第六章「美作の謀事」

1、前兆

 永禄八年(1565年)五月十九日、京都御所で十三代将軍・足利義輝が松永久秀と三好義継ら三好三人衆に襲撃され、殺されるという事件が起こった。事件は、三好政権の思い通りにならず、室町幕府の復活にかける義輝が邪魔になったことで起こった。三好三人衆と松永久秀は義輝の代わりに、堺公方であった足利義維の息子・義栄を擁立した。この事件の知らせは数日にして能登にも届き、義綱にもこの悲報が伝えられた。個人的に親しくもあった義輝が殺された義綱の悲しみは相当なもので、数日間、周囲に誰も寄せ付けないほどその落胆振りは激しかった。たくさんの家臣から「将軍様を偲んで」という理由で義綱の歓待を申し入れたが、それも義綱は全て断って自邸に籠もっていた。

それをなぐさめたのが義綱の正室・華であった。
「義綱様。源氏の足利一門たる我々畠山家が落ち込まれてどうするのです。お気持ちもわかりますが、当主たるや一国の要。沈滞していては幕府の再興どころか、能登の再建は出来ませぬ。足利一門の隆盛は義綱様如何に関わるならば、幕府の管領を目指すが如く、元気に活動なされなさい。」
「・・・・今川の義元が織田に討たれ氏真になって衰退し、畠山宗家も当主である畠山高政は三好義賢に敗れ堺に逃げる有様。そして、ついに武家の棟梁である将軍様まで混乱の世で殺されてしまった・・・。足利一門はこのままでは滅びてしまう。なんとしても、再び足利一門を盛り上げなければならぬ。このわしが次の将軍様となるべき方をお支えしなければ!管領は身に余るものだが、いつぞや上洛して次の将軍様を支なければ・・・。」
義綱は華の励ましによって立ち直った。しかし、このふさぎこみが、家中に微妙な影を落とした。
「幼少の頃より気の弱かった義綱様は、やはり今でも変わらぬ。このままでは、激動の戦乱の世は乗り切れないのではないか?」
弘治の内乱より義綱の指揮の下、一枚岩を誇ってきた畠山家ではあったが、最近の積極的な義綱主導に改革に疑問を持つものが現れ始めた。さらにそれがこの噂と結びついて、反義綱派形成の土壌を生んでしまったのである。その中心として、かねてより義綱の改革に疑問を持っていた遊佐続光が位置し、義綱のその後の改革を阻む事になるのであった。そして、自然と飯川光誠や奉行人を中心とした義綱派と反義綱派に別れ、家中が二分化されていったのである。
「改革が成功すれば、わしと対立している人物達との蟠りも自然に解けよう。皆は弘治元年の戦を共にした仲間だ、簡単に切り捨ては出来ない。」と粛清を主張する光誠の意見を、義綱は退けたのである。
(確かに改革が成功すれば、反義綱派との対立関係も解消されるかもしれない。しかし、予想以上に反義綱派が大きくなれば、大変なことが起こるやもしれない。とにかく軍事力もある長続連が反義綱派になっては形成が逆転してしまう。なんとか続連を御屋形様の元に置かねば・・・)と光誠は考えていた。
能登の上空は徐々に灰色の雲がかかってきた。これは能登の行く末を案じた前兆であろうか。

