七尾城に関する考察

七尾城復元ジオラマ2
↑七尾城ジオラマ(お城のジオラマ 鍬匠甲冑屋作成)

 畠山満慶が1428(正長元)年頃に築いたとされる七尾城。室町・戦国時代と激動の時代を乗り越えるために畠山義総の頃に城内に大名の居館が移された。そして、戦国の動乱が激しくなった畠山義続畠山義綱の頃に城は日本の五大山城に例えられるくらいの堅固な城に仕上がった。1934(昭和9)年に七尾城はいち早く国指定史跡に指定された。また平成の世になり、日本全国の名城100選にも七尾城は選ばれた。

はじめに
 七尾城は春日山城(越後)、月山富田城(出雲)、観音寺城(近江)、小谷城(近江)とともに日本の五大山城と呼ばれており、国指定史跡となっているほどの七尾城の観光スポットである。しかし七尾城に登城すると、江戸期のような天守閣もないし、巨大な資料館があるわけでもなく七尾城の歴史をよく知らないまま訪れると、楽しみは七尾城本丸からみる絶景だけになってしまう。七尾城の魅力はその成立した歴史的背景、そしてその城の優れた防御性に加え、地味ではあるが石垣などに見られる往時の姿をしのぶことである。このコンテンツでは七尾城の見学するときに、七尾城の魅力が伝わるような箇所を考察を交えて紹介したいと思う。

(1)七尾城の石垣について

(写真A)
七尾城・調度丸石垣
↑七尾城・調度丸石垣

 七尾城というとほとんどのパンフレットや観光本で、写真Aのような写真が掲載されている。この写真は、七尾城・調度丸の石垣である。何気なく見ると「石垣だけは残っているのか」と思い見過ごしてしまいがちだが、この石垣は様々な疑問を持たせてくれる。

(写真B)
七尾城・調度丸石垣(拡大)
↑七尾城・調度丸石垣(拡大)
(写真C)
七尾城・調度丸石垣(さらに拡大)
↑七尾城・調度丸石垣(さらに拡大)
(写真D)
七尾城・本丸石垣
↑七尾城・本丸石垣
(写真E)
江戸城・石垣
↑江戸城・石垣
(写真F)
七尾城・温井屋敷・二の丸石垣1
↑七尾城・温井屋敷〜二の丸にかけての石垣
(写真G)
七尾城・二の丸石垣(拡大)
↑写真Fの右下をアップにした写真。石垣が認められる。
(写真H)
七尾城・遊佐屋敷石塁
↑七尾城・遊佐屋敷石塁
(写真I)
七尾城・調度丸横の石垣
↑七尾城・調度丸横の石垣

