七尾はいま?


現在の七尾が抱える諸問題とその対策
−能登全体の発展を視野に−

●七尾市の人口減少と過疎化

 七尾に限らず能登の自治体の人口は年々減少する「過疎化」が一層進行している。そのなかでも七尾市の人口減少率は、能登半島全体から見れば緩やかな方であるが、七尾市が2007(平成19)年度に公開した「市民意識調査報告書」によると、七尾市の人口は1985(昭和60)年に約7万人(現在の新・七尾市の地域人口)であったが、2005(平成17)年には約6万2000人と12%ほど減少。今もなおも人口減少は続き、2009(平成21)年時点の人口は6万人を切ってしまった。

 人口が減少すれば相対的に高齢者割合が多くなり、市内各地に「限界集落」(疎化などで人口の50%が65歳以上の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のこと)が増え、市民生活もおぼつかない状況になってしまう。また、人口減少は税金収入の減少にもつながり、市の一層の公共サービスの低下を招き、さらなる人口減少への一因となる。市でも対策は昔から講じてる。例えば、「七尾大田火力発電所」の誘致は実現しているし、七尾港の港湾整備を行い大型貨物船が入港できるようにした。また、観光にも力を入れるため七尾市の姉妹都市であるモントレーがあるアメリカのカリフォルニア州にある観光地「フィッシャーマンズワーフ」を参考に「能登食祭市場」を建設し、能登一円のお土産物売り場や、外食などができる施設を作った。これらの取り組みは成果をなしている。

 「市民意識調査報告書」では、「人口減少の流れを変えるための取り組み」(複数回答可)として七尾市民は「企業誘致など雇用の拡大」が最も多い回答で34.5%だった。続いて「子育て支援の充実」(17.0%)、「市内への移住を促進(UIターン)」(11.7%)となっている。旧・七尾市が人口減少の対策として「企業誘致」「Uターン事業」などを行った結果上記のような成果も見られるが、それでもなお、人口減少が食い止められるような、効果的な成果を挙げることができていない。その理由は「雇用の確保」=「企業誘致」がうまく言っていないからだと考えられる。事実「市民意識調査報告書」でもそのように受け止められている。企業が無ければ学校を卒業しても雇用がないので働く場所がない。すると市外へ転出して働き口を求めるしかない。「企業の誘致」問題はそれほど七尾市に大きな影響を与えているのである。近年は地方に移住する人が徐々に増えているらしい。七尾市もその流れに乗ってぜひ人口維持をして欲しいと切に願う。

●交通アクセスの改善

 なぜ「企業誘致」がうまくいかないのか。その理由の1つに交通の便も一因がある七尾は3大都市圏(東京・大阪・名古屋)から距離的に遠くい。2014(平成26)年までは七尾市−東京間で、車で7時間(道のり520km)、電車(新幹線+特急)で5時間半(大阪まで3時間半、名古屋まで4時間弱)という状況であった。大消費地に遠いので、工場を誘致しても運ぶのに時間も輸送費もかかるため、企業誘致をしてもなかなか企業が進出できない環境にあった。
 2015(平成27)に整備された北陸新幹線は東京−金沢間を結び、一時間強の時間短縮になった。北陸の基幹道路である「北陸自動車道」は金沢−富山間を通り、能登の基幹道路である「のと里山海道」(旧「能登有料自動車道」)は2013(平成25)年に無料化されたが、金沢−穴水間を通る。新幹線も高速道路もどちらも七尾に直結していない上、奥能登の一般道や「のと里山海道」の改良整備が進んだ結果として商圏が広がり、奥能登の人が七尾で買い物をせず金沢まで足を運ぶような状況が生まれてしまった。このような状態では、七尾市は能登の中核都市としての機能は果たせなくなってしまう。七尾に能登の人の足を戻すために行政としては次のような施策を講じた。
☆能越自動車道路の完成まで後少し
 富山と七尾を結ぶ自動車道路「能越自動車道路」の完成間近となっている。この高速道路は「北陸自動車道路」と小矢部砺波JCTでつながっている。現在は小矢部砺波JCTから七尾ICまで完成している(2018年現在)。七尾ICから田鶴浜ICまではもう少しかかる。「のと里山海道」と連結すれば、氷見の住民が「のと里山空港」(正式名称「能登空港」)に行きやすくもなる。すべてが開通すれば奥能登の商圏が再び七尾と結ばれ、経済に有意義なことは確かである。ただし、その前提条件として七尾の経済が奥能登の人にとって魅力的なものになるかどうかも大事である。魅力的な品揃え、快適なショッピングそれらが揃えば再び客足は戻って来るだろう。
☆能登空港の開港
 2003(平成15)年7月7日に開港したのが「のと里山空港」(正式名称「能登空港」)である。石川県内には他に小松空港があるが能登との(特に奥能登からの)距離は遠いので、能登の経済振興にと整備・開港された。これは能登と東京とのアクセス改善に一役買っており、空港を利用する事によって移動時間は1時間30分で済むことになる。しかし、「のと里山空港」の場所が輪島市・穴水町・能登町のまたがる山間の地にある為、能登の各都市へのアクセスが非常に不便である。のと鉄道とも連絡していないので、「ふるさとタクシー」という乗合タクシーか路線バスに頼っている。「のと里山海道」を延伸して「のと里山空港」へとつなげたが、非自動車ユーザーのためには既存鉄道である「のと鉄道」とのスムーズな連絡はできないものだろうか。