 五月二十六日には、冨樫晴貞の使者である山川三河守が七尾城を訪れた。
「三河守殿。よう参られた。雨も降る由、一杯茶など如何かな。」
義綱は直接山川を会所で出迎えた。
「有り難い。がしかし、まずは聞きたいことがありまする。公方様不慮は誠の事でしょうか。」
加賀冨樫氏は将軍・足利義輝の暗殺について正確な情報をまだ知らぬようだった。きっとその為に能登にその真偽を確かめに来たのだろう。
「ああ。十九日の事であったそうな。三好らに襲われて、近習の者達も必死に立ち向かった・・・。公方様の最期はそれはそれは武門の誇りであったそうな・・・。」
「誠でありましたか・・・。主・冨樫加賀介はこの事を聞いて落胆されました。」
「して、何故わざわざ能登七尾まで参ったのだ?その知らせなら一揆よりも手に入れようぞ?」
「・・・・・・・。」
(加賀冨樫氏は表向きは一揆方と共にしている。が、本心は別にある。温井に勝利したとは言え一揆に加勢されるのは面倒だ。ここは加賀冨樫との縁を結ぶのが良いのではないか。)
「なるほど・・・畠山と冨樫は立場が同じようじゃ。」
「はっ。」
(山川三河守殿は頭の切れる方のようだ。一瞬で私の考えを理解した。この方をさらに味方につけられないか・・・
「今一度ゆっくりできる時ならば、この会所の襖絵、档の水墨画についてわしに説明させてはもらえぬか?」
「本日は七尾の宿に泊まる予定にて、まだ時間がありまする。ぜひご教授賜りたい。」
「では、本日は我が城に泊まりなされ。もうひとつ・・・おい百疋をこちらへ。・・・・・・これを加賀介殿に届けてくれぬか?」
「!!?百疋とは恐れ多い事!」
義綱は自ら山川三河守をもてなすことで、冨樫家の現状を知るろうとした。山川の芸術を見る目、持たせた金銭に対する扱いを見れば自ずと当主・冨樫晴貞の器量も分かるというもの。三河守の応対や芸術を見る目は確かだった。そして翌日朝、山川三河守の帰り際。城の三ノ丸門まで義綱は見送りに行く。
「畠山匠作殿には、本当にお世話になり申した。これはささやかながら御礼にございます。」
「ほぉ。これは『冨樫の馬絵』ですな。なんと鮮やかな白馬と紫の鞍。これは能州長谷川の紺屋の色ではないか?」
「ご名答にて。能州太守に献上するなら、これ以外にないと屋敷にあった一番の物を持ってこさせた次第。」
山川三河守は伝令を使わせて自邸から能登に関する馬絵を一晩で持ってこさせたらしい。この者の手筈なかなか。「冨樫家は信頼できる」と義綱の考えは確信に変わった。

 六月中旬になって、義綱は側近会議のメンバーを一同に集めた。能登もだいぶ落ち着いており、そろそろ改革を新しい段階に発展させるためである。義綱は、検地の実行による詳細な在地掌握。織田信長らが注目している鉄砲の大量購入。今までの畠山家の相論裁定をまとめた分国法の制定。加賀・越中・越後・越前などの近隣諸国との連携による支援によって室町幕府の再興を提案した。その中で、検地の実行は名門の今川家の氏真も実行しているうえ、収入の増加がある程度見込めるため、反対する者はいなかった。また、分国法制定も相論裁定の明確化に繋がり、家臣同士の相論が減るとの意見から準備を始めることに決まり、義総政権と義綱政権での相論の裁定の実例を収集することに決まった。しかし、近隣諸国との連携は、北陸はすでに状況が安定しているのと、幕府については今後の状況を見て判断すると反対者が多かった。さらに鉄砲の大量購入には反対が多かった。まず、鉄砲は雨が降ると使えない。又、威嚇程度にしか応用できない。その割りに単価が高いと言う事が難点となった。改革を遂行する能登畠山家は慢性的な財政難で、軍事面にまで歳出が回らないという事情があったのである。結局、少量の鉄砲を買い足すに留まった。
(鉄砲は少量では威力を発揮しない。大量に用いてこそ意味がある…。ここは少々の財政難には目をつぶってでも、大量購入すべきだったのに…。)
と義綱は落胆した。