 まず、七尾城の石垣に共通して見られる特徴として、高い石垣を組む場合は数段に分けで組んでいる。これは高い石垣を組む技術が未熟な時代に作られたと考えられる。さて、上の8枚の石垣の写真をみてもらいたい。写真B・Cは写真Aの七尾城・調度丸の石垣をアップにして写真にしたものである。典型的な野面積み(注1)である。大小の石が入り乱れており、表面もゴツゴツしているなど、比較的初期の石垣生成法の型で作られている。それに対して写真Dの七尾城・本丸北側石垣は表面が明らかに人為的に切り取られており、調度丸の野面積み石垣と比べると綺麗である。参考までに写真Eは江戸城の石垣であるが、やはり石垣は表面をそろえて切られている。このように写真Dの石垣の工法が違うのは、1963(昭和38)年に崩落した石垣を1966(昭和41)年から復旧整備した際、強度強化に重点が置かれ、「さらに、石材が不足したため、二宮産(中能登町)の割り石を新たに用いたことにより切石積石垣の外観」(『新修七尾市史 七尾城編』の考古資料編11頁より)となったという。元来は調度丸石垣と同じような野面積だったことを考慮して『史跡七尾城跡整備基本計画書』(56頁、七尾市教育委員会,2021年)では「本丸北側石垣については、カルテの判定では危険度Cで安定しているが、将来的には往事の景観を復元するため野面積みによる積み直しを検討する。」としているので期待したい。
 写真B・Cの石垣は石垣の積み方からすると未熟であり、構造的にも不安定な組み方である。実際、2007(平成19)年3月25日に起きた「能登半島地震」で七尾城の調度丸石垣も被害に遭い一部が崩れ組み直すのに2008年9月までかかったが、本丸石垣は崩れることはなかった。これは石垣の積み方による構造的な強度の差にあろう。野面積み石垣は耐久性が低いが、切石積石垣にしてしまっては史跡の保存性が失われるという予算面と文化面で葛藤するという難しい問題があるのである。
 さて、調度丸・石垣が能登半島地震で崩れたのを補修するにあたり、考古学的調査が行われた際、現在の石垣の前に古い石垣遺構が発見されたと言う。これは、現在の調度丸・石垣は修繕されたもの(あるいは新しく組みなおされたもの)であり、それよりもっと以前に調度丸には石垣が築かれていたのである(「七尾市文化財展示館」の職員の方の2008年10月6日談)。前田利家が織田家より能登一国を与えられたのが1581(天正9)年であり、その翌年には七尾城を廃城とし小丸山城に移る。このわずかな間に調度丸の石垣が整備され、そして最初の石垣が廃され新しい修繕した石垣ができたというのはいくらなんでも無謀である。これだけの石垣を組むには膨大な費用と時間がかかると思われ、少なくても一度作った石垣をすぐに破棄して作成し直すことは無いと思われる。能登畠山氏が滅ぼされ、上杉家に七尾城が渡った1577(天正5)年〜1581(天正9)年の間に石垣が作成されたとも考えられるが、この時期は上杉謙信の死去、遊佐続光の上杉家将の鯵坂長実を追放して織田家に寝返る(1579年)など七尾城代が次々と変わるなど政治的に落ち着かない時期であり、それこそ石垣の作成が行われる余裕があったのかも疑問である。となると、すくなくとも能登畠山氏時代に石垣が築かれたという結論になるのではないか。実際、『史跡七尾城跡整備基本計画書』(36頁、七尾市教育委員会,2021年)によると「この土造りから石造りに改修する時期については、畠山氏後半(弘治年間頃)から前田氏(天正9年〜17年頃)の頃かと幅をもって想定している。」という。さらに七尾市議会の会議録から、2020(令和2)12月8日会議によると、教育部長の楠利勝さんは「高さ2メートル余りの巨大な石列3基がございますが、これが能登畠山氏の時代のものであっということ。」と述べている。これはひょっとしたらとてつもない研究成果ではないか?16世紀半ばであれほど巨大な石垣を築ける城はそうそうない。これは七尾城のPRに一役買うのではなかろうか。いよいよ、能登畠山氏の時代の遺構を通じて当時の能登の先進性をアピールする時期が期待される。

