第五章「再生」

1、前進へ

 永禄三年四月三十日深夜。義綱は密かに連絡しておいた飯川光誠、井上英教、長連理を自分の部屋に集めた。
「よく集まってくれたな。すでに五年続いていた内乱も終結し、大名権力を失墜させた七人衆も解体させた。今後はこのような事態を防ぐためにも能登の発展のためにも、大名権力を高め、私を主導とした領国再建を実施したいと考えている。そのために是非、君達の意見を取り入れながらやって行きたい。」
義綱は領国再建を広い視点から実施できるように義綱への忠誠厚い三人の臣に自分を含めた四人で定期的に会議を持つ事とし、領国再建の事実上の最高議決機関とした。守旧派の重臣達に意見を求めては改革は進まない。だから年寄衆の反発をかわすために秘密裏に側近会議を組織したのである。あくまで公式には存在しない側近会議であった。
「まず、大名権力の立てなおしが領国再建には欠かせない。なにか意見のある者はいないか?」と言うと、真っ先に光誠が意見した。
「まずは、歴代の畠山家当主が継承してきた守護−守護代体制を廃すべきと存じます。畠山家の命令を守護代を通じて間接的に伝えるのではなく、守護である義綱様から直接命じ、大名の意向を強く政に反映させるべきだと思いまする。各有力大名は、すでに直接指揮を取っております。もはや守護代と言う役職は実態をかけ離れて下剋上を生むばかりです。」
そう、光誠が言うと長連理が反対した。
「義綱様の意見を反映させることは誠に良い事だと思いますが、遊佐美作守(続光)殿の反発は如何しますかな。美作守殿は先の内乱において、上杉家との交渉役を見事果たした人物。それ相応の役職を与えねば、また謀反を企てぬとも考えられません。それゆえ、美作守殿を守護代に格上げしておいて、傀儡化を謀るべきではないでしょうか?」
「双方の意見、わしも最もだと思う。そこで、わしの意見を強く反映させるため近臣層を中心とした奉行人を整備しようと思っておる。奉行人を通じて政を行えば、年寄衆の権力も弱まろう。年寄衆には強い権限を与えず、政治・軍事の補佐としておいて明確な職を持たせないで弱体化を図るのだ。奉行人には中心核としておぬしら英教と連理を配置し奉行人を指揮してもらう。従来よりの重臣は年寄衆として、身分上の優位は確立しする。さらに同時に光誠を年寄衆に任じて、他の年寄衆の監視を行うというのはどうであろうか?」
というと井上英教が「妙案にござりまする。」といって賛同した。すると、長連理が少々言い難そうに口を開いた。
「長対馬守(続連)殿の処遇はいかが致しましょう?先の内乱より、御屋形様と対馬守殿は不仲との専らの噂。長家は元々将軍の奉公衆でありますし、軍事力の面でも家中で優位にたっております。対馬守殿との関係改善をなさらないと安定した領国再建は進まぬと思いまする。」
「うむ。その通りであるな。続連には厚遇をし、良好な関係を築こう。では、次に前年より京に戻った公方様(将軍・足利義輝)への扱いについてだ。畠山家は幕閣の重要な位置を占めておったし、また同じ足利一門である将軍家の復権を手助けしたいとわしは思っている。そのためには将軍家への年始の貢物などを再開し、出来る限り将軍家の復興に尽くしたいと思うが、どうか。」
すると井上英教が言った。
「将軍家に対する扱いはごもっともであると考えます。将軍家の権威失墜は既に覆うべくもないですが、それでもまだ地方の豪族などに対しては多少効果があります。ゆえに、将軍家への忠義は畠山家の威信を高める良い機会と存じます。」
「うむ。現実派の英教らしい意見であるな。」と義綱は笑った。
「しかし、それだけではないぞ。将軍家との関係を深めると将軍家と親しい勢力と外交関係を強化できる。つまり本願寺勢力だ。幕府と本願寺は良好な関係にある。加賀の一向一揆を抑える上でも、将軍家との関係は重視したい。」
そう義綱が言うと、一同から「なるほど。」という声が次々とあがった。
「では次に、軍事的体制の再建を議論したいと思う。なにか意見のある者はいるか?」と義綱が言うと光誠がまた真っ先に言った。
「今までの畠山家の軍事組織は、同陣主に殿が指示を出す間接方式です。また、御屋形様自らの直轄軍が無く、軍事的に大名基盤が安定致しません。重臣達の軍事力に依存している状況では、重臣の不利になる改革は実行出来ませぬ。」
「うむ。最もであるな。わしもかねてから大名直轄軍を組織したいと考えていた。しかし重臣達への感情面での配慮と資金面の問題からそう簡単にはできぬ…。当面は光誠の兵に守護館を警備してもらい事を乗り切るか…。その後に直轄軍の組織化を図るとしよう。」
結局、義綱の提案で一、支配体制の再編。ニ、軍事体制の再編。三、在地掌握を通じた税制体制の再編、を議論して終了した。
改革を始めるにはまず、義綱の動きやすい家中の体制を作らなければならない、それには守護−守護代体制の間接支配は効率が悪い。それに、各有力大名は強力な支配の下、経済力・軍事力を確立し、地位を確固たるものにしている。義綱はそれを模倣すべきだと感じていた。畠山家は守護大名の税体系の基本である「棟別銭・段銭賦課方式」と、半島という地理的条件ゆえの海運の発達により関銭・船改銭(船の通行税)に依存していた。特に農業税制は後北条家などにみられる貫高制も確立されておらず、その税制の遅れが大名自身の在地掌握の遅れにも繋がり、さらにそれが農業収益の停滞の原因ともなっていた。このように義綱新体制に突き付けられた課題はあまりにも多かったのである。
「まずはともあれ、支配体制の強化から始めねばなるまいこれだけは何としても成功させなければ・・・。明日の評定から改革を発表し、断行しよう。」
と会議の最後に義綱が言葉を発して最初の側近会議が終了した。義綱は議論を重ねてこう確信した。
(今度の改革は「領国復旧」でなく「領国復興」でなければならない。そのためにも弊害の多い旧体制は排除し新しい体制を作り出さねばなるまい。)
しかし、義綱は生き生きしていた。というのも義綱はもともと戦より、政治的センスに長けていた。それゆえ、領国再建という難しい課題を突き付けられたのが、かえって義綱の活躍する舞台を用意したとも言える。

