人物列伝
「京極高広」

人物名 京極 高広(きょうごく たかひろ)
生没年 生没年不詳
所属 京極家
主な役職 京極家当主
特徴 浅井に担がれて実力無し。
参考文献 (共著)『戦国大名系譜人名事典東国編』新人物往来社.1986年
西ヶ谷恭弘(編)『守護・戦国大名事典』東京堂出版.1998年
(共著)『京極氏の城・まち・寺−北近江戦国史−』サンライズ出版,2003年
(共著)『戦国大名浅井氏と北近江−浅井三代から三姉妹へ−』長浜市長浜城歴史博物館,2008年
人物の歴史
 武蔵守。仮名六郎。高延。高峯。法名道也。京極高清の嫡男。京極氏は南近江を拠点にする六角氏と同族の佐々木氏である。室町幕府では侍所所司を勤める四職の家柄であって幕閣でも重要な地位にいた。京極氏は室町時代前期には北近江の他に飛騨・出雲。隠岐などの守護権を有する有数の守護大名であった。しかし、1441(嘉吉元)年に家督を相続して安定した時代を築いた京極持清が1470(文明2)年に没すると、持清の子である高清(秀綱?)と政経(政高)との一族争いが起きた。なんとか1505(永正2)年に両者の和議が成立し、高清が支配権を得たが、京極氏は没落して北近江のみに影響力を持つ守護大名となっていった。ただ高清の代になると、北近江の上平寺城に拠点を持つなど在国大名として少しずつ影響力を増していった。上平寺城にある京極氏館には大きな庭園があり京極氏の文化の一端が高さが伺える。
 しかし、京極氏の内紛はこれだけで収まらず、高清の後継者争いにも及んだ。1523(大永3)年に「大吉寺梅本坊の公事」が起きて近江守護・京極高清政権が崩壊してその子高広が当主となる。この事件の詳細は不明だが、『江北記』などの軍紀物などの「上坂信光が高清次男・高佳(高慶・高吉)を当主に擁立しようとした為、小谷城主・浅井亮政、浅見氏らが反発した。高清の高佳(高慶)擁立に対して、浅井亮政らは京極高広(高清嫡男)を擁立して尾上城に篭もり、さらに攻勢に出て高清等が篭もる今浜城を攻め落とし、京極高清・高佳、上坂信光を近江から追放した。」という内容から考えると、高清政権とそれを支える上坂信光に対して浅見貞則・浅井亮政らによる下剋上が起こったのであろう。浅見・浅井らは高清の嫡子・高広を擁立し、敗れた敗れた高清・信光は高佳(高慶)を擁立してその後も争いは続いた。高佳(高慶)は1523(大永3)年に美濃へと出奔して抵抗を続けた。高広政権の中では当初、浅見貞則が重臣筆頭として活躍していたが、専横な態度がゆえ次第に重臣たちの心も離れ、浅井亮政が重臣筆頭と目されるようになっていった。
 ともあれ、戦国期に至り京極氏は被官に下剋上を起こされるほど権力が弱体化していたと言えよう。当然、浅井亮政等に推されて京極家当主・近江守護の座についた京極高広は傀儡であったとみえる。1524(大永4)円に高延(高広)は、足利尊氏に従っていた京極高氏(導誉)の菩提寺・勝楽寺へ住職の相続を認める書下し文書を発給している(滋賀県立安土城考古博物館蔵の文書)。命令口調である「書下し文書」を発給する立場にあったということは、やはり高延(高広)が守護として一応認められていた証拠である。また、浅井氏らは1525(大永5)年には尾張に追放した前当主・高清と上坂信光と和解し自城の小谷城に呼び寄せた。これは美濃へ退いたが依然として守護の座を狙う高佳(高慶)に対して分断工作を行い、自陣営を強化する意図があったのだろう。しかし、同年5月に六角定頼が北近江に攻め込み劣勢の京極軍(浅井軍)は敗れて一時国外に逃亡した。翌年には北近江を奪回したが、南近江の北部にある坂田郡に本拠を置いて六角氏と提携していた高慶が1528(享禄元)年に北近江に攻め込んだ。高広軍と高慶軍は内保(長浜市内保町)で合戦したが、なんとか高広軍が勝利を収めた。この後も高慶は坂田郡を本拠として度々高広政権を揺さぶったのである。
 こういった中で1534(天文3)年8月20日に浅井亮政が小谷城の自邸である清水谷館に京極高広・高清父子を歓待した記録が残されている(『続群書類従』の『天文三年浅井備前守宿所饗応記』より)。この歓待では17献の献立と、浅井氏と京極氏で様々な贈答品が交わされ、能が15番まで演じられるなど大変豪華なものであった。これは京極氏の文化度の高さを示すと同時に、京極氏を歓待できるほどの経済力と政治力を浅井氏はアピールしているのである。
 浅井亮政の次に当主となった浅井久政の代になっても高広は「御屋形様」や「上様」と呼ばれ、一応の名目は守られていたようだ。久政政権になると浅井氏は六角氏に圧倒されていたので、京極氏を守護と推戴してた方が北近江を守る名目を得ることとなり、浅井氏の存在価値にもつながったのである。しかし、それは皮肉にも浅井長政が当主になり六角氏と敵対し積極的に自立の道を模索するようになると、京極氏の守護としての役割は終焉した。それゆえ、長政の時代は京極氏を守護として推戴しなかったのである。
 京極一族は、高広・亮政等に追放された高吉(高広の弟)が、足利義昭の為に奔走して功を挙げた。高吉の嫡男・高次は浅井氏に仕えていたが、浅井氏滅亡後に織田家に仕え本能寺の変では明智方につくが、高次の妹が豊臣秀吉の側室となっていることから赦免され、最初2500石、1595年には6万石を与えられた。その後には徳川家康に仕え85000石を与えられたのである。
義綱解説
 信長の野望にも登場する「京極高吉」は近江京極氏でありながら、近江守護ではなかったんですね。下剋上の雄とも知られる浅井亮政も当初は「京極高広」を擁立し、反発するようになって守護を追放するというパターン。これは、越後守護代長尾為景の戦略にも似たようなところがあり、下剋上の典型的パターンとも言えそうだ。

☆信長の野望での京極高広能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。
♯PK版はPK版のみに登場する武将の場合は○

ゲーム 兵種 特技・策戦 PK版
蒼天録 18 35 24 32 足軽 収拾・登用

蒼天録PK版にて初登場。やはり浅井亮政の傀儡と見られたためか、能力値は散々である。高広が生きた年代を考えれば当然「信長の野望」に登場すべき人物であったが、蒼天録で初登場、しかも通常版ではなくPK版である。

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