 写真F・Gは温井屋敷から二の丸にかけての石垣である。苔むしておりよく判明できないが、よくみると石垣が積まれているのがわかる。また、本丸近くの遊佐屋敷にも仕切りの石塁が築かれている(写真H)。さて、写真Bの調度丸の綺麗な石垣に目を奪われがちで見落としてしまいがちだが、調度丸の横に行ったところにも石垣がある(写真I)。この写真Iの石垣はそれほど手入れされていないので、創建当時のままの原型の石垣ではなかろうか。また、南龍雄氏によると「三の丸西方下の帯郭に残っている、径四○〜一○○cmの累累たる落石群−使用目的が不明である。三の丸郭周囲は、ほとんどが崖してしまっている。三の丸の城壁は石垣ではなかったか。」(「戦国守護大名能登畠山氏の七尾城」『七つ尾』25号,2006年,P128より)と指摘してる。このように七尾城は石垣がふんだんに使用されているのである。土塁が多い中世城郭でこのようにふんだんに石垣がある例は珍しいと言われる。東四柳氏は「戦国中後期に、六角氏と能登畠山氏が交流する中で、南近江に石工(いしく)集団が七尾に招かれて築城に関わっても不思議ではない。観音寺城との関連も含め、詳細に調査しなければならない。」(北國新聞2012/7/5付)と指摘する。近江六角氏との関係から、義続政権時代に猿楽の日吉大夫が能登に招かれている例を見ると、石工集団が能登に来た可能性も十分考えられる。七尾城の石垣には近くの山中や谷筋で取れる火成岩が使われている。近くから石を用意していてることからも、能登畠山氏時代に造られた可能性も十分にあり得る。この石垣が能登畠山氏時代に作られたのか、はたまた前田氏時代なのか考察する余地があり、それを考えながら七尾城を見て周ると楽しみも広がるものである。
 下記の古文書A・Bは弘治の内乱時における畠山義綱の七尾城改修と、その結果長尾景虎(上杉謙信)に七尾城を「当状いよいよ堅固に候」と伝えたものである。古文書Aからは木柵のための木の伐採しか伝わらないが、あるいはこの時か、それとも安定した政権であった義綱専制期(1560年〜1566年)の頃に石垣が作成されたのかもしれない。

(古文書A)畠山義綱奉行人連署状<1556(弘治2)年>
御構柵之木壱間ニ拾本宛、并□□□ねそ八白口以下申合被相
調、為諸橋六郷百間、来十日以前ニ急度可被納之旨、依仰配
苻如件、
弘治弐
  正月廿九日 時長(花押)
景連(花押)
続親(花押)
続朝
三宅鶴千代殿
同九郎右衛門尉殿


(古文書B)畠山徳祐・義綱連署書状<1557(弘治3)年>
重而差下飛脚候、今度者返札共種々入魂之趣、難申謝候、誠
累代無別儀效祝着候、当城彌堅固候、可被心安候、始末度々
申越候条、不縷陳候、仍粮米儀可有扶助之由、先以士卒覚悟
旨此事候、莵角其国任計策候、以助成可属本意外、別条無之
候歟、渡海少及隠波者、急度加勢段憑入候、猶以別紙条々
申越候、委細遊佐美作守可申候、恐々謹言、
(弘治三年ヵ)二月十八日 (畠山)義綱(花押)
(畠山)悳祐(印)
長尾弾正少弼(景虎)殿

(2)七尾城の往年の姿を想う

(写真J)
七尾城・本丸からの七尾市街の眺め
↑七尾城・本丸からの七尾市街の眺め
(写真K)
静岡県・高根城
↑静岡県浜松市高根城。復原された城郭。
(写真はクリックすると拡大します)

 七尾城は、観光で訪れると、城山駐車場から本丸跡に行き写真Jのような七尾市街を一望しただけで終わってしまう観光スポットになってしまう。しかし、国指定史跡となっていることからもわかるように、七尾城は前述の石垣などみるべくところはたくさんある。ただやはり写真Kの静岡県浜松市水窪町の高根城のように復原施設がないからどうもイメージが湧かない。七尾城を立体的に捉えるにはどうしても自分の想像力が必要である。しかし、想像しようにも元となる資料がなければ中世の景色など思い浮かべることもできない。もっとも簡単に想像力を高めるには、他の中世史跡を多くみて眼力を養うことである。ここでは、他の史跡などの写真や七尾市が作成した七尾城復元CGを元に復元作成した「七尾城ジオラマ」も交えながら七尾城の往年の姿を想像してみたい。

