第四章「乱雲のち晴天」

1、一筋の光

 弘治の内乱も二年目に入った弘治二年(1556年)二月十五日。この日、笠松新介が六百の手勢を率いて七尾城に入城した。そして早速義綱に謁見した。
「笠松新介。同陣主・飯川若狭守(光誠)様の命により、兵糧と用脚を用意し、手勢六百を率いて参上仕りました。」
「うむ。大儀であった。同心主の若狭守(光誠)から、しかと到着状(とうちゃくじょう=軍役通り出陣した証明証)を発行させよう」
「恐悦至極に存じます。早速手勢を七尾城に配備し、守りを固めまする。」
新介の兵糧・用脚の調達が首尾よくいったことに伴い、義綱から功のあった光誠に感状が贈られた。その席で光誠は
(温井打倒の戦力・戦略も徐々に整いつつある。この戦いが終われば、技術的にも精神的にも御屋形様はかなり成長される。そうなれば、混乱した能登の再建に今の経験が役立つであろう。私は例えどんなことがあろうとも御屋形様に生涯ついていこう。)と考えるのであった。
 そして、新介入城の日と同じくして、長景連、隠岐続朝に命じた城の補修・改修が完成したとの報告が義綱に寄せられた。天文の内乱(1550年)において遊佐続光方による七尾城の放火などで焼失した部分もすっかり補修され、その上で、守りの要所に新たに櫓を建てたり、防護柵を作ったりとまさに五大山城に相応しい要塞となった。それを見て感激した義綱は、
「当城いよいよ堅固に候。」と喜んだ。
義綱は普請に携わった者を呼んで労をねぎらい宴会を催した。その夜は明るくなるまで宴会が続き、久々に七尾城に人々の笑い声がこだました。

 援軍を請うために出発してから三ヶ月たった弘治二年四月十日。三宅続長、山田左近助が戻り椎名宮千代と神保長職からの援軍要請に対する返事が返ってきた。宮千代は能登に援軍を快諾するといった内容であったが、長職の内容は違っていた。
「我が神保家と敵対する椎名にも援軍を求めるとは如何なるものでしょうか。それでは、我々が能登に援軍を送ることはできませぬ。又、我々は必要とあらば援軍を送る椎名を攻撃致しまする。戦略の御再考を願いたい。」といったものであった。
 越中はもともと管領を輩出した河内畠山氏の分国である。能登畠山家は河内家の庶流であることもあり、能登畠山家と越中神保家の関係は一貫して良好な関係にあった。しかし長職の父・神保慶宗が、守護・畠山尚順(河内畠山氏)との対立し、義綱の祖父・畠山義総と長尾景虎の父・長尾為景は尚順に請われて永正十七年(1520年)越中に出陣し慶宗を征討したのである。慶宗亡き後は神保慶明が跡を継ぎ、越中は、一向一揆、神保氏、椎名氏の三つの勢力によって支配された。しかし長職が神保家の当主となり勢力を盛り返したため、天文十三年(1544年)椎名氏の領地である富山まで進出し富山城を築城すると、三者のバランスが崩れた。そこで、畠山義続が河内畠山氏に代わって争いを調停する事となった。義続の調停は越中を現状維持させることにあった。それは神保氏の富山城の在城を認める事となり、すなわち神保氏の優位性を認めたことにもなったのである。神保家のさらなる版図の拡大のためには、長尾の後ろ盾が付いている椎名氏が煙たい存在である。だからこそ、敵対している椎名と共に援軍派遣など出来ないと長職は考えていた。椎名氏との交渉に成功した三宅続長は満面の笑みで七尾城へ戻ってきたが、神保氏との交渉が不調に終わった山田左近助はばつが悪そうであった。
 椎名氏は約束通り、援軍を送る準備をした。しかし突然、椎名の援軍派遣を神保家の手の者が妨害を始めた。長職にしてみれば、椎名氏が能登畠山家に恩を作れば、今後越中において越中守護代行である能登畠山家が椎名に有利な沙汰をし神保が不利になると考えたのであったからだ。そのため、椎名氏の援軍派遣は大幅に遅れることとなった。

