2005年3月31日をもって、穴水−蛸島間の“のと鉄道能登線”が廃線となった。これで奥能登を結ぶ鉄道網のほとんどが失われた。誠に残念なことである。そこで、鉄道全盛期の能登の鉄道路線図を見て、昔はどれくらい市民の足=鉄道があったか(計画されていたか)を懐かしもうというコーナーである。これだけの鉄道網もし現存していれば、ひょっとしたらネットワークを活かして能登線も廃線にならなかったかもしれない…。いや…能登の過疎化進行が遅れたかもしれない…。 |
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@西日本旅客鉄道(JR西日本)・七尾線(和倉温泉−津幡)
全区間単線、全区間電化区域、レールは狭軌(1067m)。JR・七尾線は、その前身である七尾鉄道が1898(M31)年4月24日に矢田新(後の七尾港駅)−津間(現・本津幡駅付近)を開業したことに始まる。1907(M40)年の鉄道国有法により七尾鉄道は国に吸収され国有鉄道・七尾線(名称が設定されたのはその翌々年)となる。1925(T14)年には和倉駅(現・和倉温泉駅)まで、1932(S7)年には穴水駅まで延伸し、1935(S10)年には輪島駅まで開業し全線開通となった。能登半島の地図をみるとよくわかるが、羽咋−七尾間は能登にしては平らな土地が続くので鉄道も建設しやすかったと言える。
1986(S61)年には国鉄が不採算路線であった能登線(穴水−蛸島間)の廃止が提言され、翌々年には第3セクター“のと鉄道”が同線を引継ぐ。1991(H3)年には七尾線沿線住民の悲願であった電化がなされ和倉温泉−津幡間が電化される。しかし、その代償として不採算路線であった七尾ー輪島間をのと鉄道に譲渡することになった。よってJRの七尾線は和倉温泉までとなった。電化が実現した事により、越後湯沢や大阪方面から特急電車などが七尾線の和倉温泉まで乗り入れることとなり、乗降車数の増加に貢献した。一方、非電化区域であるのと鉄道沿線は直通運転から切り離され、ディーゼル急行として活躍した“急行能登路”(金沢−輪島・珠洲)は減便に次ぐ減便がなされた。そして2001(H13)年に金沢−珠洲間の1日1便となった急行能登路は、2002(H14)年3月23日で廃止となった。
運行形態としては特急の“サンダーバード”“しらさぎ”が大阪方面から、“はくたか”が越後湯沢方面から和倉温泉まで運行されている。普通列車は七尾−金沢間がメインであり、七尾線の終点である津幡駅から北陸本線を経由して金沢駅まで直通している。一方、七尾−和倉温泉間を運行するJRの普通列車はない。これは、のと鉄道が第二種事業で運行しているためで、同区間のJRは特急運行のみである。
普通電車の車両は3両編成で運行されている。七尾線を走る車両は近郊系113系を改造した415系である。塗装が下半分がグレーで白いラインその上に引かれている。上半分は先頭車がブルーで中間車がピンクでおしゃれな塗装であったが、経費削減ということで、あずき色一色に統一されてしまった。下に旧塗装と新塗装の写真がある。おしゃれな塗装を復活させて欲しいと願うが、廃線になるよりマシか。
北陸新幹線は昔は「長野新幹線」と呼ばれていた路線を延伸する形で富山を経由し金沢に至るルートが2015(平成27)年3月に開業した。金沢からは福井を経由して米原へ至る予定であるが、現在建設が進められているのは福井までは2022年には延伸開業する予定である。そして、並行在来線である北陸本線が第3セクター化され「IRいしかわ鉄道」となった。(昔の「長野新幹線」のしなの鉄道や東北新幹線の「いわて銀河鉄道」/「青い森鉄道」も並行在来線のため第3セクター営業となった)。現在、はIRいしかわ鉄道線(旧「北陸本線」)の枝線である七尾線や氷見線はそのままJR西日本として営業が続けられている。もし七尾線が第3セクター化されたら、「のと鉄道」が和倉温泉−津幡間を引き継ぐことになれば、七尾線・穴水−輪島間と能登線・穴水−蛸島間を廃線にさせた“前科”がある「のと鉄道」であるから、引き継ぎと同時に和倉温泉−穴水間が廃線に、その後、和倉温泉−津幡間も廃線に…などという心配をしていたが、現在のところその動きはないようである・・・。(2018年11月現在)
