平成十二年文月廿ニ日土曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(当初参加者:長孝恩寺連龍殿、長対馬守続連殿、長尾弾正少弼景虎殿、畠山修理大夫義綱、林光明殿、味舌左京太夫政宗殿)
(あいうえお順)
林光明(以下光明略):戦国前期の北陸と一向宗って感じでしょうか。>テーマ
長孝恩寺連龍(以下連龍略):一向に構いません。(なんちゃって)
長対馬守続連(以下続連略):北陸で一向宗が影響もったのは戦国前期からですよね〜??
畠山修理大夫義綱(以下義綱略):では、テーマ「北陸と一向宗」で決定!!
義綱:本願寺が吉崎に拠点を置いたのが始まりでしたっけ?いつ頃かな?<一向宗
義綱:それに何故北陸に本拠地?<一向宗
続連:一向宗といっても実際は真宗だけでなかったようですね。
味舌左京太夫政宗(以下政宗略):たしか吉崎に本拠をもったのは1471年だったと思います。
長尾弾正少弼景虎(以下景虎略):親鸞上人が越後に流されたのも一つのきっかけかと<北陸で強い
続連:蓮如が吉崎に来たのは1471年です。
連龍:吉崎御坊ですね。
景虎:私の檀家になっている寺には上人の頂骨があるといわれていますが
義綱:となると、冨樫政親を打倒するのが1488年だから、その間約17年、それだけの期間で巨大化するなんてすごいですよ>政宗殿
景虎:ちと同僚がPCでトラぶってるので見てきます<しばらく席外します>各々方
義綱:そもそも、一向宗がそれだけ門徒を得た背景はなんでしょ?>オール
政宗:それもこれも蓮如の布教政策がおおいにものをいったのでしょうか。御文という手紙とそして寄合をせよという形で信者どうしの連携をはかったことでしょうか。>義綱殿
連龍:20年弱を長いと見るか。短いと見るか。何ともいえませんけどね。
義綱:なるほど、それで団結力を得たんですね。そうなると、厳しい取り立てをする領主にたてつきたくなるんですね>政宗殿
続連:前に述べた通り一向宗は浄土教一般と混ざってたらしいので他の浄土宗とかも考えた方がよろしいかも>北陸で強いわけ
義綱:10数年で、冨樫幸千代を攻め落とせるだけの一揆軍を組織で知るなんてかなりの組織力だと思うのですが>連龍殿
義綱:とすると、一向一揆とは、一向宗だけではないのですか?>続連殿
政宗:御文の内容では寄合に封建的身分制を持ち込むことを拒否しているようですが実際布教戦術ということになれば村落を支配している地侍層や名主層を取りこむことでその下の身分のものも取りこめるという現実的な手段に出たのではないかと思います>義綱殿
続連:蓮如以前、一遍の時宗が北陸の商工業者に普及してたのが素地なきも。
義綱:逆に身分制を利用した布教と。なるほど<現実的な手段
連龍:ヒステリックな教団組織と一部の反体制派の国侍たちが団結すれば守護大名の転覆などそれほどむづかしくないと思います。
続連:当時、本願寺派自体、マイナーだったので一向宗は時宗とかと混ぜてみられてたらしい。蓮如は一向宗という呼称嫌ってたような>畠山殿
義綱:冨樫の政権も脆弱ですしね>連龍殿
続連:う〜ん、身分制を利用したというより当時の仏教は王法仏法相依という考えが一般だと思います。
政宗:富樫氏自身は在京の守護でしたっけ。政権が脆弱ということはもともと土着していたとしても在京することで国元での実力は落ちると思いますが。>義綱殿
義綱:でも、蓮如は一揆軍が政権にたてつくことを嫌ったんですよね。その指導に背いて、政親を倒した。
続連:蓮如の論理は体制的だったはず。一揆を抑制しようとしてますし。顕如も基本的は同じです。
義綱:政親は威信向上の為、積極的に将軍家に仕え、よく上京してたと思います。一向一揆の動きが激しくなった時も、将軍義尚の六角征伐に従軍して近江にいましたし、(その後慌てて帰国しましたが)>政宗殿
光明:一揆向けに「お叱りの御文」が残ってますね。
政宗:まさに続連殿のおっしゃるとおり。蓮如がいった「王法為本」でしょう。<政権に一揆が立てつくのを嫌った
連龍:今の日本人は宗教に対して淡白だが当時の日本人は自分の命を捨てても構わないくらい熱狂的であったと思います。現在も例外的にありますが???
