第壱章「能登の風雲児誕生」

1、生誕

 室町幕府の権威は弱まり、思い思いの大名が実力で世の中を支配し、己の領国を広げる。そんな時代を後世の人々は“戦国時代”と読んだ。そんな時代ではあるが能登では下剋上なんて微塵も感じさせないほど平和な日々が続いていた。時の国主である能登畠山家七代当主・畠山義総は知勇兼備の良将で、その治世の下、巧みな統治で城下・七尾は全盛期を迎えていたのである。そんなさなかの天文四年(1535年)の良く晴れたある日のことである。義総の後継者である嫡子・義続は七尾城のある部屋の前でそわそわしていた。
「う〜む…。まだかのぅ〜…。」
「若君!待望の御嫡男誕生でございます。」
義続は家来の言葉に胸を撫で下ろした。
「なんと賢そうな、お顔ですこと!」
とある産婆が言った。産まれた子は目鼻立ちもよく、確かに賢そうな子であった。
後に晩年の能登畠山を立て直すべく奔走する能登の風雲児。九代当主となる畠山義綱の生誕である。
「よし、この子の名は先例に習って幼名を次郎と名付けよう」
義続は誇らしげに言った。

 次郎とは当主・義総の幼名(仮名)であった。次郎こと義総は能登畠山家当主となるといち早く政情を安定化させ、能登に繁栄をもたらした。その偉業を讃えて、以後、能登畠山家の嫡男の幼名は次郎とすることにしたのである。ただ、義続の幼名は次郎ではなかった。というのも義続は義総の次男で、嫡男・次郎義繁は天文二年(1533年)に早世した。それゆえ、義続は「次郎」ではなかったが、早くから能登畠山家の後継者として認められていたのである。
「うむ。この子は御屋形様に似て良い目をしておる。将来が楽しみだ。」
父、義続は満足そうに言ったのであった。


2、河内と能登

 次郎(後の義綱)は非常に病弱であった。ことあるごとに病気を煩い義総を心配させた。義総は嫡子・義繁を早くに亡くしているため、孫の次郎への可愛がりは人一倍あり溺愛していた。また次郎もそんな義総の側にいつもいた。義総が次郎を愛しているのと同じように次郎もまた、祖父義総が好きであったのである。それゆえ、義総の文芸に興じる姿を見てそのうち「自分でもやってみたいな。」と常々思っていた。しかし、内気で病弱な次郎はなかなか言い出せず、猫可愛がりされる日々が続いた。そんな少年時代の天文十年(1540年)次郎五歳のある日のことである。
「わしも御祖父様のように、『源氏物語』が読んでみたい!」と次郎が言った。
「いくらなんでも若にはまだ早すぎでございます。」
と家来に笑われたが、以前より興味ひかれていた次郎はそれでめげない。さっそく別の家来に七尾城書庫の三万棹もある書物のなかから天文六年に義総が三条西実隆から譲ってもらいとても大事にしていた『源氏物語』を持ってこさせた。そしてそれを義総や父・義続に内緒で読むのが日課となり、次郎はだんだん文芸に関心を持つようになってきた。歴代の能登畠山家当主は文芸を好んでいたゆえ、能登の文化的全盛期を迎えた当時にあって次郎が文芸に興味を持ったのは当然とも言える。次郎は『源氏物語』を突破口に次々と本を読みあさり、ますます文芸に関心を持っていった。
 しかし、そんな次郎も剣術・馬術・槍術など実践を伴う稽古には熱心でなかった。祖父や父同様、礼法としての馬術はこなせても、実践としての馬術などは嫌がったのである。能登畠山家は守護大名の家柄でありもともと武芸に熱心でなかった。それゆえ、それが次郎にも悪影響を与えてしまったといえるであろう。さらに、次郎は元来病弱であったため、それを利用して実践馬術や剣術の武芸の稽古には病気を理由によく休み、さらに下手になってしまった。