(写真L) 
七尾城本丸
↑七尾城本丸(石碑と七尾城山神社)
(写真M)
七尾城ジオラマ12
↑七尾城復元ジオラマ(クリックで拡大)
写真中央が本丸部分

 写真Lは七尾城の本丸の写真である。本丸に来ると写真Jのように七尾市街と七尾湾が一望できる景色に圧倒される。その一方本丸後には「七尾城址」という石碑と城山神社がひっそりと建っているので、滞在時間も少なくすぐに戻ってしまう人も多いのではなかろうか。さて山城の中では本丸の面積がそれほど多くないこともある。それは詰めの城だと普段の生活で使うスペースではないからである。しかし七尾城の場合、畠山義総以降では確実に政治・生活の拠点として利用された。特に城主である畠山氏は本丸に居住スペースがあったと思われる。畠山義総は京都から多くの公家などの文化人を迎えており、そのためには七尾城の中枢施設には文化水準・経済水準で京都と並ぶほどの施設があったと想像できる。
 写真Mの七尾城復元ジオラマでは本丸に3つの建物が見て取れる。中世では「ハレとケ」と言う意識があって生活空間が作られていた。「ハレ」とは公的な空間で、「ケ」とは普段のプライベート空間である。大手道である写真手前の三段石垣からくる階段の先にある本丸西にある建物(写真下))は、軍議や政策決定が行われる政務中心の主殿と思われる。次に三段の石垣に沿ってある本丸北にある建物(写真左)は、「ハレ」の会所であると思われる。ここが会所だと思う理由は、写真Jである景観である七尾城が一望できる絶景で客をもてなし、南側(城山神社側)には庭があったのではなかろうか。そして本丸南にある建物(写真奥)が「ケ」である常の御殿であると思われる。本丸の一番奥にあり、客や家臣達に容易に覗かれることない畠山氏のプライベート空間である。そんな想像をしながら七尾城跡を巡ってみると楽しさも一層引き立つもの。2020(令和2)年〜2021(令和3)年にかけて調度丸が発掘調査されるが、その後本丸でも本格的な発掘調査が行われたらぜひその復元建物を建設して七尾城の雄大な施設を現代で体感したいものである。

(写真N)
七尾城・遊佐屋敷の礎石
↑七尾城・遊佐屋敷の礎石
(写真O)
能登国分寺・復元南門
↑能登国分寺・復元南門
(詳しくは「能登国分寺の歴史」参照)
(写真P)
七尾城ジオラマ18
↑七尾城復元ジオラマ(クリックで拡大)
写真左が遊佐屋敷

 写真Nは調度丸から登ったところにある遊佐屋敷の場所である。写真をよくみると石が等間隔でならんでいる。これは発掘調査をするまでもなく建物の礎石である。これがどのように使われたかというと、写真Oの能登国分寺復元南門ように、礎石があったところに柱が建てられていたのであろう。また礎石があるということは結構大きな建物があったと想像できる。また、写真Hのように遊佐屋敷の郭は石塁で囲まれており、結構な防御性も兼ねそろえていただろうことが想像できる。写真Pは七尾城復元ジオラマでは、本丸土塁のすぐ右に遊佐屋敷がある。遊佐屋敷の南(写真では上)には階段があるが、本丸外枡形からつながる通路である。ここは本丸の最後の防波堤であるゆえ、石垣で曲輪が作られている。遊佐屋敷の西(写真右)は桜馬場である。復元ジオラマでは本丸に直接行かせないために屋敷が配置されている。

(写真Q)
七尾城・調度丸仕切り石群
↑七尾城・調度丸仕切り石群
(写真R)
一乗谷朝倉史跡01
↑一乗谷朝倉氏遺跡の武家屋敷の石塁
(写真S)
七尾城ジオラマ20
↑七尾城復元ジオラマ(クリックで拡大)調度丸付近