↑JR七尾駅 |
↑JR和倉温泉駅 |
↑JR羽咋駅 |
↑JR宝達駅 |
↑七尾駅に停車中の415系 |
↑宝達駅に入線する415系 |
↑七尾線路線図 (クリックで拡大) |
↑七尾線415系あずき色 (クリックで拡大) |
駅名 | 読み | 所在地 | 始点距離 | 開業年 | 備考 |
和倉温泉 | わくらおんせん | 七尾市 | 5.1km | 1925(T14) | のと鉄道が第二種事業。1980年まで“和倉駅” |
七尾 | ななお | 0km | 1898(M31) | のと鉄道・七尾線と接続 | |
徳田 | とくだ | 5.5km | 1898(M31) | ||
能登二ノ宮 | のとにのみや | 鹿島郡中能登町 | 8.3km | 1960(S35) | |
良川 | よしかわ | 10.5km | 1901(M34) | ||
能登部 | のとべ | 13.3km | 1898(M31) | ||
金丸 | かねまる | 16.9km | 1898(M31) | ||
千路 | ちじ | 羽咋市 | 20.6km | 1898(M31) | |
羽咋 | はくい | 24.7km | 1898(M31) | ||
南羽咋 | みなみはくい | 27.7km | 1960(S35) | 計画線の国鉄・氷羽線と接続予定だった | |
敷浪 | しきなみ | 羽咋郡宝達志水町 | 30.2km | 1898(M31) | |
宝達 | ほうだつ | 33.5km | 1898(M31) | ||
免田 | めんでん | 36.6km | 1950(S25) | ||
(加賀側の途中6駅省略) | |||||
津幡 | つばた | 河北郡津幡町 | 54.4km | 1898(M31) | 終点(北陸本線と接続/金沢方面・富山方面) |
金沢 | かなざわ | 金沢市 | 65.9km | 七尾始発電車は金沢行がほとんどである。 |
Aのと鉄道・七尾線(七尾−穴水)
全区間単線、全区間非電化区域、レールは狭軌(1067m)。のと鉄道・七尾線は、旧国鉄が七尾線・和倉温泉−津幡間の電化と引き換えに、不採算路線の和倉温泉−輪島間を1987年に開設した“のと鉄道”に譲渡したことに始まる。2001(H13)年の輪島−穴水間の廃線に伴ないのと鉄道・七尾線は現在の形の七尾−穴水間33.1kmに短縮された。
のと鉄道(株)は七尾から奥能登を走る第3セクター鉄道である。七尾駅までは七尾鉄道が1898(M31)年に開通させ、1904(M34)年の国鉄買収以後は、1932(S7)年に穴水まで、1935(S10)年に輪島まで延伸され七尾線全線が開業した。しかし戦後になって、道路環境の改善とモータリゼーション化が進み、七尾線は乗降客が徐々に減少していった。そして国鉄は1986(S61)年に能登線は「廃線指定」を決定する。これを受けて住民は、翌年に企業と自治体が共同運営する第3セクター方式で存続を図った。こうして同年「のと鉄道」が設立され、1989年(H元)には能登線(穴水−蛸島間)で営業することとなった。
