晴貞奮戦記〜冨樫再興を駆けて〜
−中編「主を無くした馬」−

第参章 一進二退

 父・晴泰の政策は効果を上げていった。野々市は人の往来だけでなく、商いも盛んになった。祭りを度々催すことでさらに人が増え、八曜紋の煎餅も冨樫の馬絵も人気上々で、野々市も冨樫も昔日の勢いを取り戻していることはあきらかであった。晴泰はさらに冨樫家の基盤を高めるために、一向一揆の息がかからない国人や幕府の奉公衆の土地に対して押領を進めていった。その行為によって幕府の役所より訴訟を起こされ相論になることもしばしばあったが、晴泰は自分のまつりごとに自信を深めているようでもあった。

そんな天文二十二年(1553年)の6月17日。この年の6月は梅雨も終わり、暑い日々が続いていた頃。
「御屋形様!ついに御嫡男が誕生されましたぞ。」
「与三郎!ついに生まれたか。ますます冨樫の家を栄えさせねば。政親様の頃の冨樫家に再興するのだ。」
「晴泰様が家督を継いでから、我ら被官の所領も増えました。おかげで家族を養えます。」
「そうか。ますます政務に励まぬとな。」
「して、御嫡男の仮名はいかに?」
「うむ。わたしの仮名をそのまま与えよう。小次郎じゃ。やがてわしの後を継ぐのだからな。」
「この駒井も冨樫家の発展に尽くしまする。」
「与三郎。我が室と子に新しい着物を購うてきてくれ。それも野々市の紺屋で染めた極上のものを。」
「よろしいのですか?最近は一門の方でも衣装の仕立ては良いが、染め色は省いて出費を抑えておりましたが」
「良いのだ。そろそろ我々もすこし贅沢をしても良いほどの所領になってきたのではないか?」
「承知。すぐに仕立屋に行って参ります。」

 これが私の誕生であった。父の喜びようと言ったらそれはもうすごいものであったそうな。父は口々に「小次郎が誕生するまでに、最低限の所領回復はできた。そしてこれからはさらに拡大をするのだ。」が口癖であったそうだ。私が誕生してからますますに父は勢力の拡大に努めたと聞く。
 本願寺の法主・証如の使者が野々市の館に来館し、太刀二本と馬一頭と嫡男誕生に関する祝いの品をもってきた。
「法主殿にお伝えしたいことがある。冨樫館は公家などの来訪者も増えた。そこで見栄えがする堀を造営させていただきたい。ついては、今後とも一向一揆と共存する証のため千疋を布施したい。」
「せ・・・千疋?」
「うむ。一向一揆に対立するために守りを固めるためでは無い。加賀を共に発展させるためには、加賀守護所の見栄えは大事なことかと思うておる。」
「我らでは答えうることができませんゆえ、法主様の御沙汰を聞いて参りまする。」
結局、法主も堀造営の沙汰には困ったようだ。立派な堀ができれば館の守りが堅くなる。それにより冨樫の権威を見せつけることになる。結局、一揆方は冨樫からのお布施である千疋を返還し、追加で五百疋を誕生祝いとすることで、堀の造営を断ってきた。
「小次郎。今回は望みが叶わなかった。しかしこれからの冨樫は益々大きくなり、昔日の勢いを取り戻すのだ!」

 そんな状況も本願寺の法主・証如が39歳の若さで天文二十三年(1554年)に死去すると状況が変わった。その跡は僅か12歳の顕如が法主の座を継承した。証如の時代にも一向一揆の動向を把握し、その力を持って幕府や管領細川氏と好を通じ、権力を保ってきたが、顕如の時代になるとその動きが一層活発化した。そのため、加賀国内で国主として権力を取り戻そうとする冨樫の動きを疎ましく思っていた。そのため、冨樫経済力を削る方針転換をし、冨樫の押領に関して幕府などに積極的に訴訟を起こし、加賀国内の諸寺社に冨樫への礼物を控えるよう密かに通達を出し、その関係は次第に険悪になっていった。