 すっかり夏模様もおわり寒くなり始める秋を迎えた弘治二年七月。温井方の三宅綱賢の使者が一人七尾城を訪れた。
「我は晴俊方が将、三宅綱賢の軍使である。畠山義綱様に是非ともお聞き願いたいことがある。何卒お目通し願いたい。」
門番が身体などを入念に検査した後、厳重な警備の謁見室に使者が迎え入れられた。そして、使者は義綱の小姓に綱賢の書状を渡すと、義綱の元へそれが運ばれた。家臣も綱賢の使者も固唾を飲んで義綱の発言を待っていた。
「ふむ。三宅綱賢は晴俊方のなかで専横を誇る温井続宗に嫌気がさし、この義綱に再仕官したいというのだな。」
「はい。その通りでございます。」
三宅綱賢が義綱方に転じたのは義綱の情報戦略の賜物である。義綱は晴俊体制の構造的矛盾を見抜き盛んに手入れ(ていれ=内応への誘い)を行った。続宗に反感を抱いている者、今後の自陣営に不安を感じている者に盛んに忍びを配し、続宗の傲慢さや温井軍の戦略政策の失敗の情報を流布させ続宗への不信感を募らせていたのである。
「では、綱賢に明日朝、気多大社付近の温井方を攻撃し、排除するように命じろ。それと同時に我が方も何らかの策を考える。それが成功したなら我が軍に綱賢を迎えよう。いいか!機会は一度きりである。これに失敗したら帰参は許さんと綱賢に伝えよ。」と義綱は言った。
「はっ。しかと伝えまする。」
綱賢の軍使が七尾城を後にすると同時に七尾城内はあわただしくなった。というのも、義綱方も綱賢の気多大社攻撃を機会に一気に攻勢に出るためである。七尾城は早速準備のため忙しくなった。ある兵は久しぶりの戦に戦功が立てられると喜び、ある兵は温井方に勝てるのであろうかと心配するものもいた。
 義綱が出陣を決めたのは深い戦略があった。義綱方が七尾城周辺を奪回し、勝山城と外浦から続く門前地域を分断する。綱賢は羽咋の気多社を攻撃し、勝山城と加賀地域を分断する。この両作戦が首尾よくいけば勝山城は孤立する。そうすれば自然と勝機が見えてくるのだ。この一筋の光を逃してはならない。義綱は決断をした。かくして義綱方の準備は整い、明日朝の三宅綱賢の動きを待つこととなった。