続連:政親打倒の主体はやはり国人、地侍でしょう。農民主体が過度に強調されてる気も。
義綱:江戸時代の島原の乱もそうですしね<熱狂的
政宗:富樫氏の命取りは自身の家督争いに門徒を利用し、その勝者であった政親が門徒たる在地領主たちと敵対したからですよね
続連:百姓の持ちたる国というのも百姓=いろんな人という的な意味で考えた方が
義綱:その後、本願寺勢力が領主化していく推移はどうでしょう?なぜ領主化?
政宗:富樫氏は政親・幸千代以前にも内紛がさかんだったんでしょうか
連龍:倒すのは勢いさえあれば比較的に簡単だが問題はその後の政権の維持です。そこのところは注目すべきだと思います。
政宗:江戸時代でいう百姓と一緒には出来ないですよ<百姓
義綱:百姓の持ちたる国といっても、武士が本願寺勢力として加賀で戦っていなかったということではないのですよね?
続連:富樫を倒したのは在地領主主体なら当時の守護大名の没落とあまり替わりませんね〜
義綱:冨樫氏の内紛は加賀守護就任当初からありました。それに、中央の権力争いが加入して、さらにややこしいことになっていました>政宗殿
義綱:戦国時代は、百姓=農民ではない。というのは最近の網野善彦氏の本でも有名になりましたね。
続連:武士は真宗という宗教的動機より自分の利益保護目的でしょう
義綱:本願寺勢力が政権を維持していた理由は、民の支持を得ていた為?>連龍殿
光明:土豪と地元の大坊主が百姓衆を指揮して戦ってます。>初期の一向一揆
政宗:たぶん守護を倒しに言ったのは宗教的情熱もそうですが、これまで守護に収められていた段銭などの年貢を志という寄付へかえて自らのところへ持ってくるのがもくてきだったのでは?
続連:加賀の百姓も僧・武士・農民・商工業者とかなり広範囲な意味だと思います。
義綱:もちろん、冨樫打倒にはフリーライド(勝者に乗る)の存在もありますよね。一向宗を信じてというより、自分の生活を楽にする為に参加した、というような・・
義綱:結局冨樫打倒は、暴動から発展した行為ということになりますでしょうか?
続連:真宗という宗教的観念がかれらに連帯感を与えたというのは政権維持に役に立ったかと。
政宗:連帯感という意味ではまさに蓮如が編み出した布教戦術寄り合いとそして講。これが連帯を作る源であったのでは>続連殿
続連:半分くらいは生活の問題では?別に一向宗でも法華宗でも彼らは良かったのでは>
光明:一向一揆と本願寺政権は別物と考えた方がいいです>続連殿
義綱:初期本願寺政権と後期本願寺政権の違いはなんでしょう?