しかし1991(H3)年、JR七尾線和倉温泉−津幡間の電化の見返りに七尾線の不採算区間である七尾−輪島間をのと鉄道に移管すると発表した。こうして「のと鉄道」は七尾−輪島間の七尾線区間と穴水−蛸島間の能登線の2路線で運営することになった。だが、能登の道路環境改善は続き、ますますモータリゼーションも進んだ。七尾線に投入されている車両NT100系は最高時速80km/hであり、また旧勾配が続く輪島−穴水間の登りではスピードが上がらず車に追い越されるという状況が続いた。こうした状況下で経営が好転するはずもなく、乗客は減る一方、のと鉄道は減便につぐ減便を行った。減便が続けば利便性は失われますます乗客の足は遠のいた。さらに自治体も同社の赤字補填に難色を示した。こうして大幅な赤字を抱えたのと鉄道はついに2001(H13)年3月31日の七尾線・穴水−輪島間廃線を決定した。こうして七尾線は1932(S7)年の状態まで戻ってしまった。
現在、のと鉄道・七尾線には2004年4月から新型車両のNT200系が登場し、最高時速も90km/hまで上昇した。折りたたみ式のレンタサイクルの持ち込みを可能としたり、車両内に多目的トイレを作ったりしている。また、2011年に放送された「花咲くいろは」というアニメのラッピング列車を今も運転しており、アニメファンの聖地巡礼に一役買っている。ちなみに舞台となった駅は「能登中島駅」である。(ラッピング電車の写真は下記にあります。)
↑穴水駅 |
↑穴水駅プラットホーム ※2度と中居方面からは列車は来ない |
↑西岸駅 |
↑新型車両NT200系(七尾駅) |
↑花咲くいろはラッピング列車 |
駅名 | 読み | 所在地 | 始点距離 | 開業年 | 備考 |
七尾 | ななお | 七尾市 | 0km | 1898(M31) | JR・七尾線と接続 |
和倉温泉 | わくらおんせん | 5.1km | 1925(T14) | ||
田鶴浜 | たつるはま | 8.6km | 1928(S3) | ||
笠師保 | かさしほ | 12.7km | 1928(S3) | ||
能登中島 | のとなかじま | 16.3km | 1932(S7) | ||
西岸 | にしぎし | 22.5km | 1932(S7) | ||
能登鹿島 | のとかしま | 鳳珠郡穴水町 | 26.8km | 1932(S7) | 「能登桜駅」の別名。桜の名所 |
穴水 | あなみず | 33.1km | 1932(S7) | 旧のと鉄道・能登線と接続していた。 |
Bのと鉄道・七尾線(七尾−輪島)穴水−輪島間=20.4km
全区間単線、全区間非電化区域、レールは狭軌(1067m)。のと鉄道・七尾線は、旧国鉄が七尾線・和倉温泉−津幡間の電化と引き換えに、不採算路線の和倉温泉−輪島間を1987年に開設した“のと鉄道”に譲渡したことに始まる。2001(H13)年の輪島−穴水間の廃線に伴ないのと鉄道・七尾線は現在の形の七尾−穴水間33.1kmに短縮された。
のと鉄道(株)は七尾から奥能登を走る第3セクター鉄道である。七尾駅までは七尾鉄道が1898(M31)年に開通させ、1904(M34)年の国鉄買収以後は、1932(S7)年に穴水まで、1935(S10)年に輪島まで延伸され七尾線全線が開業した。しかし戦後になって、道路環境の改善とモータリゼーション化が進み、七尾線は乗降客が徐々に減少していった。そして国鉄は1986(S61)年に能登線は「廃線指定」を決定する。これを受けて住民は、翌年に企業と自治体が共同運営する第3セクター方式で存続を図った。こうして同年「のと鉄道」が設立され、1989年(H元)には能登線(穴水−蛸島間)で営業することとなった。
