林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.51

第51回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集「田植えと田楽」

本来の祝祷芸である翁猿楽から脱却した猿楽能の座は、演劇的要素である「能」を主体に、徐々に人気を獲得していきました。
ここで注意が必要なのは、歌舞劇としての「能」を演じたのは猿楽能の座だけではなかったことです。
猿楽能の前には、強力なライバルである田楽能が立ちはだかっていました。
もともと猿楽は単発的な物真似芸から出発しただけに、本来はそれほどの勢力もなく、よく寺社が座を組織させたなと思うくらいの小さな集団でした。
むしろ当時は田楽こそが芸能の主流だったのです。

田楽は、田植えの際に歌や踊り、笛や太鼓程度の簡単な楽器演奏などが行われたものが芸能として受け継がれ、そして職業化したものと言われています。
なぜ、田植えなのか?なぜ歌や踊りでお祝いすべき収穫の時ではないのか?
それは田植えこそが、田んぼによる稲栽培を主とする日本農業の最大かつ最重要行事に他ならないからです。

ここで米作の流れについて、ざっとおさらいしておきますと、春に種籾を苗代に蒔き、これが一定の長さに成長すると苗代から抜いて、田んぼに植え替えます。
後は水管理や草取りなどの作業はあるものの、秋の収穫を待つことになります。
こういう風景は現代でも日本全国当たり前の光景として知られていますし、たとえ近くに田んぼのない都会人でもこれぐらいは知っているはずです。
この一連の流れの中で、最も重要視しなければならないのが田植えなのです。

当たり前のことですが稲は生長する植物であり、そのため、植え替えをする場合はタイミングが非常に重要になってきます。
この植え替えに失敗すると収穫は激減し、その影響は深く、翌年以降まで不作が続いてしまいます。
収穫期の場合、こちらの方は日にちが少々ずれてもそれほど深刻な問題になることはありませんけれど、田植えの場合はこのように日程が限られており、その期限内に必ず全ての田植えを終了させなければならないのです。

だいたい鎌倉後期から南北朝期以降、田んぼには成長の早い早稲(わせ)、成長の遅い晩稲(おくて)、両者の中間の中稲(なかて)という3種類の成長の異なる稲を植えて自然災害に備えていました。
早稲田とか早田、奥田、中田の名の起こりですね。
しかし平安時代の頃はまだそこまで進歩しておらず、全ての田んぼに一斉に田植えをしなければなりませんでした。
現代においても、たとえば私の住む北陸の場合は早稲オンリーなので、田植え時期はちょうどゴールデンウィークにぶつかるため、機械化されたとはいえ、それでも親類縁者をかき集めて田植えを済ませているのです。
稲作農耕の上でこれほど瞬間的で集約された作業はほかになく、それこそムラの労力が一気に投入されなければ成功しない一大イベントだったのです。

苗束を田んぼ近くまで運ぶ者、苗束を田んぼに投げ入れる者、それを拾って田に植える者、植え方にむらがないか監督するもの、皆の食事を作る者など、ムラの人々はそれぞれがさまざまな役割を果たして初めて田植えが行われ得たのです。
実際に苗を植えつける作業は早乙女と呼ばれる女性が担い、この単純な重労働を行っていました。
これは単純作業のためリズム感が必要で、ここから田植えの際に歌や囃子などの音曲を使うことが生まれ、これに単純な踊りも加わった田楽が形作られていきました。
このような田植え芸能は稲作農耕を行っている日本全国あちこちで発生し、それゆえ田楽起源の芸能はあっという間に広まっていったのです。

そして村落内だけの季節芸能だった田楽は職業化され、座が組織されるとともに、寺社の中から田楽法師と呼ばれるプロ集団も出てきました。
彼らは12〜13名ほどの人数で、笛や太鼓、編木(びんざさら)を演奏しながら踊る田楽踊りと、曲芸を中心とした散楽を行っていました。
これらに、ことさら華美な衣装をまとう風流(ふりゅう)の要素が加わった風流田楽も現れ、都を中心に大流行します。
彼らの凄いところは、当時でも芸能のトップだったのにもかかわらず、猿楽が演劇要素の「能」を取り入れて人気を博するのを見て、すかさず彼らも田楽能を演じだしたことでした。

物真似すなわち演技中心の歌舞劇である猿楽能に対し、歌舞や音曲中心の歌舞劇を演じた田楽能は今まで以上の人気を獲得し、田楽狂いと呼ばれた北条高時や足利尊氏など、田楽好きな有名人の名前も出てくることになります。
特に貞和5(1349)年6月11日に京都四条大橋再建のための勧進田楽においては足利尊氏をはじめ京中の貴賎が群集し、その人数と熱狂のために3、4層の桟敷が群衆もろとも崩壊する大惨事を起こすほどの人気を博したのでした。
かの世阿弥も『申楽談儀』において、父の観阿弥と近江猿楽の道阿弥・犬王の2人とともに、「当道の先祖」として田楽本座の一忠と田楽新座の亀阿の2名を挙げており、いかに田楽が当時の芸能界を代表する存在だったのかがわかります。
このように芸能界において、まさに向かうところ敵なしのおもむきのあった田楽能は、南北朝期以後、徐々に振るわなくなり、その座を猿楽能の座に取って代わられてからは衰退に向かっていったのです。

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