 その後も次郎は武芸に関心を示さず、ひたすら文芸・勉学に打ち込む毎日が続いた。しかし、次郎が勉学に関心を持ち積極的に学ぶ姿を見てなにより喜んだのは祖父の義総であった。
(義続は最後の詰めがどうも甘いのが気になる。これでは、私の時代に権力を抑え込んだ者が巻き返そうと乱を起こすやもしれぬ。ともすれば、義続が代に能登畠山家は荒れるかもしれぬ。その一方で、孫の次郎は何事にも興味を持たせ、執拗に理由を追求する姿勢を学ばせたつもりである。次郎なら私の跡を立派に継いでくれるに違いない。)
義総は、そう思って次郎の教育に情熱を注いでいたのである。また、義総は次郎が病気にかかった時には能登国内外から名医を呼んで看病をさせ治療した。まさに、目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりであり、それだけ次郎に期待していたのである。
「次郎。これをみるがよい。何だかわかるか。」
「うわ〜光ってる。お祖父様、これはなぁに?」
「これは金じゃ。甲州から採れた金を加工したものである。次郎も欲しいか?」
「欲しい〜な」
「人はこの金の光る魅力にとりつかれて、みな欲しがる。この金と言うものは山で採れるが、これを能登で採れたら良いと思わんか。わしは今羽咋の宝達山(ほうだつさん)で金を採れるかどうか探させておる。」
「金は山で採れるのか。能登で採れるといいなあ。」
「そうじゃな。ゆるりと朗報を待つこととしようか。」

 しかし、そんな義総も天文十三年(1544年)になると、病に伏すことが多くなった。それゆえ、父・義続が政治を代わって行っていたのである。そして、次郎が十歳になった天文十四年(1545年)4月のことであった。
「これ、義続をここに・・・」
「御屋形様、何かご入用なものでもありますかな。」
「河内より文があった。尾張守(畠山稙長)殿だ。」
「また越中の由にございますな。なかなか骨が折れます故、心労がたたりまする。」
「・・・・・・お主には管領家を継いでもらう。」
「なっ・・・何を仰せにございますかいきなりに。」
 河内畠山家の当主畠山稙長は、河内守護であった畠山尚順の嫡男で守護を継承していた。しかし、家中での対立や守護代の台頭によって、守護の座を弟の長経や政国に奪われていた。自身の子どもに恵まれなかった稙長は再び守護を奪還すると、兄弟対立が家臣団台頭の引き金になっているという思いで、自身の家督継承を誰にしようか深く悩んでいた。そんな中で出会ったのが義続だった。それは越中での件が影響していた。義続が義総の代行している時期に管領畠山家の分国・越中で神保長職と椎名長常の間で乱が起こった。この越中大乱に対して、稙長は同族である能登畠山家に仲裁を依頼した。分国河内から遠い越中は、国人達の混乱を極めていた。そこへ越後の長尾まで関与してきた。そこに義続が管領家代行として、越中の神保・椎名の争い毎を見事仲裁して解決させた。家臣達の対立に左右される河内に対して、畠山一族が主導権を取る能登を見て嫌が応にも稙長は期待したのである。
「越中の儀、種々調停相也て、御安心ください。委細は遊佐豊後守に申し伝えさせます。」
との書簡を遊佐豊後守秀頼を通じて送ると、稙長から直々に遊佐秀頼は義続に家督を継がせたいと言ってきた。あまりのことに秀頼は絶句し
「・・・御屋形が意向を聞きにすぐに能登へ戻り返答させていただく。」とだけ伝えて陸路を急いで戻ったのがこの4月半ばだった。
能登畠山家は、義総の代になって安定し、京都で公方様(足利将軍家)や親戚である六角氏、はたまた義総の代まで一向一揆関連で対立した本願寺との交渉などもこなしていた。それゆえ義続の京都での評判がよく、稙長は義続という人物にかなりの好感をもっていた。家中の内紛が続く河内畠山氏の家督に義続を据えこの危機を乗り越そうと画策したのであった。
「拙には管領家が当主たる器にあらず。もって能登の事は如何するおつもりか。」
「余は畿内は義続に、能登は次郎にと思うておる。」
「い、嫌じゃ。管領家の家督は拙には荷が重すぎます。」
「尾張守(稙長)殿は、家中に信頼できる者がおらず、義続に絶大な信頼を寄せておる。尾張守殿が後見となってくれれば安泰であろう。」
「し・・・しかし・・・。」
「これは絶好の好機。管領家と能登が再び一つになる。」
「しばし時間を下され。もう一度考えたく思います。」
「考えても結果は同じだ。もう公方様にも言うておる」
「!!!」