 義綱は翌日、評定の間に家臣一同を集めて前日決定した改革案を発表した。守旧派の一部から多少の反発はあったが先の内乱で家中がまとまっていたこともあり、ほぼすんなりとまとまった。
「飯川光誠、長続連、遊佐続光、佐脇綱隆。以上の四名を年寄衆に任ず。次に、井上英教・長連理を筆頭奉行人に任じ、社務奉行などの各奉行人の総括を命ずる。」
「ははっ!」
評定は終わり、こうして義綱新体制が幕をあけた。しかし、五年にわたる弘治の内乱により、七尾城下や農村もとより能登国内が廃れ義綱新体制は前途多難であった。すると、領国再建のために各有力大名の支配体制を探らせていた忍びの者から報告を受けた筆頭奉行人・井上英教が義綱に進言した。
「御屋形様。畠山家の財政難を解消するために、各有力大名が徴収している『商業流通賦課税』を課してみるのはいかがでしょうか?七尾城下の規模ならかなりの金額が見込めるとは思いまする。」
「なるほど、七尾城下くらいの大規模な町なら相当の収入が見込め畠山家の財政基盤は強固となるやもしれん。しかし、今の城下の様子を考えるとそれは出来ぬな。先の内乱で城下もだいぶ荒れ果てた。戦火の直接被害こそ遭わなかったが、戦争と言うものは人心を萎縮させる。そこに、税を課せばさらに商いは萎縮してしまうであろう。ほら、この本丸から七尾城下が見えるであろう。今でこそ活気を戻しつつあるが、内乱のさなかはひどいものであった。商業課税は七尾城下が昔日の繁栄を取り戻した際に課税すると言うのが良いとわしは思うが。」
「ははっ。御屋形様のおっしゃる通りでございます。それがしの勉強不足でございました。」
「いやいや、意見を言う事は悪くない。英教の畠山家を思う気持ちには感謝しておる。ところでわしは寺社の積極的な造営・改修を行いたいと思う。先の内乱で惜しみなく我が軍に援軍・援助をしてくれた礼もある。さらに、寺社造営は畠山家の威信回復を領国に誇示することにもなる。引いては人心の安寧に役立つであろう。」」
「はっ。良い事だと思いまする。民衆の安定は畠山家の安定、ひいては能登国の安定の為にもなりまする。」
「うむ、では早速、今井綱秀、寺岡紹経を社務奉行に任じ、先の内乱で協力した各寺社を優先して修理をするよう命じよ。さらに、最も協力のあった一宮気多大社の造営・改修については、能登の天候の安定と、農作物豊作・漁業の豊漁を祈願してもらうため、大規模な造営と祭事を行おう。そのために今上天皇(正親天皇)の勅許を得て造営を行い、能登国一円に臨時造営料(税)を課す。畠山家の秩序回復を朝廷・幕府に印象付けると共に、内乱で荒廃した能登国民衆の心をこの一宮造営で一つにまとめ上げるのだ。」
「御意。誠によき事に存じます。では、早速二人に命じます。」
 義綱はその後も何度か評定を開き、改革を試みたがなかなか思うように進まなかった。というのも従来よりの重臣が、旧体制を守ることこそ守護の務めと思っていたからであった。結局、急進的な領国再編は出来ず、側近会議で議論した支配体制の再編。軍事組織の再編成。税制の再編成のうち、実行されたのは「守護−守護代の廃止」のみで、軍事体制再編は重臣・長続連の反対で再検討に。税制再編は能登国内が混乱しないかといった意見により、結局従来の守護大名体系をとりあえず継承する事に決まった。それでも、守護代制を廃止した事は畠山家にとって画期的なことであった。というのも、畠山家は初代満慶から三代義統までは在京大名で、領国の実質的支配は守護代が行っていた。四代義元から七代義総までは守護代を通じた間接支配であり(八代義続時代は七人衆の間接支配であり)、今だかつて畠山家で大名の直接支配が行われたことはなかったのである。この事は、能登畠山家の戦国大名化を一歩推し進めたのである。しかし、大部分の改革案が保留にされた事に対して、義綱は悔しかった。だが、もう一度思い直して考えた。(改革には従来よりの重臣の意見を排除せねばならず、せっかくまとまった家中を今一度分裂状態にさせかねない。…時間はまだある、それまでは徐々に改革を進め前進していこう。)


