義慶奮戦記−義綱奮戦記番外編−
後編「親子の誇り」

1、元服

 義胤(義綱の改名後の名前)方が能登奪回作戦に敗れ近江へ撤退すると、義胤方の勢いは衰退し、七尾城方は勢いを取り戻した。一旦は離反した笠松但馬守も永禄十二年(1569年)に七尾城方へ戻り、その翌年には、永禄九年の政変以来義綱に付き従っていた佐脇綱盛が離反して七尾城方へ帰参した。

 しかし、深刻な畠山四人衆の対立構図も浮かび上がった。四人衆の一員であった八代安芸守俊盛は、畠山義綱政権においてその当時下野していた温井方の旧領を所領として与えられていた。しかし、義綱の追放後、温井家は帰参を許され、永禄十一年の義綱の能登奪回計画での戦いでも活躍した温井の台頭で安芸守俊盛は深刻な危機感を抱いていた。また、畠山四人衆の中で八代は一番の能登畠山家中に列した新参者であるので、他の三人とは微妙な距離感もあった。そのため、能登奪回計画戦で八代家は戦況の不利な前線に置かれ、八代隊は敗北を喫していた。そのため四人衆の一翼にも関わらず戦功もあげられずに疎外感を感じていた。そこで、七尾城方を離反し、義胤方と連絡を取り永禄十二年(1569年)一月には能登鶏塚で挙兵した。しかし、義胤方の援護は届かず、勢いを得た七尾城方にあっという間に鎮圧された。こうして畠山四人衆はは再び「畠山三人衆」として勢力を取り戻して行った。


 しかしその後も大名権力の低下は家中の誰の者にも明らかである状態となった。ある時、次郎が七尾城の倉庫にある本願寺からの贈答品を見ていると、本願寺に送付する予定の礼状を発見して愕然とした。それには、本来なら当主が署名する欄にこう書かれていたからである。
「本来なら当主自らが、御礼の筆を取るべきではあるが、次郎様は幼少の為、備中守(景隆)が代筆するものである。」
温井景隆は前回の戦功から兵庫介の官途から一族の中心人物を指す備中守に変わっていた。しかし、いくら温井が本願寺の申次の地位にあると言えども、次郎に一言も相談無く行った署名を問題視し、華が列席の下、温井備中守を次郎の屋敷に呼びつけた。すると、なぜか温井だけでなく、遊佐美作守続光も長対馬守続連も参じた。
「呼んだのは備中だけだ!そちたちは呼んでおらん。去れ!」
「若。政は“公私意に任せずに政を御成敗する”事であり、それがしの他の年寄衆を呼ぶことはしごく当然のことであると存じます。」
と備中守景隆は強気で返した。
「…まあよい…。では備中に問う…。本願寺への礼状。余に知らせず勝手に署名をするとは何事か!」
「もちろん若にお伝えすべきかと存じましたが、全てを若にお伝えしても面倒な事もございましょう。」
そう言っていつも備中守景隆は次郎の政治への口出しを最近露骨に拒んでいた。
「これ備中!わしは畠山家当主ぞ!」
「わかっておりまする。しかし、それがしたち年寄衆が政を担うのもひとえに若のためでござりまする。」
「!?」
「若にはもっと勉学や剣術の稽古に励んでもらいたいのです。それがしたちが政をすることにより、若は余計な事をする手間が省けまする。」
「備中!わしは畠山家当主ぞ!若などと呼ぶな!」


 次郎は悔しくて悔しくて仕方が無かった。この時既に次郎は16歳になっていた。当主としての自覚も持ち始め、なんとか祖父義続公や父義綱(義胤)公がそうしたように畠山三人衆の元にある権力を取り戻せないかと考えていた。そして、まずなんでも畠山三人衆から「幼いので」と言われるのを防ぐ為、自分が元服する旨を畠山三人衆に一方的に伝えた。一言も相談も無しに元服を決めた次郎に家中の皆が驚いていた。畠山三人衆は「御屋形様が元服していた方が幕府の15代将軍となった足利義昭や正親町天皇へ接近しやすい」と考え、この元服が利用できると判断したからこそ黙認した。しかし、畠山三人衆は自分の意に従わず独自に行動し始める恐れのある次郎に危機感を抱いていた。そして元亀元年七月に年寄衆(畠山三人衆)の若返り計画を実行した。