 能登の義続に管領家の家督を継がせる計画は稙長と義総の間で着実に進んでいた。武家伝奏を通じて幕府にもこの情報が伝わり京都の公家もこの情報を知っているほどだった。しかし、この計画は稙長の独断で進められていたものであった。4人の弟の中で前守護であった特に政国が義続の家督継承に強く反対し家中を二分する騒動になっていた。そんな最中の五月十五日に畠山尾張守稙長は後継者を明確に定められないまま死去した。そこで義総と稙長の息のかかった人物を中心にして義続の家督相続が進められ、幕府もそれを後押ししていた。河内ではそれでも能登からの相続に反対する者が多く、義続の河内入国に対し、武力で抵抗する動きも公然と見られた。そこで次期当主が行うものとされて稙長の葬儀も度々延期されており、京の公家も河内畠山家の相続問題が大きな噂となっていた。

 以前河内と能登で膠着状態が続いていた七月十二日、義総が死去した。前年より病気がちであったが七月初めには快方に向かっていたが、様態が急変し死を迎えた。この唐突な死により、義続が能登畠山家当主として、義総の葬儀を執り行った。次郎は祖父との突然の別離(わかれ)の悲しみで葬儀にすら参列せず自室に閉じこもりきりとなり周囲を心配させた。義続の説得により次郎は一週間後には外に出たが、もともと内気だった次郎はこれをきっかけにますます内気なってしまった。畠山家の家臣達は次郎の姿を見て「いくら次郎様が賢いと言っても、臆病者では戦国乱世の当主は勤まらぬ。、しかも御屋形様(義続)が河内で家督を継がれたらどうなる・・・。この歳で次郎様に家督を継がれたら河内だけではなく、能登畠山家もどうなるかわかないぞ。」といった言葉も聞こえるようになった。

 一方の河内畠山家の家督継承問題で反義続派の筆頭となっていた前守護・畠山政国と守護代・遊佐長教が俄然勢いを増した。そこに1通の書簡が七尾城に届く。
「河内家代替の儀、尾州弟晴熈就任候。太刀千疋送付。」
河内畠山家は、稙長の弟である晴熈が継承することになったと言ってきた。
(どうりで手筈がよいな。義総様の病状やわしが河内の家督を継承したくない事情まで知っての事かのようだ。これは能登の内部に河内への内通者がいるな・・・。)
義続の想像通り、能登畠山家の遊佐続光が河内の遊佐長教に逐一能登の事情を伝えていた。義総の死去によって河内への無理な義続の入国は無いと遊佐長教が考え、家督継承を発表したのである。ここに能登畠山家と河内畠山家での家督相続問題が一応の決着を見た。しかし、これが両家に埋められぬ歪みをももたらしたことは言うまでもない。


3、出会い

 義続は家督を相続した翌年、能登一国に徳政令を発した。徳政令は借金の帳消しにするものである。多くの人物の財産や流通などに関わるものであるから、それを行うには強大な権力が必要であった。歴史をみていくと、越後の上杉氏や相模北条氏も同様に徳政令を発している。義続も徳政令を実行することで、自らの国主就任を高らかに宣言しておきたかったのだ。さらに、内外に自己の権力を示し家臣の統制にも利用しようと考えていた。
(父・義総公が築いたこの安定…なんとか崩さないようにしなくては…)
しかし、義続の考えとは反対に能登畠山家は不安定な方に流されていくのであった。それと同時に能登の空も徐々に曇がかかっていった。

 まず、天文十六年閏七月。先代義総に能登を追放された義続の伯父畠山駿河らが復帰をかけて加賀一向一揆の支援を受け乱入した。これに対し義続は、婚姻関係にある六角定頼や幕府管領・細川氏綱を介して本願寺へ駿河への支援停止圧力をかけるとともに、同月七日駿河軍と押水で交戦した。世に言う押水の合戦である。畠山軍は苦戦を重ねたが、重臣・温井総貞らの働きでなんとか敵を撃退することができた。この合戦で温井備中守総貞が家中の実力者として台頭してきた。その一方で、義総政権時代に政権の中枢から遠ざけられていた遊佐嫡家が徐々に力を取り戻してきた。遊佐嫡家の当主・遊佐美作守続光は虎視眈々と家中の実力者の座を狙っていたのである。こうして、総貞と続光の対立は深まっていったのである。
 そんな権力闘争が繰り広げられているさなか、次郎は祖父義総の死去以来ずっと暗くふさぎ込んでいた。それを見かねた義続は良い話相手になればと、老臣・飯川半隠岐斎宗春の孫である飯川光誠を次郎の遊び相手兼教育係に任じた。それが次郎の生涯にわたるまで忠誠を尽くす家臣となる者の出会いとは、この時には考えもしなかっただろう。

光誠は次郎のことを温かく見守りつつも、色々なことに挑戦させた。それはまるで、義総が次郎を育てるような感じであった。最初はいぶかしがっていた次郎も、そんな光誠に魅かれて徐々に心を開いていったのである。
「若。勉学だけでは戦乱の能登は治められませぬぞ。」
「光誠。わしは武芸の稽古は嫌じゃ。」
「では、兵法の勉学などいかがかな。」
「兵法とはなんぞや?光誠。」
「兵法とは戦の方法・作戦を学ぶものにございます。当主なれば剣術の稽古も必要ではありますが、戦闘を指揮する力が必要でございまする。戦国の世は多勢に無勢。ならば剣術よりも兵法を学ぶことが得策かと存じます。この将棋盤に乗せた手勢を使って拙と勝負いたしませぬか?」
「…ふーん。まあ…やってみても、いいかな。」
………
「さて、この足軽部隊はどう動かすべきか。…よしっ。」
「若。これでよろしいのですね。それでは拙はこう動かしましょう。」
「むむっ。もう打つ手が無いか。…これ光誠、もう一戦、もう一戦じゃ!」
「もう一戦ですね。では、詰めに入る前に戦の秘策を教えましょう。まずは、戦は全体を見通すことです。目の前の足軽だけを見てはいけませぬ。なぜかと言うと…」
光誠と次郎が将棋をする様子を、ふすまの外から父・義続は見ていた。
「内気な次郎には、兄貴分が必要だったのだな。これからの成長が楽しみだ。」
光誠の巧みな接し方で、次郎は兵法を自ら学ぶようになり、さらに戦や軍事のことにも興味を持つきっかけができたのである。相変わらず次郎は度々病に伏し父義続を心配させたが、徐々に兵法を始めとする武芸に興味を持ち始め、次第に馬術などでも礼法面だけでなく、実践的な面や槍術・弓道にも興味を持っていった。しかし、次郎は自分がそれらを出来るようにする事でなく、どのように戦うのかという事に興味を持っていったのである。兵法を学ぶ上で実際の槍術・弓道・馬術を知ることは欠かせない。それが次郎の興味を後押ししたと言える。そして、こうした武芸を少しずつこなせる事により、若干ではあるが次郎の身体も健康になってきたのである。

 そんな次郎が十四歳の天文十八年(1549年)。義続は次郎を自らの後継者として元服させることにした。家中には病弱な次郎を後継者にするより次郎の弟を後継者にと推す者もあったが、後継者争いを打ち切るためにも元服を急がせたのだった。
 義続は、儀式の場を気多大社の神官・桜井氏の邸宅と定め、寺岡紹経を奉行とした。また加冠の儀の次郎の烏帽子親は、幼少からの守役である飯川光誠が勤めた。烏帽子親は守護代の家柄であった「遊佐嫡家の美作守続光」が良いとの声もあったが、「烏帽子親は本人の縁深き者を充てる」という義続の方針を通した。義続の本音は遊佐続光が烏帽子親になれば遊佐と温井とのバランスが崩れ、より家中の争いが勢いを増す、と見ていたからだ。次郎は元服で、義綱と名乗ることとなった。儀式の後に、桜井氏の邸宅で祝宴が行われ、義綱は成人の証である横眉に描き換えられたられた。盛大な祝宴は夜遅くまで行われ、日吉大夫らによる能も演じられた。

折しも重臣・温井と遊佐の抗争が激化し軍事抗争にまで発展しそうな気配をみせた年であった。


4、乱への入口

「殿は私と(遊佐)美作守(続光)とどちらの意見が正しいと判断なされるのですか?」
義続は毎日毎日温井備中守総貞に問いただされていた。そしてこの日も重臣の飯川新次郎(光誠)と酒を飲んでいた場所に総貞は訪れ問いただされた。
「それはだな……総貞の言い分はもっともである…。しかし、続光の言い分のわからぬでもないぞ。両者仲良うすれば良いではないか。」
「しかしながら、殿。美作守は自領の領民を圧迫しており、残虐非道な行為を繰り返しているとのもっぱらの噂。あまりに噂が広がると、能登畠山家の威信にも関わりかねませぬ。早めの処罰が必要かと存じます。」
「総貞、そちも噂で人を責めるでない。ここは両者の言い分を聞かぬと判断できぬ…。お前のせいで酒が進まぬ。もう下がってよいぞ。」
「承知。こちらに松百の寿司を用意しました。ぜひ酒の肴に。」
「うむ。備中守。いつもすまぬのう。」
部屋から立ち去る途中に総貞は不適な笑みを浮かべた。
(義総様は聡明な方だった。だからこそ、私の野心をすぐに察したので大胆な行動は控えざるを得なかった。しかし義続様は違う。私が毎日讒言をすれば、こちらをなだめるかのごとく振る舞う。文句を言う方が、目にかけてくれるのだ。文句を言うと遠ざけて権力を剥奪した義総様と比べると、同じ警戒でも義続様の方が組しやすい。能登での温井の覇権を確立するには、義続様を我が味方につけるか・・・それとも・・・義続様の権力を凋落させるか・・・。さて、どちらの方が早くできるだろうか・・・)

 その後も温井と遊佐の対立は深まる一方で、そのたびに両者が義続の元へ行き、相手側を非難する事態が続いた。しかし、それを義続はいつもはぐらかしていた。そうした日々が続いた天文十九年(1550年)十月。とうとう軍事抗争にまで発展した。驚くべきはその対立軸だった。それは温井と遊佐の軍事抗争ではなく、守護の義続対温井・遊佐という対立構造だった。ライバルだった温井と遊佐が組んだ理由は、「義続が温井にも遊佐にも味方しないなら、その義続を隠居させよう」と両者が画策したからだった。さすがに義続もまさか激しく対立している両者が結び付くとは思わなかった。さらに不運な事に、温井や遊佐の方を持つ家臣がこぞって両者に味方した。ここに至って義続は完全に不利な状況で戦が始まった。世に言う「七党の乱」である。「七党」とは温井・遊佐を始め能登畠山の有力家臣をさして他家から言われていた言葉である。