2、好機

−翌日朝 一宮気多大社−
 良く晴れた朝である。気多大社ではいつもどおり朝の掃除があちこちで行われていた。すると、周りのけたたましい足音に温井方の守備隊見張り兵が驚いた。
「あ、朝駆じゃ〜〜。まっまさか義綱方が!?確か篭城していたはずでは・・・。」
見張り兵が言った通り義綱方の軍勢はまだここから遠くの七尾城にいた。しかし、攻撃したのは義綱方へ寝返った三宅綱賢の軍勢である。温井の守備隊は七尾より遠く離れた羽咋にある気多大社に、義綱方の軍が攻めてくるとは予想だにしなかったのである。それゆえ温井方の守備隊は極少数で、あっという間に且つほとんど無傷で綱賢の軍勢が気多大社を占領した。この綱賢の行動を知ったこの辺り一帯を領している王子孫七郎は好機と思った。というのも孫七郎が義綱方を歓迎した背景には、戦国大名畠山氏に気多大社の社家職を安堵してもらおうと考えていたからである。こうして、綱賢と孫七郎の使者は共に急ぎ七尾城へと向かった。
 綱賢と孫七郎の使者が七尾城へ着くと、綱賢の作戦成功は瞬く間に城内へと伝わり一気に指揮が高揚した。義綱は同心主を早速評定の間に集めると皆に向かってこう言った。
「綱賢も我が方へ寝返り、気多大社も我が方が奪還した。いよいよ我が軍が反撃する機会を得たり。今こそ我々も打って出て、中能登を奪還するのだ!」
「おお!いよいよ我々の出番だ!」
「この戦はわしの初陣じゃ。派手に勝利を飾ろうぞ!」
「御屋形様を勝利に導くために俺はひと肌脱ぐ!」
など城内の指揮は上がり熱気に満ちていた。
 準備の整っていた各隊が続々と七尾城を出発した。飯川光誠隊、長続連隊、遊佐続光隊、笠松新介隊らが出発し、それに続いて義綱隊も出発した。綱賢の寝返りにより不意をつかれた形となった温井軍の戦意は低く、西谷内・堀松地域と七尾城から外浦に続く中能登地域で次々と温井軍を蹴散らし奪還した。なかでも笠松新介の活躍は目覚しく、すばやく進軍し敵を瞬く間に撃破していった。残りは反乱軍の拠点勝山城を残すばかりで、義綱が思い描いていたように孤立させることができた。すると長続連は義綱方の連戦連勝で義綱に進言した。
「御屋形様。好機でございます。我が方の戦意は非常に高揚しておりまする。この機会に反乱軍の拠点である勝山城を攻撃すれば、簡単に陥落させることが出来ましょう。」
「うむ。それも一理ある。しかし、戦力的に我々が劣勢であることには変わりなく深追いすれば痛手を被る。勝山城はもはや孤立しておる。長尾や椎名の援軍が来れば攻略はたやすいことである。」と義綱は言った。
続連が進言した背景には、長尾に頼りたくないと言う気持ちがまだ残っていたからに他ならない。それゆえ、長尾の援軍が能登に到着する前に反乱軍を鎮圧できれば、と思っていたからだ。また、続連は続光とウマが合わず、それがさらに続連の長尾家への嫌悪感を増していることを義綱は知っていた。しかし、義綱は冷静であった。判断を誤ると負けるという判断で続連の意見を退けた。
 義綱軍はそれ以上戦局を拡大せず、守備隊をある程度残して七尾城に引き上げた。義綱はその後も七尾城の篭城を維持したが、周辺を奪還したことにより城内の雰囲気はだいぶ穏やかになった。また、それに伴ない七尾城下町の活気も徐々に取り戻しつつあった。王子孫七郎の使者が、義綱方の勝利を褒め称えると、義綱は気多本宮の再興を命じた。気多本宮の再興を通じて領国秩序の回復を内外にアピールしようという考えであった。それらの義綱の発給文書に見られる花押は、義綱の祖父・義総に大変似たものだった。領国を三十年も安定させた義総に強い憧れがあったのであろう。勝利の余韻が冷めやらぬ翌日、長尾景虎の元に援助を請うていた遊佐続光が帰国した。交渉は「両国の同盟関係をさらに強化する」事で一致、見事に成功した。さらに翌月にも兵糧米などの援助が図られることになり、長尾の軍備が整い次第援軍も派遣されることになった。こうして、義綱に追い風が吹き始めた。
 義綱方の攻勢はなおも続き、徐々に反乱軍・温井方は後退して行った。義綱はさらに味方の戦意を高めるため、笠松新介等、戦功のあった者に次々と買得地安堵、知行充行、公事免除等の約束する宛行状を発給し、指揮を高めていった。だいぶ領地を取り戻していたとはいえ、以前義綱方の厳しい状況は変わらなかった。にも関わらず敢えて恩賞の約束をしたのは、義綱方の結束を維持する目的と、大名権力の完全回復を目論んでの事であった。じりじりと、義綱方が攻勢を強めるなか、弘治三年(1557年)四月、能登畠山家と婚姻関係にある近江六角家の猶子(細川晴元の娘)が本願寺顕如に嫁いだ。義綱はこれを本願寺の温井への援助を断ち切る好機と捉え、六角氏を仲介として本願寺に接近した。それにより一向一揆勢もすでに孤立している温井への全面的な援助ができなくなった。温井方の勢力挽回の芽を摘むことに成功したのである。しかし同年六月、温井方は義綱方に囲まれている能登方面ではなく、越中方面の湯山に侵攻した。湯山城は陸路では勝山城を挟んで七尾城から孤立していたからである。この温井方の攻撃により、八代俊盛が守る越中氷見の湯山城が落とされた。城主の俊盛はなんとか城を脱出し、越中椎名氏の下へと向かった。椎名氏は神保氏の攻撃が一段落したこともあり、同年七月義綱方に対して援軍を派兵しようとしていた矢先に、湯山城から八代俊盛が逃れてきた。そこで椎名宮千代は、俊盛に援助を与え七尾城へ向かわせることにした。俊盛は温井方の勢力範囲を通らざるを得ない陸路での移動を避け、義綱方が制海権を握る富山湾・七尾湾を渡ることにした。そして翌月初めに八代俊盛が兵一千を率いて七尾城に入城した。ついに、義綱方が温井方の兵力を上回ったのである。
「湯山城守将が八代安芸守俊盛、椎名宮千代殿にご援助頂きただいま七尾城に帰陣致しました。」
「うむ。御苦労であった。そちがいれば心強い。戦功のあった際には、旧領氷見の他に能登の地にも恩賞を与えようぞ。」
「有り難き事でございますが、能登に平和が戻りましたら長居は致しませぬ。私は元来、越中氷見の者ですから・・・。」
 その一方アクシデントも発生した。進展しない神保長職との交渉により立場が悪くなっていた山田左近助が九月、温井方へ寝返ったのである。温井方は義綱の軍事的勢いが高めるにつれて、傍観もしていられなくなり、温井方の傀儡総大将・晴俊が武田晴信を通じて、義綱の各将に寝返りを持ちかけたのである。しかし、義綱方からの裏切り者は彼以外、一人も出なかった。温井方の背後に武田が付いていようとも、これほど苦境では寝返りたくないという事情もあるが、義綱が昨年より進めていた各武将に対する恩賞の沙汰が功を奏し、被害は最小限で済んだ結果とも言えよう。すでに優劣は決定的となっていた。しかし、義綱は反乱軍の拠点・勝山城攻略を延期した。その背後には義綱が、『武田晴信が北陸に侵攻するのではないか』という情報を得ていたのだ。義綱らしく慎重に情勢を見極めていた。