しかし1991(H3)年、JR七尾線和倉温泉−津幡間の電化の見返りに七尾線の不採算区間である七尾−輪島間をのと鉄道に移管すると発表した。こうして「のと鉄道」は七尾−輪島間の七尾線区間と穴水−蛸島間の能登線の2路線で運営することになった。だが、能登の道路環境改善は続き、ますますモータリゼーションも進んだ。七尾線に投入されている車両NT100系は最高時速80km/hであり、また急勾配が続く輪島−穴水間の登りではスピードが上がらず車に追い越されるという状況が続いた。こうした状況下で経営が好転するはずもなく、乗客は減る一方、のと鉄道は減便につぐ減便を行った。減便が続けば利便性は失われますます乗客の足は遠のいた。さらに自治体も同社の赤字補填に難色を示した。こうして大幅な赤字を抱えたのと鉄道はついに2001(H13)年3月31日の七尾線・穴水−輪島間廃線を決定した。こうして七尾線は1932(S7)年の状態まで戻ってしまった。
廃線となった輪島駅は市が大々的に改修し、プラットホームをもじった「ぷらっと訪夢輪島駅」と名付け、バスターミナル兼、市内の観光案内所として機能している。路線の廃線後に“駅”が綺麗に改修されるとはなんとも皮肉なものである。能登三井駅では廃線の翌年に残った線路を活用して地元の有志らが鉄道復活イベントを行っていたが、2004年には線路も撤去され、イベントももうできない状況となった。
↑現在の“輪島駅” |
↑能登三井駅跡 |
駅名 | 読み | 所在地 | 始点距離 | 開業年 | 備考 |
七尾 | ななお | 七尾市 | 33.1km | 1898(M31) | 始点距離は穴水から起算。 |
(中略)A参照 | |||||
穴水 | あなみず | 鳳珠郡穴水町 | 0km | 1932(S7) | のと鉄道は第二種事業で運行 |
能登三井 | のとみい | 輪島市 | 11.0km | 1935(S10) | |
能登市ノ瀬 | のといちのせ | 16.0km | 1935(S10) | ||
輪島 | わじま | 20.4km | 1935(10) |
Cのと鉄道・能登線(穴水−蛸島)61.0km
全区間単線、全区間非電化区域、レールは狭軌(1067m)。のと鉄道・能登線は旧国鉄が1986(S61)年に「廃線指定」指定し、第3セクターによる鉄道存続を決定し、1988(S63)に国鉄から“のと鉄道”に譲渡したことに始まる。2004(H17)年3月31日赤字のため能登線全線(穴水−蛸島間)の廃線が決定。61.0kmの路線が廃線となった。
のと鉄道(株)は七尾から奥能登を走る第3セクター鉄道である。七尾駅までは七尾鉄道が1898(M31)年に開通させ、1904(M34)年の国鉄買収以後は、1932(S7)年に穴水まで、1935(S10)年に輪島まで延伸され七尾線全線が開業した。しかし戦後になって、道路環境の改善とモータリゼーション化が進み、七尾線は乗降客が徐々に減少していった。そして国鉄は1986(S61)年に能登線は「廃線指定」を決定する。これを受けて住民は、翌年に企業と自治体が共同運営する第3セクター方式で存続を図った。こうして同年「のと鉄道」が設立され、1989年(H元)には能登線(穴水−蛸島間)で営業することとなった。
能登線を譲り受けたのと鉄道は、新型車両NT100系を投入したり、増便を行ったり、1995(H7)年には新駅・七見駅を設置したりと当初は積極的な経営を展開し、1988(S63)年〜1990(H2)年の3ヵ年は単年度黒字を達成した(しかし黒字幅は漸減している)。しかし、1991(H3)年にJR七尾線の一部電化の見返りに七尾線の不採算区間である七尾−輪島間がのと鉄道に移管されると、急遽収支は赤字化した。さらに能登の道路環境改善は続き、ますますモータリゼーションも進み、車両も老朽化してくるなど厳しい経営環境に追い込まれていった。のと鉄道は経営を好転させるというよりも赤字幅を減らすためか、社員のリストラや減便につぐ減便を行った。しかし、減便が続けば利便性が失われ乗客の足が遠のいた。さらに自治体も同社の赤字補填に難色を示した。こうした状況下で、大幅な赤字を抱えたのと鉄道は2001(平成13)年3月31日の七尾線・穴水−輪島間廃線を決定。それでも単年度9000万円の赤字が続くのと鉄道は、2005年4月1日の能登線全線(穴水−蛸島間)の廃線を決めた。こうして、奥能登の大半から鉄道の汽笛が消えたのであった。