2、ひとときの安らぎ

「義綱様。最近は先の内乱よりもお忙しいのですね。」
そう言ったのは、義綱の正室・華であった。確かに華の言う通りで義綱は毎日領国再建の為の構想を練ったり、弘治の内乱の恩賞の分配や感状の作成などに追われ、むしろ戦乱のさなかよりも忙しくなっていたのである。
「ああ。最近はやる事が多くてかなわぬ。」
「義綱様はあまりにお忙しいので、お顔まで険しくなっておりまする。ここはしばし休んで『源氏物語』でもお読みになったらいかがですか。」
「なるほど、それも一理あるな。わしにも華とのひとときの安らぎが必要のようじゃ。今日は一日読書をしていようか。」
と言うと、華の側にいて読書を始めた。義綱は幼少の頃より読書が好きで、暇さえあれば何冊でも本を読んでいた程である。祖父の義総は、七尾城の書架に三万冊もの本を持っていたので、義綱にとってはそれこそ絶好の読書環境が揃っていたのである。しかし、父・義続の頃より畠山家が荒れ始め、義綱は十六才より家督を相続させられた。それによって義綱が読書をする機会はどんどん減っていった。その上、今日まで二度も戦が続き、次第に義綱も本から遠ざかっていたのである。華も読書が好きで、しばし義綱が夫婦で読書にふけっている仲睦まじい時間が過ぎた。しかしすぐに、どこからともなく義綱を呼ぶ声が聞こえてきた。その声は義綱付きの小姓である。
「御屋形様〜。御屋形様はおられますか〜。」
「わしはここにおるぞ。」
「あっ。御屋形様。ここに居られましたか。長対馬守(続連)殿がお見えになられました、いかが致しましょうか。」
「相わかった。早速いく。謁見の間に通しておけ。」
「ははっ。かしこまりました。」
「…もう行ってしまうのですね。華は淋しゅうございます。もっと義綱様とご一緒したいのですが…」
と言って久しぶりの夫婦水入らずに水を差した小姓を恨んだ。
「これ、華。意地悪を申すな。わしは畠山家当主。しかたあるまい。もっと気楽な身になれたら一緒に居られるであろうにな。」
「その折には京で雅な着物をいただきますわ。」
「うむ。では京に近い地で住まねばならんな。どこだろうか…近江あたりか?」
「御屋形様。どうされますか?」と小姓。
「わかっておる。今から行くぞ。」と笑いながら部屋を出て行った。

義綱が謁見の間に入ると、長続連が切腹をする際の白装束の服装で平伏していた。
「御屋形様…。先の内乱では恐れ多くも御屋形様を批判し、大変申し訳ございませんでした。この続連如何なる処罰も受ける覚悟でございます。厳罰に処していただきたく存じまする。」と突然、続連が端を発した。
続連は弘治の内乱での義綱批判を恥じていた。内乱を見事に収拾し、なおかつ領国の混乱を最小限にし、自軍の損害すらあまり無かった義綱の手腕に敬意を表したのである。それで、続連が自ら頭を下げ切腹の覚悟で義綱を訪れたのである。事情を聞いた義綱は言った。
「続連。面をあげい。わしは、続連を忌避などせぬぞ。続連も畠山家を思っての事。これから、わしや畠山家の為につくしてくれるのであれば、前回のことは不問にしよう。」
「ははっ。寛大な処置。ありがとうございます。しからば御屋形様に聞きたい事がございます。」
「なんだ、申してみよ。」
「ははっ。御屋形様はこの戦乱の世をどう乗りきろうとお考えでしょうか?」
「続連。戦に勝つには何が大切かわかるか?」
「……。優れた戦略だと思います。」
「うむ。それも大事である。しかし、一番肝心なのは国富と駆け引きである。」
「…?」
「戦は小事にとらわれていれば大局を見失う。どんなに優秀な部隊でも兵糧が無ければ意味が無い。民が反乱を起こせば鎮圧に余計な力を割く事になる。失った兵を補填するにも国富無くして考えられない。また、そもそも戦が起きなければ事は済む。それには外交という駆け引きが重要なのだ。戦を起こさないということも、戦に勝つ要素なのだ。」
「さすがは御屋形様!お見逸れ致しました。この続連、御屋形様の改革達成のために全力を尽くしまする。」
こうして、義綱と続連の仲はまた元に戻ったのである。

 義綱の改革は、徐々にではあるが能登畠山家中に浸透して行った。父・徳祐(義続)の時に頻発していた家臣間の権力闘争はすべて義綱の裁定に持ち込まれるようになった。それだけ義綱の権力基盤も安定化したことを意味した。それゆえ、内乱もほとんど起きなくなり国内も秩序を取り戻し、商業も農業も回復しつつあった。永禄四年(1561年)正月一日、義綱は、畠山家の権力回復をアピールする為め、足利将軍家への年始の貢物を再開した。これは代々続いていたが義続の頃の内乱によって途絶えいたものである。献上品として「太刀一腰、白鳥、背腸五十桶」を送った。義綱はこれにより、内外ともに能登畠山家の復権をアピールしようと画策したのだった。この構想は功を奏して、前年の一宮気多大社造営を正親天皇の勅許を得た事と併せて、幕府・朝廷内での能登畠山家の地位が認められた。この後、六月二十九日には、将軍・足利義輝より年始の貢物への礼の書簡が届いた。その書簡には「越後長尾家と共に上洛し、将軍家に対し忠義を尽くし将軍家を支えてくれ。」というものだった。義綱は将軍義輝の言葉にいたく喜び、「この義綱、いつかは上洛して直接将軍様に御礼を申し上げたい!」と言った。
 永禄四年(1561年)正月二十一日には、長続連が弘治の内乱での無礼を詫び義綱を自邸に歓待したいと言うので、義綱は長邸に赴いた。長邸の宴では飯川光誠、長連理、三宅総賢、神保周防守など有力重臣が参加し、多くの豪華な献立と、能・狂言、贈答品で義綱はもてなしを受けた。義綱はとても満足であった。宴も最後になり続連は集まった皆に向かってこう言った。
「御屋形様の改革は、能登畠山家の新しい時代を築くものである。我々は、戦乱の世の中で能登畠山家の存続のため、一族を挙げて御屋形様を支援したい。」との挨拶で締めくくった。