3、傀儡の末路

−弘治四(1558年)年三月四日〜七尾城評定間〜−
 長かった北陸の冬も終わり、ようやく春となった。義綱は家臣一同を集めてこう言った。
「武田晴信の北陸調略は出来そうもない。それゆえ、温井方は完全に孤立化した。もはや、我が方に対抗できる術は残っていないであろう。今こそ勝山城を攻め落とし、能登に平和を取り戻す時が来た!温井軍を能登より追い出すのだ!先鋒は笠松新介に命ずる。いよいよ明日は出陣じゃ。明朝は出陣前に式三献を行う。さっそく陣触を行うのだ!」
七尾城で陣触の為の太鼓や狼煙があがると、「お〜!やっと出番が来たか!」という声があちらこちらから聞こえてきた。北陸の厳しい冬は、戦闘に向いていないので、最後の合戦からだいぶ時間が空いたが、義綱方の戦意は下がるどころかむしろ上がっていた。

−次の日の未明−
義綱は精進潔斎の前に華にあった。
「華。いよいよ出陣じゃ。体を清める前にお前に会っておこうと思うてな。」
「男子は女人と戦前に会うべからずと言いますが、会いに来てくださるとは!」
「華や次郎を守るためにも、この戦。絶対に勝つ!」
「義綱様のお帰りを心待ちにしております。」
そして義綱始め出陣するものは、精進潔斎で水で体を清める。
「御屋形、勝栗(かちぐり)に打鮑(うちあわび)にございます。皆縁起物で勝利を確信しておりまする。」
「うむ。こ度の戦は勝てる戦じゃ。しかし、だからと言って油断はならぬ。」
出陣式で縁起物を食し、酒を飲む。そして義綱は家臣のひとりひとりに声をかけた。
「若狭守光誠。」
「はいっ!」
「戦に勝ったら、また将棋で兵法を学びたいのう。」
「はい。それでは早速家内に碁盤を用意させねば。」
「相変わらず、気が早いのう光誠は。はっはっはっ!」
七尾城中に笑がこだまする。
そして、いよいよ式三献の最後。三献目の最後の盃を義綱が飲み乾した。そして、地面に盃を叩き付けると勢いよく盃が割れた。
「皆の者!勝って我らが強さを示すのだ。えい!えい!」
「お〜〜〜!」
「出陣!」
空は雲ひとつなく澄み渡る朝だった。
皆、いかにこの時を待ちわびたか。そしていかに義綱の声に力強さを感じたかが十分わかるほど義綱方の士気は高まっていた。

