人物列伝
「足利義栄」

足利義栄イメージ
↑足利義栄イメージ像(畠山義綱画)

人物名 足利 義輝栄あしかが よしひで)
生没年 1538〜1568
所属 室町幕府第14代将軍
主な役職 征夷大将軍
特徴 武家の長ながら周囲の多くに認められなかった悲運な将軍
参考文献 斎藤薫「足利義栄の将軍宣下をめぐって」『国史学』104号.1978年
中島源『阿波の足利平島公方物語』徳島県那賀川町.1991年
山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館.2000年
山田康弘「十四代将軍義栄と「二神家文書」所収御内書について」『戦国史研究』55号.2008年
人物の歴史
 ともすれば室町幕府における将軍権威というのは、弱体化した幕府にあって軽視してしまいがちである。管領である細川氏の権力を過大評価し「京兆(細川氏)専制政治」と評する向きもあるくらいである。しかし、朝廷の力が衰えた室町・戦国期における天皇権威復権が見直されているように(今谷明『戦国大名と天皇』)、室町幕府の将軍権威も弱体化していた幕府権力にあってなぜ存続できたのか、改めてその将軍権力を見直す必要性がある。そこで本稿では、室町幕府将軍の中でももっとも支持勢力が不安定で、権力基盤が弱かった14代将軍足利義栄の歴史を見ていくことで、戦国末期における将軍権力を推察してみたいと思う。
 義栄は足利義維の嫡子で阿波の平島で生まれた。義維の養父・足利義稙は10代将軍であったが、1493(明応2)年の細川政元のクーデターにより失脚し京都を逃れ、一度復権するものの、1521(大永元)年に細川高国の専横をよしとせず出奔したことから、「流浪の将軍」などと評される。結局将軍に復することのできなかった義稙の跡を継ぐべく、義維は将軍の地位を窺うべく和泉国の堺に進出し、一時は畿内の政局を動かすなど「堺公方」とも呼ぶべき政権を建てた。しかし、それも敵対勢力により崩壊し阿波平島に逃れることとなった。阿波足利氏と呼ばれる「平島公方」の誕生である。この時期に長男の義栄(初名・義親)、次男の義助、三男の義任が誕生している。
 この後も義維は、将軍の地位を狙うべく、義晴・義藤(後の義輝)陣営と対立している。1551(天文20)年本願寺光教に義親の元服料を懇請していることから、この頃には平島足利氏は義維が前面に出るのではなく、嫡子・義親を将軍にとする動きが見られる。しかしこの動きは、1552年に義晴・義藤が三好長慶と和解し帰京したことから失敗した。この後もなかなか義維は権力奪取の機会に恵まれないどころか、最大の支援者である細川持隆が三好義賢によって殺されると、義維は嫡子・義親と共に妻の実家である大内家を頼って1555(弘治元)出奔した。しかし、大内氏は陶晴賢の謀反により義長の代となっており、大内氏の権力基盤は不安定であった。結局義維・義親父子は大内氏滅亡後も毛利氏の元で1563(永禄6)年まで拠ったようであるが、大友氏や尼子氏らと中国地方の勢力争いをしていたため、上京するための支援などは望めるまでもなかった。
 このような状況の中で、畿内の実力者三好家の中では、なかなか思い通りにならない足利義輝を擁立し続ける三好長慶に対して、家臣の松永久秀は義維擁立を考えるようになった。そのため、義維を阿波平島に呼び戻した。そしてこの動きに呼応すべく、1565(永禄8)年三好三人衆と松永久秀によって足利義輝殺害事件が起こったのである。これで義維が将軍就任争いで有利に立ったと思われたが、義輝の弟で奈良の一乗院覚慶(後の足利義昭)が幽閉を脱して将軍就任争いに加わったのである。三好三人衆陣営は義輝の葬礼を殺害の翌月に行うことで同陣営側に立つ義維の正当性をPRしようとしたが、還俗した義秋(後の義昭)も脱出後に朝廷に献金するなど、早くから対朝廷工作を進めていた。このように将軍就任争いが続いて京都の騒乱が収まらないうちに、三好三人衆と松永久秀の仲が悪くなっていった。そこで、義維・義親父子は三好三人衆に松永久秀の追討を命じて、戦を始め久秀は敗走した。この頃、義維は中風を患っており、いよいよ平島足利氏の頭領としての義親の活動が始まった。一方の義秋陣営では1567(永禄10)1月、京都の公家吉田兼右の奔走もあって将軍就任への前提となる地位である左馬頭に任じられ、義親に一歩リードした。ただ相変わらず畿内地域は、義親・三好陣営が支配していたので、それを逃れるため義秋は越前朝倉氏を頼る。義秋が京都から遠ざかったこともあり、義親も左馬頭の地位を申請し許可された。義親は摂津国の富田に居を移し、「富田の武家」と呼ばれるなど、京都にもその名が知られたようである。義秋にも義親にも将軍就任への前提となる左馬頭を任官し、しかもなかなか将軍に任命しないという朝廷の対応はともすれば日和見的、場当たり的な対応にも見える。しかし、ここには朝廷のバランス感覚が見て取れるのである。今後義秋陣営・義親陣営のどちらが勝利するのかわからない状況で一方だけに肩入れするのは非常にリスクの多いことである。すなわち、肩入れした陣営が負けてしまうと勝利した勢力によって朝廷が危機にさらされるのである。
 さて、左馬頭を任官された義親であるが、早くも陣営が弱体化する事件が起こる。義親に疎んじられていると思った三好三人衆のうちの一人である三好義継が離反し、久秀方に投じたのである。義親は義秋だけでなく、久秀・義継陣営(さらにこれらと合流した畠山高政ら根来衆)とも敵対しなければならず、このため義親(任官と共に義栄と改名した)は入京することができなかった。このように、義栄を推戴し将軍とするべく支援する三好家は弱体化しており、そのためにも一刻も早い将軍任官が義栄陣営にとって必要だったのである。義栄は自身の側近である畠山安枕斎守肱(畠山式部少輔入道・実名は畠山維広という)を使節として上洛させ朝廷工作を盛んに行った。これに対して朝廷側も山科言継、勧修寺晴右、伊勢貞助らが義栄のために京都で奔走していた。将軍に任官されるまで、献金・貢ぎ物を盛んに行った。また実現しなかったが、義栄は妹を誠仁親王に進めるなど、将軍任官のためにはどんなことでもやろうという姿勢が見て取れる。結局1568(永禄11)年2月に義栄は念願の征夷大将軍に任官されが、将軍宣下の儀式の折にも義栄は上洛することができず畠山安枕斎がこれを「見物」し、摂津国富田で義栄がこれを受けるなど義栄政権の前途は非常に多難であった。朝廷は義秋陣営とのバランスを考えていたこともあり、義栄の左馬頭を任官から将軍任官まで非常に時間があったが、最終的に義栄を将軍にした理由はなんであろうか。義秋は1566(永禄9)年から朝倉氏の元に身を寄せていたが、その翌年になっても越前から動かず積極的な上洛姿勢がうかがえない。これは、周知の通り朝倉氏が積極的な義秋支援に乗り出さなかったことも一因である。京に近い畿内に拠点を置く義栄陣営と、積極的な行動がない義秋陣営とでは、一応なりとも畿内を支配下に置く勢力に支援を得ている義栄を将軍した方がいいと判断したのであろう。
 こうして、誕生した義栄政権はどのような政権だったのであろうか。まず、軍事的には阿波の国衆(篠原長房ら)の力と、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に依拠している。三好三人衆により近江六角氏が一応の支持勢力になったとは言え、その影響力は非常に限定的であった。しかも、当該期の三好家は松永久秀らによる工作もあり、分裂し、弱体化していたので、軍事的基盤は非常に弱いものであった。政治組織的には、三好氏が細川信良(後の昭元)を推戴しており、将軍の義栄、「管領」格である細川信良、そしてその下に管領代や幕府奉行人がいるというのが名目上の組織であった。しかし、実際には三好氏の奉行人も政権に深く関与しており、義栄の将軍権威は名目上のものであった。さらに、畿内の寺領の安堵文書には義栄陣営の奉書だけでなく、義秋陣営の奉書もあるなど、朝廷だけなく、畿内の寺社勢力も義栄陣営の権力を疑問視し、両者とのパイプをもっているのである。ここにも義栄政権の脆弱性を見ることができる。