 改革を進めていた義綱は永禄八年(1565年)、冬が近づくにつれて病に伏した。中気である。中気とは「中風気」の略で中風のことで義綱は腕や脚の麻痺に悩まされた。義綱は幼少の頃より病弱であったが、最近になり剣術の稽古の成果などもあり健康状態良好な日々が続いていた。この中風は気が衰えた時や憂思噴怒によって気が破れた時に発症すると言われている。公方・足利義輝の死後気が落ち込んでいたが、それを隠して領国再建の為の改革で激務を続けていた。体力的にまいっていた義綱はさらに気が衰えてしまったのである。どんな事情があろうとも領国再建に真摯に取り組む真面目な義綱だからこそ、気の病み方は大きかった。
 病は長く続き、正月も定例の家臣一同を集めた新年会を欠席し、一人病床に伏していた。京都にも義綱の病の噂が伝わり、山城祇園社宝寿院から祈祷御守・牛玉と御壇供を送られるなど、公家や寺社から病気平癒の祈願書が盛んに届いた。また、前将軍・足利義輝の軍医にして政治道義の第一人者で、義綱が義輝と懇意の時期に何度が親交をもった曲直瀬一渓道三からも病状を心配する書簡が届いた。道三の書簡には中風に効く薬の処方が書かれており、生来の学問好きの義綱は、これをきっかけに義綱と道三は何度も書簡のやり取りを交わした。そして、義綱の医道に関する知識が飛躍的に高まった。病が長く続くことに光誠等義綱の近臣は心配していたが、当の義綱は、「これで政から少し離れて、和歌、連歌や医道などの勉学に励む事ができる。」と笑っていた。

 義綱が伏している間、年寄衆がその代行として留守の政治を行うと、今までの裁定と微妙に違う事が少なからずあった。もちろん重要なことは病床にあっても重臣達は義綱に披露し裁可をもらった。軽微なものについては義綱から年寄衆に委任された。義綱はどんな軽微な争いや申し出も過去の判例をよく参考にする。さらに周囲との関係が頭にあり配慮した裁可を行うので、結果に納得する者がほとんどであった。しかし、年寄衆は軽微な申し出は直近の判例しか参考にせず、これまでのいきさつや周囲との関係を把握する手間を惜しんだ。例えば八代は周囲より「新参者」「外者」(能登ではなく越中氷見の者という意味)と陰で言われ、従来よりの家臣から軽んじられていた。それゆえ八代が年寄衆として裁可すると必ずと言って良いほど「贔屓だ」「差別だ」という苦情が出た。それにより少しずつ能登畠山家の微妙なバランスが崩れていった。


 一方中央政界の様子。幕府の将軍後継者レースの行方は、永禄八年の七月二十八日に前将軍義輝の弟の覚慶の動きが活発となっていた。覚慶は三好側に幽閉された興福寺(奈良市)から細川藤孝、一色藤長らの助けによって近江の和田惟政の館に入り、八月には覚慶が直筆の文書で越後・上杉輝虎に足利再興を依頼したり、翌、永禄九年二月十七日に近江矢島で還俗し、義秋と改名し、朝廷に太刀などを献上し、三好方の擁立した足利義栄と対立した。
 義秋から北陸の諸大名に支援を依頼する文書が届けられた。無論その文書は能登畠山家にも届いた。義綱は義輝との関係から還俗した義秋を支援を決定し、病床の自分に代わり父・徳祐に対義秋交渉を頼み、義秋に対する能登畠山家の全面的な支援を約束した。義秋は義輝と親しかった上杉輝虎と畠山義綱の北陸勢を軸として入京する計画を考えていた。そのために、同年四月二十一日に武家伝奉を経ないで、吉田社の神主・吉田兼右の斡旋で将軍就任の前提となる従五位下・左馬頭に異例で叙任され、入京の準備を整えていた。この時点では、将軍後継者レースは義栄より一歩リードしていたが、肝心の支援者である上杉輝虎が国内事情もあって支援の兵を出せないでいた。そこで義秋は北陸の中で一目置かれている能登畠山家に盛んに支援の兵を依頼する文書を送った。徳祐は引き続き全面支援を表明していたが、義綱の病状が悪いこともあり畠山家もなかなか兵を出せずにおり、入京構想はなかなか実現しなかった。