 写真Qは調度丸の平面を仕切っている石群である。調度丸は重臣の屋敷があったと考えられるので、写真Rの一乗谷朝倉氏遺跡の武家屋敷の石塁のような区分けとして作られたのあろう。調度丸とは「弓などの調度をした場所」と言われ、武器などの調整をするならそれ相応の広さが必要である。調度丸の郭はかなりの面積があるので、建物もいくつかに分散していたはず。建物があれば当然排水が必要となるわけで、このような側溝があったのであろう。おそらく三の丸にある縦に並んだ石群もこの武家屋敷の区分けに使う石塁の跡だろう。
 2020(令和2)年に、調度丸で発掘調査が行われた。その結果、異なる三つの遺構が地層から確認された。山の岩盤を削り曲輪(くるわ)を造成した下層、石が列のように並んでいる中層、石塁が設置された上層と重なっていた。中層では、整地のために焼け焦げた土を詰めていることから、当時火災があったとみられる。正式な発掘調査報告書は今後10年以上にわたって調査が行われる(下記参照)。現在進んでいる文献調査から考えると、調度丸の下層は1525(大永5)年に畠山義総が七尾城を居城してい造営した時期で、火災が見られる中層は、能登弘治の内乱において畠山義綱が積極的に造営して上杉謙信の侵攻に伴う七尾城攻防戦で焼失した時期、石塁が存在する上層は前田氏の時期と分けられるのではないだろうか。
 写真Sの七尾城復元ジオラマでは、西側(写真右)にある三段の石垣が写真Aの調度丸石垣である。三段石垣の東側(写真左)にある白壁で囲まれたのが調度丸である。現代の調度丸は駐車場から上がるとすぐに行ける場所でかなり開けた場所である。しかし城の防御力を考えると、ここは塀で仕切り通路を狭くしないと攻めやすくなってしまう。そう考えて、写真Rのような石塁で仕切った礎石建物があったのだろう。
 さらに、2018(平成30)年には本丸跡から北西700mに位置する通称「善谷」で約3000uの平地がある場所で庭石と見られる長さ132cm幅125cm厚さ12cmの泥板岩を確認した。明らかに周囲の石とは異なり、庭園に使うために運んできたものであろう推測されている。泥板岩は七尾市中島や能登島の海岸で見られる石である。大規模な造営の形跡と本丸を守る位置から考えて、重臣クラスの館跡の庭園とも考えられ、初めて庭園跡が確認されたが、城内には多くの庭があったとみられ、今後の発掘調査の結果が期待される。


(写真U)
七尾城・寺屋敷跡〜調度丸への道
↑七尾城・寺屋敷跡〜調度丸への道
(2008年)
(写真V)
八王子城・主殿郭の入口の石段と復原門
↑八王子城・主殿郭の虎口の石段と復元門
(写真W)
七尾城・寺屋敷跡〜調度丸(2005年)
↑2005年の七尾城・寺屋敷跡〜調度丸への道。以前は階段が滑りやすく危険だった。
(写真X)
七尾城ジオラマ21
↑七尾城復元ジオラマ(クリックで拡大)寺屋敷付近

 写真Uは2008(平成20)年に寺屋敷から調度丸へ登る階段の写真である。写真Wの2005(平成17)年時の写真に比べると(写真Wは調度丸から下に向けて撮影している)、格段に歩きやすくなっている。2007(平成19)年の能登半島地震をきっかけに調度丸の石垣が崩れて整備されたが、同時にこのあたりも歩きやすいように階段が整備されたのである。写真Wのような状況であれば小学生などの小さい子どもが歩くにはかなりの危険が伴う。やはり写真Uのように整備されてよかった。
 写真Wは七尾城復元ジオラマの寺屋敷である。寺屋敷には小規模ながら三重塔があったと言われている。土塁の南側(写真上)が調度丸でかなりの高低差がある。しかし七尾城の中枢に大きな寺屋敷があることで、ここで畠山義総の葬儀なども執り行われたのではないかと思う。

(写真Y)
七尾城復元ジオラマ19
↑七尾城復元ジオラマ(クリックで拡大)
二ノ丸・温井屋敷付近
(写真Z)
七尾城復元ジオラマ22
↑七尾城復元ジオラマ(クリックで拡大)二ノ丸の崖下