能登空港
(写真:能登空港)
東京羽田と能登空港を1日2便で結ぶ。

☆能登島大橋無料化+ツインブリッジのとの開通
 七尾市街と能登島を結ぶ橋「能登島大橋」が1998(平成10)年7月に無料化された。それまで片道1450円という高額な通行料を払っていた能登島に住む市民と能登島を訪れる観光客には大変歓迎された。さらに、旧中島町(現・七尾市)と能登島を結ぶ「ツインブリッジのと」が農道橋(本来は農作物を運ぶ為のもの)として建設・完成したことにより、能登島は能登半島と二つの橋によって結ばれた。能登島は観光地が多いので、能登島のみならず、七尾市全体の経済振興に役立つ事であろう。この「ツインブリッジのと」の建設は一部のマスコミで「無駄な公共事業」として批判的な報道がされたが、災害対策面(1つの橋が崩れても救助にいける)から考えても、同島の規模の島なら必要なものではなかろうか。

能登島大橋
(写真:能登島大橋)
→詳細な説明は七尾市の観光
ツインブリッジのと
(写真:ツインブリッジのと)
→詳細な説明は七尾市の観光

「のと鉄道の廃線問題」
 のと鉄道は、七尾から奥能登を走る第3セクター鉄道である。七尾に鉄道ができたのは1898(明治31)年のことで津幡−矢田新間が開業。レールは徐々に延伸し、1932(昭和7)年には穴水まで、1935(昭和10)年には輪島(国鉄七尾線全線開業)まで、そして1964(昭和39)年には穴水−蛸島間が開業し国鉄能登線も全線開業した。しかし、時代が進むにつれ地方赤字ローカル線が問題となり、国鉄がJRへ移管する1988(昭和63)年に能登線は「廃線指定」を受けた。しかし、地元の存続要求もあり企業と自治体が共同運営する第3セクター方式でJRとは分離され存続することになり、「のと鉄道」(穴水−蛸島間)が誕生することなった。その後、JR七尾線の一部である金沢−和倉温泉間の電化の見返りに、JRは不採算路線である和倉温泉−輪島間をのと鉄道に移管すると発表。こうして「のと鉄道」は七尾−輪島間の七尾線区間と穴水−蛸島間の能登線の2路線で運営することになった。
 しかし、のと鉄道になっても赤字体質は変らず、乗客は減る一方。のと鉄道は減便につぐ減便を行い、金沢への直通急行「能登路」も廃止し、運賃の値上げも断行し黒字化を目指すも、赤字幅の縮小に留まった。毎年の赤字額は地元の自治体が金額を負担していたが、過疎化も進んでいる沿線自治体も悲鳴をあげ、とうとう2001(平成13)年3月31日、穴水−輪島間(のと鉄道七尾線)が廃線となった。しかし、それでものと鉄道の経営環境は改善できず、2005(平成17)年3月31日に穴水−蛸島間(のと鉄道能登線)が廃線となった。2003(平成15)年に開港した「のと里山空港」との連携など活用の道もあったかもしれないが残念である。ただ鉄道としてはモータリゼーション化(自家用車普及)に加え、のと鉄道は減便・急行の廃止・部分廃線と、利便性がどんどん失われていったので、これも時代の流れかもしれない。鉄道が無くなった旧沿線自治体の輪島市・珠洲市も大きな打撃を受けたと思うが、七尾市としては、七尾駅の「能登のターミナル性」が失われ、能登の中の七尾の地盤沈下が心配される。
「七尾短期大学の閉鎖問題」

