人物列伝
「足利義維」

足利義維イメージ
↑足利義維イメージ像(畠山義綱画)

人物名 足利 義維(あしかが よしつな)
生没年 1509〜1573
所属 「堺公方府」将軍代理!?
主な役職 「堺公方」
特徴 将軍に成れなかった夢を息子義栄に託す。
参考文献 今谷明『室町幕府解体過程の研究』岩波書店
奥野高廣「「堺幕府」論」『日本歴史』328号
神田千里『一向一揆と戦国社会』吉川弘文館
斎藤薫「足利義栄の将軍宣下をめぐって」『国史学』104号
山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館
人物の歴史
 室町幕府11代将軍義澄の子で義稙の養子となった。それゆえ、義賢(後の義維)は義稙派の武将である。1526年に12代将軍義晴の下で細川高国の家臣団に内紛があり、それに乗じて、義賢と細川澄元の遺児・聡明丸(後の晴元)が堺に上陸し、そこで義賢・晴元が元服した。翌年、将軍義晴は六角氏を頼って近江に逃れた。義晴が動座したことで、京都は無政府状態になり、その隙をついて、義賢が武家伝奏に従五位下左馬頭叙任を申請した。当時の慣例では左馬頭が将軍就任への登竜門であった。2度任官申請して許され左馬頭となった義賢は「義維」と改名した。同年、六角や朝倉の支援を得た義晴方に京都を奪回されたが、1527年、義晴と義維との和議が三好元長と細川晴元の対立によって破談すると再び義晴は近江坂本へ、さらに朽木谷に逃れて行った。
 この1527年から、1532年に三好元長が戦死して、将軍任官の可能性が低くなって義維が阿波に退く5年間まで、義維が中央政権の実権を握るのである。以前はこの時期を将軍不在の「空位時代」とされてきたが、義維を将軍と仮定して今谷明氏が「堺幕府」なるものを想定された。しかし、奥野氏が「「堺幕府」論」において、「この政権を幕府と想定するのは理解し難い。征夷大将軍の宣下を受けた武将の開設した政庁が幕府である。どれほど実力があろうとも、天皇とか、その代位者から将軍宣下のない限り征夷大将軍でないし、その政庁を幕府などと僭称できないはずである。」と指摘している。しかし、奥野氏も今谷氏が空位時代に義維を中心とした政権があり、その実力者である茨木長隆を浮かび上がらせた実績を評価している。義維は公家などから「堺大樹」と呼ばれるなどその地位が認められていた。この「堺公方府」では、管領代ともいうべき茨木長隆、飯尾元連、飯尾為清の存在が知られ、また今谷氏の論文には「足利義維奉行人連署奉書」なども知られ、義維政権の実力と義維が実権を持った事を表している。
 この政権を今谷氏は「畿内に於て初めて阿波国衆による中央政権が登場し、室町将軍家の権威は徹底的に破砕されたのである。」としている一方、山田康弘氏は『戦国期室町幕府と将軍』において、明応の政変(細川政元の将軍義稙追放)後の幕府を義稙系と義澄系による対立があったとし、「義稙系」は「義稙−義維−義栄」と続き、「義澄系」は「義澄−義晴−義輝−義昭」と続くと定義し、「堺政権」もその一連の動きとしている。
 その後も、義維は嫡子・義栄を将軍につけるべく奔走する。「堺公方府」が崩壊した後も、義維の影響力はそこそこあったようで、義維が嫡子・義親(後の義栄)の元服に際し、本願寺に対し「馳走の段」を要求し、本願寺は迷惑だとしながらも、光教の母の名で代りに馬代2000疋を送っていることからも、本願寺が義晴・義輝方だけでなく、「堺公方府」崩壊後も義維方と少なからず連携している事実が伺えるのである。これは、義晴方も義維方もどちらも政情不安定で、両者に影響力を保持する必要があったということであろう。その後、義維はその子・義栄の将軍任官を全面支援し、義栄が死去した後、亡骸をもって阿波に帰ったようである。
義綱解説
 1527年〜1532年まで義維中心の政権「堺政権」が実在したことは確かなようです。ですが、この政権はまだ学術的に確定しているものではないようで、「堺公方府」も「」つきで表記するのが望ましいようです。その他にも、「堺政権」が「堺幕府」であるのか、「堺公方府」として良いのかもまだ確定されていません。筆者は「堺政権」が畿内中心の地方政権であったと思っている事、さらに一度も将軍に任官されていないこと、政権の中心が一度も京都になかった事などから、「堺公方府」と記しています。

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