永禄元年(1557年) 野々市の冨樫館

「額丹後守。禅昌寺が領地を売却するという土地を、先年裁決で功のあった駒井与三郎に知行する。」
「はっ。与三郎も喜びましょう。先年から知行を待ちわびておりましたからな。」
「うむ。与三郎には悪い事をしたな。それもこれも、昨今の本願寺の横やりが強うなっとるせいじゃ。」
「はい。先だての訴訟におきまして申してきた松林院は、ここ数十年は礼物が無沙汰でした。」
「だから善性寺に勝訴にしてやったのだ。戦国の世といえども礼を欠いてはいかぬ。松林院の者達の驚く顔は見物だったわい。」
「冨樫家として、まっこと胸がすく思いでした。」
「本願寺は、寺社に手を回して冨樫へ礼銭を出さないよう言うておろう。それゆえ、冨樫の財は火の車。」
「ますます、冨樫の力を周囲を通じて削ぐと思われまする。それほどまでに冨樫の最近の勢いが増しているということでしょう。」

 最近の本願寺勢力の横やりに冨樫家の一進一退ならぬ、一進二退状況になっていた。その状況を被官達は、不安視する者。憤る者。裏切って冨樫を離れる者など様々だった。しかし、新たに冨樫家に仕官する者は近頃明らかに減っている。これも、内々の本願寺の沙汰なのだろう。

晴泰の頭には、いつも苦々しい思いがあった。
「年始の本願寺への挨拶については、冨樫の被官を派遣すれば別部屋で待たされ書面の交換のみ。本願寺門徒の被官を派遣すれば、法主たる証如や顕如はいつも直接出向かう。そしていつも『本願寺と冨樫は合力する立場ゆえ、何でも申し候。』と言うが、その実、周囲の寺社や国人に冨樫への合力を止めて中立でいることを求めている。まるで冨樫は一向一揆と対立するもののようだ・・・。」
「それはおそらく能登の情勢にもよるものでしょう。」
「ああ、能登畠山の家中対立だな。守護と温井の対立で本願寺が合力する温井の勢力が次々と負けているらしい。本願寺は加賀だけでなく、能登も真宗の国にしようと企んでいるのか。」
晴泰は館に新しくこしらえた会所の庭を見ていた。
「冨樫には、この館に堀を作ることも、新しい城を築くことも許されない。それは全て本願寺との協調関係を維持するため。・・・・・・しかし、それが本当に冨樫の為なのであろうか。」
すると庭の縁側で待機していた山川三河守政重が声をかけてきた。
「冨樫の再起を図るなら、我ら被官は全力で戦に臨みまする。」
「有り難い。・・・・・・いずれ一向一揆とは相対せざるを得ない。しかし、今の冨樫の力を考えれば、その機会は一度きり。」
晴泰は縁側に座って庭をゆっくり眺めた。

 昨年主殿の池は大きく改築した。庭の中央の池には今までの池より数倍大きい加賀国の形をあしらった池があり、野々市の場所に大きな庭石を構えた。これは「野々市が加賀の要である」ということを表しているのだ。
「冨樫には外部の勢力に合力を頼る必要である。さて・・・どうしたものか・・・。」
池の鯉はふらふらと及びながら、池の北側へと拠っていく。晴泰は庭石の右を見た。
「能登畠山か?それには、温井等の争いの状況を見ないといかん。温井が勝つようでは頼るに値しない。越中の状況は無理であろう。神保の勢力は椎名との戦いで加賀をみる余裕はないだろう。」
今度は鯉は池の南側へと移動し、庭石の左を見た。
「あるいは越前の朝倉か。城下一乗谷はますます勢力を拡大している。その所領は若狭武田の領国を脅かしていると言う。しかし、朝倉の一向一揆との対立は正直激しく、一向一揆に与すると見られている我らとうまく手を組んでくれるか。」
池の鯉が水面を跳ねた。そして晴泰も天を見た。
(それとも、我らがまだ出会ったことのない勢力が頼みとなるのか・・・。)
「駒井与三郎。ここへ。」
「はっ!」
「我が次男の次郎は寺に預ける。「侍者」として、教育を受けさせ。我らに万が一の場合は家督を継がせるのだ。さらに、三男の小三郎は、縁戚の押野家の養子にする。」
「冨樫がご子息をよそにお預けしてよろしいのですか?」
「今は徐々に本願寺の横やりがきつうなった。冨樫家においては、出る銭を減らさざるを得ない。養育する費用が減り、寺で読み書きできれば一石二鳥だ。さらに疎遠になった押野との関係の改善も出来うる。これぞ一石三鳥ではあるまいか。」
「6歳の小次郎様には、おつらいご兄弟との別れですが・・・」
こうして私は弟たちとの別れを経験した。そして父・晴泰は私への期待を大きく膨らませ、勉学に武芸に、絵の描き方まで熱心に野々市の館で自ら教えてくれた。幼いなりに父の熱い気持ちに応えなければと思ってはいたけれど、少々疲れ気味で父が外出をするときにはホッとしたものだ。今にして思えば、それは貴重な家族との触れ合いであったのだと思う。