「我々年寄衆一同は今まで御屋形様に尽くして来ましたが、そろそろ齢も限界。御屋形様が元服なさるのを期にここらで、それがしと対馬守(続連)は子どもに家督を継承したいと思いますが、御屋形の裁可を頂きたく存じます。」
と美馬守続光が次郎に申し出た。
「わかった。許そう。長家は嫡男の綱連。遊佐家は嫡男の綱光(後の盛光)が家督を継ぐのだな?」
年齢的に若い温井備中守景隆は引退する年齢ではないが、続光と続連は一旦表舞台から消えて、次郎の不満をそらそうと考えたのである。無論それは続光・続連が実質的に引退するのとは違う、あくまで表面上でのことである。ともあれ、元亀元年冬に続光・続連は剃髪し、翌年初春に次郎は元服し義慶と名乗った。

2、公の主張

 元服した義慶は以前よりも積極的に国政に関与しようと動いた。義綱(義胤から再改名した)方に味方した木田左京亮を撃退した国分に対し、畠山三人衆は国分の領地である西谷内を安堵した。以前ならばそこで恩賞は終わり、主君である義慶の関与する余地はなかった。しかし、その恩賞の場で義慶は、戦功を挙げた国分に自らの名前である「慶」の字を与え以後「国分慶胤」と名乗ることとなった。領地を安堵するという行動は公だけの意志だけでは与えられず、畠山三人衆で衆議した内容が採用されてしまう。しかし、大名である自らの名前を与えるという行為は「当主」による公の意志だけでできる恩賞である。義慶はこの手をもって少しでも自らの権力を取り戻そうと考えたのだ。これが義慶が考えた「駆け引き」だった。

 義綱の能登奪回計画後、畠山三人衆の続光・続連は朝廷に接近し始めた。それは義綱方に対して、自分たちの政権の正当性を得る為である。15代将軍足利義昭とその後見人である織田信長に義綱方がすでに接近していた事から、義慶政権は正親町天皇に接近することを試みた。使者は相応の銭を持参し、能登畠山家の極官(最高の官途)である修理大夫を朝廷に申請した。その申請が裁可され義慶は晴れて修理大夫を名乗るになった。義慶が歴代能登畠山当主が名乗る匠作(修理大夫)の官途を得たことにより、義綱方に対する義慶政権の一層の優位が京都や能登の周辺諸国にも示された。これにより今まで義綱方と通じていた上杉謙信が、義綱方との外交を停止し義慶政権との外交関係を樹立するなど大きな効果を与えた。

 義慶は少しずつ自らの政策を進めることが出来たことに自信を深めていた。そこで華に自分の思いを打ち明けた。
「母上。私は幼少より重臣達に利用され、何一つ自分の思うようになりませんでした。」
「義慶。辛い思いをさせましたね。父・義綱に変わって母の私が詫びなければなりませんね。」
「いえ、良いのです。これからは違いますから。」
「…。どうしたのですか義慶。」
「それがしを利用する者がいるならば、それがしの利用価値があるはず。ならばこちらもそれを利用して自らの思いを遂げようと存じます。」
「自らの思いとは如何なるものですか。」
「父が成し遂げようとして成し得なかったこと。大名権力の回復と能登の安定です。」
「……そなたの父は、それ故に居場所を奪われた。それを知っての事か。」
「はい。今の家中では政に“公私意に任せずに政を御成敗する”という事ができていないと存じます。ならばそれを正すのが御屋形の努め。三人衆を利用して本懐を遂げる事がそれがしの思い。」
「わかりました。強い思いをもったあなたを母は止めはせぬ。ただ一つ。危なくなったら地位も城も捨てて逃げるのですよ。」
「あいわかりました。母上。」