 笠松新介隊を先頭に、長続連隊、八代俊盛隊、遊佐続光隊、飯川光誠隊などが出発し、それに続いて、義綱の本陣が七尾城を出発した。佐脇綱盛ら義綱の側近(奉行人)は七尾城の留守を守っていた。義綱の軍勢は温井方を瞬く間に蹴散らし、勝山城に接近して行く。
「なっなぬ!義綱がこの勝山城に大軍を率いて向かっておるだと!」畠山晴俊が使番の言葉を聞いて声を荒げた。すると、横にいた温井続宗が晴俊に向かって言った。
「くっ。結局、武田は動かなかったか・・・。やはり役に立たなかったか、この屑が!」
「続宗!?おのれは誰に向かって口を聞いているのだ!」
「ふっ。所詮貴様は飾り物。こうなってはなんの役にも立たぬわ!・・・わしは、温井家再興のためにもここで死ぬわけにはいかん。加賀に逃れて再起を図るとする。皆の者!陣払いだ!」
「ならぬ!総大将はこのわしぞ!皆の者。わしが命に従うのじゃ。義綱が大軍を率いて、こちらへ向かっているならば、こちらから防備の薄くなった七尾城を攻めれば落ちる。まだ、勝機はある!」
「ふん。どこまでおめでたい奴だ。ここにいる武将や兵は誰一人とてお前の命令は聞かぬ。すべてはわしの命で動いていたのだ。お前には何一つ権限は無かったのだ!それに、もし兵を動かせたとしても、義綱勢はすぐそこにおる。出陣の準備はまかりならんわ!愚か者!」
「くくう・・・・。」
そう言っているうちにも温井方の脱出の準備もほぼ完了した。
「さらばだ、晴俊。せいぜい一人で、義綱勢を撃退してくれ。」と言って続宗が部屋を後にしようとしていた、まさにその時である。激しく物をたたく音が聞こえてきた。それは門を壊す音であった。その轟音と共に大人数の罵声も聞こえてきた。
「続宗様〜!義綱方・笠松新介隊が城門を突破致しました!」
使番の言葉に続宗は顔が真っ青になった。
「どうやら、お前もここで道連れになるようだな。はっはっは。」と晴俊が続宗に大きな口を開けて笑って言った。その十分後には勝山城は火に包まれた。
傀儡者と傀儡師として操った者の末路は、皮肉にも同時に幕を閉じた。

「義綱様!勝山城将、温井続宗、神保総誠、三宅総広と敵総大将・畠山晴俊の首級をあげました!」
勝山城近くに張った義綱の陣中に伝令がそう伝えると、味方各将は大きな歓声を挙げた。これは同時に、義綱が思い描いていた3年以内にこの戦を鎮圧するというプランが完成した瞬間でもあった。
「これより、畠山晴俊が首実検(くびじっけん)を行う。」
「確かに晴俊が首。首級を挙げたのはどこの隊じゃ。」
「我等笠松隊にございます!」
「うむ、よき働きであった。恩賞を後で沙汰しよう。また皆の者もよくやってくれた。これで能登にも平穏が戻るであろう。これからは、能登の秩序回復に全力を挙げなければならない・・・。」
と義綱が言っている途中に新たな使番が陣中にやってきてこう伝えた。
「各将は懸命に追討ちしましたが、温井続宗が嫡男・綱貞を逃してしまいました。加賀に退去したものと思われます。」
「・・・また・・・背後に本願寺がいるのか・・・。」と飯川光誠は顔をしかめた。
「温井続宗や三宅総広らの子どもは生き残ったか。まだ、しばらくは油断できぬな。・・・一旦七尾城に戻るぞ。その後、すぐ評定を開く。」勝山城の事後処理を遊佐続光に命じると、あとの軍勢は七尾城に引き上げて行った。
 七尾城に帰った各将はすぐに評定の間に集まった。勝山城の落城に加え氷見・湯山城も奪還し、各々は晴れ晴れしい顔で恩賞の沙汰を待っていたが、温井綱貞の脱出の報を聞いていた重臣と義綱の側近達は浮かぬ顔で義綱を待った。そして義綱が評定の間に現れた。
「皆の者。勝山城での戦は良くやってくれた。なれど、残念ながら温井の残党を取り逃がした。おそらくまた、本願寺の力を得て再侵攻してくるであろう。それゆえ、七尾城篭城は解除するが警戒体制は維持する。皆の者、しかと心得よ。しかし、勝山城の落城により事は一段落した。よって弘治元年(1555年)より続く戦乱においての、戦功に対する恩賞の沙汰を申し渡す。」
一瞬一同の顔が引き締まったが、恩賞の沙汰と聞いて緊張が解けたのであろう。幾分、各将の表情が穏やかになった。
「まず、笠松新介。今回の戦ではお主の隊が先鋒を務め一番槍をなし、さらに敵首級を挙げるなど比類無き働きであった。また、新介も槍傷を何箇所も負うなかで怯まず奮闘し、見事な働きである。よって、以前申し渡した恩賞の沙汰の実現に加えて、諸橋の山中百人夫と棟役一円免除を沙汰する。さらに『但馬守』の位を与えよう。城内に七尾でも一番の金瘡医(外傷の医者)を呼んでおる。診てもらうが良い。」
「わたしごときにかくもご配慮勿体無きことにございまする。この但馬守、より一層の軍役と奉公を致しまする。」
「次ぎに八代俊盛。その方の湯山陥落の後、すばやく軍勢を立ち直し七尾城に参った功は大きい。よって、元来の旧領・氷見の安堵に加え、温井の旧領の一部を与える。」
「有り難き幸せな事ではありますが、私は能登の国政を任せられるほどの身分ではございません。よって能登に領地を頂くわけには参りませぬ。」
「そのことなら心配要らぬ。まだ、温井等の残党が残っており戦乱は終わったわけではない。そこで、わしは俊盛に引き続き能登に滞在してもらいたいと思っておる。そのことによって能登に知行を与えるもので、他意は無い。他の者もそれに関して異存は有るまい。」
「私などに、かくももったいないお言葉。有り難きはからいにござります。喜んでお受け致しまする。この俊盛、粉骨砕身で義綱様をお守り致します!」
氷見は16世紀に入って能登畠山家が公的に支配した土地であり、氷見に本拠を持つ八代氏は能登畠山家臣としての家柄は低い。それゆえ俊盛が義綱直々に能登に恩賞を与えられるというのは破格の待遇であり、俊盛は義綱の好意に対していたく感激したのである。
「次ぎに長続連。我が方の主力をなしたその活躍は十分である。よって、輪島の天堂城も含めた温井の旧領の一部を与える。さらにわしが使った采配を授けよう。」
「恐悦至極にございます。采配は長氏末代まで重宝致します。」
他にも、遊佐続光、飯川光誠等活躍した諸将に恩賞が与えられた。