 写真Yは写真奥の南東が本丸や遊佐屋敷で、手前から二ノ丸で白塀に仕切られた奥に温井屋敷がある。これが七尾城の大手道である。写真Zは二ノ丸の崖下であり、写真左側に寺屋敷が写っている。この写真Zを見ていると七尾城を攻めるには大手道を通るしかないと感じさせるの高低差である。一方で写真Yの大手道を見るとかなり建物が連続していて堅固である。七尾城の防御力の高さを感じられる。また、写真Yの二ノ丸奥の温井屋敷。それほど大きい屋敷ではないが、石垣に囲まれている高台の屋敷である。写真Zから考えても景色もよかったと思われ、温井総貞がいた頃に作られた文献記録である1540(天文9)年に七尾城を訪れた京都東福寺の住持・彭叔守仙による1544(天文13)年に記した『独楽亭記』にある眺めのよい温井の屋敷の「独楽亭」はここであったのではなかろうか。

(写真AA)
能越自動車道高架下・高屋敷付近
↑能越自動車道高架下・高屋敷付近
(写真AB)
能越自動車道高架下・高屋敷付近
↑能越自動車道高架下・高屋敷付近
 写真AAは七尾城下町の大手道があった付近である。能越自動車道の建設に伴い発掘調査が行われ、写真ABの看板の通り、側溝がある大手道が見つかった。七尾市ではここを往年の姿に復元展示するようである。ごく一部分とは言え、七尾城下町の往年の姿が復活することは喜ばしい。

 復元ジオラマを見ると、やはり七尾城の壮大さ、堅固さを思い浮かべることができる。また、城の中枢部はほとんど木が無く、現代の七尾城では多くの木が邪魔して全体を俯瞰することができない。筆者個人としての理想は、中世の七尾城がイメージしやすいように写真Rの八王子城のように階段の整備、そして石塁の復元とともに復元門や復元塀を整備されてほしい。七尾城は1934(昭和9)年に早々と国指定史跡に指定されたが、国指定史跡に見合った整備がなされていたのが現状である(2021年現在)。七尾城は一乗谷朝倉史跡(福井県福井市)や根城(青森県八戸市)や高根城(静岡県浜松市水窪町)などのように復元門や復元塀などがないので、訪れた観光客や地元の人でさえも中世当時の往年の姿を想像するのは難しい状況にある。七尾城には保存・整備計画があり1996(平成8)年から計画をしているが20年ほどほとんど進捗を見ない状況が続いていた。

 しかし、2020(令和2)年度に七尾城の城郭部分として初めての発掘調査が調度丸で行われた。さらに今後の史跡としての整備計画は、2021(令和3)年に策定された『史跡七尾城跡整備基本計画書』(七尾市教育委員会,2021年)に非常に詳しく掲載されて実施に移されている。それが下記の発掘調査の予定である。

★七尾城発掘調査の予定

場所 調査年 報告書刊行予定年 備考
調度丸 2021(令和3)年度〜2022(令和4)年度 2023(令和5)年度 刊行予定 
本丸 2024(令和6)年度〜2025(令和7)年度 2024(令和8)年度  刊行予定
桜馬場 2027(令和9)年度〜2028(令和10)年度 2029(令和11)年度 刊行予定
大手道 2021(令和3)年度〜2029(令和11)年度 2030(令和12)年度 刊行予定
※『史跡七尾城跡整備基本計画書』(105頁、七尾市教育委員会,2021年)