 守護である義続は七尾城に籠城した。守護の戦力は有力な家臣の軍事力をあてにしており、今回のようにほとんどの臣が反乱側に付くと、ほとんど対抗しうる戦力を守護は持っていなかった。それが守護の弱点であり、温井や遊佐の台頭を許した条件でもあった。この「七党の乱」は七尾城の入口まで「七党勢力」が近づき、雑兵が七尾城に火を放ってしまった。急いで飯川の家臣が火を消化したが七尾城の書庫の一部が火災の被害に遭い、貴重な書物が一部消失してしまった。これに衝撃を受けたのが義綱である。貴重な本や祖父義総と楽しく読んだ思い出のある本が消失したことを痛く悲む義綱の姿を見た義続は激怒した。。

「新次郎(飯川光誠)。こたびの合戦のために七尾城下に矢銭を課す。一同に触れ伝えよ。」
「殿。お待ちくだされ。5年前には大規模な徳政令が出て商人らはかなりの損がでている様子。さらにその回復途中に大規模な矢銭を課せば城下の者の怒りが主家にも及びかねませぬ。」
「七尾城の書庫まで焼けたのだ。義綱も気を落としておる。戦費は矢銭でまかない、城の整備にも当てる。」
「殿。ご再考を…。」
「うるさい。決めたことじゃ。触れを伝えよ。」
「……御意。」


 こうして本格的に「七党勢」と対立した守護勢は、ではあったが、翌天文二十年一月中旬には城内の兵が度々離反し、和睦を進める雰囲気になっていた。そして総貞・続光両氏を七尾城中に呼び寄せ和平交渉を行った。その結果、乱の戦後処理として、「七党勢力」に対し七尾城放火の罪に対して謝罪させ、さらに七尾城にまで火災が及んだ責任から、温井総貞、遊佐四右、遊佐信州(後の宗円)、伊丹某が落髪して入道する。また、当主義続も家中を統制できなかった責任を認め入道し、徳祐(とくゆう)と名乗った。しかし、この乱も、新たなる乱への入口に過ぎなかった。

 面白くないのは入道して「紹春(しょうしゅん)」と名乗ることになった総貞である。今回の乱をけっかけに義綱が家督を継承し、徳祐(義続)はもう政治に一切口を出さないことになると考えた。しかし、義綱は幼少の頃より病弱であり、そのため徳祐が後見となることに決まり、結局徳祐を中心として能登畠山家が動く体制に変化がなかったのである。紹春はもう主家を頼りとせず自ら畠山家の乗っ取りを画策するようになっていく。それが現実味を帯びたのが天文二十年(1551年)春頃のことである。
 この年、畠山家中では重臣達が中心となって畠山七人衆を発足させた。呼び掛けは紹春である。名目は先の温井と遊佐の抗争の反省から、国政上重要な案件を重臣たちで平和的に話し合い領国運営をスムーズにしようというものであった。しかし畠山七人衆の実態は、国政の重要案件を大名決裁から七人衆決裁に変えるもので、大名権力を形骸化させる目的があったのである。紹春は長九郎左門衛尉続連、三宅筑前守総広、平加賀守総知、伊丹宗右衛門尉総堅、遊佐佐渡守宗円、遊佐美作守続連らを誘い、この七人の有力重臣で国政を合議のうえ運営していこうと誘った。しかし、紹春の他にはほんの一部の者しか知らない真意がこの七人衆体制には込められていた。
「ふん。所詮七人衆の合議体制は遊佐の牽制。温井と縁のある総広、続光と仲が悪い宗円の二人を味方につけた。あとは続連や、総知等を徐々に引き込んでやろうぞ。」
こうして国政の運営は重臣たちに奪われてしまった。
そんな中、同年末頃当主徳祐は密かに権力奪回の策を練っていた。
「うーむ。やはり七人衆の力は無視できない…。さすれば七人衆の牙城を崩すには分裂させるしかあるまい。なれば、形式ばった当主の仕事が面倒だ。それにこの作戦を実行するには当主という身分ではなく裏で暗躍できる立場でなくてはならぬ…。」
しばらく考えていた徳祐は思いたったように光誠に言った。
「わしは義綱に家督を譲ろうと思う。そこでわしが影で七人衆を裏で分裂に導くのじゃ。どうだ、光誠。」
「おやめくだされ!御屋形様の身に危険が及びまする。それにまだ御屋形様はお若い。隠遁するのは早ようございます。」
「ええい!わしが決めたことじゃから好きなようにさせい。光誠、義綱をここに呼ぶのじゃ。それから主な重臣たちを城中に至急集めよ。いいな。」
「・・・ははっ。仰せの通りに。」

−七尾城中−
「唐突のことではあるが、これより畠山家の家督を義綱に譲ることとする。」
徳祐の思わぬ発言に家臣達は最初戸惑いを見せた。
「御屋形様はまだ若こうございます。御再考を。」
と切実に義続の隠居を惜しむ者の声もあれば、重臣たちから形だけの惜しむ声も聞こえてきた。
光誠には重臣たちの気持ちが察知できる。幼少の当主なら組し易い。ゆえに自分たちの合議政治も一層やり易くなるだろうと踏んでいるのだ。しかし、光誠は義続の並々ならぬ意欲を感じて、これから恐ろしいことが起こることを感じずにはいられなかった。
(能登はしばらく戦乱に見舞われる事になるだろう。)
そう光誠は予感した。
「わしはもう出家した身である。剃髪してから、かねがね早いうちに義綱に家督を渡そうと考えていたのだ。義綱は評判どおりの秀才じゃ。大きくなればきっと立派な当主となるだろう。それまでは、わしが後見人となる。わしの決めたことである。明日から義綱が畠山家の当主である。」

こうしてその夜から家督相続に伴う祝宴が5日間連続で続いた。この祝宴では七尾城の侍女にいたるすべての者に酒と肴や郷土料理である松百寿司、鯛の吸い物など豪華な料理が振る舞われて皆上機嫌であった。そして、徳祐と並んで座る義綱の元に光誠が近くに座った。
「この度は、家督相続の儀、誠におめでとうございます。御屋形様の並はずれた能力は義総公の再来。御屋形様は徳祐様のお力添えがあればきっと立派な当主となりまする。きっと、先代の義総公のように能登の繁栄を築くことでしょう。」
と光誠は義綱の将来の事を案じて精一杯の祝儀を述べた。光誠の言葉に従うように、重臣たちも次々と祝いの言葉を述べたが、豪華な振る舞い料理での上機嫌に反して、この時誰一人として能登畠山家の未来を、明るく予想した者はいなかった。

5、能登之華

「光誠。もう中島菜の漬け物はないのか?まだどぶろくはあったはずじゃ。取って参れ。」
「もう酒はお止め下され。御屋形様はもう畠山家当主なのですぞ!」
光誠がきつい調子で義綱を諌めるが、義綱はいっこうに話を聞かず酒気に耽っていた。
「どうせ当主といえども家臣との朝食ではわしに意見を皆求めず、朝の談合には参加できず、やることと言えば昼からの客の接待のみ。」
「それも立派なご当主の仕事かと。」
「結局、父上や総貞らが話し合って政(まつりごと)をしているではないか!わしが自由にできることと言わば酒を飲むことくらいぞ!」