私も1999(平成11)年に能登線・穴水−松波間を乗車した事がある。七尾駅から松波駅まで行ったが、やはり沿線の自動車に次々と抜かれていったことを覚えている。また、奥能登になるとトンネルや山の中を通ることも多く車窓も退屈な時があった。それでも、ローカル線というのは、その乗車風景を忘れられないほど郷愁感を覚えるものである。能登線を忘れたくなくて、DVD「のと鉄道 穴水−蛸島間廃止前の全線最後の風景」を買った。思い出は今は映像の中だけに…。
↑珠洲駅跡 |
↑恋路駅跡 |
↑松波駅跡 |
↑蛸島駅跡と留置されるNT100形 |
↑蛸島駅跡 |
↑能登線で活躍したNT100系 「能登鉄道友の会」より拝借のため転載厳禁 |
↑穴水駅に留置されるNOT-EXPRESS |
↑能登線のDVD |
駅名 | 読み | 所在地 | 始点距離 | 開業年 | 備考 |
穴水 | あなみず | 鳳珠郡穴水町 | 0km | 1932(S7) | のと鉄道・七尾線と接続 |
中居 | なかい | 5.3km | 1959(S34) | ||
比良 | ひら | 7.6km | 1959(S34) | ||
鹿波 | かなみ | 10.5km | 1959(S34) | ||
甲 | かぶと | 14.3km | 1959(S34) | ||
沖波 | おきなみ | 17.0km | 1959(S34) | ||
前波 | まえなみ | 18.1km | 1960(S35) | ||
古君 | ふるきみ | 19.9km | 1959(S34) | ||
鵜川 | うかわ | 鳳珠郡能登町 | 22.9km | 1959(S34) | |
七見 | しちみ | 24.0km | 1995(H7) | のと鉄道誕生後に新設された駅 | |
矢波 | やなみ | 25.6km | 1960(S35) | ||
波並 | はなみ | 27.8km | 1960(S35) | ||
藤波 | ふじなみ | 30.0km | 1960(S35) | ||
宇出津 | うしつ | 32.7km | 1960(S35) | 2005年3月31日までのと鉄道の本社駅 | |
羽根 | はね | 35.3km | 1963(S38) | ||
小浦 | おうら | 37.0km | 1963(S38) | 国鉄時代は「能登小浦駅」 | |
縄文真脇 | じょうもんまわき | 38.4km | 1963(S38) | 国鉄時代は「真脇駅」 | |
九十九湾小木 | つくもわんおぎ | 40.4km | 1963(S38) | 国鉄時代は「能登小木駅」 | |
白丸 | しろまる | 42.5km | 1963(S38) | 国鉄時代は「能登白丸駅」 | |
九里川尻 | くりかわしり | 44.4km | 1963(S38) | 国鉄時代は「能登川尻駅」 | |
松波 | まつなみ | 46.4km | 1963(S38) | ||
恋路 | こいじ | 48.2km | 1964(S39) | 国鉄時代は7月8月のみ停車の臨時駅 | |
鵜島 | うしま | 珠洲市 | 49.0km | 1964(S39) | |
南黒丸 | みなみくろまる | 50.1km | 1964(S39) | ||
鵜飼 | うかい | 51.7km | 1964(S39) | 国鉄時代は「能登鵜飼駅」 | |
上戸 | うえど | 54.4km | 1964(S39) | ||
