第八章「異国の冬」

1、下り坂

 永禄十二年(1569年)一月末、近江坂本に義胤軍が戻ると、能登入国作戦の失敗の責任を受けて飯川光誠は入道することになった。義胤は最大限努力してくれた光誠に
「光誠が出家するは無用の事。むしろ余が出家せばなるまい…」と慰留した。すると光誠は
「なにをおっしゃいますか義胤様。御屋形様は我々の結束の要であり柱でもあります。その義胤様が出家なされれば我が軍の士気に及びます。ここはどうか、我に出家をお命じくだされ!」
「……本当にすまぬ……。もっとわしがしっかりしておれば、光誠にこのような心労をかけることもなし…。せめて入道しても余の側近くに仕え続けてくれ。よいな。」
「もちろんでございます!」
こうして、飯川光誠は出家して入道し、「宗玄」と名乗った。

 義胤はすぐにでも能登入国を再開するつもりであった。しかし、一番の頼りでもある六角氏は織田信長に近江を追われ衰退の道を進んでいた。大きな協力はとても期待できる状況ではない。そこで義胤は発送の転換で、六角をあてにせず、幕府を擁立して勢力を拡大させている織田信長との連携を模索する。しかし、織田家は尾張の守護代の家柄だったゆえ「つて」も縁もない。ましてや織田家の対立する六角家に縁のある義胤に援助する可能性は低い。そこで義胤は医道伝授で近しい関係となった曲直瀬道三に信長との関係を取り持つよう依頼した。道三は幕府の軍医ゆえ、今の公方である足利義昭とも懇意にひていた。道三は義胤の置かれた状況や心情を理解し積極的に行動し、再三信長の元を訪れていた。そして四月末、とうとう織田家の京都奉行があってくれることになった。すぐさま道三は義胤に連絡を取り、飯川宗玄を派遣し、宗玄と共に道三は織田家の京都奉行所までやってきた。

戦乱の京都とはいえ、京都奉行所は新築された建物であった。通された間には綺麗な襖絵が飾られており、嫌が応にも織田信長の財力を見せつけられた2人であった。
「お待たせしましたな道三殿。こちらは・・・能登畠山家の飯川・・・越前入道であったか・・・。」
「お初にお目にかかる。能登守護・畠山義胤が臣。飯川若狭入道と申す。」
奉行は明智光秀という男だった。目鼻立ちがキレイで高貴の身分の者か。と思うほどの立ち居振る舞いだが、今まで明智という人物は道三も宗玄も聞いた事が無かった。」
「明智殿は以前はどちらに。」
「少し前は越前にて朝倉の客位の身でした。出自は美濃の明智荘で、曲直瀬道三殿と同名・斎藤道三殿に仕えておりました。」
「そうですか。私は以前美濃守護の土岐様に病を看病したことがございますな。」と道三。
「土岐様は私も何度がおうたことがあります。中々お怖い方でした。して、本日は何用ですかな。」
「織田弾正忠殿の幕府への功績が誠に見事です。我ら能登畠山家の主・義胤も弾正忠殿とご一緒に幕府を支えたいと思うております。」
「なるほど。がしかし、今能登は他の畠山一族が治めていると聞くが。」
「今の能登は公私を混同し重臣達が操っております。私事で政をし、幕府を支える公儀は毛頭ござらぬ。」
「では、織田家が援助し、能登の御成敗をと・・・」
「有り難きこと。」
「なれど、今織田家は、三好や朝倉らと敵多き事。この話、公方様や弾正忠殿様にお伝えはしますが、今すぐとは罷りますまい。」
「うむ。ご検討いただき朗報を待っております。」
すぐには返事が聞けずとも、一縷の望みを託して返事をまった。気をきかせて道三もその後検討の結果を何度も京都奉行の明智に聞きに行った。しかし何度も「今は取込中」と会えずにいた。後でわかったのは、義胤に色よい返事をするなと指示を出していたのは、今は信長に仕え幕府から河内半国守護に任じられた畠山高政・昭高(前の政頼)であった。もう二十五年前の出来事ではあるが、父徳祐(義続)の家督相続騒動によって、河内畠山家は家中が二分し、弱体化し、本来であれば管領家の家柄である河内畠山家が尾張の田舎大名に頭を下げざるを得ない状況となった。高政・昭高兄弟は徳祐(義続)に未だ根に持ち続けていた。「畠山徳祐(義続)が存命のうちは、支援はまかりならん。」と幕府や京都奉行の明智に根回しをしていたらしい。もちろんこの話は父・徳祐にはしていない。
(父も時代に翻弄された身。今更事実を伝えて何になる。)