光明:初期の頃は本願寺も政権と呼べるほどのものは持ってないです>義綱殿
続連:蓮如はその点では天才的ですね。どっかで宗教家というより経営者という評を見ました。
義綱:本願寺政権が、越前朝倉に攻撃したのは一揆軍ですか?それとも本願寺派の武士団?>光明殿
義綱:冨樫氏が実際守護として、実権をもっていましたし、初期の本願寺は冨樫氏との協調と言う事になるのでしょうか?>光明殿
光明:初期の頃は、門徒衆に引きずられる形で、一揆軍として派兵してます。>義綱殿
続連:本願寺を政権という呼称もどうでしょうね。どうも中央の本願寺を頂点にヒエラルヒー形成というのはなさそうですし。
義綱:ん!?冨樫が実権を持っていたというよりは、多少力があったということでしょうか?泰高(政親打倒後)政権は国人たちを束ねる力はもっていたんですよね。>光明殿
義綱:んー。亨禄の錯乱(1531年)以後は、本願寺を中心とした政治体制が出来たのではないのでしょうか?その点では、本願寺政権と言えると思いますが?>続連殿
光明:政親打倒後は、在地の大坊主の合議制だったみたいですよ>義綱殿
続連:そういえば能登にも一向一揆が乱入してきたような>畠山殿
政宗:亨禄の錯乱っていうのは大一揆と小一揆にわかれた元となった事件ですか。>義綱殿
義綱:当初はボトムアップ方の本願寺派が、後期はトップダウン的な体制ということなのかな・・・
続連:本願寺を中心と
光明:享禄の錯乱イコール大小一揆です。>味舌殿
政宗:後期については中央の本願寺から坊官として七里頼周が派遣されてきたと聞きます。まさにトップダウンになっていたでしょうかね。
義綱:そうです。でもいまいち、対立の構図がわかり難いですよね。この錯乱で実質本願寺派の権力が大きくなったとの記述をみたようなきがするんですが>政宗殿
続連:でも中央の本願寺と在地勢力とは必ずしも団結でもなさそう(越前一向宗の内部分裂とか)
光明:完全なトップダウンになっていたのは、越前一向一揆ぐらいで、加賀は後期においてもまだまだ土豪の力が強かったようです。>味舌殿
政宗:たとえは悪いですが守護権力の弱い地方で頻発した一揆契約の国人同士の争いに似てるような気がします。
義綱:能登では、向宗門徒が畠山義統に対して一揆を起こそうと画策しました。これには、加賀一向宗の介入があったと。でもこれは井口という畠山家家臣(一向宗門徒)の告げ口により、事前に防いだとの話しがありましたね。>続連殿
政宗:まちがえました。そうだ越前だった。坊官が司令官として派遣されたのは>林殿
続連:坊官派遣と本願寺の一揆抑制方針と矛盾してる気もします
義綱:では、結局加賀の政権は本願寺を中心とした合議政体だったのでしょうか?
連龍:共和制というか合議体制だったのでしょうね。
光明:でも、七里頼周は加賀で合ってます。対上杉戦に備えて。>味舌殿
義綱:では、本願寺政体の存在意義とはなんでしょうか?一向宗を他に広げる為?でしょうか?越前や能登にも一向一揆が発生していますし・・・。
政宗:国人、土豪と本願寺の坊主との連合政権だったように思います。それは山城国一揆とは違い連携の紐帯に一向宗が挟まっているだけで、国人一揆そのもののような気がするのですが>義綱殿
続連:どうも能登の例からみても一向一揆は土豪層の守護権力打倒という側面も大きそうですね。長氏が一向宗に穴水城を落とされたのはどう捕らえればいいか解りませんが。
光明:一揆を抑制していたのは初期の間だけです。中期から方針が180度転換しました。>続連殿
義綱:一揆という意味合いは変わらないのですね。でも宗教的イデオロギーがあったと。>政宗殿
義綱:守護が積極的に一向一揆と対立する点は、やはり秩序維持?冨樫政親の二の舞を恐れたのでしょうか?
続連:皆様の言う通り北陸の一向一揆は土豪と守護領主との抗争という面でとらえた方が実態把握にはよろしいかも。一向宗の共和制というイデオロギー面がやはり強調されすぎてるかも。
義綱:守護と対立する為の政体ということですね<本願寺政体の意義>続連殿
政宗:あくまでも団結のための宗教ではないかと推察します。イデオロギーとまではいかないとおもいますが>義綱殿
義綱:能登畠山氏が、(手前ネタになりますが)一向一揆融和政策をとったのは、あまりに一向一揆が大きくなりすぎた為ですよね。その他、本願寺は、細川政元など中央政権などと結ぶ動きが出てきますが、この行動の理解はどうでしょうか?
