林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.7
第7回 陸上運送の話
遠距離については舟運が格段に有利という話ですが、では近距離ではどうだったのでしょうか。
じつは車というものは一種の機械でして、普通の人がおいそれと作れるものではなかったようです。
貴族などの使っている牛車は、木製とはいえスポーク使用の車です。
車軸その他を考えてみると、これの製作にはかなり高度の技術と経験が必要だったと思います。
こういう車は専門の職人がいたと考える方が自然です。
何らかの機会に貴族のお古をもらって来て、上の構造物を取っ払って使ったこともなくはなかったでしょうが、めったになかったとことでしょう。
では村々ではどうしていたのか。
平地の村でも山方の村でも、まず必要なのは用材です。
これは入会権がある関係上、簡単にそこらへんの山に行って、適当にみつくろって切ってくるなんてことはできませんでした。
平地の村が山方に話を通さないで、勝手に木を切ろうものならえらいことで、見つかったらただではすみません。
骨の2、3本折られるのは当たり前、下手したら命を取られてしまいます。
それでも何とか大枚な銭を支払って木を切らせてもらったり、村にある古材を見つけて用材を確保したとしましょう。
加工するにあたっては当然道具が必要ですけれど、一番大切なノコギリというのは大工(工匠)の専門道具でして、当時、まず普通の村にはなかったはずです。
打ち刃物を手作りしている鍛冶屋さんに話を伺う機会があったのですが、ノコギリの刃を作るときは一つの刃ごとに形を整えながら、ヤスリでていねいに削って作るそうで、大変手間のかかるものだそうです。
トンカチというか、玄翁も釘も、鍛冶屋に頼んで作ってもらわなければなりません。
町の鍛冶屋か、渡りの鍛冶が村にきたときに作ってもらっても、ノコギリだけはかなり難しかったと思います。
となると、村にある加工道具は限られてきます。
ようやく板を加工して、車輪の組み立てを行いますが、車輪は板をつないで作りました。
横に並べると円形になるように、4、5枚の板を釘やカスガイでつなぎ合わせて車輪を作ります。
丸太をそのまま横に切るということも、無きにしも非ずでしょうが、これはよほどの大木でないと使い物になりませんし、何より用材がかなり無駄になってしまいます。
さて次は本体の組み立てです。
とりあえず頑丈な材木で車軸を作ったとして、車輪に通し、車輪を両側から挟むように内外に、これも木製のクサビを打ち込みます。
この上に板をわたして、軸受けも取り付け、牽き棒組み込んで荷車の出来上がりです。
カーブが曲がれませんので、4輪ではなく2輪の荷車です。
近世になっても、鉄は庶民にとって貴重品でしたから、車軸などにも鉄は使えません。
こういう荷車はちょっと無理すると車軸が折れたりして、かなり使い勝手が悪かったことでしょう。
結局、庶民にとっては古来からの担ぎ棒というか、天秤棒などを使っての運搬が一番手っ取り早くて、使っていても安心だったのではないかと思います。
少々重いものでも、縄をくくりつけてその縄を棒にわたせば、2、3人か3、4人で担げますからね。
平安後期から鎌倉時代あたりまでは京都に「駕輿丁」という連中がおり、この「担ぐ」という行為にはかなり歴史というか心理的な伝統があったみたいです。
それもあって「荷車」には、なかなか発想がいかなかったのではないでしょうか。
これが京都の町衆みたいに大旦那衆がたくさんいると、祗園祭の山鉾のように、金に糸目をつけないで、物凄く立派で頑丈な車を作ることができたのでしょう。
戦後まで日本は貧富の差がやたらに激しかったですから、これが近世や中世になるとなおさらです。
機械のような複雑な技術が必要なものというのは、それについての技術だけでなく、技術を生かす豊富な材料資源と、安価で優秀な加工道具があって初めて可能になるものが多いです。
はしなくも技術論になってしまいましたが、このいろいろな「技術」の話については、また別項を立てて、それぞれの話としようと思います。
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