 最後に能登の高等教育不足という問題を取り上げたい。能登の場合、高校から先へと進学しようと思うと、能登を出て加賀や石川県外の大学・短大に行くしかないという状況である。七尾に唯一あった高等教育機関「七尾短期大学」(通称「七短」)は例年の定員割れで財政危機が続き2003(平成15)年度をもって閉鎖となった。現在、高学歴化・少子化のため(4大)4年生大学でも経営環境が厳しくなる時代であり、全国の短大のほとんどは定員割れ状態である。短大の運命は4大へ転換か、閉鎖かという状況である。中でも地方短大の経営悪化に伴なう閉鎖の勢いは、ますます加速しており七尾短大も例に漏れずに閉鎖となってしまった。能登全体でも20万人という人口規模では、高等教育機関の維持も難しいのか…。これにより、一層の能登の沈滞が予想される…。

●七尾駅前再開発

 能登の交通アクセスは鉄道は悪化しているが、空港、高速道路を考えると全体的には徐々に整いつつある。しかし皮肉にもそれが七尾市の成長を妨げている現象が起こっている。それは七尾市の「商圏の縮小」である。「のと里山海道」の複線化・無料化や国道の整備によって移動がスムーズになった。それが逆に七尾市民あるいは能登の他の自治体の市民に、買い物などでは「七尾」ではなく「金沢」へ行こうという状況を生んだ。つまり、道路によって「七尾の商圏」(買い物に来る範囲)が縮小し、「金沢の商圏」が奥能登まで広がりを見せる事になったのである。実際、七尾駅前の商店街は元気がなくシャッターが閉まったままの店舗や閉鎖された店舗がかなりあった。実際私が七尾に旅行に行った時に「観光都市としての七尾の良さ」は感じたが、「居住地としての七尾のよさ」という視点で考えると、難しい点も多い。首都圏ならそこらじゅうにあるショッピングモールや娯楽施設は七尾市には少ない。例えば七尾には大きな本屋や映画館がない。これらを探そうとするとたぶん金沢までいかねばならないであろう。若い人にとって七尾というのは住むのに魅力のある街に映るであろうか。若い人の七尾からの流出を止める為に、観光ばかりでなく住みやすい魅力のある街にするよう一層の努力を期待したい。

 魅力的な七尾駅前の街づくりの一環として七尾市が進めていた七尾駅前の再開発が2006(平成18)年の全体が完成した。駅前再開発計画第1次工事としてパトリアというショッピング施設が完成し、大規模小売店としてユニーが入店した。第2次計画の再開発ビル「ミナ・クル」は当初入居希望者がなかなかおらず、計画がなかなか進行しなかった。結局、ビルの高さを減らすことで店舗面積を減らして着工した。テナントにはビジネスホテルの「アリヴィオ」の他、「フレッシュネスバーガー」や「海鮮庄や」(飲み屋)、回転すし店やスポーツクラブなど多彩な店舗が入店している。
 しかし、2016(平成28)年にパトリアの核テナントであった「ユニー・ピアゴ」が閉店した。さらに「ミナ・クル」の1Fにあったローソンも以前より客足が無いとネットでは書かれていたが、やはり閉店してしまった。自動車が主な移動手段となっている能登商圏。さらにのと鉄道の縮小によって七尾駅の存在価値が著しく低下している。その事は度々七尾市議会でも取り上げられ、問題になっていたほど。2017(平成29)年にピアゴの後継テナントとして、食品スーパー「カジマート七尾パトリア店」
と書籍売り場「うつのみや七尾店」がオープン。他にも少しずつテナントが戻りつつあるが、3階のテナントはなかなか埋まらず行政(市役所の窓口)が入ることになった。七尾市議会では、この動きに対して七尾市役所の中心的な役割が駅前に集中して市役所の意義がなくなるとしている。テナントの応急手当として行政が入る。結果的に行政の場所が分断される・・・。なかなか難しい問題である。
 七尾駅は能登半島の各駅(JR・のと鉄道)の中で唯一大きな商業地区が存在する街である。つまり、七尾が復活しなければ能登全体が沈没してしまう。七尾ばかりでなく能登の復権の為にも七尾市の商業のさらなる活性化を願ってやまない。

1999年の七尾駅
(写真:1999年の七尾駅前)
再開発まで駅前ターミナルが狭い
2008年の七尾駅
(写真:2008年の七尾駅)
再開発で広大なターミナルが完成した
七尾駅前ユニー
(写真:1998年の七尾駅前ユニー)
再開発でユニーが完成した。
2008年七尾駅前再開発
(写真:2008年の七尾駅前再開発ビル群)
再開発ビル「ミナ・クル」が完成した。
七尾駅前「リボン通り」商店街
(写真:七尾駅前「リボン通り」商店街)

●文化財保全

「七尾城の保存政策について」
 七尾城は1934(昭和9)年に七尾城はいち早く国指定史跡に指定され、かなり早くから名城として認知されていた。しかし、一般には「苔むした石垣があるだけの寂しい城」というイメージがあり、「七尾の七尾城」としては認知されているが、国指定史跡としての「日本の七尾城」になっていないのが現状である。「七尾城跡」は「能登国分寺」と並ぶ七尾市の観光スポットであり、七尾城山に観光用の自動車道と駐車場を建設し、本丸に気軽に行けるようにするなど観光客にアピールしてきた。しかし、姫路城のような江戸時代の立派な本丸を「城」と思う人がまだまだ多く、「七尾城」の魅力が伝わっておらず、観光客の数もまだまだである。
 七尾市では2014(平成27)年に新「七尾市」市制施行10周年記念式典に合わせて七尾城跡史跡指定80周年記念イベントを行った。そこで「七尾城復元CGイラスト」が(「よみがえる戦国の名城(七尾城)」七尾市公式サイト参照)が一般公開され、往年の七尾城の魅力を伝える取り組みが行われた。

 福井市(福井県)の「一乗谷朝倉氏史跡」や、飛騨市(岐阜県)の「江馬氏館」は、発掘調査を基に往年の姿をじっくりと考証し、中世の景色を復元した史跡である。同じようなことが七尾城でもできないだろうか。七尾市教育委員会も「七尾城跡の観光活用」のために保存計画の策定を行うことを決定した。城内の屋敷や石垣などを一部復元したり、小京都と呼ばれる程の繁栄をみせた城下町を復元したり、七尾城史資料館の改装、新たな展示場の創設などが検討されている。具体的な取り組みとして「七尾城復元CGイラスト」が作られた。七尾城跡の魅力が本格的に伝えられるようになったのはうれしい。(七尾城跡の保存計画については、「畠山関連NEWS」の平成14年5月24日の項を参照。)。しかし、七尾市の人口減少や財政状況を考えると、復元計画の縮小もあるかもしれない。ぜひ、他の予算との兼ね合いを考えつつ、市民の理解とともに早期に七尾城の保存・管理・整備を行ってもらいたいものである(七尾城のみどころと、七尾城の整備に関する義綱私案については「七尾城に関する考察」参照)。