 義胤軍は能登奪回計画の失敗により、まるで下り坂を転げ落ちるかの如く、武将も兵士は離反しさらに士気も落ちた。すでに自らの勢力では能登への入国戦を実行できるほどの余力も無かった。春を迎えて暖かくなり桜が散るのを見て、淋しげにこう言った。
「この桜のように、私も能登の地を踏むことなく散ってゆくのだろうか…。」
すると飯川若狭入道宗玄が義胤を元気付けるよう言った。
「何をおっしゃいますか義胤様。残った諸将は皆、義胤様の能登帰還を信じております。義胤様自ら落ちこんでどうするのですか。」
義胤の暗かった顔は、無理に微笑んで宗玄に向かってこう言った。
「……冗談だ。心配するな宗玄。わしは能登奪還を諦めたわけでは無いぞ……。」
宗玄を心配させまいとする精一杯の義胤の強がりであった。また、それを宗玄もわかっていたので辛かった。

 それから、能登永光寺が密かにではあるが引き続き義胤方への援助してくれたので、義胤・宗玄を中心に第二次能登奪回計画の準備が細々と続けられた。しかし、義胤を取り巻く状況は悪化する一方であった。元亀二年(1571年)初頭には佐脇綱盛が離反して七尾に戻り義慶(次郎が元服して義慶となった)方に仕えた。元亀三年(1572年)には越後の上杉謙信も義胤方を見限って外交関係及び援助の停止を通告してきて、義慶方との連携を始めた。能登奪回計画に失敗してからというもの、まるで下り坂を勢いよく転げ落ちるがごとく、義胤にとって不運が続いたのである。
 そんな状況の中、義胤は改名したから運気が悪くなったのではないかと思い、義胤から初名の「義綱」に再改名した。徐々に義綱方の旗色が悪くなっていくのではあるが、義綱は捲土重来を期して宗玄とともに入国工作を進めた。しかし、すでに影が薄くなりつつある義綱方に振り向く者は少なかった。元亀四年(1573年)一月、義綱は宗玄の勧めで家臣の木田左京亮に、義綱当主時代反抗して越後に出奔していた飯川肥前守等三人の帰参を許すと言う名目で坂本来往を求めた。同年三月には三人の使者が「かならず義綱様の元に参ります」という手紙を持ってきたが、なかなか三人はやってこなかった。やはり、もはや覆うべくも無いくらい義綱の地位が衰退したことを懸念していたのだ。天正二年(1574年)になって義綱方に味方する越中一向一揆の越中瑞泉坊石見守の斡旋により、三人はやっと義綱の元に帰参し義綱体制は飯川一族を中心とする体制に再編成された。それでも能登を奪回できるだけの力はすでに無く、ただ時間だけが過ぎていった。
 その一方義慶方では、親織田信長の長氏を中心としたグループ(長派)、親上杉の遊佐氏を中心としたグループ(遊佐派)、親一向一揆の温井・三宅を中心としたグループ(温井・三宅派)らの重臣の路線争いが深刻化していた。その中で、上杉氏と一向一揆が連携したことから自然と遊佐派と温井・三宅派が連合し、畠山家中で最大派閥である長派に対抗するようになった。この政情不安定な中、天正四年(1576年)には十代当主・義慶が病没した。残された畠山一族は、義綱の庶子である二本松伊賀守義有と義慶の遺児である二歳の春王丸。義有では義綱に比べて能登守護の正統性が薄く、春王丸では正統性に問題はないが、若年過ぎて正式な家督継承にならない。いよいよ能登畠山家は混乱し末期的状況を呈していた。

 近江坂本の仮館では義綱を支え送金する者達もいなくなった。義綱は従う者たちに禄を払うため、京都の寺社から借金をしてたが次第にそれも断られるようになった。そこで銭を得るために坂本の仮館の品を次々と質に入れていった。そんな中、富来胤盛は居館の近くを豊かな畑に変えていた。
「御屋形様。麦や粟がたくさん実りましたぞ。本日の粥はたくさん用意できますぞ。」
「うむ。有り難い。して胤盛。その麻の小袖はなんぞや。」
「い・・・いや・・・家の足しにと木綿の小袖を質に出しまして・・・。」
「ならぬ。武士が麻の小袖とは何事ぞ。胤盛!」
「それではわしの寝て衾(かけ布団)を質に入れよ。」
ゆっくりと姿を現したのは大きな荷物を抱えた徳祐だった。
「それでは大殿が寝るのに寒うございましょう!なりませぬ。」
「わしはここに来て重荷を負っておった。いつぞやの管領家相続の件で、河内から疎まれておった。義綱はさぞ外交がしにくかったであろう。それに比べればわしの寝て衾くらいどうとない。」
「し、しかし・・・。」
「いや胤盛。これは大殿様の命じゃ。主命と思え。寝て衾を売り、質草の木綿の小袖を受け戻せ!」
「御意。」
胤盛は徳祐から寝て衾を受け取ると、すぐに町へと向かった。
「父上。誠に手元不如意で相すみませぬ。」
「他に質に入れるものは無いかの。探してみるか。」
そう笑いながら館に戻る徳祐だったが、義綱には衝撃的なできごとだった。
(余の行動は、余に従う者を不幸にする。どこかでこの生活を終焉させねばならぬ。)


