林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.6
第6回 陸上運送の話 (前)
挿図は江戸後期のものですが、面白いので載せてみました。
『庭訓往来絵鈔』文政12年出版 より抜粋
今回は前回の道路事情からみる陸上運送、つまり「車」の話です。悪佐守様、お待たせしました。
ただ内容が内容ですので、これについては前編と後編の2編に分けてあります。
第5回で見てきたように、戦国末期までの悲惨な道路事情は、陸上の運送に多大な影響を与えました。
絵巻物を見ていましても、目につくのは馬の背に二つに振り分けて積む荷物です。
裸馬にくつわをつけただけで、せいぜいが馬の背にムシロなどを敷いて、荷物を振り分けています。
雨でも降ろうものなら、道がぬかるんでツルツル滑ったでしょうし、こういう道だったからこそ馬の蹄に蹄鉄をつけず、馬にも藁で作ったクッションと滑り止めを兼ねた馬ぐつを履かせていたのでしょう。
地方ではそれほど専門の陸上運送業者もなく、年貢を運ぶときには原則として百姓荘民が夫役として負担しなくてはならず、荘園の倉庫から近くの湊まで輸送しなければなりませんでした。
それが鎌倉時代後期から室町中期頃にかけて、年貢も現物を納める形から銭に代えて送る形式になっていきます。
これが貫高制で、土地の課税額を銭(貫文)高に換算して、これにしたがって土地の価値を表わしていました。
一つには中世前期の海上による年貢輸送が、ちょうど海が荒れる時期と重なって、やたらと海難事故が起こり、都まで年貢が届きにくかったからではないかと考えられています。
それでも重いものを運ぶにはやはり舟が一番楽で、河川や湖を使った「内水面運送」と言っているのですが、この方が牛や馬もそれほど数を揃える必要もなく負担も軽かったはずですから、河川交通が発達していったのです。
ところが地方によっては、都との間にはどうしても陸路をとらなければなりません。
そこで最低限の陸路をとるしかなく、そういうところはまた多く山道ですから、馬の背に乗せて峠を越えていきました。
北陸から琵琶湖に出る越前敦賀〜近江海津の七里街道や若狭小浜〜近江今津の九里半街道、近江草津〜伊勢阿濃津の鈴鹿峠越え、近江今掘〜伊勢桑名の千草街道など、いろいろな陸路がありました。
こういう場所には専門の運送業者として「馬借」がおり、彼らをチャーターしたりして物資を運んでいます。
また近江坂本や大津、山城鳥羽には「車借」がおり、おそらく牛などに牽かせた車で荷物の輸送を担っていました。
当時の馬はそれほど大きくはありませんし、荷物を引かせるにはむしろ牛の方が体重がある分、有効だった思います。
絵巻物を見ても材木とか臼とか、重量物を運ぶのにはもっぱら牛が使われています。
ただ、道が道ですから馬借に比べて圧倒的に数は少なく、平坦な場所でしか活動できなかったことでしょう。
その意味において、中世の陸上運送はもっぱら馬借が担っていたと考えていいと思います。
平地で近距離でない限り、まず車は使えなかったのです。
しかし問題は、陸上つまり馬で輸送するときの効率の悪さでした。
普通の馬の運送能力は、1頭につきせいぜい米2俵=8斗、約120キロで、これにくつわを取る者としての人足が必要です。
米100石を輸送する場合、平均して馬が125頭、それに同人数の人足が必要となります。
中世後期に千石船が出てきますと、単純計算でも馬1250頭分プラス人足1250人分に匹敵します。
こうなると重くて商品価値のないものは、陸上交通では採算が取れないどころか、足が出てしまいます。
だからこそ東海道を除く美濃以東の国は、米を都に運ばずに絹などの高級物資を都に送っていたわけで、これが奥州あたりになるともっと大変になってしまいます。
関東諸国や奥州が年貢として馬や金を送ったのには、こういう事情もあったそうです。
よほど軍事的な必要に迫られない限り、たとえば兵糧米の輸送ということでないと、陸上輸送は難しいものがあったわけです。
これに対して舟による物資の運送費ですが、けた違いに安く済みました。
鎌倉時代の資料ですが、越前敦賀の気比神社が京都に年貢米を送ったとき、敦賀〜近江琵琶湖北岸までの山越え駄賃が1石につき米2斗、また琵琶湖を舟で渡って大津に陸揚げし、大津〜京都までの車賃が1石につき米1斗でした。
これは輸送する商品価値の10〜20%という、高額な運賃です。
対して、琵琶湖北岸〜大津間の舟賃は、距離がかなりあるのにもかかわらず、1石につき米4升8合でした。
こちらは4.8%しかかかっていません。
中世当時の運送費用は、年貢の中から必要経費として差し引くことになっていましたから、運賃が高いとその分年貢が減ってしまいます。
必然的に都の人間は、東国よりも運賃の格段に安い、水運の盛んな西国を重視し始めます。
都びとにとって、米は西国、それ以外の高級物資は東国と、それぞれの都合を生かして考えていたようです。
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