 以上見てきたように、義栄は畿内を一応抑えていたため、将軍となることができたが、その支援勢力は分裂・弱体化して非常に不安定であった。さらには対抗勢力である義秋陣営の存在があり、一層義栄陣営は軍事的にも、大儀名分的にも脆弱であったと言わざるを得ない状態だったのである。そのため、幕府機構の再建はおろか、整備すらままならない状態であった。義栄政権は、結局将軍任官の約半年後の9月に腫れ物をわずらい死去したことによって実質的にも名目的にも崩壊する。義栄は三好政権の傀儡であるという見方は当然と言えば当然である。しかし、山田康弘氏は『戦国期室町幕府と将軍』において、明応の政変(細川政元の将軍義稙追放)後の幕府を義稙系と義澄系による対立があったとし、「義稙系」は「義稙−義維−義栄」と続き、「義澄系」は「義澄−義晴−義輝−義昭」と続くと定義し、義栄政権をその一環とみている。事実、義栄自身も父義維と共に強力に将軍職を求める積極性と、その血筋として十分であった点で、単なる傀儡と片付けてしまうことはできないと考える。
義綱解説
 戦が吹き荒れる戦国時代末期、さらに安土桃山時代への胎動とも言える織田信長の動きに付随する足利義昭(義秋)の存在と行動から、義栄の行動と存在は軽視されやすい。義栄政権はなんら新しい行動を起こしたり、強力な動きをしているわけではないが、旧来の幕府政治に則り権力を欲するその行動と、将軍任官に対し現実的な側面から色々な妥協が義栄、三好氏、朝廷側に生まれる状況がなんとも興味深い。人間は理想だけは行動できない、現実的な対応のためには多くの妥協が必要なのだと義栄は示してくれているような気もする。ただ、義栄は将軍職に就くために多大過ぎる妥協を余儀なくされた。誠に悲運な将軍である。
 しかし、足利義栄を扱った論稿は本当にみえない。僅かに上記参考文献にあげた2稿だけである。また、室町将軍のことが書かれている本でも、義栄を詳しく取り上げたものはほとんど無いと言ってよい。その中にあって、義栄に脚光を浴びさせたのが、山田康弘氏であると言える。義栄と言えば「発給文書もなく、花押も確認できない」(上島有『中世花押の謎を解く−足利将軍家とその花押−』山川出版社,2004年,310頁より)状況であると言う。しかし、山田氏は上記掲載論稿「十四代将軍義栄と「二神家文書」所収御内書について」において、二神家文書にみえる「河野左京大夫(通宣)とのへ」とある文書は足利将軍家の御内書であり、「猶、守肱(畠山式部少輔入道)可述候也」とあることから、畠山式部少輔入道が「義栄の側近中の側近として活躍したこと」から、この文書を義栄の御内書ではないかと推考している。ただ、山田氏も指摘している通り、この文書は義栄の父・義維が発給した可能性もあり、断定的なことは言えないとしている。「河野左京大夫」という河野通宣の官途と、足利氏が河野への支援要請という内容から考えて、発給時期は義栄が上洛をする1565(永禄8)年〜1567(永禄10)年のことではないかとしている。するとこの文書は義栄陣営が将軍家継承を狙った戦略的な発給文書であり、今後の評価と研究の推進が期待される。

☆信長の野望での足利義栄能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技・策戦
天翔記 100 54 30 100 21 E E

 政治は最大でも政治値、戦闘値とも低い。さらには信長の野望ではわずか天翔記しか登場していない。天下の将軍としてこのような能力値でよいのだろうか。足利将軍としては5代将軍・義量や7代将軍・義勝に比べれば事績の多いほうであると思う。一応なりとも三好氏を味方につけて将軍となったその政治力は評価されるべきではないか。また、天下の将軍としてはやはりどのゲームにも登場して欲しいと私は願う。できれば三好氏を乗っ取って、足利義栄=平島公方として全国を統一しても面白いだろう。ただ、さすがに将軍ということだけあって、魅力はMAX値の100である。将軍家の血筋ということで誰しも欲する人物=魅力が高い。なんともおつな決め方で、これは評価したい。

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