河内畠山氏を調べるには
−河内畠山氏の文献案内−

ここでは、河内畠山氏を調べるにあたって必要な文献を紹介致します。
えっ!?コンテンツ作成サボっているだけだろって?はいその通りです(泣)返す言葉もありません(汗)

はじめに
 畿内の戦国史は戦乱が多く、また頻繁な勢力同士の提携手切れなどもあり混乱をきたしている。河内畠山氏においても、応仁の乱にて分裂し、それぞれの勢力が入り乱れていたり、当主の確定もしていなかったりという状況でなかなか研究が進まない状況であった。その状況が1990年代に入り森田恭二氏・弓倉弘年氏・小谷利明氏らの研究によって徐々にその実像が明かになっている。がしかし、それぞれの研究者が独自の見解で河内畠山氏の見解を述べているので、ひとつの本に拠って河内畠山氏の動向を理解するには難しいと言える。ここでは、どの資料にあたればそれぞれの項目が調べられるか列挙したい。

(1)初学者が調べるには
 やはりここは王道の『戦国大名系譜人名事典西国編』(新人物往来社,1985年)の河内畠山氏の項において詳しく人物ごとにまとめられている。しかし、刊行から随分と月日が経ち1990年代に河内畠山氏研究がだいぶ進展していることから事実誤認となっている事例も多いので、無批判にそれに依拠するには難しいものがある。

(2)河内畠山氏系図
 畠山尾州家(政長流)の家督継承は長らく、稙長−政国−高政とされてきた。これは主に軍記物などを文献にされたものであった。しかし、尚順の子どもについて現在再検討され、長経や晴熈等の存在が明らかになっている(河内畠山氏系図参照)これらの成果を知るには弓倉弘年氏『中世後期畿内近国守護の研究』(清文堂、2006年)がそれまでの研究成果を総括し推定し、畠山尾州家は長く諸説があった畠山播磨守の系図についての推考も行っている。且つ畠山総州家(義就流)の系図についてもそれまでの諸研究をまとめた上で論考しているので、一番正確に理解できる。

(3)室町時代の畠山氏政権の性格
 管領畠山氏の祖満家以降、応仁の乱などの義就・政長の動きなどを知りたい場合には弓倉弘年氏『中世後期畿内近国守護の研究』(清文堂、2006年)川岡勉「守護権力の変質と戦国期社会」(『戦国・織豊期の権力と社会』吉川弘文館、1999年に所収)に詳しい。特に前者は煩雑で分かり難い河内畠山氏の当主変遷について論じており、まとめられている。

(4)畠山稙長を調べる
 畠山稙長について研究する論文は意外と多くある。なかでも弓倉弘年「天文年間の畠山氏」(和歌山県史研究』16号、1989年)小谷利明氏「畠山稙長の動向」(矢田俊文編『戦国期の権力と文書』高志書院、2004年)に詳しい。特に前者は稙長政権下での遊佐長教や萱振氏の行動など詳細に論じている。また、石田晴男「守護畠山氏と紀州「惣国一揆」−一向一揆と他勢力の連合について−」(『戦国大名論集13巻』吉川弘文館、1984年に所収)において、稙長の紀州での行動・湯河氏との関係などが論じられている。

(5)畠山高政・昭高を調べる
 戦国時代の畠山尾州家(政長流)の当主である高政・昭高の動向については弓倉弘年「室町時代紀伊守護・守護代に関する基礎的考察」(『和歌山県史研究』17号、1990年)に詳しい。なお、高政・昭高が従来畠山政国の子とされてきたが、その後、晴熈の子であるとされ、最近の研究では森田恭二氏「河内守護畠山氏の系譜をめぐる諸問題」(『ヒストリア』149号、1996年)において、播磨入道の子としている。

(6)畠山総州家(義就流)を調べる
 畠山総州家(義就流)は戦国期にはほとんど実力を持たない存在となってしまったゆえ、発給文書も少なく研究自体がほとんど進んでいない。しかし、なかでも弓倉弘年「畠山義就の子孫達」(『南紀徳川氏研究』4号、1991年)はかなり詳しく解説されている。畠山総州家(義就流)の当主の変遷に関して詳説しており、特に確認できる義就流畠山氏最後の当主・尚誠について詳述されている。また、畠山在氏については弓倉弘年「天文年間の畠山氏」(和歌山県史研究』16号、1989年)に詳しい。それらをまとめ且つ最新研究を踏まえて最近刊行されたのが、弓倉弘年氏『中世後期畿内近国守護の研究』(清文堂、2006年)である。義尭と木沢長政の権力の推考などその畠山総州家(義就流)の権力構造などにも詳しい。

(7)戦国期畠山氏(政長流)政権の性格
 私見ではあるが、戦国期の畠山政権を的確に捉えているのは矢田俊文氏と小谷利明氏であると思う。今谷明氏と弓倉弘年氏は守護代遊佐氏の権力を大きくみて、稙長以降の守護畠山氏の動向に関して政権への影響力をあまりないものとしている。しかし、発給文書などから矢田氏が(矢田俊文)「戦国期河内国畠山氏の文書発給と銭」(『ヒストリア』131号、1991年)において守護の権力の有効性を論じ、それらをまとめた研究成果が小谷利明「戦国期の守護と守護代家−河内守護畠山氏の支配構造の変化について−」(『八尾市立歴史民俗資料館研究紀要』3号、1992年)である。また、弓倉弘年「室町時代紀伊守護・守護代に関する基礎的考察」(『和歌山県史研究』17号、1990年)も参考となる。戦国期の河内畠山氏政権において重要なのは、守護代遊佐氏をどうみるかということである。

(8)ちぇっくぽいんと
 弓倉弘年「天文年間の畠山氏」(和歌山県史研究』16号、1989年)は河内畠山氏について色々な発見がある。まず、畠山稙長政権において守護代遊佐氏に対抗できる有力家臣のひとりに丹下盛知がいたことが挙げられている。また、安見長政の名も良質な文書には「宗房」とみえることから、安見宗房が正しい名前であると断定された。これらは従来の軍記ものには見られない新しい見解であって注目すべきであろう。

むすびに
 河内畠山氏の研究が1890年代に入って飛躍的に進んだ事によって、当主の変遷、政権の性格などは次第に明らかになってきた。しかし、研究者がかなりいるので、それぞれ意見の対立もあるようである。まだ河内畠山氏の研究は始まったばかりでまだまだ混乱があるので、調べるに当たって出来るだけ多くの論文にあたり、意見の偏りがないようにしたいものである。本コンテンツがその役にすこしでも立てれば幸いである。

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