 1996(平成8)年から遅々ととして進まなかった七尾城の整備・調査。その理由の一端を知れるものが七尾市議会の会議録にある。武元七尾市長は市議会議員の七尾城の整備活用に関する質問に対する答弁としてこのような発言をしている。「(七尾市内には)国の史跡指定がたくさんある中で、どれもこれも早く整備をしなきゃならないという状況であります。(中略)加えて七尾城なり万行の遺跡を考えた場合に、非常に膨大な作業といいますか予算といいますか、そういった状況でありますので、本当に七尾城のことにつきましても努力いたしているわけでございますが、非常に難しい状況であります。そういう状況の中で、幸いにも七尾城は発掘はしなくても現状のままでも多くの皆さんに来ていただけるという、そういうことでありますので、先ほどのお話にありましたように日本百名城に指定をされたことを機会に、さらに七尾城を全国発信していかなきゃならないというふうに思っております。」と述べている。素直に答弁を解釈すれば「七尾城の活用を図っていきたい」という風に聞こえるが、穿った見方をすれば「現状でも七尾城は観光客が来るので、それほど大規模に発掘調査などは後回しでもよい」というように聞こえる。実際、「七尾城の保存・整備計画書」の作成も七尾城域(七尾城下町地域)を通過する能越自動車道が完成するまでは取り掛かれないとしているのは、後回しでよいという、見方の徴証であるとも言える。次の項では今後一気に進む可能性すら見えてきた七尾城の整備計画について論じていきたい。

(3)七尾城の整備計画の在り方について

(図A)
七尾城・鳥瞰図
↑七尾城・鳥瞰図
(絵図は中西立太氏及び七尾市に
著作権がありますので転載不可)
(図B)
七尾城・本丸付近鳥瞰図
↑七尾城・本丸付近鳥瞰図
(絵図は中西立太氏及び七尾市に
著作権がありますので転載不可)
(図C)
七尾城・長屋敷付近鳥瞰図
↑七尾城・長屋敷付近鳥瞰図
(絵図は中西立太氏及び七尾市に
著作権がありますので転載不可)
(図D)
七尾城・二の丸と三の丸付近鳥瞰図
↑七尾城・二の丸と三の丸付近鳥瞰図
(絵図は中西立太氏及び七尾市に
著作権がありますので転載不可)
(図A〜Dはクリックすると拡大します)

 国指定史跡である七尾城の魅力をより広くPRするために七尾市は2021年に『史跡七尾城跡整備基本計画書』を策定し、具体的な整備計画の検討に入った。20年進まなかったものが一気に進んだのは史跡範囲の追加があったからである。1934(昭和9)年に国指定史跡に選ばれた時はほぼ城の中央部分のみであり、その他城郭の大部分が民有地であった。民有地であれば発掘調査した場合にはその土地の所有者が費用負担をするという無茶苦茶な法律があり、このままでの発掘調査は難しい。そこで、市が考える保存・整備計画では、史跡範囲の重要な部分を公有化するというものである。そのため、2011(平成23)年、2019(平成31)年と七尾城は国指定史跡の追加を行い公有化を進めてきた。現在の整備計画では、大手道の発掘調査を行い復元展示の計画、桜馬場北側虎口や本丸西側虎口の調査整備を行い、櫓門の復元整備まで検討されている。植栽の伐採による景観確保、長屋敷の歩道整備など具体的で多岐にわたる。さらに七尾城のガイダンス施設として、現在の七尾城史資料館の建物としての耐久性を考え、現在地に立て直すのか、七尾城駐車場に新設するのかなどの計画も検討中である。

 まだまだ2021年に『史跡七尾城跡整備基本計画書』でも復原整備という点でみると、一乗谷朝倉氏史跡や江馬氏館などに比べてみると物足りない。その理由は、上記の中西立太氏が作成した七尾城の絵図を見てもらえると一目瞭然である。とても緻密に描かれているので、七尾城の全体図を体感するのにとても適している(転載の許可を頂いた中西立太氏と七尾市にはこの場を借りて厚く御礼を申し上げたい)。七尾城は非常に広大な城であり、すべてを復原するにはとても費用がかかってしまうからである。

(写真T)
鉢形城・復原門
↑鉢形城・復原門
(写真U)
江馬氏館・復元館と復原庭園
↑江馬氏館・復元館と復原庭園
(写真V)
湯築城・復原武家屋敷
↑湯築城・復原武家屋敷
(写真W)
湯築城・復原武家屋敷内/連歌会の様子
↑湯築城・復原武家屋敷内/連歌会の様子