飯田 | いいだ | 56.1km | 1964(S39) | 国鉄時代は「珠洲飯田駅」 | |
珠洲 | すず | 57.4km | 1964(S39) | ||
正院 | しょういん | 59.0km | 1964(S39) | ||
蛸島 | たこじま | 61.0km | 1964(S39) | 能登線終点 |
D北陸鉄道・能登線(羽咋−三明)25.5km
全区間単線、全区間非電化区域、レールは狭軌(1067m)。北陸鉄道・能登線は、その前身である能登鉄道(※現在の“のと鉄道”とは異なる)が1925年3月3日に羽咋−能登高浜間を開業したことに始まる。不採算路線のため、1972年6月25日で廃線となった。
能登鉄道は国鉄・七尾線が内浦を通るのに対して、羽咋から外浦を回って志賀町・旧富来町・旧門前町を通って輪島市(鉄道敷設免許は輪島市大屋)まで路線を開通させる予定だった。沿線には、能登の観光名所である能登一ノ宮・気多大社や柴垣海水浴場、さらに開通予定地には巌門や総持寺(路線が国道249号線を通った場合)などがあり、沿線住民の通学・通勤の足としての他、観光客の取り込みも狙える路線であった(三明−大屋間はEを参照)。また能登鉄道はさらに羽咋−氷見間の開業も目指して鉄道ネットワークの形成を目指していた。この氷見→羽咋→三明→大屋(輪島)に至る鉄道敷設免許は1920(T9)年に許可されている。しかし、三明−大屋間は地元住民の反発でなかなか建設が進まず、羽咋−氷見間に至っては昭和恐惶の折、計画だけで何も進展せず免許失効となった。結局、能登線は羽咋−三明間という中途半端な路線となり、平常は1両編成という乗客の少ない状態のままとなった。しかし戦前も戦後も、正月には初詣で気多大社に行く為能登一ノ宮駅が、夏は柴垣海水浴場にいくために柴垣駅が大変乗降客で賑わった。このため、当該時期には国鉄七尾線から直通運転し、6両編成・7両編成の運行がされたという。
さて、第二次世界大戦での日本の戦況悪化により石川県の私鉄は北陸鉄道に吸収されることになった。能登鉄道も1943年に同社に吸収合併されたことにより、能登線は北陸鉄道の一路線となった。戦後になり沿線の道路環境が改善され、さらにモータリゼーションが進むと能登線の経営環境はますます悪化する。そこで北陸鉄道は不採算路線の廃線を宣言し、同社の加南線・金石線が廃線となったのに続き、1972年6月24日をもってその歴史を閉じた。
路線に投入された車両は、蒸気機関車の他はディーゼルカーとして、三岐鉄道から購入したキハ5160形、キハ5162や、国鉄から払い下げてもらったキハ5150形、キハ5151や、気動車キハ5301がある。キハ5301は貨物運転を節約する為に客車の列車正面に荷台が設けられているのが特徴である。
現在は三明駅跡がバスターミナルとして使用されている他、遺構は一部鉄橋などが残っているが、駅舎やプラットホームやレールなどはほとんど残っていない。路線跡として全線がサイクリングロードとして残っている。下の写真のようなサイクリングロードが路線の横にあり、すぐにでも路線を敷けば鉄道になりそうな感じな風景。ここにおそらく踏切があったんだろうな・・・などと情緒に浸ることもできた。三明駅には能登線があった記念として三明駅跡の石碑が立ち、車輪が保存されている。三明駅が公園のようになっていたので、訪れた時(2018年11月)ちかくに人がいたので思い切って話しかけてみた。その夫婦は「能登線に乗ったことがあるよ。羽咋まで行ったね」と言っていた。昔は住民の足として活躍していたのだが、いつのまにか、思い出の中だけの風景となっていった。
駅名 | 読み | 所在地 | 始点距離 | 開業年 | 備考 |
羽咋 | はくい | 羽咋市 | 0km | 1925(T14) | 国鉄・七尾線と接続 |
