林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.62
第62回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集「『天文日記』にみる勧進猿楽(前)」
本稿では、『天文日記』に出てくる勧進能などについて見ていきます。
「(略)○森之代官へ自上野人を遣候。其故者明日彼在所にて勸進猿樂とり立候に付て、猿樂屋どの事、法安寺申付たるよし候間、宿事法安寺に申つけ候ハぬ様にとの儀、申遣候。」天文7年4月26日条
本願寺寺内町近くの森ノ宮の代官へ側近の上野を通じて使いを出した。理由は、明日から森ノ宮の村で勧進猿楽を催すに当たり、猿楽座衆の泊まる宿の件で、本願寺の末寺の法安寺に申し付けたそうだが、法安寺には申付けないようにという事を伝えたのだ。
これに対し、
「自森代官方返事にハ、在所事一向不辨過法候へ共、承候事候條、森にやどの事申付候由候。(略)」同年同月27日条
森宮の代官の返事には、村の方は不便で難しいことだが承った、森ノ宮の村に宿の事を申し付けた、ということだった。
そして、
「(略)三宅三郎左衞門先日も申候。彼子此間森(森宮)にて勸進猿樂をし候。其後此方にて一番させ度由申候へ共、取亂儀候間、無本意由申出候ツ。只今も申候へ共、同前の返事候。(略)」同年5月10日条
三宅三郎左衛門が先日も申していたが、彼の子供がこのあいだ森ノ宮で勧進猿楽を催したそうだ。その後、本願寺にて猿楽能を1番でもさせたいと言ってきたのだが、忙しく取り紛れているので、これは本意ではないと伝えた。今も同じことを申してきたが、同じ返事をした。
と、猿楽役者たちの宿のことや、近所で行っているので、そのついでに本願寺でも猿楽能を演じたいと言ってきたが断ったことなどを書き記しています。
しかし、もともとが猿楽能好きの証如だったので、天文8年4月9日条では、
「勸進能於河濱甲田十兵衞取立。自今日宮王大夫仕之候。爲見物棧敷九間打之。以輿三丁行候。一家衆男女共以喚之、能中ニ花枝(点頭カ)二度遣也。温麺、食籠調之。能過ニ歸候。△自兼譽大折アコヤマン(阿古屋饅)二合三荷到來也。」
河浜の甲田十兵衛が取り立てた勧進能が、今日から宮王大夫の座で始まった。見物用の桟敷を9間作らせたそうなので、輿3丁に乗って行った。一家衆(親戚衆)の男女も呼んだ。演能中に花代を2回遣わした。温麺や食べ物を持って行き、猿楽能が終わってから歸ってきた。側近の兼誉が大折詰めでアコヤマン(小さな団子状の饅頭)2合3荷持って来た。
また、翌々日の11日には
「勸進能又令見物候。令歩行候人數、同一昨日也。又温麺、とりすへ五誘之。宮王大夫爲禮來條、小袖縫物一遣之。盃を呑せ候(略)」
勧進能をまた見物に行った。行った人数は昨日と同じだった。また、温麺、食べ物なども5種類ばかり持って行った。宮王大夫が礼に来たので、小袖の縫物を一反つかわし、盃で酒を飲ませた。
これもまた翌日12日、
「又勸進能へ歩行候人數同前也。温麺とりすへ有之。彌左衞門小皷打也彦兵衞笛吹兩人召寄之、盃ニ呑之。貮百疋ヅゝ折紙遣之。又能中ニ太刀出之。(略)」
また勧進能へ行き、行った人数も同じだった。温麺や食べ物など持って行った。小鼓の弥左衛門と笛の彦兵衛を呼び、盃で酒を飲ませた。それぞれに2百疋(2貫文)を渡す旨の手紙を渡した。また途中で太刀を渡した。
そしてこの翌13日にも、
「今日も勸進能へ行候。女房衆ハ無見物、以隠密大方殿、西向兼盛妻四人にて、棧敷のかたわきにて御覧じ候也。棧敷今日者三間打之也。温麺調之。とりすへなども不誘也。與四郎、又三郎ニ盃一々呑之。百疋ヅゝ折紙遣之。能者今日計也。」
今日も勧進能へ行った。お付きの女房衆は連れて行かず、内緒のように大方殿、西向兼盛妻などと4人で桟敷の隅で見た。桟敷は今日は3間だけあった。食べ物は温麺ぐらいだった。演者の与四郎、又三郎に盃で一杯ずつ酒を飲ませた。それぞれに百疋(1貫文)ずつ渡す手紙を渡した。勧進猿楽は今日でおしまいだった。
おそらく天気の具合で、連日通ったものと思われます。
『天文日記』には他に娯楽らしいものはなく、猿楽能を見ることが証如の唯一の娯楽だったのかもしれません。
Copyright:2017 by mitsuaki hayashi-All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama