人程。五月初めの能登入国を目指して越中より能越国境の勝山城あたりに向けて陸路を行軍していた。義綱方は飯川光誠を中枢とし、熊木続兼、富木綱盛、神保周防守、三宅総賢、遊佐孫右衛門尉らと、さらに飯川光誠の誘いにより次郎方から転身した笠松但馬守が義綱方に加わっていた。義綱方は能登を奪回するという目的の下、兵たちの意識も高く、初めから戦意が高揚していた。しかし、それをみても熊木続兼が不安げに義綱に言った。
「御屋形様。遊佐続光等が守るは、堅固な七尾城。果たして上杉輝虎の援護の無い我々が攻め落とす事が出来ましょうか?」
「確かにそう簡単には堅固な七尾城が開城するとは思えない。しかし、勝算はある。まず、能登国内には以前から連絡を取り潜在的に私に味方するものも多い。さらに、弘治元年よりの戦を例にすると、温井等が我々を七尾城に包囲した際には落城こそしなかったが、かなりの危機的状況に陥った。すなわち、長期戦に縺れ込み敵に他の援軍が来なければ勝機也。そして戦が長期にわたれば上杉方から再度援軍が来ようぞ。」
と義綱は強気の姿勢を崩さなかった。いや、強気の振りをしていたのである。義綱もはっきりとした自信をこの戦いにもっていなかった。しかし、自ら弱気でいては戦など勝ちようもないと思っていたのである。すでに、義綱出奔から一年半以上経ち義綱の影響力も低下している。それゆえ、このような不利な状況でも行動を起こさざるにはおけなかったのである。行軍中何度も病気が悪化したが義綱は自分で調合した薬を飲んで痛みを押さえ行軍を予定通り進ませた。

 永禄十一年五月一日。義綱方が能登入国を果たし、翌々日の三日には多茂(玉尾)城をあっという間に占拠した。神明の池でも七尾城方(次郎派)守備隊の八代俊盛を敗走させ他にも、府中池田など七尾城周辺の拠点を占拠するなど、遊佐孫右衛門尉、神保周防守等馬廻衆の活躍で順調な戦果をあげていった。一方の七尾城方は各地での次々敗走との報を受け、七尾城に篭城を始めた。そこで義綱は長期戦の準備の為、御舘館跡(現・宝達志水町)に陣を定め、ここを戦略の拠点と定めた。この館跡は祖父・義総の時代に反旗を翻した庶流・畠山九郎が陣取った地である。能登と加賀の国境ということもあり、加賀本願寺に支援を請うには適した地である。義綱はこの戦い長期戦を想定していた。そのため、光誠は仮の居館として御舘館の整備を始めた。そして周囲の住民を集めてこういった。
「この館の堀を深くしたい。さらに掘った土は土塁の高さのかさ上げに使う。ここに図面を用意した。報酬はしっかり払う。まずは集落の名主である皆に協力をいただきたいがどうか。」
「へぇ。私たち集落は加賀との国境に位置し、いつも戦禍を被っております。何かあれば守っていただけるでしょうか。」
「無論のこと。そして御屋形様は再び能登の国主に戻られる。その時は一定の期間諸役免除などの約束もしよう。」
「わかりやした。この屋敷の諸役はお任せください。」
「有り難い。今宵は屋敷でささやかながら酒宴を用意した。ぜひ御殿完成の前祝いと思うてくれ。」
 こうして、御舘館の整備が進められた。堀や土塁などによる枡形の整備が緊急に行われ、主郭には簡単ながら主殿や会所ももうけられた。義綱の方針で集落の者に負担をかけぬよう、建物も石を用いぬ掘立柱の建物とし、会所の庭園も不要と用意しなかった。ただ、土師器の皿を大量に製作し、能登各地で奮戦している義綱方の将や、館周辺の集落の者たちをねぎらえるように会所で開かれる宴会を度々用意した。館では酒宴が度々開かれたので、家来の中には「御屋形様はたいそう酒がお好きだ」と後ろ指をさすものもいた。
「我々は能登の全部を把握してない。恩賞の土地は未だ空手形になるものも多い。それならばせめて労をねぎらう事こそ、大将の努めである。」
と義綱は側近に語っていたと言う。その気持ちも集落の者に伝わり、次第に御舘館は「殿様屋敷」と呼ばれて、住民たちも慕うようになったと言う。