続連:上杉氏とかも一向宗と戦ってますしね。守護的領主からみれば国人的領主の統制は最重要課題ですし。
光明:ここら辺の筋書きは蓮如の息子の連淳が書いていたようです。>中央政権との結びつき
義綱:やはり、一向一揆と、本願寺は別物という事を前提に、本願寺は一向一揆の勢いを借りて中央政争にも加わったと考えられるのでしょうか?
義綱:本願寺は、将軍よりも細川の意見を大事にしていましたよね。細川のいいなりになっていたこところもありますし。(1500年の一向一揆蜂起)
政宗:中央では細川晴元と結んで三好元長を討つ際に一揆衆を派兵してましたが。これも鉦如の意思を超え天文一揆という大一揆になりました。
政宗:細川と結ぶことで布教の安堵を得ていたのかもしれません>義綱殿
義綱:越中砺波軍の一向一揆占領も、単なる守護との対立として理解できるでしょうか?
続連:本願寺が細川政権と結んだのも先の王法仏法相依から理解出来るのでは??本願寺としての目的は背後の土豪達の支持というのを利用して有力寺院と位置付けられる事を目標とした為と思われます。だから豊臣政権にも取り込まれましたし。
光明:本願寺のあった場所が場所ですから、中央を向かざるを得なかったでしょう。
連龍:国人、坊主、富農の一部あたりが仕切っていたのであってあとの民衆はただ盲目的に引きずられていったのだと思います。その手立てとして「南無阿弥陀仏」は素晴らしくインパクトのあるスローガンだったと思います。
義綱:ここが難しいところなんでよね。積極的な領国経営の意思を持っていなかった、本願寺政体がなぜ中央政権に結びついたか?
政宗:さらに天文一揆は細川晴元が鎮圧の為に当時京都で隆盛だった法華宗の門徒を使って山科本願寺を攻撃させました。様相はまるで宗教戦争の如きものとなったとされています。
義綱:末端の民は確かに明確な意思は持っていなかったかも・・・。
続連:確かに一向一揆は守護との対立的だけでも捕らえられない面はあります。まあかなり、実態は複雑だとは思います。
義綱:あと、「本願寺政権論」は信長の野望の影響でしょう(苦笑)
義綱:でも、本願寺の収入源ってなんなんですか?やはり年貢は取っていたんですか?そうなると、冨樫氏の収入源っていったい・・・。
光明:本願寺を1つの固定した政治権力と考えないほうがいいですよ。>義綱殿
政宗:年貢というよりは結局は門徒がだした寄付などの浄財なのでしょうが、守護が消滅した加賀においては年貢=浄財となったように思います。>義綱殿
義綱:というと、実態的には、加賀は無政府状態だっということになるのでしょうか?>光明殿
続連:そんなに難しくないのでは??本願寺の目的を興福寺、延暦寺などの有力寺院の列席に加わるという事と考えれば>畠山殿
義綱:年貢の量に対して、浄財はどれくらいの量だったのでしょうか?結局民にとっては生活は楽になってないのですよね・・・。
光明:本願寺への全国からの志納は、年間数百貫ちかくあります。
続連:確かに信長の野望の影響はあるかも(笑)
光明:それと、本願寺に特有のものとして、荘園領主からの御礼金も年間1千貫ちかくあります。
義綱:そっか、全国規模から集められるんですよね。だから、金銭的には余裕があったのかも<全国からの志納
光明:越前一揆が内部分裂したのも、過度の志納銭徴収だったらしいです。>畠山殿
義綱:なるほど<越前一揆分裂
続連:中央の本願寺には領主権力の民の収奪からの解放なんて意図はなかったでしょうね。
光明:ただ、加賀の場合は、志納銭を口実に土民が年貢をかなり減免させてます。
義綱:となると、本願寺と一揆の目的の矛盾が招じますね。<民の収奪からの解放の意思無し
景虎:が参上いたした。
続連:本願寺も宗教を隠れ箕にした封建的収奪者というのが実態なのですかね〜。
景虎:すいません。いろいろ手ほどきしてて今まで懸かりました
光明:だいたい本願寺と一向一揆は、それほど協調はしていないみたいですよ。
義綱:お帰りなさい!>景虎殿
政宗:中世の宗教自体延暦寺、興福寺をみるように封建領主だった場合が多いですから。>続連殿
景虎:ん?今は一向一揆の理想と矛盾というところですか?