3、神保長職

 永禄五年(1562年)に、神保長職が畠山義綱を頼り、七尾城を訪れるという事件が起きた。これは、永禄ニ年(1559年)に、越中において、神保長職が椎名を攻めた際、椎名が苦境に立たされ不利な和平をした。神保家の勢いが強くなったことを新川郡又守護・椎名康胤が危機感を抱き、翌年康胤は新川郡守護代上杉輝虎と結び越中に侵攻した。軍事力の差を痛感した長職は、富山城を放棄し、西に逃れ増山城に退去したが、やがてそこも、輝虎らに攻められ長職はいずこかへ姿を消した。しかし、引き上げた上杉軍を見ると、たちまち長職は越中に戻り、呉羽丘陵に陣を張って再挙し、所領を回復した。これに慌てた椎名康胤は再度輝虎に出陣を要請し、永禄五年七月に再出陣し、長職は敗れ、この年の十月二十七日、義綱を頼って七尾城を訪れたのである。長職は、越中守護代行である能登守護畠山義綱に請えば、輝虎は自分を許すだろうと踏んでいた。又、神保家と畠山家は旧知の家柄、義綱は自分に協力してくれるに違いないとも考えていたようである。ともあれ、義綱と長職は謁見室で会見した。
「長職殿。輝虎を相手にするとは、災難であったのう。」
「はっ。義綱様。この度の戦は椎名氏が仕組んだ事。康胤は越中をすべて自分の物とするつもりです。越中守護代行である義綱様におかれましては是非、断固たる裁断を頂きたいと思いまして参った所存にござります。」
「・・・。長職殿には、弘治の戦において世話になったなあ。」
と義綱が苦笑した。
「よ・義綱様。あの時は、そうするより仕方がなかったのでございます。なにとぞご容赦下さいませ。」
「うむ。弘治の戦では椎名に世話になったが、畠山宗家より越中は三守護代共存にて治めさせることとおおせつかっておる。それを、わしは遵守せねばならぬ。・・・よし。わしが、上杉家との仲介をしよう。さすれば輝虎も無視出来まい。」
「ははっ。有り難きお言葉にございます。」
「・・・長職殿。旧来から神保家と畠山家は親しき家柄である。それゆえ、わしも協力は惜しまぬ。そこで、長職にも出来得る限り畠山家に協力して欲しい。良いな。」
「ははっ。心得ておりまする。神保家は畠山宗家の守護代の家柄。今後は能登畠山家に服し、許されるのであれば、所領の安定に努める所存です。」
長職はここに来て始めから畠山家に服従するつもりでやって来た。それは今の神保家の状況を考えると、畠山家の後ろ盾で上杉家から守る事ができるのならそれも仕方の無い事か、と考えていたからであった。義綱にとっても神保家の畠山家への従属は有益であると判断した。それは、実質的に支配していた越中氷見の能登畠山家の支配を認めさせること、神保家が畠山家と上杉家との緩衝地となること、というものであった。また、この和平によって、加賀本願寺、越中神保、越中椎名、越後上杉と対立の激しい北陸の火薬庫たる、越中の戦乱の火種を消し、北陸の政情の安定化を図れるのではないかとも義綱は考えていたのである。
「では長職殿は、事の進展あるまでは、この七尾城に居られよ。」
「有り難き配慮、痛み入ります。」


 こうして神保家は能登畠山家当主義綱の仲介を通して、降伏する運びとなった。結局、義綱・長職の予想通り、輝虎は兵を引くことになった。小田原北条氏に上野を追われた上杉憲政から関東管領職を譲られ室町幕府体制の一翼を担っていた上杉輝虎は、能登守護職で越中守護代行である義綱の意向を無視する事は出来なかったのである。輝虎は射水・婦負両群を神保に返す事に合意し、両群を義綱が長職に対し安堵するという形でこの紛争は解決をみた。長職は早速増山城に移り畠山家の監視の下、領国再建に取り組む事になった。義綱の優れた外交戦略もあって、ここに北陸の政情は一段落をみたのである。