 こうして、畠山三人衆に対して義慶の自立的行動は一層増えた。まず、父義綱が永禄五年(1562年)に造営した能登一宮気多大社への再度の造営を計画した。父義綱の政策を継承して国内の人心の安定と、寺社勢力を味方につける、さらに天皇の勅許を得ることで朝廷の信頼を獲得するというメリットのある造営を画策したのである。義慶は一刻も早く実施したいと畠山三人衆に相談せず側近の大塚連家を通じて直接天皇にアプローチしようと試みた。しかし連家は長家の庶流の家柄でありその画策はすぐに引退した長続連の耳に入ってしまった。
「御屋形様。社寺の造営や朝廷への折衝は様々な手続きがございます。先立つ費用もありますし、造営に関する諸役を能登国全体に触れを出さなければなりませぬ。」
と四郎右衛門尉綱光が言う。
「万が一朝廷が裁可を下して造営できるとなっても、銭の用立てができずに行えないとなると、畠山家の恥でございまする。その事を御屋形様はお考えか。」
と温井備中守景隆が言う。
「“公私意に任せずに政を御成敗する”とは御屋形様がかつて年寄衆と交わした約束のはず。我々の意見は家中の者共の意見。それをないがしろにするというのは、如何なものか。」
と長九郎左衛門尉綱連が言う。
「では三人に問う。気多社の造営は、畠山家の安定を朝廷にも幕府にも、そして周囲にも見せるもの。その何が問題か。わしは強くこれを推進したいと思うておる。至急話し合い結論を出してほしい。」
「家中の衆議をまとめるには時間がかかります。我々でゆるりと話しながら結論を出しますゆえ、ここは一度お引きいただきます。」
備中守景隆の表情は、祖父総貞のそれと似ていた。もちろん義慶は総貞の顔を知らない。しかし、義慶は華の「危なくなったら地位も城も捨てて逃げる」という言葉が頭によぎり、これ以上強く主張するのを控えた。
「あいわかった。よきにはからえ。」
「御意」

 義綱が行った過去に行った気多社造営は能登畠山家の安定を全国に示す事に加え、大名権力の権威を国内に示す目的もあっただけに、義慶は造営を通して、自分の主導権の回復を図ろうとしていた。それゆえ、造営にまで重臣達に口出しされた事にかなりの落胆をみせたと言う。

3、父からの文

 義慶の気多社造営に関して合議を求めたが、実際七尾城内の長屋敷に集まった三人は畠山三人衆ではなかった。温井景隆と遊佐続光と長続連。相変わらず家中の実権はこの3人に握られていたのである。そこで3人がこの政策に対してどのようなスタンスが良いか、そして今後の義慶への対応策が話し合われた。
「気多社の造営は我々重臣の権力に影響を与えるものではないのではないか。」
「気多社の造営の朝廷への折衝を行い義慶から論功をもらうことで、一層大名直轄領の削減が図れないか。」
「義慶の命令をすぐに実行に移すというのが気にくわない。まるで大名の命令がすぐに実行されるが如く誤解を与える。」

 重臣達の話し合いは長きにわたり、すぐには実行できなかった。しかし、気多社の造営案はなんとか理解を得られ、元亀四年(1573年)四月に実施された。摂社白山・若宮両社の造営を大々的に行い畠山家の安定ぶりを全国に披露した。しかし、その計画・運営は重臣達が取りしきり、何一つ義慶は口出しが出来なかった。義慶は悔しさのあまり、自邸にひきこもった。そして、何年か前に父義綱から密かに届いて部屋に隠してあった書簡を手に取った。