続連:そこに一向一揆の消滅の理由の一つがあったのでは??必ずしも信長達だけのせいでもないと思います。
義綱:う〜ん。なんか頭のなかがぐちゃぐちゃ(笑)結局、「民の国論」はどうなるんでしょうか?
義綱:本願寺の滅亡は一揆との矛盾・・・納得!
続連:確かに中世の寺社は宗教に包まれた封建領主ですね〜。僧兵の組織も武士の組織も実質は同じですし。
光明:本願寺と一向一揆を同一のものとすると、わけがわからなくなりますよ(笑)>義綱殿
連龍:平安時代から浄土教は隆盛し、時の権力者である貴族たちもほとんど病的に信仰していました。鎌倉時代には浄土真宗も親鸞によって開かれましたが彼も貴族の出です。もともと本願寺は天皇制とか京都に対してはあくまでも体制側の体質があると思います。
政宗:結局は本願寺も宗教に包まれた封建領主と同じになったのでしょう。だからこそ、急進化する地侍、農民が志向するものと食い違いが出てきたのでしょう
義綱:本願寺と一向一揆は主従関係になるのでしょうか?<封建領主
続連:本願寺の滅亡というより一向一揆の滅亡では??本願寺としては体制に封建領主の位置を与えられればそれで良かったはずでは。江戸期とか100万石の大名クラス的位置付けらしいし。
義綱:だんだん、本願寺政体があきらかになってきましたね。
続連:本願寺=反封建領主的指導者と考えなければ民の国論との矛盾はないかと>畠山殿
義綱:ある意味、信長の野望で大名として登場するのは正しいのかもしれませんね(爆)
光明:「百姓の持ちたる国」は「民の国」とイコールではないですよ。>義綱殿
政宗:庶民とは関係無い高位の武家から見た地侍などの総称と考えてもよいのではないですか。<百姓
続連:そうですね本願寺を封建領主として考えれば大名みたいなもんでしょう。一向一揆を変に現代的解釈を与えて戦後に民主革命団体みたいな幻想が作られて来たとは思います。
義綱:山城の自治や、堺の商人の自治とは、本質的に加賀の「百姓の持ちたる国」は違ったと言う事ですね。
続連:やはり百姓=農民という先入観はいけませんね。
連龍:戦国時代の一般の農民は現在に大衆と比較すると恐ろしく無知蒙昧な人々であったと思います。もちろん読み書きそろばんなど全くできず経済的にも身体的にも常時不安感にさいなまれっぱなしの人生だというのが実態だと思います。その時の「南無阿弥陀仏」は一条の光だったと思いますよ。これでは農民ははまって当然ですよ。また、この当時の(今の?)日本の農民の何も考えずに群れるという特性もあると思いますよ。
義綱:となると、日本の歴史教育って間違いだらけを教えているのかも・・・。<先入観
続連:いや土豪層のという前提を付ければ自治という点は自治とは思います。>加賀
連龍:そこで軍事的に、政治的に利用されたのです。
続連:やはり歴史教育の面もあるでしょうね。一向一揆への幻想もたぶんに民主革命みたいなのを重ねたせいもあると思います。
義綱:被支配者が自治を担当するという前提ならという意味です。<山城との違い>続連殿
連龍:私もトップがその当時の守護にとって変わって大名にならなかったという点では加賀は自治政府だと思います。
政宗:外国の史観唯物史観で日本の歴史を見てしまうと全ての一揆が開放になってしまう(笑)。学生時代通っていた学校がマルクス主義の総本山だったからあの史観の決め付けには辟易した記憶があります
続連:いや当時の民衆はかなり識字率は高かったらしいです。民=無知な披支配者というのも先入観だと思います。
光明:山城との違いは上に本願寺がいたか、何もなかったかの違いですが、これ自体、大きな違いだと思いますよ。
政宗:義綱殿がいう被支配者とは農民ではなく土豪層つまり守護から支配されているものということですね
義綱:はい。そういうことです>政宗殿
続連:まあマルクス史観的な階級闘争でも無知な披支配者が権力者と戦い解放に向かうという先入観がありますし。
義綱:本願寺=大名と考えると、中央との結びつきなど色々理由付けが出来ますね。
義綱:本願寺理解に大きな前進です。では、まとめましょうか?