4、档の襖絵

 義綱の祖父・義総の時代に七尾城下町は「多くの人々が住み、家並みは一里程にわたって続いている。その町中を色々な行商人たちが行き交い、道ばたには常設の店舗も多く立ち並んでいる。七尾山の麓に開かれた市場町は、まさに活況を呈 している。 また、七尾山から前峯の石動山へは、一筋の尾根道が通じており、朝な夕なに多くの人馬が、途絶えることなく行き来している。」と言われるほど賑わい、また交通の要所でもあった。しかし、先の内乱(弘治の内乱)によって、その城下町も戦乱に巻き込まれ、その賑わいを失っていた。内乱が収まっておよそ五年ほど経った永禄七年(1564年)、徐々にではあるが七尾の街も賑わいを取り戻してきた。七尾の湊である所口には、日本海交通要所として、越中・越後や東北から京都へ往復する大小様々な船が停泊していた。そのため生活用品を中心とする商売が盛んで、旅籠屋(はたごや・旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする店)が多くあり、またその旅人を目当てとする海産物の振売(ふりうり・店を持たない行商人)が多くいて、たくさんの人で賑わっていた。一方、七尾城の麓の街には家臣の屋敷や鍛冶屋・大工・紺屋(染物屋)などが多く見られた。
 七月の初め。この年の七月はちょうど真夏。炎天下の中、城下の視察から戻ってきた義綱と飯川光誠が城へと戻る道を歩いていた。
「光誠。七尾も少しずつではあるが昔日の繁栄を取り戻してきたな。」
「これも御屋形様の善政があってのこと。」
「そういえば、造営が終わった会所(客人をもてなすための建物)の襖絵を城下の者に任せたいと思うのだが。」
「城下の紺屋に最近、羽咋や越中は高岡の寺院で仏画を描く町絵師がおります。」
「名は何と。」
「長谷川信春と申す者です。この城下で紺屋を営んでいる者のせがれで…」
「長家の臣であった奥村家から養子に行ったものだな。」
「ご存知でしたか。陪臣とはいえ、元畠山氏の臣下の者であれば城に入れるのもいくぶん安全かと存じます。」

翌日、長谷川信春は義綱の名で城に呼び出され、出来上がったばかりの会所に通された。呼び出されたのが能登を治める大名だけに信春は並々ならぬ気持だった。
「御屋形様。本日は炎天下の中、七尾の城下は今日も繁栄の…。」
「のう…信春。この襖にどんな絵ならもてなしの客を喜ばすことができるか。」
「いえ。私は一介の絵仏師。襖絵などという高尚なものには…。」
「それには及ばぬ。いいから申せ。」
「それでは…、総持寺がある門前にある档(あて・現在は石川県の県の木に指定されている)という木を御屋形様はご存知でしょうか。」
「うむ。古来奥州は平泉からもたらされたものだとか。」
「はい。档の木は力強い背の高い木です。建屋の材料にも使われます。能登らしさが感じられ、且つその強大さで、もてなす者を驚かせるというのはどうでしょうか。」
「では、おぬしにこの仕事を任せよう。」
「恐れ多いことです。私は襖絵など描いたことはございません。御屋形様ほどのお方に私などが絵を描かせていただくなど滅相もございません。」
「信春。先の内乱がやっと収まり手にした能登の平和。その平和をわしはみんなに味わってもらいたいと思っておる。ならば、地元の絵師に頼み、謝礼を支払い、画力を育てることが必要だと思っておる。」
「…承知致しました。つきましてはお願いがあります。製作期間として4ヶ月間。また手伝いとして10人ほど人を雇いたいと思います。筆や色は実家の長谷川に頼むとして、先立つ費用が掛かります。」
「よろしい。先に用立てさせよう。」

そして4ヶ月後の年の瀬迫る十二月の暮の七尾城会所。畠山義綱以下4人の年寄衆が集まり、襖絵のお披露目会となった。
「御屋形様、お待たせいたしました。档の襖絵の完成でございます。」
義綱が会所の部屋に入ると、襖には大きな档の木が何本も水墨画で描かれていた。
「なるほど。水墨画か。確かに色を多く使って表現するよりも、能登の雪景色が再現されるかのように見える。しかし、どうだろう。一色しか使っていないのに、この档の堂々たる存在感。うむ。気に入った!」
「お気に召していただいて光栄に存じます。私は絵仏師がゆえ、御仏の道をお伝えしようとうございます。そのため、水墨画で档の堂々たる存在感と雪国の侘しさを表現し、それを仏門に例えてみました。」
「奥が深いのう。そういった由来も来客に話せば、これもまた喜ばれる。信春。大儀であった。」
「では私はこれで失礼を。」
「しばし待たれよ。わしはそちの絵が気に入った。これからは度々絵を描いてもらいたい。まずは…そうだな。我が父上の絵を描いてくれぬか。」
「徳祐様ですか。」
「父上は乱世の能登を生き抜いてきた。一番大変な時期に能登の国主となったのだ。父の勇敢な顔を描いて、後世に残したい。どんな絵なら父も喜んでくれると思うか。」
「ならば武人として鷹狩の絵を描くのはいかがでしょう。いえ、七尾ですから鷹より隼の方がふさわしいかもしれません。徳祐様は入道されていますが、鷹狩として武人の姿にするならば頭髪を描かねばなりませんね。」
「よし!早速取り掛かってくれ。」
翌年には義続の肖像画も完成。さらに義綱の家臣の伊丹氏も肖像画の依頼を長谷川信春にするなど、後に一流絵師として名高い長谷川等伯が七尾の平和と共に育っていったのである。