「能登畠山研究の推進について〜2018年開設の“のと里山里海ミュージアム”に期待を寄せて〜」

 「一乗谷朝倉氏史跡」は中世史跡の展示のお手本とも呼ばれており、武家屋敷の復元、町並みの復元も圧巻である。さらに「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」も充実した内容であった。資料館は県立であり、発掘資料の展示やに加え、新しい研究成果を毎年資料として刊行発売しており、朝倉氏研究を行うには十分な資料を提供している。一方能登畠山家研究の現状は、東四柳史明氏が積極的に研究を行っているが、能登畠山家の研究者がそれほど多くない。その対策のために、「七尾城史資料館」を拡大・拡充してほしいと願う。
 2014(平成27)年には、七尾市議会議員の1人から市議会において「畠山文化を全面に打ち出したまちづくりを進める必要(性)」の質問がなされ、その中で、「畠山氏の治世を年表に整理し一体的に(情報を)発信」する必要性を説き、教育長も市議の意見に同意し検討する見解を発表した。また、その時に能登畠山氏の人物画が残っている「畠山義総像」の銅像の建立も提案された。ぜひ地元より活発な意見交換により能登畠山氏研究を進めてほしいと願う。
 七尾市は、どちらかというと「能登畠山氏」のPRより、2002年にNHK大河ドラマで放映された「利家とまつ」の関係から前田家のPRが多いように感じる。実際、七尾城に畠山義総の銅像はないが、小丸山城に前田利家の銅像はある。前田利家が能登にいた期間はごく僅かであり、七尾市には能登の視点に立って能登で1番華やかっだった時代=「能登畠山氏の時代」を取り上げてもらいたいと思う。石川県から能登の中心となる「中核市」として指定されている。能登全体の繁栄を考えた長期的な研究体制を整備してほしい。
 その役割として中核を担えるのが、2018(平成30)年に開設予定の「のと里山里海ミュージアム」である。博物館の設立理由として「能登立国1300年の暮らし(自然、歴史・文化)価値を踏まえ、未来を創造する博物館」にするとしている。展示内容は、古代〜現代までで自然や暮らしの民俗展示も踏まえると、能登畠山関連や七尾城関連はそんなに多くのスペースを占めるものでは無さそうである。七尾城跡の麓の「七尾城史資料館」は七尾市が財団法人「七尾城址事業団」より買い受け、市の運営となったことから、展示内容も重複するので致し方ないとは思う。しかし、七尾市は文化財系の施設にメスを入れていた。能登畠山氏創設600年記念の一環として旧七尾商業高校の武道館に作られた「七尾市文化財資料展示館」は2008(平成20)年にオープンしてから5年後の2013(平成25)年には閉館していた。元々埋蔵文化財センターがちょっと展示をしていたような施設だったのでこちらは致し方ないとも思った。さらに、「能登国分寺資料館」が「のと里山里海ミュージアム」への展示替えを理由に閉鎖となっていた。もっと長期的に見据えて文化財振興を図れないものであろうか。
 今後の期待が持てるものとして「のと里山里海ミュージアム」は「子どもを含む市民の研究活動ほか、各種連携場となり能登・七尾について深く「究める」拠点となります。」(「博物館基本計画」より)とあり、七尾市議会でも提案のあった「能登畠山氏の研究者不足」を補う役目も担えるのではないかと思う。さらに金沢大学や金沢学院大学と提携したり、能登の中世研究書や定期刊行雑誌の刊行できたら嬉しい。新生七尾市の誕生にともなって編さんした『新修七尾市史』という財産もあるので、永続的に能登畠山研究が進められるような研究環境整備環境ができるのではないか。七尾地域の経済貢献に大いに期待したい。
 しかしながら世界農業遺産で「能登の里山里海」が指定されたからと言って、「里山里海」と名前をつけるのが多くなっている。例えば「のと里山街道」(旧・能登有料道路)、「のと里山空港」(正式名称:能登空港)、そして今回の「のと里山里海ミュージアム」(仮称時は「七尾博物館」)。思えばJR能登線が「のと鉄道」と「能登」をひらがなにしてからというもの、ひらがなブームが能登にも来てしまった。危うく七尾市の名前も「のと市」になってしまう所だったほど。「能登」の方が地名としてネームバリューがあるし、「のと里山里海ミュージアム」ではぱっと見何を研究しているどこの博物館かわからない。ここは普通に「七尾博物館」で愛称としてなにか可愛らしいものにすればよかったのではないかと思う。

のと里山里海ミュージアム
↑「のと里山里海ミュージアム」外観

●「七尾」の地名消滅を回避

 旧・七尾市は2004(平成16)年10月に、田鶴浜町・中島町・能登島町の鹿北3町と対等合併し、新生・七尾市が発足した。新・七尾市の人口は63.963人(平成12年の国政調査をベース)。合併後は人口で見るとほぼ加賀地方の松任市に並んだ。さらに鹿島町と鳥屋町・鹿西町との3町とも合併を模索しており、口能登の自治体は再編成される可能性もある。
 市町村の合併問題は地元の意志も当然あるので意見は単純には考えられないが、1市3町で合併した新七尾市の非常にいびつな形には非効率さが伴う。一般的には市役所・警察・消防、公民館などの利便性を考えた場合当然市域は正円が望ましい。しかし新・七尾市の形では既存の公的施設を維持しなければならず、行政のスリム化は困難が予想される。実際、新市役所が旧・七尾市役所になることが決まり、旧・中島町など七尾市街から遠方の自治体は合併する直前まで市役所の移転を主張していた。また、市域が拡大する事により維持管理費が増える事も課題とされる。旧・七尾市で行っていた下水道整備を新市全体でも進めれば、かなりの支出増は避けられない。静岡市(2003年4月に清水市と合併し新生「静岡市」が誕生し2004(平成16)年に政令指定都市となった)のように、例えいびつで広大な市域でも71万人という人口規模と企業密集を考えればなんとかその財源は保たれるとかもしれないが、新・七尾市は僅か約6万人を割る規模であり、今後の過疎化を考えると、その財政危機も心配される。さらには、高齢者人口が多く若年人口の減少が著しい現状では将来の七尾市の財政は合併後も心配であり、この合併がかえって行政サービスの低下を招く恐れもある。
 ただ合併をしなければ良いのかというと必ずしもそうとは言えない。能登の各地域の過疎化は深刻な問題で、このままでは単独で財政を保てない自治体もあるかもしれない。そこで、七尾市と能登全体の問題としてとらえれば、新・七尾市は鹿南3町との合併推進を考えたらどうかと思う。鹿島町(8.554人)、鳥屋町(5.587人)、鹿西町(5.008人)を加えた1市6町ならば人口規模は83.112人となる。また合併後の市域もある程度行政のスリム化の余地がある形になる。鹿南3町との合併を進めてさらなる新生・七尾市を誕生させるのはどうだろうか。