「父が不甲斐なかったせいで次郎には迷惑をかける。だが、御屋形となった以上は、政に尽力するのだ。大名たるが行動に一国の命運は託されている。国が栄えるのも亡国になるのも、主家の行動1つ1つの結果と言えよう。大事なのは、国を豊かにすること駆け引きである。それによって、戦をせずとも自分の思い通りの行動を果たすことができる。お主の行動を父は信じている。」(注)

 数年前にこの手紙を受け取り内容を見た時、義慶は号泣したと言う。幼少の頃、多忙な父ゆえに愛情にあまり触れられなかった。父は家族に冷たい人なのだと思っていた。しかし、その実は、家族への愛情と共に、能登一国を預かる責任者としての誇りを持って行動していた事。それが大人になって実際に家督を継いだ義慶は感じることができた。義慶は自分自身の思い通りに事が運ばない現状を見るとき卑屈になることもあった。そんな時はこの書簡を胸に、自分自身の誇りを取り戻していた。そして、自分の信じてきた道を自分なりに進み、父や曾祖父(義総)に恥じない名君主となるよう努めてきたのである。こうして密かに義綱の想いを受け継いだ義慶は徐々にではあるが、自信を深め、大人としての一歩を確実に歩みつつあった。が、しかし・・・。


 畠山三人衆が実権を持っていたのは昔、今では重臣達が遊佐派(温井・三宅派)と長派に分かれ、家中を二分していた。義慶はその二派を利用しやすいように、どちらにも与せず、必要に応じてどちらかのグループを頼るバランスをもって少しずつではあるが自分自身の政策を実行させる手段を取っていった。

 一方徐々に自立的行動を進める義慶に対し危機感を抱く重臣がいた。もし、義慶が一方に味方すればバランスが崩壊し、選ばれなかった自派は窮地に陥る。それを利用しさらに大名権力を回復しようと目論んでいるのではないか。それでは重臣達の権力を削減される義綱専制期と全く同じではないか。このままでは自分の派閥が危ない。義慶を七尾城から追放すべきだが、そのためには多くの人を巻き込まないと駄目だ。しかし、それでは事前に計画が露見し、以前の温井総貞のように粛清されることもあり得る。となれば殺害するほかあるまい。

 義慶は天正ニ年(1574年)にある家臣によって毒殺されてしまった。その犯人は長続連とも遊佐続光とも言われるが、定かではない。ともあれ、重臣間の争いの中で義慶の死の真相はあばかれなかった。それは何故か。重臣達にとって首謀者を探すことは2派のバランスを失うことになる。犯人が明確な証拠など残すはずなく、どちらかが難癖つけてもう一方の派閥を断罪して母上の華殿を巻き込めば深刻な内乱になることは両派共にすぐに想定できた。それゆえ、両派は合議の上、義慶の死に激怒する華に対して、適当な出自の者を下手人とすることで首を差し出し手打ちとした。それよりもいち早く決めたいことは、次は誰が御屋形様となるか。畠山氏の一族であれば正当性があるので、誰でも良い。誰が御屋形であっても重臣の都合の良くあやつれる人物であれば……。

 結局は華の強力な反対を押し切り、義慶の弟で二本松畠山家に形式上養子としていた「二本松伊賀守義有」が家督を継ぐことになり、「畠山義隆」と名前を改め家督を継承することになった。弟は兄・義慶より2歳若い。間近で能登畠山家の醜い政争を見てきた者の一人だ。御屋形となった「義隆」は兄・義慶の意志を受け継ごうと、父・義綱の書簡を胸に最初の畠山三人衆との合議に臨もうと思っていた。またしても義綱の想いは子に伝わっていたのである。一方、畠山三人衆は再び「公私意に任せずに政を御成敗する」という約束をもって義隆を操るらんとする用意をしていた。


 こうして能登畠山家は何事もなかったように時を刻んでいった。完全なる能登畠山家の内部崩壊が近いことも家中の者は知らずに……。

(おわり)

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<注釈>
(注)義慶に宛てた義綱書簡はフィクションです。

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