人物列伝
「浅井久政」

浅井久政イメージ
↑浅井久政イメージ像(畠山義綱画)

人物名 浅井久政(あざい ひさまさ)
生没年 1526〜1573
所属 近江浅井氏
主な役職 第2代近江浅井家当主
参考文献 笹川祥生(著)『戦国武将のこころ』吉川弘文館,2004年
山本大(編)『戦国大名系譜人名事典東国編』新人物往来社,1986年
人物の歴史
 亮政の子であるが側室(尼子氏の娘)との子。幼名猿夜叉。仮名新九郎。下野守。2代目近江浅井家当主。父・浅井亮政は近江守護・京極高清の家臣であったが家督相続争いで、京極高佳・高清父子に対してその他の国人と連携し、京極高広(高佳の兄)を擁立した。高広の下、亮政は勢力を拡大し浅井氏は北近江の実力者となった。その後、亮政は浅井氏の勢力拡大を警戒した六角氏と対立し戦を交え、さらには擁立した当主・高広とも対立し戦を交えることとなった。1542年亮政はこの浅井氏の危機的状況下の中で突然死してしまう。そして、亮政の跡を継いだのが久政である。亮政は正室(蔵屋)との間に1人の女子(鶴千代)しか生まれず、この鶴千代と浅井一族の田屋氏の男と結婚して婿にとり「明政」と名乗らせ浅井家を継がせるはずであった。しかし、側室との間に久政が生まれたので家督は久政が継ぐことになったのである。明政はその後どうしてたのであろうか。出家したか没落したか、歴史の表舞台から消えている。
 さて、家督を継いだ久政はかなり厳しい人物評価をされている。例えば、「此の久政は父に劣りて、大将の器無く、家老其の外諸士にうとまれける程に、老臣等相談し、永禄三年の冬、久政の子備前守長政に家を嗣がしめ、久政を隠居させりけり」(『重編応仁記・続応仁記・巻九』より)や、「(久政に)諫言すれども一つとして終に用ひざれば、秀元(大橋秀元)をはじめ、家老の面々あぐみはてゝそ居たりける。」(『浅井三代記』より)と重臣から言われたり、六角家家老たちから「久政は、親亮政には器量大きに生れおとり候ふ条、人も思ひ付き候ふ事ある間敷きなり。然れば此の方へ討ちむかふと云ふともはかばかしき事あるべからず」(『浅井三代記』より)と久政が攻めてきても暗愚な武将ゆえ六角に勝てないだろうと評価している。しかし、この2つの軍記物の資料『重編応仁記・続応仁記・巻九』と『浅井三代記』は全て書いてあることが偽りであるとは言わないが、かなり創作が入った偽書で史料的信頼性に欠けるので引用するなら相当慎重に期さねばならないものである。では、実際の久政はどんな人物であったのであろうか。
 1542年に亮政が死去し久政が跡を継ぐと、これをきっかけとして父が対立していた京極高広と高佳兄弟が浅井氏領に進出してきた。また、浅井の宿敵南近江に勢力をもつ六角家(六角義賢)進出を始め、浅井家は四面楚歌状態となっていた。この両者の進出を防ぎ切れず結局久政は六角氏の傘下に入ることによって領国を維持することにした。これが『浅井三代記』など近世軍記物などに「久政無能説」を書かせる原因となったものである。すなわち、浅井重臣は六角に従うのを良しとせず1560年久政の嫡子賢政(長政)を戴き久政を隠居させるというものである。確かに、久政嫡子に六角義賢の「賢」の字をもらい「賢政」と名乗らせたり、その賢政に六角家重臣平井定武の娘を嫁がせるなど、浅井は六角に良いように使われている感もある。しかし混乱期の浅井家では、旧近江守護の京極氏と幕閣の有力大名近江六角氏を敵にまわしては勝算は無いに等しい。ゆえに、久政の外交政策は非常に現実的であると思える。「旧敵六角にひれ伏すとは何事ぞ」と人情論を振りかざすのはいかにも徳を重んじる江戸時代の考え方らしいのではなかろうか。しかも久政は六角傘下に入っている間、着々と領国基盤を築き上げている。例えば、領内の用水争論について上位権力者として積極的に調停したりと関与して全体を把握したり、小谷城山上に六坊を建設したり、税や寺社政策など見るべき内政施策は多い。これは比較的史料を検討して書いているといわれる江戸時代の軍記物『東浅井郡志』の著者も述べており、久政は『浅井三代記』などにみられる暗愚な武将ではないと評している。確かに久政に軍事的な事績はないが、行政手腕や外交手腕を考えると特に暗愚な凡将ではないと思われる。
 それを考えると1570年の織田信長が朝倉攻めをした際、久政が強く長政に信長との同盟破棄を強く迫り実現したのが納得いく。つまり、久政が重臣達からいたく嫌われており当主の座を降ろされていては、1560年に久政が隠居してもなお家中(長政)に影響力がある(事例は1570年の同盟破棄だけだが…)というのは有り得ない。だから、久政暗愚説は近世の創作であると言えるのである。
 久政の最期は歴史ですでに知られているように、1573年に浅井家が信長軍に攻められ息子長政とともに小谷城で自刃である。浅井家の興亡を見てきた久政は最後何を思って自刃したのであろうか。
義綱解説
 義綱は有名武将は嫌いです。さらに言えば有名な家柄も好きではありません。例えばメジャー過ぎるので甲斐武田氏は好きではありませんが若狭武田氏や安芸武田氏は大好きです。でも、有名大名家でもこの浅井久政のようにボロクソに言われたたり陰の薄い人物は大好きです。何をしたのか非常に興味が有ります。他には例えば、織田家で言えば信長の嫡孫・織田秀信(幼名三法師。1580-1605)などは興味がバリバリあります。こういうマイナー根性はいつ培われたか自分でもよくわかりませんが、この浅井久政のようにマイナーな武将で評判はすこぶる悪かったけど、実は結構がんばった武将だったというのは大好きで、歴史の醍醐味を感じます。これからもマイナー道でがんばります!