 上記の問題とは別にして、私が個人的に心配していた事が新市の名称であった。新市の名称はどう考えても「七尾市」が有力であった。その理由は新市において旧七尾市の人口比率は75%に達する。商業圏を考えても七尾に中心があることは疑い無く、本来は吸収合併すべきであるし、能登の中核市としての役割を考えた場合、やはり能登畠山氏の城下町として繁栄した「七尾」の名前が1番適切であると思うからだ。さらには江戸時代に能登畠山氏の治世を忘れさせる為に「七尾」の名前を取り上げ、「所口」と改名させられ、昭和に至りやっとのことで復活させた「七尾」の地名を消すことはどうかと考えていた。
 新市の合併は形式上「対等合併」(実質上は人口規模・経済力からみて七尾市の吸収合併である)であった為、新市の名称は白紙。そこで、新市の名称は一般に公募をした後合併協議会で最終選考をするいわゆる「さいたま市」方式で行われた。この方式はけっこう曲者で「さいたま市」(旧浦和市・旧大宮市・旧与野市)でも一般公募では「埼玉市」が最多であったが、委員会の判断でその時代の「平仮名自治体名ブーム」によって何とも言い難い「さいたま市」(公募では「埼玉市」に続いて次点)に決めてしまった。これには市民も反対を述べている人が多くいて、明かに地元意志の無視である上、名前のセンスの欠片もない。七尾市らの合併でも、公募により最終的に「七尾市」「ななお市」「能登市」「のと市」「中能登市」「七鹿市」の6案絞られ、さらに次案で「七尾市」「ななお市」「能登市」「のと市」の4案に絞られた。最終判断において協議会の「迷判断」が懸念されたが、結果的には協議会による多数決投票において「七尾市」と決定した。とにもかくにも「七尾」の地名が残り、能登で歴史ある地名の消滅が防がれて一歴史ファンとしては嬉しかった。

●最後に

自分自身が七尾に住みたいと考えているが、やはり仕事面での課題が多い。さらに家族のことを考えると生活の利便性の面の心配は捨てきれない。ぜひ七尾市が新市施行10年経ったこともあり、全体を通してより魅力的な市となって、能登全体を活性化させてほしい。
 個人的には自動車のご当地ナンバーとして「能登」ナンバーの導入はどうかなと思う。ご当地ナンバーの条件は「
地域特性や経済圏などに関して、他の地域と区分された一定のまとまりのある地域であり、一般に広く認知された地域であること。」「原則として、単独の市町村ではなく、複数の市町村の集合であること。」「当該地域において、登録されている自動車の数が10万台を超えていること。」という条件がある。2014(平成26)年の2月に輪島市の梶文秋市長が各首長に呼び掛け宝達志水町以北の能登4市5町に呼びかけているという。現状では、「軽自動車を除く登録自動車数10万台以上」の条件で約1万1千台届かない状況だ。軽自動車込みなら10万台を超えるため、鹿児島県の「奄美」ナンバーのように特例措置での導入を国土交通省に要望しているという。ただし、能登4市5町が要望しているナンバーは「能登國」というナンバーだと言う。あまり変に「國」をつけるとカッコ悪くなる気もするが、ぜひ「能登」ナンバー実現させてほしいものだ。


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