 永禄5年(1562年)になると、被官の数は十年前の七割ほどとなっていた。昨年には天文9年(1540年)に召し抱えた猿楽座の諸橋大夫も、催し物を演じる回数も減り、禄のの支払いも滞ったことから能登の穴水に帰っていった。さらに、本願寺や一向一揆との関係は、顕如が法主となってから明らかに悪化しており、出奔したの多くは一向宗門徒であり、頻繁に一向一揆との接触を繰り返し、知行を帰依した本願寺の寺領として寄付を繰り返すうちに野々市の館に姿を見せなくなっていく。本年には以前から冨樫に不信感を持っていた本折治部少輔の姿が野々市から消えた。この事に父には珍しく烈火の如く怒っていた。
「山川!本折を呼べ!あやつは不平不満を言うゆえ、皆より多くの知行をもらっておった。軍役も多く、冨樫に取って本折の離反は迷惑千万。」
「御屋形様!落ち着きなされ。治部少輔のような心なき者。冨樫家にとってはいなくて清々したと皆が思っております。」
「いや。まかり成らん!戦場であった時はこの手で・・・。」
「お父上。私もそろそろ初陣でしょうか?父上が戦に出るなら私もお供します。」
「おお小次郎よ。まだじゃ。今はまだ堪え忍ぶとき。しかしわしは決めた。一向一揆と手を切り、独自の道を歩む。」
「して、冨樫の力はまだまだ不足。どこの家に合力を?」
「今ならば能登かもしれぬ。畠山は家中の争いを制し、義綱の力が増しておる。さらに越中にて長尾と神保の争いを収めた。また必ずしも一向一揆と密接ではない。加賀での冨樫と一向一揆との対立は能登にとっても迷惑に違いない。」
「御屋形様。それでは合力を願えないのでは?」
「だからこそなのだ。能登が間に入れば、簡単に一揆も手出しはできん。一揆と対立せず、与せずの能登が一番適しておるのだ。」
「では、能登に使いを立てまする。越中の和平がなった祝いの名目で。」
「三河守頼んだ。それとわしは本日から名前を改める。本日より『晴貞』と名乗る。」
「お父上。改名の故を教えてくだされ。」
「一揆との決別を機に、気持ちを一心するからである。」
主殿の池の鯉も個体が減っていた。日々減っていく冨樫の用脚の足しにするために、錦鯉を売っていたためであった。しかし、どんなに頼まれても悠々と泳ぐこの池で一番大きな赤黒の鯉とその子と思われる小さな一匹の鯉だけは売らなかった。それは一揆方への抵抗として意地なのか。鯉を心から愛していたのか。それともその両方なのだろうか。

 能登との交渉はすぐには進まなかった。それはやはり義綱が現状、一揆と冨樫との争いを嫌ったためである。
「畠山にしてみれば、加賀で冨樫と一揆が牽制し合う状況が最適。簡単には交渉には応じてくれぬか・・・」
 一揆方にとって、能登が反一揆方に与する可能性が捨てきれない中、激しく争う越前朝倉氏との対立は仕方ないにしても、能登畠山と冨樫氏と全面敵対するのは何としても避けたい。そこで、一揆方は冨樫被官への圧力を少し弱めた。しかしそれは弱めただけであり、徐々に冨樫が不利になる状況は変わらなかった。
(なんとか、能登畠山家を動かす方法はないだろうか・・・)
と晴貞は考え込んでいた。

 私の初陣は1年後の永禄6年(1563年)10月に行われた。それに先立ち、同年9月に11歳となった小次郎の元服の儀が行われた。
「小次郎様・・・いいや晴友様。初被姿。とても凜々しく思いまする。」
そう守護代の山川三河守が言うと。幼少からその私の姿を見守っていてくれた駒井与三郎はうっすらと涙を浮かべていた。
「晴友様の加冠の儀。まことにお目出度きこと。来月には初陣が行われる由、拙者もお供して敵を蹴散らしまする。」
初陣として選ばれたのは、領民からの請願が度々あった本折の館近くの冨樫被官の領内での野盗狩りである。
総大将として、野盗の本拠地を探し出し、冨樫家中の中から連れて行く重臣を選んだ。もちろん駒井与三郎も選ばれた。そして150の手勢で出陣した。20人余りの野盗を討ち取り引き上げた。誤算だったのは父・晴貞が終始軍師という名目で付いてきたことだ。成年となった私の事がいたく心配らしい。その親心は有り難迷惑だったとその時は思っていた。