 義綱は戦況を有利に進めるために、曲直瀬一渓道三に戦果を報告し、中央政界からの揺さぶりを依頼した。又、同月七日には七尾城方が御舘館の攻略の拠点にしようと砦を築いていた羽咋郡押水郷の坪山を、義綱方別動隊の三宅総賢が占拠した。こうして一瞬のうちに七尾城を除く口能登の大半を手に入れたのである。義綱方には上杉氏・六角氏、東福寺や曲直瀬一渓道三などの援護があり、また、永光寺・気多社・石動山などの義綱が守護在職中にいずれも積極的に保護した在地勢力が味方につくなど、一見着々と能登奪回計画が進んでいるように見えた。

 一方で五月に入り、小康状態を見ていた瘧(おこり)の病が再発した。義綱は一日おきに発作が起きる状態で、御舘館の居館で安静にし、自身が処方した薬や灸で治療を試みたが効果をみなかった。そこで名医・曲直瀬道三に「どのような処方を施すべきであろうか。分別を持って薬方のことなど、お知らせいただければ喜びにたえない」とのに書簡を遣わした。道三も義綱のことを想って、自身が持てる最先端の知識で“清脾湯”と呼ばれる厚朴(ホウノキの樹皮)などを薬の処方を施して返信した。この処方通りに義綱が薬を作ったところ、解熱・鎮痛の効果が見られ、なんとか平癒することができた。「病をおしてでも自ら陣頭指揮しなければ、支援が少ない中で勝利を得ることができない。」と語った。また、殿様屋敷周辺の住民が「殿様の病気平癒のため」と代わり代わり様々なものを差し入れてくれた。それが義綱が戦地で病を抱えても退却しなかった理由である。
 しかしながら、戦局は義綱の思うように進まなかった。まず、温井が本願寺と提携しているため、義綱方は加賀の協力は期待できないばかりか警戒をしなければならず、中能登・奥能登方面へなかなか進む事が出来ずに支配地域は拡大しなかった。越中神保家では義綱派である神保長職が、小嶋職鎮ら家中実力者の義綱支援政策への反発に遭い義綱方への兵派遣が出来ず、上杉家も椎名氏の離反で出兵を躊躇した。そうした中、奥能登の七尾城方勢力が徐々に戦闘態勢を整え、義綱方と対峙していったのである。それゆえ、同年十一月には七尾城方の反撃が始まっていった。義綱方も奮戦したが、将来の展望が見えなくなったこともあり、徐々に足軽などが離反していき、兵全体の戦意が低下し弱体化していく。それに従い同年九月には笠松但馬守も義綱の下を去り七尾城方に離反していった。但馬守の裏切りに衝撃を受けた義綱は落胆した。


 そして、今一度自分を鼓舞する為に義綱から名前を「義胤」に改めた。又,義綱派の家臣も主君義胤(義綱)の改名に倣って富来綱盛が胤盛とするなど名前を改めた。同年九月二十六日には、以前に越前にいて将軍職就任に関し義胤が支援した義昭(義秋)が、織田信長に連れられて入京し将軍となった。そこで十月十八日に、義胤はその慶賀の使者として富来胤盛を曲直瀬一渓道三の仲介で派遣し義昭・信長の入京を賛美した。その真意は勢力を拡大している信長に接近し、不利な戦況を好転させる事にあった。十月二十六日付で義胤は側近の富来胤盛に命じて、こんな書簡を名医の曲直瀬道三に送っていた。「近年疲れで力を尽きているためか、一国の諸事(政治など)に嫌気がさしている。したがってそれに伴う薬方のことと、不断の養生ための薬方をご教授願いたい。」
義胤は能登奪回計画で精神的にも肉体的にも、かなり参っていた。