2、暗雲立ちこめる空

 遊佐続光ら反義綱派は義綱が病床で伏している間に多数派工作を開始した。まず手始めに、家中で気まずい思いをしていた八代俊盛に仕掛けた。
「俊盛殿もかわいそうだ。畠山家を救った功績者が、家中で疎まれているのだからのう。」
「ん!?続光殿!わしの苦労をわかってくれるのか?有り難いのう・・・・。」
こうして、饒舌な続光は八代俊盛を味方につけたのである。義綱派は飯川光誠を中心に佐脇綱盛、熊木続兼などが反義綱派の拡大を防いでいたが、その後も続光の積極的な行動で、反義綱派は予想以上に広がっていったのである。
 反義綱派の拡大は、義綱の改革の遂行に障害を生んだ。義綱の改革は大名強権による集権化であったが、能登畠山氏の場合、大名直轄軍の不在で権力基盤は脆弱であった。義綱はそれを憂慮し大名直轄軍を編成に着手しようとしたが、対外的な問題が降りかかり、いつも断念せざるを得ない状況となっていた。それゆえ義綱専制といえども、家臣のバックアップがあって成り立っていた。義綱の改革はこうした内部矛盾を抱えながら進まざるを得なかったのである。
 光誠は再度、続光の討伐を義綱に提案したが、義綱はまたもこれを退けた。義綱政権は以前温井紹春の粛清とその後の内乱に伴い多くの家臣を失った。それゆえ、能登では人材が足りず、政治の運営は質・量ともぎりぎりの状態だった。これ以上の人材の欠損は避け、平和的な解決したいと義綱と思っていたのである。義綱が真の理由を側近達に話さなかったのは、それを言えば必ず側近達は自分たちが一層頑張るから排除してくれというに違いない。そうなると、側近達にはただでさえ改革の為に激務を強いているのに、これ以上の負担はかけることになるとの思いが強かったからだ。また、戦争によって平穏を取り戻していた城下町・七尾の活気が再び失われることも考慮していた。

 永禄九(1566)年七月初旬、足利義秋が再度入京を試みるので、能登畠山家にも出兵での支援をせよとの文書が義秋から義綱の元に寄せられた。しかし、義綱は予想以上の反義綱派の広がりに自分が長期に能登を空ける事によって遊佐続光が行動を起こすのではないか?という心配があり、兵を出すのをためらった。義秋はいつもなら真っ先に全面支援をしてくれる能登畠山家の使者が来ないとあって、義綱宛に再度書状を出した。その書状は七月十五日に届き「再度入京を試みるので、出兵せよ。」との出兵催促の内容であった。義綱はこれに応える事が出来ないと判断し、後に義秋が将軍に就任した時の畠山家の立場を考え、内紛が要因では畠山家としての立場が無いと言う判断で「隣国等の擾乱に拠り之を辞退す」という嘘の理由をつけ出兵を辞退するという返事を翌日に送った。しかし、これが長続連の不信感を買う結果となった。

−永禄九年七月十七日・義綱亭にて−

 続連が出兵辞退した理由を問いただしに義綱の館を訪れた。
「御屋形様!なぜ、義秋様の出兵依頼を断ったのですか?畠山家は足利一門の家柄。将軍家を盛り立てるのに援助は惜しんではいけませぬ。どうか、ご再考を願いたい!」
続連の言葉は明かに冷静さを失い、荒々しかった。
「まあ、落ちつけ。続連。確かに守護大名たる者、幕府を盛り立てるのが役目。しかし、それによって我が畠山家が滅亡してしまっては、元も子もないであろう。まだ、機会はある。それまで待つのは致し方ない事であると思うが・・・」
「御屋形様はなにを悠長なことをおっしゃるのか?将軍が暗殺され、京都は三好・松永らに欲しいままにされているという事態を長く続かせてはいけませぬ。ここは一刻もはやく義秋様を奉じて入京致しましょう。」
「続連…。大局を誤ってはいかん。小事にとらわれると大事を見失うぞ。弘治元年からの戦で、それが続連にはよくわかっておるとわしは思うのだが…」
「…御屋形様のご意見はわかりました。もう何も存じ上げることはございません。失礼致す。」


