石動山城(石動山城址)
<国指定史跡>
(写真提供:たぐち殿 転載厳禁)
読み仮名 | いするぎやまじょう |
別名 | なし |
所在地 | 鹿島郡中能登町石動山 |
形式 | 山城 |
築城者 | 石動山衆徒 |
築城年 | ? |
遺構 | 堀切、郭 |
歴代城主 | 天平寺?→直江景綱 |
交通 | JR七尾線二ノ宮駅から車で40分 |
伝承によると1576年の上杉謙信の能登侵攻の際に、七尾城の背後を押える為に築城したと言われ、守将として直江大和守景綱を配置したという。しかし、佐伯哲也氏の指摘(『石川県城館跡調査報告書U(能登T)』石川県教育委員会、2004年、P.53より)によると、「天平寺伽藍を守るための縄張りと理解される。また、郭数も多く、大きく、削平もしっかりしており、長期間使用されたことを推定させる。一時的に上杉謙信が使用したにせよ、基本的には石動山衆徒が天平寺伽藍を守るために築城・使用したと解釈したほうが良いであろう。」としている。 石道山自体は、別当寺(寺務を取りし切る役所)である大宮坊を中心として中世山岳信仰の霊場として栄え、多くの僧や山伏が訪れた山である。中世のもっとも栄えた時期には360余の坊があったと言う。しかし、その為に戦乱に巻き込まれる事も多く、前掲書(P.43)によると建武年間、吉見守護時の南北朝時代、能登天文の内乱、上杉謙信の能登侵攻、1582(天正10)年の前田の全山焼き討ちと5度の戦乱に見舞われており、その度に要塞化していったと言う。 |
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