4、御舘館の民と共に


 十二月に入って戦況はますます義胤方が不利な情勢となった。口能登もほとんど七尾城方に抑えられ、やがて義胤方の本拠地であるこの御舘館に迫る勢いだった。御舘館は平地の居館であるため、それなりの防備を整えたとはいえ、周囲の支援がなければ籠城してもまず勝ち目はない。それを見かねた飯川光誠が義胤にこう進言した。
「義胤様。これでは到底勝ち目はございませぬ。もう一度態勢を立て直して能登の奪回の機を伺いましょう。」
すると、義胤はいつになく落ちつかない様子で言った。
「いたずらに戦を続ければ兵を失うだけでなく、能登国全体が疲弊してしまう。何よりもここまで尽くしてくれた屋敷周辺の民を総攻撃の危険に合わせるわけにはいかぬ…ここは退却すべきか・・・・。しかし、一旦退いたところで、能登へ復帰する事は出来るのか?この先、今回以上の態勢を整える事は出来るのか?」
義胤は珍しく焦っていた。この機会を失ってはもはや二度と能登守護に返り咲く事は出来ないのではないか、といった不安からであった。光誠には義胤の気持ちが痛いほどわかった。
(確かに義胤様の言う通り、再び坂本に退いても今回以上の兵を集める事は不可能に近い。そうなるとほとんど義胤様の能登守護復帰への道は断たれてしまうであろう。しかし、現在の状況も他の援軍も望み薄ですでに勝てる見込みは無い。このまま戦を続ければ被害が増すどころか義胤様の命すら危うい。義胤様の討ち死に・・・。何としてもそれだけは避けなければならない。先々代の義総様の為にも・・・。)
それを横で聞いていた京都から戻ってきたばかりの富木胤盛が、光誠の気持ちを察し涙を必死でこらえながら精一杯の笑顔でこう言った。
「御屋形様。案ずることありませぬ。私達家臣一同の御屋形様への忠義。いささかも変わりございませぬ。ですから、もう一度態勢を立て直しましょう。」
「・・・そうだな。このままではいかぬ。捲土重来(けんどちょうらい)を期す。よし。兵を引こう。退却だ!」
義胤は悔しい気持ちを精一杯の大きい声に変えて光誠と胤盛に命令した。
「ははっ。全軍に伝えまする。」
「いいや全軍だけでは足りまい。集落の名主にも伝えよ。」
「しかし、万が一それが七尾城方に漏れ伝われば総攻撃を受けかねませぬ。」と若狭守光誠が珍しく義胤に強く意見した。
「構わぬ。もし我らが退却を知らぬで、抵抗する者が現れたら被害が増える。そのための伝令じゃ。我らは敵から集落を守ると約束した。それが果たせぬのならせめてもの策を講ずるべきである。」
「御屋形様のお命の危険を考えれば本来は主命にしても聞き入れ難いと若狭は考えます。なれど、御屋形様の心意気を以てその主命を拝謁いたしまする。」
「うむ。若狭守。すまぬな。それと、胤盛。殿(しんがり)を願えるか。皆を無事に退去させたい。そして、もちろん胤盛。お前も近江坂本へ安着するように。」
「はっ!かようなお言葉。痛み入ります。」
こうして密かな義胤方の退却準備が進められていた。

そして、御舘館集落の皆に義胤の退去が伝えられた夜。集落の名主が館に集まってきた。その者たちに義胤は自ら応対した。
「この度、この屋敷をお出になるとのこと。誠におとましい(惜しい)事でごぜぇます。」
「誠に相済まぬ。皆の事を最後まで守ってやれぬ事。」
「今宵はおんじょい(粗末な)物しかねぇですが、酒とつまみを用意したげん。ほしたら御屋形様もあせない(忙しい)と思いますに多少のお時間があればお付き合いいただければと思うておりまする。」
「もちろんじゃ。手元不如意と釜で炊くと敵に気づかれるのであまりもてなしもできぬが、屋敷の食もできるだけ振る舞いたい。そして、ここに来れなかった者に配ってくれ。」
「ありがてぇことです。」
「それともう一つ。皆に伝えたいことがある。」
「へぇ。なんでございましょう。」
「この半年もの間、我々からもらった文書をことごとく廃棄せよ。」
そう義胤が言った瞬間集落の名主たちに大きな動揺が走った。
「なぜでごぜぇますか。」「大切な文書。後生大事に持っておきてぇです。」
「もし、七尾城方がそちたちの家を改めた時、我らの文書を持っていれば、我らの味方と思われよう。全て廃棄し、我々の事を非難されよ。さすれば七尾城方も命までは取るまい。」
「嫌でごぜぇます。御屋形様とのつながりをまんで(とても)大事にしてぇと思っておりますのに。」
「その気持ちだけで良い。御舘館集落を守れなかった主君など記録に残さなくて良いのだ。」
「わしらざいご(在郷・田舎)のもん(者)まで大事に思ってくれるとは幸せでごぜぇます。」
こうして、集落の者たちは義胤の指示通りにし、七尾城方からお咎めを受けることはなかった。そのため、後世において「御舘館の当主」を確定するような文書は何一つ残されなかった。その代わり、御舘館の集落の人々は「殿様屋敷」の跡として子孫に大事にするよう伝承したのである。(注)

こうして義胤の能登奪回計画は永禄十ニ年(1569年)一月を前にして失敗し、義胤方は御舘館を放棄し近江坂本に退却した。もちろん富来胤盛も殿の務めを見事果たした上で近江坂本に無事に帰着した。
義胤方が退却したその日の夜。能登では激しい雨風が吹き荒れ、雷鳴がこだました。能登の夜明けはいつ来るのであろうか…。

<注釈>
(注)御舘館のエピソードは、『義慶奮戦記〜義綱奮戦記番外編〜』の前編「父と子」のストーリーに裏話があります。あわせて読んで頂けると嬉しいです。

第八章へ続く
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