 そして天正四年(1576年)十月下旬。能登では長派が拡大したことによる上杉家の影響力低下を恐れた上杉謙信が能登侵攻を始めた。能登が謙信の支配下になると義綱の能登奪回の大義名分も無くなるため、義綱方は謙信に対し攻撃を止めるよう再三求めた。しかし謙信は、
「能州の儀、未だ守護擁立ならず。春王丸を守護に就ける由、出兵候。」
との書簡を義綱に送った。義綱は上杉謙信とも何度も交渉した相手だからその意図を理解した。
(上杉は、越後の船が能登で停船され、京まで荷物が行かぬことを心配している。越後の海運は重要な収入源。能登を上杉に都合の良い勢力にしたいのだ。そして、その対象はすでに余ではない。春王丸を立てることを理由にしている。おそらく上杉が勝ったとしても、もはや本当に春王丸を立てるかどうか疑わしい。もはや上杉にとって能登畠山は用済みなのだ・・・
 結局、天正五年(1577年)九月、七尾城方の遊佐美作守続光が上杉方に内通し、長対馬守続連一族を殺害して七尾城を開城させ上杉方に落ちた。その後、上杉方は能登に春王丸を立てることなく、上杉の臣である鰺坂らに統治を任せた。能登畠山氏は名実ともに滅びたのだ。義綱は七尾城開城から2週間後、この知らせを坂本の仮館で富来胤盛から聞いた。
(公方様は織田信長によって京を追い出され三年も経つ。殊に信長の勢力は大きくいままでのように京都に戻り、幕府を再建する事は出来ないであろう。新しい時代が始まっているのだ。もう、古き時代の余は用無しというところだろうか・・・・。)

 義綱は天正五年(1577年)十二月、坂本にいる義綱の家臣を館に一同に集めた。それでも全員で僅か三十名ほど。
「すでに知っている者もいるだろう。上杉謙信によって九月に七尾城が落城させられた。我が畠山家は…滅亡した…。同時に能登奪還という目標も失った…。このような状況で、皆を余の下に留めておくことはできぬ。よって…誠に勝手ながら我が畠山家を本日を以って解散としたい…。異存のある者はいるか?」
館の中ではただ大人達のすすり泣く音だけがこだました。
「本日を以って、我が家は解散する。皆、本当に有難う。」
最後の最後まで義綱の下にいた者は権力拡大の計算だけで付き従ったのではない。義綱のその人間的魅力に引き寄せられて集まった者たちだ。義綱の最後の言葉が辛かった。しかし、これ以上主君・義綱に辛い思いはさせまいと「再起」という言葉を敢えて出さなかったのだ。このまま解散することが主君・義綱の荷を降ろす一番の方法だとみんなが知っていたからだ。そして、ほとんどの者が坂本を去っていった。しかし、義綱の下に残る者が二名…。
「義綱様?私達はここに残ってもよろしいでしょうか?」と飯川宗玄と富来胤盛が言う。
「物好きだな…。私は今や国もなく、無主の者。領地はおろか、禄(給料)さえ期待できぬぞ。」
「承知の上でございます。」
「…ならばよい。私の下に生涯居てくれ!」
「御意。」

2、異国の冬

 天正六年(1578年)義綱は入道して徳栄(とくえい)と名乗り、近江坂本の居館で細々と暮らした。しかし、しばらくすると幼少の頃より徳栄の相手をし、忠誠を尽くしてくれた飯川若狭入道宗玄が亡くなった。
「宗玄…いや、光誠よ。お前と七尾城で過ごした日々が……懐かしい。時が経ったのだな…。お前と能登の政をもっともっとできればどんなに楽しかった事であろうか…。」
光誠の死に際は非常に穏やかであった。最後まで義綱(徳栄)に従い、そして死んでいったからであろうか。徳栄にとって実の父以上に信頼していた宗玄の死は相当堪えた。徳栄は徳祐と富来胤盛とも離れて独りで寺にこもり世間と離れて、人を避けて暮らすようになった。