しかし、晴れ晴れとした家臣一同の笑顔とは違って義綱の顔はどことなく浮かない顔をしていた。そして、評定が終わった後も部屋に一人で残っている義綱を心配そうに思い飯川光誠が声をかけた。
「どうなされましたか?」
「うむ。本当は大名権力回復を通じた領国再建計画の一環として、領地を全てわしが把握した後与えたかった。しかし、結束を維持するためには早急に恩賞を与えることが不可欠だった。そのため恩賞は旧来の安堵内容をそのままに与えることになってしまった。・・・このままでは、能登畠山家は昔からの体制を抜け出すことはできない。わしは、一体どうすれば良いのであろう。」
「御屋形様・・・。まずは、戦乱を収めることが重要です。温井の反乱の芽を摘みましょう。それからでも領国再編は遅くはありません。」
「・・・そうだな。・・・もう、祖父・義総公の頃のような畠山家の繁栄はこの戦国時代では、ありえないのであろうか。」
「先代の当主義総公が家督を継いだ頃にも、畠山駿河などが乱入することもありましたし、家臣の力も強うございました。しかし、義総公の巧みな政(まつりごと)が三十年間も能登を安定的に発展をさせたのです。御屋形様御自身がしっかりなさっていればきっと繁栄の道は切り開けるはず。わたくしめも微力ながらお手伝いをさせていただきとうございます。それゆえ、御屋形様があきらめてはなりませぬ。」
「・・・うむ。わしがやらねばならぬ。」
義綱は領国再建のための構想を練るため、戦乱が収まった翌日から夜通しで考えていた。しかし、その能登のひとときの平穏も、義綱の想像通り温井綱貞の侵攻によって、永禄元年(1558年)七月初旬に早くも崩れてしまうのであった。


4、力の差

 永禄元年(1558年)七月二日。加賀へ亡命していた温井綱貞、三宅綱久、三宅俊景等が再び加賀一向一揆の力を借りて能登に侵攻してきた。それと同時に能登の一向一揆も呼応して、初戦は温井方の有利に展開した。しかし、義綱方もしっかりと準備していたこと、さらには家中が乱を通じてまとまったこともあり、よく応戦した。前回の温井続宗の侵攻では圧倒的な兵力差で瞬く間に能登の外浦を占拠されてしまったが、今回の温井綱貞の侵攻は羽咋で止まった。一方の温井方は前回の侵攻と違って畠山一族の擁立などの準備も出来ずに、慌てて能登に入国したような有り様であった。それゆえ無計画な戦いや展開で兵の士気が落ち、早々と離脱者が出る様子であった。
「御屋形様。今回の温井方には如何に対処致しましょう。」と評定の場で長続連が言った。
「うむ。今回は前回の温井の侵攻と比較し、恐れるものはない。よって今回は状況次第で積極的に打って出るものとする。我が見立てでは温井方は次第に窮乏して自滅するであろうと思う。各人は防戦体制は整えて置くべきであるが、日常の生活は維持させたいと思う。反対意見のあるものはいるか?」
評定の場で義綱の作戦に異議を唱える者は無く、評定は終わった。
 温井方の支配地が広がるどころか、勢力を維持するにも精一杯の状況で、たちまち反乱軍の財政は窮乏した。頼みの綱である本願寺や武田の援助も「勝てる見込み無し」との判断からほとんど相手にされなかった。永禄元年末に飯川光誠が反乱軍を攻撃すると、主力であった温井綱貞と三宅俊景を討ち取った。三宅綱久は再度加賀へ逃亡し、温井景隆を擁立して三宅慶甫等と共に、永禄二年の冬に三度目の能登への侵攻を試みたが、これも飯川光誠に撃退された。三月には、温井方が僅かだが一向一揆の軍勢を率いて能登に攻め込むが、義綱方の長続連に敗れ押水で敗れた。永禄三年(1560年)初めまでには、温井勢が再び息を吹き返せない程の大打撃を与え、義綱方は完全に温井勢を能登から排除する事に成功した。義綱はこの内乱により戦や家中統率に相当の自信と実力が付いた。反乱軍との力の差が、今回の侵攻では如実にでたと言えよう。ここに弘治元年(1555年)より始まった五年にもわたる弘治の内乱が終結し、畠山義綱主導による領国再建が始まった。
能登の空に覆い被さっていた乱れ雲がようやく去り、ひとときの晴天が訪れた。

第五章へ続く
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