林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.4

第4回 田んぼの話

律令国家が租税として租庸調を定めて以来、税とは米である、という考えが一時期、一般化したことがあります。
しかしこの租庸調という言葉自体がかなり誤解を招きやすい言い方で、この「租」と「庸調」とは、まったく別物です。
「租」は加賀とか能登とか越前とか、都に近い一部の国を除いた、それぞれの国庁に納める地方税のことで、これは米で納めます。
これに対し「庸」は一定期間の労働の代わりに納める物資をいい、布の他たいがいは特産物を納めるものでした。
また「調」は、これも布など繊維製品や原料を納めさせるもので、この「庸」と「調」が国家に納める税として「庸調」または「調庸」と呼ばれていました。
今回は、この「租」を作る田んぼというものは中世の時代、どうだったろうかという話です。

現在あちこちで見られる、広大で四角四面な田んぼは、明治以後や戦後の耕地整理で作り出されたもので、それ以前の形や広さとは似ても似つかぬものです。
一枚の形もやたら幾何学的ですし、何よりあまり広くありません。
加賀平野の、特に松任市あたりの田んぼは、とにかくでかくて、4、5枚つぶしたら都会の小さな学校の一つぐらい建てられるほどで、こういうのを毎日見ていると、中世の小さくてぐにゃぐにゃした形の田んぼなんて想像もつきません。

水田というのは案外厄介な代物で、例えば一枚の田んぼの中でも、少しでも高低差があると、もろに収穫量に影響してしまいます。
ためしに水を張った田んぼを想像してみて下さい。
程よいぐらいに水に浸ったところと、全然水の浸からないところがあるなんて、そうそう見たことないはずですよ。
ですから機械で大規模に地面をならせない以上、小さくても変な形をしていても、それは仕方のなかったことなのです。
土地の高低差に応じて形を作るしかなかったし、いろいろな人間がそれぞれの土地を耕作せざるを得なかったからこそ、そうそう大きな田んぼは作れなかったのですから。

水は田んぼに欠かせませんが、かといって大きな川のあまり近くでは氾濫でやられてしまいます。
いきおい、中世の田んぼは山間の細い水流の流れるところに多く作られていきます。
まあ、細いといっても限度がありますが、一年を通じて水流がある程度一定していて、氾濫が起きてもそれほど被害が大きくならない程度の中小河川ということでしょうか。
山がちの国土ですが、そういう条件の良いところは、そんなにあるものではありません。
結局、そういうところを先に取ったもの勝ちで、後から来たものは他を探さなければなりませんでした。
ですから開墾と一口に言いますが、これはかなりの費用と時間のかかる大変なことだったのです。

今ではほとんど見られなくなりましたが、田んぼにもいくつかの種類がありました。
これは大きく分けて、乾田と湿田に分類できます。現在あちこちで見られる田んぼは、ほとんどが乾田です。
田植えの前に5〜10センチほど水を張って、田植えが終わったら水を止めてしまう田んぼです。
ですから田んぼに水があるのは、1年のうち限られた期間しかありません。

湿田というのは、その名のとおり常に水に浸かっている田んぼです。
今でもところどころに見られる、レンコン畑を思い出していただくとわかりやすいかもしれません。
ですから場所によっては、草刈りのときも人間が腰まで浸からなければなりませんでした。
機械を入れようものなら、機械が重さで沈んでしまうほどの田んぼで、だからこそ土地改良などによって、姿を消してしまいました。
腰まで浸かるとなると、伝染病その他を考えるとこれほど衛生上よろしくない場所もなく、板切れなどを浮かべて、その上に乗って作業をするという、とにかく手間のかかる田んぼでした。
ただ、一年を通じて水量が安定していることは有り難く、こういう湿地帯ならばある程度の広さも確保できますから、そのまま現代まで残っていったのだろうと思っています。

ちなみに、戦前の参謀本部陸地測量部の作った地図には、これら乾田と湿田の区別がちゃんとありました。
乾田と湿田では攻め方も守り方も全然違いますから、当然と言えば当然なのでしょう。
南北朝の時代、新田義貞が越前藤島城攻めの際に田んぼのあぜ道で伏兵の奇襲に会い、戦死したのもこの田んぼは湿田だったのではと考えると納得がいきます。

いくら鎧が重かったとしても、名にしおう東国武士団の義貞ですからね。
今のような乾田の田んぼやあぜ道で足滑らしたぐらいで、自害しないと思いませんか?

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