能登一ノ宮 | のといちのみや | 3.3km | 1925(T14) | ||
滝 | たき | 4.1km | 1926(T15) | ||
柴垣 | しばがき | 8.3km | 1925(T14) | ||
甘田 | あまだ | 羽咋郡志賀町 | 10.6km | 1927(S2) | |
大島 | おおしま | 12.6km | 1931(S6) | ||
能登高浜 | のとたかはま | 14.6km | 1925(T14) | ||
志賀町(末吉) | しかまち | 15.4km | 1927(S2) | ||
堀松 | ほりまつ | 16.8km | 1927(S2) | ||
大笹 | おおささ | 19.2km | 1927(S2) | ||
米町 | よねまち | 21.3km | 1927(S2) | ||
直海 | ちょっかい | 22.7km | 1927(S2) | ||
三明 | さんみょう | 25.5km | 1927(S2) | (旧富来町) |
E能登鉄道・能登線(三明−大屋)
能登線は能登鉄道(※現在の“のと鉄道”とは異なる)が1925年3月3日に羽咋−能登高浜間を開業したことに始まる。能登鉄道・能登線は志賀町の三明駅(旧富来町)まで開業が実現するが、実はもっと奥まで延伸する予定があった。三明駅からやはり外浦を回って旧門前町を通って輪島市(鉄道免許許可が輪島市大屋まで)に至る路線である。この氷見→羽咋→三明→大屋(輪島)の鉄道敷設免許は1920(T9)年に降りている。しかし、建設に沿線住民の反発があったことに加え、昭和恐惶の影響で資金調達が難しかったこと、さらには1935年に国鉄・七尾線の穴水−輪島間が開通したことにより、輪島市民の能登線延伸熱も冷めてしまったと思われる。結局、三明−大屋間は幻の路線となってしまった。
羽咋−三明間の路線が国道249号線に沿ってほぼ沿岸を通った事を考えると、三明−大屋間も国道249号線に沿ったルートではなかったと考えられる。そうすると、総持寺や阿岸本誓寺の近くを通ることになり集落にそった形で大屋まで行くこととなる。もし、国鉄・七尾線と輪島駅で直通運転接続をして鉄道ネットワークを形成(穴水→輪島→門前→三明→羽咋→七尾→穴水)できたとすると、2001年のと鉄道の穴水−輪島間廃線も遅れた…いや、無かったかもしれない。残念でならない。
F国有鉄道(国鉄)・氷羽線(南羽咋−氷見)
最初に羽咋−氷見を鉄道で繋ぐ計画は、能登鉄道が立てたものである。同社は1920(T9)年に、氷見→羽咋→三明→大屋(輪島)に至る鉄道敷設免許を得ていたが、昭和恐惶のための資金難と住民の反発に合い石川県側は羽咋−三明間(D参照)を建設しただけに終わっている。さらに富山県側の羽咋−氷見間は手付かずのまま免許失効となった。
しかし、能登鉄道の羽咋−氷見間の鉄道敷設を半ば引き継ぐように、国鉄が氷見線の延伸計画を立ち上げた。昭和時代に入り建設に現実味を帯びたが、日中戦争の戦争長期化を受けて建設が凍結される。その後、戦後も建設の動きが再燃したが結局は実現には至らなかった。
計画路線をみると、南羽咋で七尾線に接続し、羽咋駅までは七尾線を経由していくことになっている。建設地の都合上こうなったものとおもわれるが、建設計画が具体化していたなによりの証拠である。
G富山地方鉄道(七尾−氷見)
富山地方鉄道は、国鉄・氷羽線と異なり氷見と能登の中心都市である七尾と結ぶ鉄道を計画した。
鉄道の計画ルートは筆者が推測するには、氷見と七尾を結ぶには荒山峠など高い山々や国指定史跡の七尾城跡がルートを邪魔しているので、海岸線を通らざるを得ないと思う。つまり、国道160号線の沿線を通るルートではないかと思う。
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