 翌、永禄7年(1564年)の9月は夏真っ盛り。冨樫館主殿の池にもかなりの藻が張っていた。その藻は一段と広がり2匹の鯉の行動範囲を狭めていた。
9月1日に朝倉景鏡が総大将となって加賀に出兵し、本折館や小松などを攻め落とした。その時に額丹後守は
「冨樫に反する本折を落としたとは、冨樫の好機。朝倉に与してみるのも妙案かと。」
「いやここは静観だ。朝倉の攻めは見せ物だ。ほどなく引き上げる。与すれば冨樫が不利になる。」
晴貞は協力に適応する勢力を「現状では能登」と判断したが、当然他にも目を配っていた。朝倉は現在、若狭武田氏への侵攻で手が回らない状況であり、その隙をついて越前での一向一揆が蜂起することが度々あった。もちろんその時には加賀での一揆勢が後押しをしていた。晴貞はその牽制のための出陣とみていた。実際9月25日には兵を引いた。
「冨樫が一揆勢に報える好機は一度きり。その機会を誤ってはいかん・・・。」

第四章 主を無くした馬

 世の中が大きく動く時には、いとも簡単に動くもの。そう思わされた日々だったと父・晴貞は言った。
永禄8年(1565年)5月26日のことであった。野々市の町でいつも通り冨樫の被官が「冨樫の馬絵」を売っていると、北陸道を北へと草履もなく、みすぼらしい格好の山伏が急ぎ足で走る姿を目にし、声をかけた。
「そんなに急ぎ、何用か?」
「公方様、不慮の儀。金沢御堂の一揆方の領主様に急ぎ伝令の故、御免。」
その衝撃の第一報は一揆方にもたらされ、加賀の守護たる冨樫には届かなかった。そこで山川三河守は七尾へ索麺を買いに行く振りをして、七尾城へと向かい、能登畠山氏にその情報の真偽を確かめに行った。
「三河守殿。よう参られた。雨も降る由、一杯茶など如何かな。」
山川を迎えたのは、他ならぬ能登の太守の畠山義綱だった。

「有り難い。がしかし、まずは聞きたき事がありまする。公方様不慮は誠の事でしょうか。」
「ああ。19日の事であったそうな。三好らに襲われて、近習のもの達で必死に立ち向かった・・・。公方様の最期はそれはそれは武門の誇りであったそうな・・・。」
「誠でありましたか・・・。主・冨樫加賀介はこの事を聞いて落胆されました。」
「して、何故わざわざ能登七尾まで参ったのだ?その知らせなら一揆よりも手に入れようぞ?」
「・・・・・・・・・。」
「なるほど・・・畠山と冨樫は立場が同じようじゃ。」
「はっ。」
「今一度ゆっくりできる時ならば、この会所の襖絵、档の水墨画についてわしに説明させてはもらえぬか?」
「本日は七尾の宿に泊まる予定にて、まだお時間がありまする。ぜひご教授賜りたい。」
「では、本日は我が城に泊まりなされ。もうひとつ・・・おい三百疋をこちらへ・・・。これを加賀介殿に届けてくれぬか?」
「!!?三百疋とは恐れ多い事!!」
三百疋とは今の冨樫にとっては大金。喉から手が出るほど欲しい金額だ。しかし、ただ単にもらって良いのか。これは冨樫の家が能登畠山家に従属することを表さないか。山川三河守は心配した。そこで、三河守は連れ立ったもうもう一人の被官に「急ぎ自邸へ戻り明日の未明までに、能登の紺屋で買った白馬が描かれている『冨樫の馬絵』を持ってくるように命じた。三河守はその後、会所の襖絵の説明を受け、夕食は能州屋形とその側近飯川若狭守光誠殿も同席した会食だった。また、一揆方に能登七尾に情報収集に来た事が見破られぬよう輪島索麺の土産も用意してくれていた。まさに能登畠山家の応対は饗応にふさわしいもてなしだった。しかし、三河守には心配な事があった。「野々市からの馬絵が届くか否か」という事だった。届かなければ、能登畠山と冨樫が対等な関係ではなくなってしまう。
 そして翌日朝、急いで帰らねばならぬのに、まだ野々市からの馬絵が届かないことに三河守は慌てていた。帰り支度を整え城の三ノ丸門まで行くと、義綱と共に自分の被官が風呂敷をもって待っていた。なんとか間に合った。
「畠山匠作殿には本当に世話になり申した。これはささやかながら御礼にございます。」
「ほぉこれは『冨樫の馬絵』ですな。なんと鮮やかな白馬と紫の鞍。この鞍は能州長谷川の紺屋の色ではないか?」
「ご名答にて。能州太守に献上するなら、これ以外にないと屋敷にあった一番の物を持ってこさせた次第。」