 長氏は元は将軍直属の奉公衆の家柄で、義綱の祖父・義総の頃まで畠山家に服しなかった。畠山家に服してからも、将軍家への配慮は忘れず、将軍に忠実な立場を採ってきた。それゆえ、続連も将軍家へ援助を断った義綱に対して疑問を抱き、義綱の行動を批判したのである。それは、前回の弘治の内乱での対立と違って今回の問題は長氏の根本にもかかわる問題であり簡単には溝は埋まらなかった。心配した飯川光誠が散々続連に説得にいったが、結局考えは変わらず続連は義綱派から距離を置く事になった。そこに目をつけたのが反義綱派の筆頭・遊佐続光である。以前は対立していた間柄の続光の話など聞かなかったが、義綱との仲が悪くなった事もあり、続光の話に続連は耳を傾けた。
「すでに、義綱様の強引ぶりは覆うべくもない。ここは、義綱様にご隠居願って、嫡男・次郎様に畠山家を継いでもらうのがよかろう。対馬守(続連)殿が味方してくれれば、この行動は必ず成功するでしょう。」
「い、いや…その…し、しかし…いくら御屋形様が強引だからといって、それを廃してしまうのは、下剋上と同じ事ではないか?」
「いやいや対馬守殿。なにも我々は畠山家を乗っ取ろうとしているのではない。あくまで、義綱様を廃し次郎様の下で一層の繁栄を築こうというものです。」
「……美作守(続光)殿。……協力しましょう。畠山家の為にも。」
「うむ。では、義綱様は十月には定例の領国視察に数人の家臣と共に行かれる。その隙をついて、次郎様を戴くとしよう。」
「美作守殿?御屋形様を亡き者にしようというのか?」
そう、続連が言うと続光が笑って言った。
「いやいや。そんな手荒な真似はしない。ただ、義綱様は頑固なお方だ。素直に聞きはしまい。そこで、頭を冷やしていただくためにも国外に出ていってもらうのです。」
能登の雲が徐々に灰色が濃くなり始め、暗雲が立ち込める空となっていた。能登を取り巻く空はますます暗くなっていた。

3、謀事発動

−永禄九年十月−

 冬が近づくにつれて、義綱は気分が優れない日々が続いた。このところの家中の二分化による領国再建計画のつまずきに加え、義秋の出兵催促などの対応で激務が続き、義綱は精神的に参っていた。そんな状況で遊佐美作守(続光)から歓待の誘いがあった。義綱は無理をしても御成するつもりでいたが、光誠が制止した。
「お体の悪いこんな時期に歓待の御成などいけませぬ。美作守殿は御屋形様によからぬ思惑を持っているとのもっぱらの噂。敵陣に丸腰で御成するようなものです。どうかご再考を。」
「光誠。わしへの二物を抱えているからこそ御成するのだ。そして胸襟を開いて政を語る。それでこそ、平等な裁可ができるというものだ。」
と言って制止も聞かず、井上英安、熊木続兼などわずかな側近二十四・五人を連れて歓待を受ける為に城下の屋敷に向けて出発した。