☆信長の野望での浅井久政能力値の変遷
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技策戦
武将風雲禄 57 42 78 65 32
覇王伝 52 21 35 68 54
天翔記 104 78 90 78 43
将星録 51 36 45
烈風伝 47 25 34 40
嵐世紀 35 25 21 28 足軽・鉄砲 開墾
蒼天録 36 26 21 30 足軽 哀願・迎撃
天下創世 42 28 20 57 なし
革新 69 24 31 30 なし
天道 69 24 41 30 鎮静
創造 67 38 45 34 鼓舞

 武将風雲録から以後全てのゲームに登場している。久政の能力値変化には特徴がある。まず初登場武将風雲録以後将星録までほとんど能力値が変っていない点である(天翔記はMAXが200なので数値を半分にて考える)。軍記物に暗愚な当主と書かれている割りにはそこそこ政治値がある。これは、『戦国大名系譜人名事典東国編』(新人物往来社,1986年)に軍記物のイメージとは違い政治面で評価できるとあるのをゲーム製作者が見たからであろうと思われる(コーエーは『戦国大名系譜人名事典』と『戦国大名家臣団事典』をよく参考にしてゲーム数値を決めているようだ)。しかし、烈風伝で能力値のデフレが始まり、嵐世紀・蒼天録ではさらに低い能力値で下げ止まっている。天下創世で能力値もやや持ち直したが、知略と統率はそれほど上昇せず日本の景気と同じように踊り場を脱していない状況である。だが、革新になると全体的な能力インフレの影響もあってか政治値がいきなり69と大躍進を遂げる。その他の能力値も持ち直しており、踊り場を脱したと言えるであろうか。私が久政の能力値を考えるとすれば、内政実績からいって政治値は50を越えるべきだと思う。つまり武将風雲録の数値がいい線いっているのではなかろうか。革新では能力インフレにともない70近い政治値となった。ちょっと行き過ぎ?

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