義綱は父徳祐(義続)から家督を継承したが、何一つ自分の思い通りにならなかった。
「若。ひとつご相談がございまする。」
「何用じゃ。申してみよ。」
「本日手に入れました夕食に出すアワビは、酢貝鮑(あわびの酢の物)にするべきか。それとも焼きましょうか。どちらをご所望で?」
「備中守。そんな事は好きなように致せ。それより、先月に七尾城下に課した矢銭の件だが・・・」
「若はまだ政の実情をご存知ありませんでしょう。ここは臣下である七人衆の意を信じて頂きとうございます。」
そう言いつつ、いつも紹春(総貞)は義綱の口出しを阻み、話をそらしていた。
「これ紹春!わしは畠山家当主ぞ!」
「わかっておりまする。しかし、それがしたち重臣が政を担うのもひとえに若のためでござりまする。」
「!?」
「若にはもっと勉学に励んでもらいたいのです。それがしたちが政をすることにより、若は余計な事をする手間が省けまする。」
「紹春!わしは畠山家当主ぞ!若などと呼ぶな!」」
義綱には総貞の真意がわかる。
(紹春はわしを何も知らない若造と思って馬鹿にしている!)
義綱は怒って紹春の部屋を後にするのだが、ここのところ義綱は非常に短気となっている。政治に口出しようとしても阻まれ、好きな読書をすると重臣たちの会議に形だけの出席を要求される。仕方がないので、大酒を食らっていると光誠が止めにかかる。当主となってから自分の思い通りなにひとついってない。これが正直な義綱の気持ちであれば、苛立ち短気になる事情もわかる。しかしだからといって短気に家臣を叱り付けたり、道理に合わない行動を取れば義綱が家中でどのような評価をされるのか…、それを紹春は望み、そして光誠は一番心配していたのである。

そんな義綱を見かねた光誠は後見役の徳祐にある計画を持ちかけた。
「義綱様は自尊心の強いお人でございます。ゆえにここは縁談をもって、義綱様のお心を落ち着けるのがよろしいかと存知まする。丁度、同盟国・六角家当主義賢殿に年頃の華(実名不詳・作者が便宜上つけた仮名)という娘がおります。華殿を我が義綱様正室に迎え入れてはいかがでしょうか。」
能登畠山家と六角氏の関係は七代義総の頃に始まる。当時、幕府に力があった六角氏に、本願寺との調停役をさせようと、義総の娘を六角義賢の正室・側室とした事から関係が深まったのである。
「うむ。妙案であるな。それに六角家との同盟関係強化も期待できるな。よし、さっそく六角家に使いを出そう。」
こうして六角家の華の輿入れ話は急速に進み、天文二十一年(1552年)七月二十五日、いよいよ輿入れの日となった。
華を連れた六角家一行はかなりの人数に及び、また貝桶の他、様々な嫁入道具を持って能登に入国した。そしてまた、畠山家側も派手な演出で輿入れを迎え入れた。当時は花嫁行列も大名の力を誇示するパフォーマンスであったのである。女佐の臣・楢崎石見守賢光が七尾城に入場するのが義綱の部屋からも見えた。

「むう。気が進まぬ。」と義綱がため息混じりに言った。
「御屋形様がうらやましゅうございます。」と少しふざけたような笑顔で光誠が話しかける。
「わしは気が進まない。父上はなぜこの縁談を急ぎまとめたのであろうか。真意がわからぬ。」
何事にも勘繰る義綱は考え込んでいた。しかし、まさか当の本人に所以があろうとはさすがの義綱でも気づかないであろうと光誠は思った。
「これからは奥方を大切にして、さらに政務に精を出さねばなりませんな。」と光誠は笑っていった。
「うむ・・・そうだな・・・」
「明日の昼には婚礼の儀が始まりますな。本日はそれに伴う料理などの献立を御屋形様と吟味したく思います。」
「あいわかった。献立表をここへ。」
と少し義綱は照れてそう言った。この言葉を聞いて義綱は立ち直ることができると、この瞬間光誠は思った。
 実際、華が能登畠山家に嫁いて来ると、義綱の性格は以前の優しい義綱に戻っていた。夫婦仲は睦まじく、家臣の誰もが羨む理想の関係となっていった。それをみて安心したのは、光誠であろうか。それとも天の義総であろうか?
能登に嫁いだ華は、その名の通り、能登之華として、能登の未来に一筋の光をもたらそうとしていた。
その、能登の空はそろそろ朝を迎えようとしている。朝に待っているのは曇りの空であろうか、それとも晴天の空であろうか。

第弐章へ続く
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