義綱とその一行が七尾城の麓にまで来た頃、城から火の手が上がった。何事かと義綱は一人で馬を引き返し、城の番所付近まで引き返した。すると丁度、城内の守護館辺りが燃やされ、番所(城の入り口)は遊佐続光・長続連・八代俊盛らの部隊で固められていた。反義綱派の謀事発動の瞬間であった。いわゆる「永録九年の政変」である。
「しまった。ついに謀反を起こされたか…。しかし、まさか続連まで加担しているとは…。」
いち早く事情を悟った義綱は側近のいるところまで戻り、井上英安、熊木続兼らに事情を話した。反乱軍がどれくらいの規模なのか見極めなければ追っ手に殺される事もあり得る。そこで一旦安全なところまで逃げ、近くの廃屋をみつけそこで一夜を明かした。次の日、七尾城から脱出してきた一部の義綱派の家臣ら三十人とも合流し、今後の行動を話し合った。
 英安と続兼はすぐに能登国内の義綱派諸将に連絡を取り、遊佐方と戦うべきだと主張した。しかし、義綱はそれらの意見を退けた。自分や義綱派の人物らの身辺の危険と、例え戦ってみてもよく状況を判断しないと、勝てないばかりか能登全体を巻き込む内乱になる。また、敗戦した時に玉砕する可能性があるとの判断があった。自分に付き従って来た者を危険な目に遭わせることはできないと考えていた。
「昨日のうちに、我が正室・華の実家である近江六角氏にとりあえず身を寄せさせて欲しいとの書状を送った。早ければ、六日以内に返事が届くであろう。そこで一旦、近江に引いてそこで再起を図ろうと思う。とにかく、能登の外浦(能登半島西側の海岸)まで陸路で行き、使者を待とう。」
と言うと皆それに同意し、六角からの使者を待つことになった。その後も義綱の一行に付き従う者も徐々に増え、外浦に到着する頃には総勢百人にもなっていた。その中には、父・徳祐と義綱が誰よりも頼りにしていた飯川光誠の姿もあった。
「光誠。よく来てくれた!わしはそなたを待っておった。礼を言うぞ。」
「勿体無きお言葉。この光誠。生涯義綱様に付いて行くと決めております。私も、義綱様が能登守護に返り咲くまで死ねはしません。」
「頼もしい言葉。光誠の活躍期待しておるぞ。!」
「父上。それでは外浦まで参りましょう。」
「いや、わしは一度加賀へ向かう。本願寺に事情を話せば支援してくれるやもしれん。それにいくら華の実家とは言え、支援にお願いするのに土産の一つも無いというのは無礼である。何か街で買って来る。」
「分かりました。しかし父上。決して無理はなさりませんよう。」
能登畠山家の重臣・飯川光誠が義綱の元にやって来た事により、義綱一行は活気付いた。そして、総勢百人誰一人、離れることなく六角使者の案内によって、船で能登を脱出し、近江の坂本まで逃れた。六角前当主で、義綱の義父である承禎(義賢)が近江坂本に用意してくれた館にとりあえず滞在し、能登奪回を窺う事となった。別行動となった徳祐は金沢御堂(本願寺の本拠地)で本願寺から少々の歓待を受けた。しかし、本願寺も反義綱派の動向をうかがっているようで、すぐには支援をしてくれそうになかった。そこで徳祐も至急の援軍は諦め近江坂本へ向かい、義綱から二週間遅れて到着した。

 一方、クーデターを起こした反義綱派は、義綱追放後すぐに八代俊盛の部隊に七尾城下の義綱派の家臣の館を襲わせ、その間、七尾城内で遊佐続光・長続連らが早速十二才の義綱の嫡男・次郎を正式に当主に擁立し、家督を継承させた。また、温井紹春の孫・温井景隆と事前に打ち合わせしてあり、義綱に能登を追われていた温井・三宅の一族を義綱を追放したその日のうちに呼び戻した。そして翌日、遊佐続光は評定の間に次郎と反義綱派の家臣一同を集めて、次郎にこう言った。
「事前に打ち合わせしたようにお願い致しますよ。」
続光は昨日の夜、仮の守護館となる次郎の部屋に行き注文をつけていた。それは次郎はまだ幼く政治をよく知らないので、年寄衆に政治を任せる事。不当に罰せられた温井紹春の子孫と関係者である温井・三宅両家の人物を帰参させる事。の二つだった。そして、永録九年の政変後初めて開催された評定も無事終了し、正式に温井景隆等の帰参が許され、また、畠山家の権力が再び重臣らの手に戻ってしまったのである。
能登の空はとても黒い雲が全体を覆っていた。昼なのにまるで夜のように…。再び能登に晴れ間はやってくるのであろうか。

第七章へ続く
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