 天正十年(1582年)のある日。館の前を通り過ぎる振売の商人を見て義綱は思った。
「余も気楽な身になったな。以前妻の華と約束したな。…気楽な身になったら京の近くに住み雅な着物を買ってやると…。その願いも叶えられぬまま、わしはここ近江で何をしている…。」
織田信長が本能寺で明智光秀に殺され、その数日後光秀が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の合戦で討たれるという知らせを聞いた。時代の大きく変わっていく。
「世の中が大きく動いている。せっかくだからこの目で世の中の動きを見てこよう。今までなら当主という家臣を率いる立場にあって、できなかったことだな…。」
「お供をさせてはもらえませぬか。徳栄様。」
そう言ったのは富来胤盛だった。いつでも私の気持ちを察して動いてくれる。彼と一緒なら安心できる。
「うむ。余も諸国の道に暗い。案内を頼もうか。」
「御意。」
徳栄と胤盛はまずは徳祐の元へ向かった。京で慎ましく暮らす徳祐は徳栄の見よう見まねで医道の真似事をして日銭を稼いでいた。その姿に安心して諸国放浪の旅に発ち、京都、大阪、倉敷などを回り徳川家康、豊臣秀吉などの大名を訪問し、和歌や連歌、医道を披露したり教えたりして過ごした。
「徳栄様。七尾には行かぬのですか。」と胤盛は徳栄に問うた。
京からは船の便もあり、七尾に行こうと思えば行くことはできた。でも行く気はしなかった。永禄十一年(1568年)に御舘館を撤退する時、「捲土重来を期す」と自ら言った。その約束が果たせないなら自分は能登の地を踏み入れるべきではない。もとより、息子の義慶も妻の華も亡くなっている。その位牌は京都の自分が守護時代に再建した興臨院にあった。まずは興臨院に行って墓前に手を合わせた。
 天正十七年(1589年)には秀吉が徳栄の優れた文芸を評価し、家臣として雇おうと申し出たが徳栄はこれを断った。それでも徳栄の今までの境遇に憐れんだのか、伏見城の門を与えた。自邸に移築するか、売っても良いと言われた。その門は、切妻造りの四脚門で随所に趣向を凝らした桃山建築特徴をあらわす豪華な門だった。しかし徳栄は「今の自分には勿体無い。」と言い与えられた門を興臨院を頂く大徳寺に寄付し移築させた。息子や妻の檀家料のつもりだった。
 その後も徳栄は様々なところを訪れ歓待されたが、天正十八年(1590年)三月初め父・徳祐の具合が悪いというので京の徳祐が暮らす館に向かった。徳祐は同月十ニ日に息を引き取った。すでに能登から自分を付き従って来てくれたたくさんの人達の死に立ち会っていたせいか、徳栄の目に涙はなかった。
「父上の能登復帰と言う願いを叶えられず、誠に申し訳ない・・・。」

−文禄ニ年(1593年)、近江舎吾(余呉)ノ浦海津のとある館の徳栄の寝室−

「今年の冬は寒いのう。冷えてたまらん。」
と徳栄が言うと、襖の外にいる胤盛が
「何か上に羽織るものがあったかみてまいりましょう。」
「いや、よい。……それより、今日の能登の空は澄み渡っているかのう?」
「どうでしょうか。余呉の今日は鮮やかな冬晴れ。能登の空も澄み渡っているのではないでしょうか。」」
「……七尾城から見る景色はどうようなものであったかのう。冬になると夜が長くなるので色々考えてしまう……。」
「…。徳栄様、あと少しで正月になります。正月がくれば春もすぐ先です。じきに夜も短くなりましょう。」
「……。」
(徳栄様はお眠りになられたのかな。寒くなられてはいけないので、布団をおかけしてから戻ろうか。)
「徳栄様。失礼致します。」
胤盛が襖を開けて徳栄の寝室に入った。
「!?……。徳栄様。お休みなられたのですか?・・・・徳栄様?・・・。徳栄様ああああ!」
畠山義綱は文禄ニ年十二月二十一日、能登から遠くはなれた近江国舎吾(余呉)ノ浦海津にて静かに息を引き取った。数えで五十九歳であった。
異国で最期を迎えた義綱にはわからなかったが、この日の能登の空は義綱の死を悲しむような大雨に見舞われていたという。

(終わり)

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