政宗:山城の場合は36家ぐらいが集まって合議したはずですが結局は利害対立が頻発して崩壊してしまった。また村落内でも農民が土豪になることが多く、古い土豪と新しい土豪による確執も崩壊の原因だった。畿内はそれぐらい身分階層分化がすすんでいたため同じ一揆内でも不協和音がおこったんです。ただ本願寺は精神的であれ自らの上に何らかの権威というべきものが確執などをおさえていたのでは?
続連:それは土豪の位置付けの問題でしょうねえ。守護からみれば披支配者、民からみれば支配者・・・。これは個人の歴史観の問題かな。
続連:一向宗が中央の本願寺とは関係なく土豪層の秩序維持というか統合の役割は果たしたと思います。
義綱:今回のテーマは「本願寺政体について」の方がいいかな(迷)
景虎:すいません。途中で抜けてしまったせいか全く発言しませんでした
義綱:いえいえ、しかたがありません。今度は景虎殿の活躍できるお題の提案をよろしくお願い致します!>景虎殿
続連:では、まず本願寺と一向一揆を別と考える必要性。本願寺自体は宗教的封建領主。
義綱:本願寺政体の「百姓の持ちたる国」との認識の再検討。
続連:百姓の持つ国に変に現代的解釈を与えない。
景虎:わかりました>義綱殿
政宗:掲示板と違いスピーディなのでなかなかついて行けず、ましてや本願寺のことは余り知らなかったゆえ非常に勉強になりました。また解らないなりに参上致します。
景虎:私も本願寺と一向一揆の関係が画一された中にいたので今回は新鮮でした
義綱:チャットはわからなくても、参加して議論することで新たな疑問が解決していきます。また、是非御越し下さい!>政宗殿
続連:本願寺と一向一揆の認識、私自身もかなり変わった気がします。皆様ありがとうございました。
義綱:本願寺政体がなんたるかが見えてきた気がします。今後は、それとどう政親死後の冨樫氏と結びつけるかが、私自身の課題です。
光明:時間の過ぎるのがあっという間でした。楽しかったです。
連龍:人間は頭で考えても行動そのものは恐怖、快楽、名誉欲など存外感情で行うものだと重います。特に知的レベルの低い戦国時代の農民はなおさらです。私は人間の習性なども考慮に入れながら歴史を捉えていかなければ本質を見誤る危険性があると思います。今日はありがとうございました。ではさらばでござる。
続連:かなり今回のチャットは面白いかったと思います。やはり討論は大事ですね〜。>畠山殿
義綱:では、皆様2時間半にも討論をどうも有難うございました。これらのログは「過去ログ」としてアップさせていただきます。
政宗:自身が持っていた先入観が取り払われました。
続連:宗教と戦国期社会の関連はこれからも考えていきたいと思います。では失礼致します。
義綱:ここで、皆様に質問。次回のお題はどのようなものがよろしいでしょうか?
続連:が帰参いたしました。
景虎:では>長対馬殿
義綱:まあ、後に掲示板にカキコとしますか、(続連殿も帰参されてしまったので)
義綱:越前、越後、飛騨の政権論にも討論したいです。
光明:本願寺と一向一揆がこんなに誤解されていたのはショックでしたが、有意義な結論だったと思います。それでは失礼します。>オール
政宗:越前朝倉は面白そうですね。今朝倉敏景17箇条のまとめをしてますので
政宗:大変有意義でありました。皆様どうもありがとうございました失礼致します。
政宗:が帰参いたしました。
景虎:ではでは>政宗殿
光明:が帰参いたしました。
景虎:では>林殿
連龍:が帰参いたしました。
−これにて終了−