 2021年の整備計画を見ると、復原計画は「大手道の発掘調査を行い復元展示の計画、桜馬場北側虎口や本丸西側虎口の調査整備を行い、櫓門の復元整備まで検討」という点に留まっている。しかし、広大な七尾城の歴史を肌で体感するにはやはり復原施設を建てるのが一番である。上記(写真T)と(写真U)はどちらも中世の景色を復原したものである。実際に訪れてみると中世にタイムスリップしたかのような景色が広がる。とくに江馬氏館の見事な庭園は、室町期の芸術センスのすばらしさを実際にこの目で体感することのできる貴重な施設である。七尾城もやはり復原施設をできるだけ多く建設してもらいたいと思う。こう書くと、多大な費用がかかる施設の復原と、訪問者に体感をさせるためできるだけ復原施設を作るという相反した難題に遭遇する。では、費用面を考慮しつつ七尾城のどんな場所を復原整備するべきなのか、筆者なりに考えてみた。
 (図A)を参照しながらみてもらいたい。まずは、七尾城主要部である「本丸」「遊佐屋敷」「桜馬場」「温井屋敷」「調度丸」についてである。このエリアは七尾城山駐車場から多くの訪問者が訪れるエリアである。それゆえ、この部分はできるだけ復元施設を建設してもらいたい。今後の発掘調査で色々な建物跡がでてくると思われるので、(写真V)の湯築城の復原武家屋敷のように発掘調査で分かった建物の復原と(写真W)のような中世の生活の一場面の復原を行いたい。また、(写真R)の八王子城のように塀などの復原する。さらに、本丸跡には畠山氏の館があったのではないかと想起されるので、中世庭園の存在も期待でき、(写真U)の江馬氏館庭園のような復原を期待したい。また、本丸にある神社の高台は見張りの櫓があったと思われ、その復原も行いたい。
 次に「七尾城山駐車場」である。現在駐車場には畠山義忠の歌碑や七尾城絵図の他、トイレがある。七尾城を訪問する人の拠点となるところであり、木柵の設置やガイダンス施設(兼見学料金受付)の建設ができるとよい。
 次に「二の丸」「三の丸」「寺屋敷跡」「安寧寺跡」などは発掘調査ののち、屋敷跡などを平面展示してはどうだろうか。「長屋敷」「古府城平支群」については、現在ほとんど整備されておらず一般の見学者が入るにはかなりの無理がある。木を切り、草を刈るなどして見学コースの一端に加えたい。「長屋敷」については、中世に掛かっていたという「関東橋」という木橋を堀切上に復原したい。
 最後に「七尾城下町」の様子である。七尾城下町の遺構としてすでに大手道とその側溝などが発見されているので、それらの復原と何軒かの町屋敷の復元と、復原施設に発掘調査で見つかった出土品の展示などを行いたい(現在の「七尾市文化財展示館」にある資料を復原施設内に移設・展示する)。
 以上、七尾城の復原案を私なりに述べたが、これでもかなりの費用がかかる。実際にはそんなにたくさん復原はできないかと思うが、七尾城のすばらしさを伝えるためにぜひ、実現に一歩でも近づけてもらいたいものである。

(注釈)
(注1)野面積み(のづらづみ)は、室町・戦国期に見られる石垣生成法であり、自然石をそのまま積み上げる方法である。織豊期には近江にあった穴太衆(あのうしゅう)がこの野面積みを発展させた。

参考文献
『石川県中世城館調査報告書U(能登T)』石川県教育委員会,2004年
『七つ尾』(特集七尾城)25号、七尾城址文化事業団,2006年
『七尾城T一般国道470号改築に係る埋蔵文化財発掘調査報告書』
『史跡七尾城跡整備基本計画書』七尾市教育委員会,2021年
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