5、北陸の雄

 畠山家では義綱の提案で軍備を拡張する為に、出羽より海運で馬を大量に購入した。大名の直属の守備隊である馬廻衆を強化するためである。領国改革を大名が中心になって推し進めれば推し進めるほど家臣の反発は多くなる。そのためには大名を守備する軍事力が必要だと考えていたからである。同時に義綱は、従来より考えていた大名直轄軍も整備構想に入れていたが、越中における神保と上杉・椎名の争いなどにより、計画は中断された。
 しかし、この争いの仲介を義綱が行った事により、能登畠山家の北陸での地位が一層上昇した。そのうえ、義綱の存在感が北陸諸国に示された事によって、家中での義綱の立場もぐんと上がったのである。その後越中増山城・神保氏も、義綱が派遣した監視の使者の下、神保長職が順調な再建政策を展開し、越中の情勢も日常を取り戻しつつあった。また、一時激しい敵対関係にあった加賀・本願寺勢力とも融和政策を採り、義綱の巧みな外交政策によって北陸の政情が落ちついたのである。このことにより、北陸における能登畠山家の存在感が三代当主・義統の頃のように大きくなったのである。
 また、永禄四年より足利将軍家に尽くした功績や、正親天皇に勅許を得た一宮気多大社の改修造営、義綱の祖父・義総が建立した京都の能登畠山家の菩提寺・興臨院の改修・造営なども評価され、中央政界での義綱の地位も徐々に上昇していた。さらに城下町七尾も活気を取り戻し始め、義綱の改革はまさに成果が現れ始めていたのである。義綱はこの改革の進行具合に自身を持ち、もっと積極的に改革を進めるようになった。家中では、「このままいけば、義綱様は将軍義輝様に御相伴衆に任命されるのでは?」と噂にもなっていた。まさに義綱に「北陸の雄」とも言える実力が備わったのだ。


 しかし、それを快く思わないものがいた。遊佐美作守続光である。先の内乱で大活躍して年寄衆に抜擢されたが、守護代と言う役職は与えられず、また年寄衆としての役割も明確でなく、畠山家中への影響力減退を心配していたのである。それを息子の遊佐綱光(後の盛光)に愚痴をこぼしていた。
「御屋形様は従来の政の制度を全く無視している。従来より具体的な国政は守護代が担当するという慣習があるのに・・・。」
「父上!滅多なことを言ってはいけませぬ。あまりそのようなことを言っておりますと、温井紹春のニの舞になりますぞ・・・。」
「うるさい!私は、能登守護代の家柄。守護に変わって国政を担当するのはこの私だ。とにかく、このまま御屋形様を放っては置けまい。いづれ見ておれ…。」
「父上にも困ったものだ…。」


 永禄八年(1565年)三月十一日には富山湾の鰤漁に厳しい規制を加え、漁の再編成を通じて税制の見直での増収を計画し、さらに畠山家の富山湾への影響力強化などを図るなど、義綱の改革は順調に進み、守護大名体制からの脱皮は出来ないまでも、積極的な改革が能登畠山家の権力基盤回復へと確実に繋がっていった。また、義綱と将軍義輝との個人的な信頼関係も高まり、「義綱を相伴衆に任命したいと思っている。」との義輝からの書簡も届き、いよいよ能登畠山家の権威が高まってきた。
能登の空は澄んだ青空で晴れ渡っていた。しかし、空の片隅に一片の灰色の雲が表れて来てもいたのである。

第六章へ続く
目次へ戻る


小説を読んだ感想をぜひお聞かせ下さい!下記メールアドレスまで
Copyright:2017 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama<y-hatakeyama@goo.jp>