 野々市へ戻ると、すぐに三河守は晴貞に将軍・足利義輝が三好氏の手の者に暗殺されたことを報告した。
「冨樫家は主を無くした。日の本が武門の頂きにおわす方がこれでは、冨樫は『主無き馬』も同然。」
「して、これを畠山匠作殿から・・・」
義綱からもらった銭・三百疋を晴貞に渡す。
「・・・・・・うむ。匠作殿は、諦めておらぬということか。ではこの晴貞も匠作殿のお力を頂き、一揆方と決別しようぞ。そして北陸勢から幕府の復興へお供するのだ。」
冨樫家の進む道は決まった、能登畠山家と連携し、一揆方を排除する。冨樫と能登畠山は月に一度連絡を取り合うことになった。

そして次の将軍候補たる義輝の弟・義秋(後の義昭)が、一乗谷・朝倉氏の元に逃れてきた。それゆえ朝倉氏は次の将軍に義秋を推戴すべく上洛を伺うこととなった。そして義秋は一乗谷より、各地の大名に「支援の上、一乗谷に集まり上洛する」よう促した。それに対して能登畠山や若狭武田氏などからも「御請ならば、もちろん協力惜しまざる旨也」と支援快諾の手紙が数々届いたという。しかし、加賀冨樫の元には義秋様から援助要請が来なかった。仕方なく、能登の匠作殿の手紙に添えてもらう形で支援を表明した。北陸勢の続々と集まる支援表明に義秋は心躍らせたと言う。しかし、肝心の朝倉氏が全然上洛へ向けて動き出さぬため、義秋の出陣は遅れに遅れた。

 そして前将軍襲撃からさらに一年経った日の永禄9年(1566)年9月のことである。野々市の町でいつも通り冨樫の被官が「冨樫の馬絵」を売っていると、北陸道を南へと草履もなく、みすぼらしい格好の山伏が急ぎ足で走る姿を目にし、声をかけた。
「能登の太守、不慮の儀。京都の遣いへのため、御免。」
その知らせを確認すべく、野々市の飲み屋へ被官を遣わすと、すでにその話で持ちきりであった。
「能登の太守が討ち取られたらしい。下手人は遊佐美作守様だとか。」「いや能登の太守は息災だ。近江へ逃れるらしい。」
話は色々食い違っているようだが、畠山匠作殿が七尾城を追われたことは確からしい。能登では重臣達が新たな太守を擁立するだろう。きっと一揆と親しい温井もそのうちの一人だ。そうなれば、能登畠山は頼りにならぬ。あとは越前が朝倉のみ。

その夜、冨樫の館に久々に越前の溝江氏の下に逃れている兄の泰俊からの書状が届く。
「晴貞よ。越前朝倉の元には今月公方様が参られた。義秋様は越前太守義景殿に上洛を促し幕府再興に向けて動きを始めている。が、肝心の太守の動きが悪い。加賀の一向一揆の動きが気になりなかなか動けない。公方様に置いてもこの状況だ。兄としてお主を助けたいが、今は溝江氏の客位の身。勝手な動きもできぬ。よって、朝倉氏の昨今の動きを伝えることしかできぬ兄を許せ。」
「兄者・・・・・・。」
一度は頼りと決めた能登畠山では太守が交代となった。もう一方の頼みである朝倉氏は公方様のご援助に精一杯の様子。冨樫が頼みとする勢力の状況がことごとく失われた。
「もはや一揆勢には抗せぬか・・・。このまま自領を徐々に失っていくことのみが、わしの定めなのか・・・。」
ともはやため息ばかりの毎日を送っていた父・晴貞。そんな状況が変わったのが永禄11年(1568年)のことであった。

後編へ続く
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